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鳥屋・道場 常念寺跡 青面金剛塔/元禄? 塔身59cm 常念寺がどこにあったのか判らず、小学校が以前あった場所と同じだろうと推測して探したが、小学校跡には御嶽教の小社があるだけで、参道入口に石造物の残滓が散らばっていた。これは風化が進んでしまったかと諦めたが、その先の個人宅裏山斜面にこの青面金剛があるのに気がついた。 下草刈りをした直後だったらしく、そのおかげで車道から見えた。 ご主人によれば、お宅が常念寺跡だそうで、時々見に来る人がいるとのこと。旧津久井郡の庚申塔を他にも見ている人がいることが嬉しかった。 丸彫り地蔵?/元禄7 48×27 紀年銘およびサイズは石川博司氏資料による。 石川氏資料には道場にもう1基の記録があった。常念寺跡のすぐ脇に石仏群があるので調べてみたところ、写真のように風化しきった庚申塔が3基あった。 記録があるのはこちらの丸彫り地蔵庚申。 他の2基は記録にないが、石川氏が石仏を見逃すはずがないので、記録漏れか、近年に持ち込まれたか、あるいは埋まっていたのかもしれない。 三猿部は頭だけ出ていたので掘り返した。 定印阿弥陀?/紀年銘不明 数字らしき部分がうっすら残っていたが、目視では読み取れなかった。 二十一に読めなくもないが、縦にヒビが入っているのではっきりせず。 仮に二十一であれば享保21しかないし、時代感も合う。 しかしながら文字の残り方が横棒のみの状態で、数字かどうかも確信が持てなかった。 三猿塔/紀年銘不明 風化しきっていて銘文はまったく読めない。かろうじて三猿が残っている。 興味深いのは他の石碑と比較して風化の状態が異なる点。 石質が違うからだが、こういう風化をしているのは、今まで見て来た中では比較的古いものが多いと感じている。 鳥屋・道場(参考) 地蔵(非庚申塔)/紀年銘不明 旧津久井郡の津久井町エリアを代表する特徴的な地蔵(持物から)。 まったく同型の地蔵(2mほどある)が青山関にもある。 この風化の仕方が上の写真の三猿塔に似ている。 この地蔵塔は紀年銘を読み取れないが、青山関のものは寛文2と読めるので三猿塔も同時代ではないかと思う。 自然石文字塔/文政11 鳥屋から宮ケ瀬へ向う旧道と思われる。 この旧道は川沿い道を遡上して左に折れて登るのだが、道の分岐手前の川沿いには、道を見下ろす石仏群があり良い風景だった。念のため確認しようと、敷地のお宅にお願いして見せてもらったが全て道祖神とのこと。昔は道祖神のあたりに橋があり、敷地内を抜けてこの写真の文字塔があるあたりに出ていたそうだ(ご主人談)。 |
相模原市
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ネット上での情報がほとんどない旧「津久井郡」の庚申塔は風化や盗難、廃棄で消える一方です。できるだけ記録を残そうと思い立ちました。追加情報をお持ちの方がおられましたらご協力ください。
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二臂青面金剛?/寛文11? 83+31+21cm 残念ながら紀年銘部分が剥落。 年度とサイズは石川氏資料による。 石川博司氏の記録で存在だけは知っていたが、見つけられなかったもの。 確認している自治体資料には未掲載。 ※その後、掲載されていることが判明しました。ただし庚申塔としてではなく観音像となっていました。 庚申の銘があるので庚申塔に分類すべきですが、どうして庚申塔にしなかったのかよく判りません。 左手で円光を掴み、右手に矛を持つ 二臂はこれを含め5基の現存が確認 されているが、まだ全ては見ていない。 全てを見終えたら写真を並べてみたい。 ※「庚申塔全般」で実施済み 二臂青面金剛?/寛文2 石川氏資料による 奉造立山王廾一社の銘。 鹿児島県に多い「田の神像」に酷似した二臂と同系の二臂。 欠けているが右手に剣。 左手に棒と見られている。 塔全体が修復用の塗料を塗られており、 銘文が読みにくい。 顔も地蔵のようになっているが、 元々この顔だったのか不明。 以前にUPした庚申塔と持ち物が同じなので 顔も同じだったと思うのだが、こちらの 顔はリアルな地蔵風で違和感がある。 