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相模原市緑区の旧津久井郡には
資料上での合計だと 調べ方がいいかげんなのでもっと多いかもしれないが…。 ※その後、真偽不明なものも含め199基中、169基までは現存確認できました。 ※津久井郡の記事文中、Web資料と書いているサイトは「津久井郡データベース」という名称でしたが、閉鎖されてしまいました。名産品から伝承、祭、石仏全般の民俗まで幅広く膨大な情報を載せていました。閉鎖が惜しまれます。 宅地造成で業者が持ち去ったという証言を得ているものもあるし、 風化して見ても庚申塔と判らない状態になっているものもあるだろうから 全部を見ることは叶わないが、できるだけ写真を撮っておきたいと思っている。 資料には未掲載と思われるものもいくつか見つけてはいるが、 資料の有る無しにかかわらず状態の悪いものが多いので 多少の危機感もあって、旧津久井郡の庚申塔に関しては 撮影できたものは全部UPしてみようと思い立った。 ただ、野ざらしで盗難の恐れもあるため、詳細な住所は控える。 それと、とりあえず全区域を廻り終えるのは いつになるか判らなくなっているので、中途半端で終わるかも知れない。 旧津久井郡を廻り始めて日が浅いが、真冬の間は路面凍結が怖くて控えていた。 そのわずか1ヶ月ちょっとの間で、いままで手をつけていなかった 茅ヶ崎市の約90基はあっというまにコンプリートできた。 ところが、同じ調子で旧津久井郡を廻れるかというと、とんでもない。 遠いこともあるが、場所がはっきりしていなくて、 1日で数基しか見つけられないのだ。 これだと気力が続かない可能性もある(笑) というわけで、なんとなくスタート。 最初はボロボロのものから。 津久井町中野神社 阿弥陀/寛保2 文字塔/紀年銘無し 文字塔も上部が破損しているが、河原石のようなので保つだろう。 が、阿弥陀と思しき風化塔は三猿が残っているから庚申塔と判る状態。 文字三猿塔/享保15。 雪が塔に乗り、それが溶けると染み込み、その状態で凍る。 それの繰り返しで全体にクラックが入っていて、 文字部分は近い将来剥落すると思われる。 |
相模原市
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ネット上での情報がほとんどない旧「津久井郡」の庚申塔は風化や盗難、廃棄で消える一方です。できるだけ記録を残そうと思い立ちました。追加情報をお持ちの方がおられましたらご協力ください。
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前回の百庚申?の建立にははっきりとした理由が伝わっています。
地図の東端にポイントがある寺院の住職が 「青面金剛は養蚕に験がある」と広めたことがきっかけでした。 これは庚申信仰の「そもそも」からするとびっくりするようなアイデアです。 庚申信仰は二世安楽、病除け、長寿あたりが本願でした。 しかし、民間信仰ならではの「信仰の万請け負い」の様相があり、農村であれば豊作、武家であれば武運長久、他にも子孫繁栄や国家安泰など遠すぎない範囲での祈願がなされていたことが庚申塔の銘文だけを見ても判ります。 相模原市の養蚕農家は平成21年度にゼロとなってしまったそうですが、シルクの輸出が盛んだった江戸末〜明治時代の相模原は養蚕が最盛期でした。 農家にとって養蚕に験があるという宣伝は、豊作を祈願するのと同系統だと受け入れられたことでしょう。 寺としてもユニークな仕掛けを編み出しました。 江戸時代からあったのかは不明ですが、寺院には本尊として木像青面金剛が祀られており、養蚕農家は寺院から小型の青面金剛像を持ち帰り、養蚕シーズンが終わると寺に返していたそうです。 この木像は新しい感じで、いつ頃作られたのかは調べていません。 同じ物かはわかりませんがこのお寺の青面金剛像は六本庚申といか千体庚申と呼ばれていたそうです。 千体庚申はおそらくこれがあったからでしょう。 陶製の青面金剛です。