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ボロボロの庚申塔写真ばかりUPするのに疲れましたので
旧津久井郡の面白い石仏をいくつか。 日待塔です。 主尊の前手がはっきりしませんが、 種字がバンなので金剛界大日と思います。 日待供養と月待供養は庚申信仰とも密接で 庚申塔に日月が付いているのは 日待と月待を習合しているから という説もあります。 摩多羅神と彫ってあります。 初めて見たときは何か判りませんでした。 調べると非常に興味深いものでした。 真言宗の立川流は江戸時代には淫祠邪教 として禁じられましたが 天台宗にも同様の玄旨帰命檀という 一派がありました。 その本尊が摩多羅神です。 こうやっておおっぴらに塔を建立できる 性質のものではありませんので これは玄旨帰命檀とは無縁なのでしょう。 大黒天と習合することもあるそうなので そちらの系統かもしれません。 それにしても初めて見ましたし、 江戸時代の信仰に詳しい方からは 驚かれました。 いずれも新しいものです。 なぜか塔の上に小石が置いてありました。 子供がやったのか、こういうことをしたくなるものなのか、 それともこういう信仰のスタイルがあるのかは判りませんが 楽しい絵面なのでパチり。 下半分が地中の石塔です。 左は二十三夜塔ですが、右が何だか判りませんでした。 掘り返したくなりましたが、上に出ているだけで50cmはある大きなもの。 こちらはとても韮尾根(にろおね)という風景の良い場所にあります。 霊府塔は妙見信仰によるもの。 民間信仰への妙見信仰の影響は少なくなく 個人的には青面金剛が日月を捧げ持つのは 妙見菩薩の影響だと思っています。 旧津久井郡を始めとするエリア、 東京の多摩地方や神奈川の相模原などには 日月捧げ持ちの青面金剛が多数存在します。 こちらの塔が新しく見えるのは 地元在住の篤志家の方が個人で 奇麗に洗い文字に墨入れまでして 往古の姿に戻しているからだそうです。 上に出した自然石の文字塔群も 同じ方が手入れされたのかもしれません。 この方は新聞に掲載されました。 頭が下がります。 http://news.kanaloco.jp/localnews/article/1204170011/ 如意輪の顔が素晴らしくて撮影しました。 無縁となっているらしいのですが お寺の境内に祀るというより 飾られています。 庚申塔が墓地の無縁仏に まぎれていることもあるため 念のため探しているのですが 時々「へ〜」と感じる墓石があります。 空風火水地はアバラカキャの梵字で 刻まれることもありますが たいていは五輪塔。 知らないだけかもしれませんが これは珍しいな〜と。 ちゃんと手を合わせてからパチり。 「こかげ」と読みます。 旧津久井郡に限ったことではなく 神奈川や東京、埼玉は江戸末期から 明治にかけて養蚕業がと盛んでした。 海外への輸出用です。 蚕影信仰自体は古くからありますが、 旧津久井郡はお役所の指導もあって 蚕影神社を数多く建立したそうです。 こちらはその1つ。 石祠の窓が繭の形をしています。 残念ながら相模原市の養蚕業は 2011年に途絶えたのですが 今でも蚕影講は行われているとか。 それも庚申信仰と同じく 徐々に消えて行くのでしょう。 天明の飢饉 一揆集合の地 旧津久井郡は神奈川の端。 山間部でたいした歴史もなさそうに 思えますが、とんでもない。 戦国時代は武田信玄が後北条を攻める ルートであり、城跡が沢山あります。 江戸時代になってもこういった 人々の生き様が石碑から読み取れます。 今回は写真をUPしていませんが 石塔の最多は馬頭観音。 山間部で馬を使って荷を運んだため 馬が亡くなることも多かった。 その供養なのでしょう。 僧形かもしれません。 Web資料より 「この道祖神は非常に古く、北条氏が小田原で栄えた頃のもので、当時津久井に石工がおらず、信州から北条氏が石工を呼んで作らせたという」 あくまでも伝説です。 道祖神はどうも苦手で知識もなく ネット情報を鵜呑みすると 神奈川は双体道祖神発祥の地だそうです。 しかし、寛文の頃が最古であり 形態は僧形だったとか。 それが山梨や長野に流れて夫婦の道祖神に 発展したのだそうです。 