青面金剛塔/宝永3 62cm しっかりした憤怒相の青面金剛。 白苔で見辛い上に、割れている部分に 苔が根付いているようで、頭と矛先に ちょこんとフサのように出ている。 いずれ割れ落ちるかもしれない。 文字塔/文化2 Web資料より 「切石。高さ87cm、幅49cm、 奥行48.5cm。桜野木戸内講中。「右 青乃原 鳥屋 みち」。鳥屋との境近く、太郎峠と呼ばれる場所に建つ。太郎峠は、太郎という名の村人がこの峠を歩いていて、山賊に襲われて死んだことから呼ばれるようになったという」 峠というほどではないが、山間で、川を渡った路傍にある。 今は明るいが、往事は山賊が隠れていてもおかしくはない雰囲気の場所。 青面金剛塔/紀年銘不明 風化というより破壊された雰囲気。 青面金剛の表面が欠損。 おそらく中折れした下部は逸失しているのでしょう。 左上手の宝輪と日月で青面金剛かもしれない、と 推測できますが、馬頭の可能性もあります。 文字猿田彦塔/紀年銘無し 資料未掲載 庚申塔かどうか不明。 裏面に12月28日の銘はあるが紀年銘は見当たらなかった。しかし大正以降の雰囲気。 青面金剛塔/宝永3 62cm 鳥屋地区の入口と思われる場所に。 風化していてはっきりしないが、 合掌、右上手は矛。左上手は宝輪。 右下手は索。左下手は不明。 日月と瑞雲があるように見えるのだが どうも位置がおかしい。 日輪と瑞雲が中央にあるかのよう。 三猿部分は埋まっていたので掘り出した。 |
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青山/開戸 道標文字塔/紀年銘不明 Web資料より 「切石。高さ86cm、幅34cm、奥行33cm。建立年代不明。「○大仏」とあり、その他の文字は不明。青山の交差点から三ヶ木方面へ向かうと、貯水池へ左折する道があり、これを入ると聖徳太子像に並んで建つ。現在の半原へ抜ける道の道しるべであったともいうが詳細は不明」 説明文には「○大仏」と書いてあるが、道標は明らかに「右 青野原」。 違う庚申塔がまだあるのかと探したが、場所、サイズが該当し、 聖徳太子像は無いが聖徳太子塔(文字)はあるので資料ミスと判断。 全くの余談ながら、都内の自治体から悉皆調査を依頼された民間団体が 1基毎に拓本を採り文字を確認していったところ、既存資料に記載されていた 内容のかなりの部分に間違いがあり愕然としたことがあったとか。 石碑から目視で読み取るには限界があるということでしょう。 青山/青山神社 庚申石祠/貞享2 写真が手ぶれているので、なおさら判りずらいですが 屋根にウーン 奉造立庚申□□(成就:資料より) 正面に貞享二乙丑年 施主 十二月如意日 廿六人 右側面に貞享二天/霜月十五日 左側面にバン 奉供養□□□(庚人数:資料より) 貞享2年に作られたのは間違いなさそうですが、月日が違っていることと、複数の信仰によって建立された可能性もあります。 主尊は三猿がついているものの、上部欠損で不動座像か、この地方に他にもあるらしい山王像なのかよくわかりません。地元の方はこれを庚申塔としては認識していませんでした。ただ、猿がついている仏像と話していました。 石幢六地蔵/貞享2 奉造立庚申供養 二世(安楽?) 六地蔵はほとんど風化している。 笠がついていたと思われるが逸失。 石仏群があったのでチェックしてみたら 見つけたもの。 場所不明ながら風化した石幢六地蔵の庚申塔があるというブログは見たことがあるので、同じ物だと思う。 二臂青面金剛?/貞享3 風化で銘文はかなり薄いが かろうじて「奉造立 庚申〜」と読める。 紀年銘は石川氏のサイトによる。 他、十一月吉日 参考にしている町史やWeb資料には 掲載されていない(※その後、観音像としての掲載を確認)が、様々なブログでも取り上げられている割と有名な庚申塔。 しかし主尊は青面金剛とは言いがたい。 同系の庚申塔は鳥屋にもう1基あるが、他にあるのか、不勉強にて知りません…。 この主尊が笠をかぶっていたら、鹿児島の「田の神像」と言いたくなる像様。 現代は都内にもあるが、江戸時代にあったとは ちょっと考えにくい。 でも似ているどころか、ほとんど同じ。 