この小型の青面金剛が持ち帰り用で数が多かったのではないかと。 入手可能なら私も1つ欲しいです(笑) こういった信仰の仕組みを考え出した当時の住職はなかなかのアイデアマンですが、時代背景を考えると企業努力の面も見えて来ます。 マップの庚申塔がある場所には、江戸時代に建立されたものが少数ですが残っています。 もともとこの寺は庚申信仰を主導していたのかもしれません。 しかし明治初期は神仏分離令で寺院経営が厳しかった時代です。 寺院の生き残りをかけて必死に考え出したのが庚申信仰と養蚕を結びつけた仕組みだったのではないかと。 そのかいがあったのか、個人奉納の庚申塔は他の寺社があるエリアにまで広がっています。 庚申塔を建立するのは、一般的には庚申講を複数回行い、祈願成就に必要な条件を満たした後ですが、この庚申塔群はもしかしたら養蚕が好調だったことによる奉納行事だったのかもしれません。 相模原市の調査では、この庚申塔群は大山街道から寺への道標の役割を果たしているという見解があるようです。 今は複数の場所に数基まとめられていますが、昔は庚申塔を追って行けば寺に着くように設置されていたのかもしれません。 全国には百庚申と呼ばれている庚申塔群がいくつもありますが、一般的な百庚申は一カ所にまとめて奉納されているか、信仰の道、例えば山頂に本社があり、そこへの登山道などに奉納されています。 この庚申塔群を「百庚申?」としているのは、現状だとその条件に当てはまらないからですが、相模原市の見解のように寺への道標だったとすれば、後者にあてはまりそうです。往事、どのように設置されていたのかがはっきりすれば明確になります。 もしかしたら相模原市は現地でのヒアリングをして、道標だったという見解をだしているのかもしれません。 さて、相模原市には前回の文字塔群と似たような庚申塔群が他にもあります。 個人奉納の庚申塔群です。 しかし百庚申?との大きな違いは全て同一人物による建立であり、ほぼ1年置きに作られている点です。 これも数がもっと多ければ、後世の人から「百庚申」と呼ばれるようになっていたかもしれません。 実際、その例はあります。 では、百庚申や千庚申などの名数がつく庚申塔とはいったい何なのか。 この稿、続けます。 書いても間違えている可能性が高いのですが、個人的な妄想レベルなら許されるでしょう(笑) |
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相模原にある辻の庚申塔。
ほとんど同じサイズで、ただ「庚申塔」と彫ってあるだけ。 こういう庚申塔群は各地にありますが、詳しく調べもせず写真だけ撮って次へ進んでいます。 特徴のない文字塔にはどこにも興味を惹かれるポイントを見いだせないからしょうがない。 そして次の場所。 さらに次の場所。 塔の大きさに若干の違いはありますが、大差ありません。 左端は道祖神です。 その次。 やっと明確に違う庚申塔が出て来ました。 地蔵堂右手の小さい石塔は庚申塔ですが、画面右端の少し大きい角柱塔も庚申塔。 ただ、これは紀年銘が違うものでした。 さらに次。 なんだかつまらない庚申塔ばかりですが、これだけ並ぶとさすがに「あれ?」と思うでしょう。 この似たような庚申塔は全て明治五年春祭日の紀年銘。 通常、庚申塔は庚申講の多数名が連名で1基ですが、こちらは全て個人名。 実は写真容量の問題で掲載できませんが、まだあります。 半径500mエリアに明治五年建立の庚申塔が80基ありました。 庚申塔には百とか千などの名数がついたタイプがあります。 名数がいくつであっても、奉納する目的は同じで多数なことに意味があり、 個人的には全部ひっくるめて「百庚申」と呼んでいます。 調べた範囲では、だいたい4タイプに分類できると考えていますが、 一カ所にまとまって設置されていない点を除けばこれは百庚申です。 同じようなデザインの庚申塔をほぼ同時期に 一カ所あるいは同じ霊場に多数奉納する。 奉納した人々がそう呼んだ証拠があるのかは知りませんが、 現代においてはその状態の庚申塔群を百庚申と呼ぶケースが多々あります。 調べた範囲では東日本固有の風習のようで、関西以西にある情報には出会っていません。 相模原の庚申塔群は百庚申とは呼ばれていませんが、分類上の区分に当てはめるなら、これは百庚申です。 建立された理由は、当該エリアの中心となる寺院が主導したことが判っています。 中途半端ですがこれでひとまず。 続きを追加するかもしれません。 |