ちなみにこの道祖神。 紀年銘は欠けていますが 文字の彫りはとても明瞭で寛文とは思えません。 ところが、神奈川の道祖神は ドント焼きで燃やされるため、 再築を何回も繰り返しているのだとか。 Web資料によれば、こちらも燃やされていた可能性があります。 色々とUPしましたが、旧津久井郡の石仏は、七沢石や伊那石を使っていて 風化が激しいですが、神奈川の他の地域とは随分様相が違っています。 結論を出すには見ている数が少なすぎます(多摩地方の影響もあります)が 相模国として見ても、とても貴重なエリアだと感じています。 残念なのは自治体にお金がないためか、個人の篤志家による保存作業頼みで、 全体としては風化して土に還る一方な点。 ちゃんと残っている内に記録だけでも残さないと。と思っとります。 |
相模原市
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ネット上での情報がほとんどない旧「津久井郡」の庚申塔は風化や盗難、廃棄で消える一方です。できるだけ記録を残そうと思い立ちました。追加情報をお持ちの方がおられましたらご協力ください。
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阿弥陀/寛文11 個人宅の敷地内になるのかもしれない。 辻の高い石垣の上に設置されている。 割れたものを針金で補強してある。 紀年銘を読める状態ではないので、記録による。 合掌阿弥陀?or地蔵/紀年銘不明 風化が著しく、三猿が付いていなければ 庚申塔とは判らない。 路傍の石仏群にまざっている。 Web資料より 「切石、高さ61cm、幅25.5cm、奥行21.5cm、天明6年建立。春日神社と字体が似る」 メインの県道から台地上への古い道、畦への道がクロスする場所にある。往古から同所にあったかもしれない。 Web資料より 「②青面金剛像、高さ47cm、幅21.5cm、奥行18cm、昭和15年建立。青面金剛はユーモラスな顔貌」 これが青面金剛なら嬉しいのだが、三猿も庚申銘もない単体像。左上手には未開蓮華。右上手は矛。前手は合掌。左右下手は何も持たない。 これを青面金剛はおろか、庚申塔とするのも間違いだと思う。 かと言ってこれが何かは判らないのだが、上手に蓮華を持つ画像は梵天などがあった。 Web資料より 「切石。高さ75cm、幅30cm、奥行26cm。寛政12年建立。稲生村講中拾六人」 長竹、西の文字塔と字体が似ているとされているもの。 寛政12は庚申年で西暦1800年。 西の文字塔は天明6(1786)。 塔の造りはこちらの方が立派なのは庚申の当たり年だったからかもしれない。 なお、文字に墨入れしているのは長竹在住の篤志家によるものらしい。 近隣の石仏・石塔を掃除し、往古の状態に戻す作業を500基以上やっておられるとのこと。 青面金剛刻像塔 Web資料より 「笠付角石。高さ80cm、幅41cm、奥行34cm。享保3年建立」 風化が酷いが、刻像塔だったことは判る。 側面に種字ウーン。享保三(以降風化)。 庚申供養。九月吉日。 以上がはっきり残っている。 篤志家の方もさすがにこちらは手が出ないようだ。 Web資料より 「通称化地蔵と言われる所に安置されている。角柱。総丈110cm、幅29cm、奥行21cm。宝暦13年(1763年)建立。尻無沢講中7名」 種字はウーン。側面に 維 宝暦十三癸未霜月 自然石文字塔/文政2(1819) 紀年銘は裏面。 長竹の西や春日神社の文字塔が、字体が似ているということであれば、こちらも似ていると言わざるをえない。 時代が西のものより33年後。同じ石工かどうかは微妙な年数を経ている。 |