田の神像に詳しい方に見てもらった所、「めしげを持っているし、擂り粉木は長いが、そっくり」とのこと。※上の庚申塔は擂り粉木ではなく剣。めしげ=シャモジ。 九州も庚申塔はかなり多いのですが、田の神を主尊とした庚申塔があるのかは知りません。(※複数あることが判明。ただし三猿は付いていない) 土地と時空を超えて偶然似てしまったのか、 それとも九州へ旅した人がいて伝えたのか、 あるいは九州から来た人がいたのか。 こうした民間信仰の像は記録が無いので 想像するしかありません。 そこが面白い点ではありますが 正解が見つからないのは悶々とします(笑) 関東や山梨などに類似の庚申塔があるとか 九州には田の神主尊の庚申塔があるなどの情報をお持ちの方は ぜひお教えくださいまし。 ※stjtomo様より「鹿児島には複数ある」とお教え頂きました。ありがとうございます。 |
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文字三猿塔/元文元年九月吉祥日 資料より 79×30×27 カーン マン マの三尊種字 不動 文殊 大黒? 三尊種字の組合せが理解できていないため なぜこの組合せなのか、 マが大黒なのかも判らない…。 細かいことだが三猿は横向きで→→←。 旧津久井郡で、現時点までで見た三猿は 今の所この→→←が多い。 又野/八幡神社 文字塔/安永年間(資料では紀年銘不明) 資料より 上欠の庚申塔。58×25×22 元来は1mほどの角柱塔だったと思われる。 「青面」の表面部分が塔の向って右手に落ちていた。 もう少し探すと塔の後ろに左写真の部分が埋まっており、安永とあったので こちらが紀年銘部分と推測した。 庚申塔を廻っていると、時々、下部が埋まっているものがあり 掘って確認すると三猿が出て来ることもある。 ちゃんとした調査をするなら、拓本セットとタワシ、掘り返す道具などが必要。 上の場合は付近に落ちていた小枝で掘った。 もっと掘れば年度まで確認できたかもしれないが 境内の芝を破ることになるので自粛。 青面金剛/延享年間 修復されているので元からなのかは 不明ながら、あご髭を生やしている。 腕の造りも妙な感じで、 全体のパーツはよくあるものなのに 異形ともいえる姿になっている。 かなり目立つが、なぜか資料に無い。 もしかすると調査時には破損していて 漏れたのかもしれない。 こちらはネット情報で存在を知ったもの。 ※その後、資料に掲載されていることを確認しました。ただし庚申塔ではなく観音塔として掲載されており、三猿が付いていることは記載されていませんでした。 供養塔/寛政11 資料より 道標庚申塔。72×30×27 側面に「この供養塔は寛政十一年十月吉日、地元講中により建立され破損、昭和四十三年十月再建」 と彫ってある。 破損した、先代になる供養塔が以下。 供養の上に何があったのかと調べた所、 光明真言の種字らしきものが確認できた。 いったいなぜこれを庚申塔と考えてしまったのか 理由が判らない。 四臂青面金剛/宝永3丙戌8月 見つけた資料2つには未掲載。 持ち物がはっきりしないが、剣、宝輪、羂索、蛇か? これもネットで情報を得た。 どこかにもっと掲載数の多い資料があるような気がしてならない。公的な調査は意外に漏れがあり、横浜に至っては200基以上も漏れていた。旧津久井郡も同様かもしれない。と、こういうのに出会う度に思います。 旧津久井郡の庚申塔探しに使っている資料は Webに公開されているもの(サイト閉鎖)。 その元となった津久井町、城山町、相模湖町、藤野町の町史。 旧津久井郡エリアに関するブログ。 ネットで見つけられる庚申塔情報。 この4つ。 もちろん一番参考になるのは町史とWeb資料。 しかしそこに未掲載の庚申塔をブログや庚申塔情報でいくつか見つけている。 庚申塔情報は石川博司さんという多摩地方の庚申塔をほとんど見た方がおり、 ネット上でさまざまな庚申塔の情報を公開してくれています。 ただ「こういうものが在る」という情報は書いてあっても場所については詳細ではないため、見つけるのが一苦労。 そして、石川さんも自力で見つけたのではなく、旧津久井郡の庚申塔に詳しい方から情報を得ていたことが、随所に出ています。 おそらく個人の物好きさんでしょう。 そうした方々は紙ベースで情報をまとめていたと思われますが、いったいそれらはどこへ行ったのやら。 ※その後、個人作成の詳細な資料に出会う事ができました。 その方の資料によって、過去の調査記録では庚申塔とされていなかったものが、実は庚申塔だったという例が複数あることが判明しました。 私のように庚申塔しか見ないようだと、他の場所にある石仏はいちいちチェックしません。 地元の人だからできる、という部分は大きいですが、その方は全ての石仏を再調査しており、だからこその成果といえます。 この情報は中野にある郷土資料室で教えてもらいました。 |