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庚申塔に限った話ではなく、マッピングをすると見えて来る情報があります。
相模原市のマッピングをしていて、中央部に大きな空白地帯があることに気がつきました。 時々こういう事例は出て来るのですが、無いということ自体も大きな情報で、 今まで確認できたのは以下の5パターンでした。 1単に調査不足で情報が漏れているだけ 2山林部分で農地利用に適さないため集落もない 3信仰上の理由(徹底した廃仏毀釈or浄土真宗地域) 4大規模な宅地造成で逸失 5戦災 ところが、相模原市の場合、空白地帯は真っ平ら。 相模川と境川に挟まれた台地地形で、農地開拓は当然されてただろうし、 日本軍の施設は多かったものの、残っているエリアとの差が大き過ぎる。 初期調査の昭和50年代は宅地造成真っ盛りで、調査がまともにできず、 だから抜け落ちているのだろうと考えていました。 しかし、他の市域のマッピングと併せてみると、空白地帯は相模原を越え、 座間市、大和市にまで至っていることが判りました。 青いピンが相模原と町田市域。 緑はそれ以外の市域。 ちなみに空白地帯の最南端は綾瀬市の厚木飛行場で、 この北が座間市と大和市の境目になります。 この広大な空白地帯は現代の行政範囲を越えており、 調査不足が3つの行政に共通してしまったとは考えにくい。 となると他の理由になりますが、これが判りません。 上に挙げた5つの理由、どれもはまりにくいのです。 相模原市は行政としての石造物調査を、知る範囲では3回行っています。 1昭和50年代 2その補足調査 3平成21年度 3の平成21年度調査は市内の公民館と地元住民による最新の調査で、 新規に追加された石造物も複数あると小耳に挟みました。 まだ資料として刊行はされていませんが、調査結果は公民館単位で 所有しているとも聞き及び、それならと、空白地帯の公民館に 問い合わせをしてみました。 すると意外な回答が帰って来たのです。 「原野で人がいなかった」 予想外でした。大きな2つの川に挟まれた台地を農地利用もしていなかったと。 農地開拓が盛んだった江戸期に? 相模原市のサイトに掲載されている近世、近代の歴史は以下。 ---------------------------------------------------------------------------- 近世 江戸時代になると、検地によって17の村が成立しました。相模原は江戸に近いため、幕府の直轄領や譜代大名、旗本たちの知行地等に細分化されました。 江戸時代の中頃には、相模野の開発が始まり、幕末までに上矢部新田、大沼新田、淵野辺新田、清兵衛新田などが開かれました。江戸時代の後半には養蚕などの生産が向上し、俳諧など豊かな地方文化が育まれることとなりました。
明治以降
明治以後も、相模野の開発は行われましたが、いずれも規模は小さく、台地上には雑木林なども多く残されました。
----------------------------------------------------------------------------台地の上部で水源確保が難しいうえに、余剰な開拓できる土地が多かった。 だからわざわざ台地上部を農地にしなかったのかもしれません。 大きな意味では2に相当していたわけです。 他の市域にも空白地帯はありますが、これほど広域ではありませんし、 たとえ山林部でも庚申塔はあるため理由が判りませんでしたが、 相模原はそれだけ人がいなかったということのなのでしょう。 庚申塔1つとっても色々見えてくるものだと、改めて感じました。 |