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文字三猿塔/明和7 下部に土をかぶった三猿。 雨などで土が付着し続けてこうなる。 土を払って撮影しようとしたら、すでに風化していて、あやうく三猿を壊すところだった。 山王権現?/紀年銘無し 地元の人に訊いても所在不明だったが、それも当然、と思える場所にあった。 合掌の一猿が付いているので庚申に分類されているが、本当は何なのかは不明。 銘文が全く無い。 刻像山王権現に三猿がついた珍品は他にもあるが、像様は全く違う。 この前手の印が何か未だに判らない。 文字三猿塔/元文2 立派な笠付塔だが、三猿部分に亀裂が入っている。大きな地震や台風が来たら倒壊するだろう。 文字?三猿塔/紀年銘不明 上の笠付塔と同所にあり、こちらは倒壊している。笠も近くに現存。 三面に三猿の形が同じなので、2基同時に建立された可能性もある。 起こして紀年銘を確認しようとしたが、重くて無理だった。 山王権現の前に庚申塔が2基並んでいたと思われるので、山王権現も庚申信仰によると考えて間違いはなさそうだが、庚申塔だけで判断するのは間違いの元になりそう。 地元に古くから住んでいる人に取材できれば良かったが、出会えたのは「そんなもの知らないなぁ」という人だけだった。 |
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ぼろぼろ第三弾
合掌青面金剛塔/紀年銘部分逸失 こちらには3基あるはずだったが、並んでいたのは2基。逸失か盗難かと思いつつ、石仏群の裏を見たら破片があった。それを組み上げたのが写真の状態。 上部を探したが見当たらなかった。 こちらは撮影後、元に戻しておいた。 合掌青面金剛/紀年銘不明 こちらは破損したものを修復してあった。 しかしセメントを全体に塗ってあるため、文字だけでなく六臂なのかどうかも不明。 確か旧津久井郡には石仏の修復をする個人の方がおられたはず。そういう方が手がけていればもう少しなんとかなったかもしれない。 二臂青面金剛?/寛文11 異形の主尊で青面金剛かどうかははっきりしないが、愛川町や町田にも同系の庚申塔があるらしい。資料では寛永11としているが、どう見ても寛文。愛川には寛文8があり、それが祖形とされている。 左手が輪を掴んでいる。青面金剛塔は絵図を参照して彫っているらしいが、いったいどのような絵図があったのか。 それにしても、このエリアでは最古旧の庚申塔で、それがちゃんと残っている。 石材の知識が無いので詳しくは判らないが、破損した上の2基とは石が違う。 文字塔/大正14 随分探した1基。 台地の上へ向う細い旧道にあった。 個人奉納らしいが奉納者名はなかった。 |
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ボロボロの続き。
文字三猿塔/紀年銘剥落 津久井湖からの急坂を登って、一休みするために立ち寄った寺。 資料では無いはずだったが、石仏群を見たら1基だけあった。 近年に、どこからか持ち込まれたものと思われる。 資料には塔のサイズや紀年銘が記録されて いて、他の場所のものが移されたとしてもデータで同定できるが、この状態になってしまうとそれも難しい。 合掌青面金剛塔/紀年銘不明 小さな神社の参道に馬頭があり、それに隠れるように朽ちていた石塔があったのでチェックした。 三猿らしき痕跡があったので、周囲に散らばっていた破片を集めて組み上げたのが写真の状態。 主尊は合掌の青面金剛で、三面に三猿の庚申塔であった。 「寺沢」という集落の名が彫ってあり、昔からここにあったと思われる。寺沢集落に庚申塔があった記録は資料に無いので、調査漏れのようだ。 もとに戻すべきだろうが、近在の人へアピールする意味を込めてそのままにしておいた。 三井、某所 薬師主尊?の庚申塔/宝永3 比較的、人が通る山道沿いにあるという情報だけで行った。 中腹に寺があるので、全部を歩いてみたが、ここにしか石仏が無かった。 馬頭観音群に1基だけ、薬師か阿弥陀のような主尊塔があり、よく見ると薄く庚申供養と彫ってあるように見えた。 そこで周囲を覆っていた礫を除けて下部を確認したところ、三面に三猿がついていた。 登山者に何をしているのかと問われたので、庚申塔を探していると答えたが、庚申塔自体をご存知なかった。実は寺にも1基あるのだが。 享保3年8月 上のような例があるので、石仏群があるとチェックするようにしているが、これは庚申塔ではなかった。 日月が付く主尊陽刻で、これは庚申ではないかと調べた。紀年銘部分は見事に剥落しており、こちらも周囲に落ちていた破片を組んでみたら、念仏講によるものだと判った。 |