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左右とも庚申塔。 Web資料より 右 「角柱。高さ117cm、幅29cm。元文5年建立。「奉供養庚申塔」。「才兵衛 甚五兵衛 願主 大雄」の刻銘」 左 「角柱。高さ84cm、幅24cm。建立年代不明」 こちらで目を惹くのは三猿塔。 中折れして、その部分が逸失しているから このサイズになっているのかと思って 見てみたがよく判らなかった(笑) この三猿は珍しい造形。 いったい何を模しているのか。 笠をかぶった不見。子抱きの不聞(これは他所にもあります)。 そして他が座っているのに、これだけ立っている不言。 庚申塔の猿が好きで、注意して見ていますが、 笠は初めてで、こんな組合せも初でした。 Web資料より 「高さ55cm、幅24cm、奥行15cm。明和4年建立。恐ろしげな表情をした彫りの深い金剛像」 恐ろしげな表情かどうかは微妙です(笑) 写真が下手なのではっきりしませんが 割と標準的な憤怒相ですが、小顔で、 繊細な彫りでした。 ただ、旧津久井郡の青面金剛としては 恐ろしげかもしれません。 合掌で日月捧げ持ち。 文字三猿塔/宝暦3 寺院跡地になるらしく、名号塔や六地蔵の一部などが残っている。 銘文は上が剥がれ落ちているが 天下大平講中安全 庚申供養塔 だったことは判る。 紀年銘は「暦」だけが読める状態。 Web資料より 「明和2年4月吉祥日、相州津久井県韮尾根村、施主構中拾三人。高さ107cm、幅47.5cm、奥行42.5cm。かつては道祖神とともにあったが、道祖神は持ち去られた。道祖神の行事(どんど焼き)は今でもここで行われる。手が沢山あることから仕事が上手に早くできる神様とか、道祖神があったため子供の神様とかいわれる」 とても肉厚な浮き彫りで、正面からより斜めからの方がよく判る。表情は風化。 現在は個人宅の庭先のような場所だが、もともとは下ると愛川町になる志田峠へ続く旧主要道だったらしい。 文字三猿塔/明治3? 個人奉納の庚申塔。 調べた資料には未掲載のもの。 西中野にも個人奉納の庚申塔があったが 基本的に講でやる庚申信仰が廃れ、 明治大正の頃は個人でやっていたのかもしれない。 古くから住んでおられる方々に 庚申塔所在地を訊いても、場所はおろか 庚申自体をご存知ないことが多い。 念仏講や稲荷講、地神講などは生きているが、庚申講はこのあたりでは終わっているようだ。 なお、Web資料に掲載されている庚申塔で 以下のものは逸失している 津久井町長竹1857(石)〔石ヶ沢、明光院跡〕 2基併置。①切石、高さ62cm、幅35cm、奥行11cm、昭和2年建立、納主内藤梅吉。②青面金剛像、高さ90cm、幅45.5cm、奥行44cm、明和2年建立。串川橋から国道412号を半原方面に進んだガソリンスタンドの右斜め前(国道右側)の土手草むらの中にある。 これはつい2、3年前まではあったが、宅地造成をした業者が持ち去ったとの証言を得た。どこへ持ち去ったのかは不明ながら、廃棄された可能性が高いと思う。 文字三猿塔/元文5 54×22×21cm(資料より) 三猿はほとんど欠けているが三面に三猿。 側面にかろうじて残っている。 路傍にあるが、何回か前を素通りした。 阿弥陀?/元禄9 大沢には2基の記録があったが、 こちらは主尊があるのか文字塔なのか すら判らず、みつけるのを諦めていたもの。 上の文字三猿塔の横にあったので ついでに観察したところ、庚申の文字。 しかし状態は以下のように酷かった。 「禄」と「丙」が読み取れたので 資料から元禄9年塔だと判明した。 |




