庚申塔探索

神奈川最古は寛永10年塔?

横浜市

[ リスト | 詳細 ]

記事検索
検索

全6ページ

[1] [2] [3] [4] [5] [6]

[ 前のページ | 次のページ ]

赤井村

小名:赤坂、赤井、御中井、和田、大橋、瀧。
現在の釜利谷東一帯です。

和田の庚申塔
イメージ 1釜利谷東6-24満蔵院
笠付合掌青面金剛
安永10年4月
三猿。

満蔵院は、場所としては宿村といってもおかしくない場所ですが、小名和田と記録されています。
以下も含めた2基は自動車での入口部分にあり、集め庚申と思われます。
















イメージ 2角柱文字塔
天保4年2月
「庚申供養塔」























満蔵院墓地
墓地内にも庚申塔があります。こちらは昔からあるようです。

イメージ 3風化笠付合掌青面金剛
安政4年(判読不可能)
三面に猿。

すさまじい風化ですが、海に近い土地ではよく目にします。塩の影響を受けやすい石質なのでしょう。

















イメージ 4角柱文字三猿塔
文政4年3月15日
「庚申供養塔」
台石に三猿。

この2基は六地蔵、六十六部供養、寒念仏塔などと並んでいます。




















赤坂の庚申塔
イメージ 5釜利谷東4-46付近
向って右
角柱文字塔
明治5年正月
「庚申塔」赤坂講中。

向って左
角柱文字塔
慶応元年9月
「庚申塔」赤坂講中。

ほとんど同じ内容。併設しています。
設置場所が独特で、赤坂谷戸の中程、急峻な崖についた坂道の中腹にあります。
山の上が農地だったようです。
金沢領の外を意識した設置です。


釜利谷東4-7
こちらは赤坂谷戸の入口あたり。
崖下の凹みに石仏群があり、庚申塔は3基。

イメージ 6駒形聖観音
寛文12年11月
「庚申供養」
赤坂村 施主敬白
三猿。





















イメージ 7上欠駒形定印阿弥陀
□保元年11月
「奉納庚申供養」
三猿。

紀年銘は剥落しており「□保元申十一月吉日」。金沢区の資料は正保としていますが、享保元年も申なので、どちらか判りません。

資料が正しければ金沢区最古(1644)になるものの、横浜市域の庚申塔として正保年間で阿弥陀+三猿は違和感がありますので個人的には享保元だと考えています。













イメージ 8風化角柱文字塔
寛政12年正月
「青面金□」
御中井 赤坂 講中(現状剥落)。

御中井は隣の小名ですが、赤坂の講と共同ということでしょう。



















御中井の庚申塔
イメージ 9釜利谷東3-16-15御嶽神社下
笠付合掌青面金剛
元禄元年12月21日
御中井村 東町
三面に猿。数珠持ち。

現状ではほとんど読めませんが、資料によれば御中井村の東町となっているようです。
御中井はさほど大きくない集落ですが、西が赤坂と共同で庚申塔を造り、東が単独でこれを建てたのかもしれません。

御嶽神社は新編武蔵国風土記稿には記録がありません。しかし、小名「瀧」の項に「艮の方角の山上に不動堂あり」との記録があります。方角としてはほぼ合致します。















赤井の庚申塔
イメージ 10釜利谷東3-4正法院
自然石板文字塔
万延元年10月15日
「庚申供□□」
赤井村。

村の名前がどこにあるのか判らず。
















イメージ 11舟形錫杖持ち地蔵
寛文9年10月(己酉)
「カ 奉造立地蔵□□供養講中□□」
8名?
台石に三猿の痕跡。



イメージ 12








風化が進んでいて銘文は不明瞭。
台石の三猿もかろうじて判る程度。
初めて見た時は見逃してしまい、逸失かと思っていました。
赤井村
数があるので、2つに分けます。

地勢は前の2村(宿、坂本)より海側に位置していますが、だいぶ広範囲で、現在の能見台側の谷戸も含まれています。
平地は水田で、山の上は陸田と田畑に開墾していたようですが、農閑期に薪というのは外の2村と同じ。
小名は赤坂、赤井、御中井、和田、大橋、瀧、宮川。70軒の民戸。
井や橋、瀧、川など水にまつわる地名が多いです。

赤井村 手子明神社の庚申塔
手子明神社は宿、坂本、赤井3村の鎮守。
現在の手子神社には8基の庚申塔があり、内2基は他村の銘がついています。
残りの6基が赤井村の人々による建立かどうかは不明です。

新編武蔵国風土記稿には手子神社の麓に庚申社(小社)があり、さらに山の上にも小社があると記録されています。
小社がどのような形態だったのかは不明ですが、小さな堂宇か石祠だった可能性もあります。
現在それらしきものは残っていません。

イメージ 1釜利谷南1-1手子神社
灯籠(火袋欠?)
寛文11年6月16日
「庚申供養」
同行十一人之内 武列久良岐郡釜利谷村
6名(姓名)。

釜利谷村は、新編武蔵国風土記稿より前に使われていた宿、坂本、赤井3村の総称です。

この灯籠?が往古から手子神社に奉納されていたのか、麓の庚申社あるいは山の上の小社に奉納されていたのかは不明。
なお、手子神社から山上に登る踏み跡はありますが何も残っておらず、山自体が途中で宅地造成によって消えています。










イメージ 2灯籠(火袋欠)
寛文11年6月16日
「庚申供養」
同行十一人之内 武列久良岐郡釜利谷村
5名(姓名)。

同行十一人は灯籠に彫られた奉納者5名と6名
を足すと11人。
この奉納者は姓名が彫られています。
寛文期の庚申灯籠は横浜市では珍しい部類です。灯籠だとすれば火袋が欠損していることになりますが、残欠らしきものは見当たりません。
もしかすると当初からこういう形のものだったかも。

なお、宿、坂本、赤井3村の庚申塔としてはこれが現存最古です。









手子神社の麓にあるもの。
手子神社の麓にあったという庚申社は、もしかしたら、これらのどれか、あるいは全てに覆屋が付いている状態だったのかもしれません。
いずれも昭和45年調査時に確認されていますが、野ざらしの写真でした。

イメージ 3舟形合掌青面金剛
元禄5年7月
「奉請庚申之像諸願成就」
三猿。






















イメージ 4風化笠付合掌青面金剛
紀年銘不明
邪鬼(下部埋まり)。

溶けていますが、像容は次の宝暦6年塔と酷似しています。





















イメージ 5笠付合掌青面金剛
宝暦6年10月25日
邪鬼三猿(下部埋まり)。

上の風化塔もですが、天衣が長く伸びて足元の左右に広がるタイプは宝暦~寛政あたりの30~40年間に、横須賀~横浜にかけて見られます。


















イメージ 6尖角柱文字塔
文政12年霜月
「青面大金剛」
7名(姓名)。





昭和45年の調査時はこれに加えて宿邑講中による文字三猿塔も手子神社にあり、計5基が記録されています。この5基がもとからあったのかは不明ですが、庚申社があったから奉納されたか、宅地造成で集められたのでしょう。

興味深いのは、鎮守の神社に庚申社があるにもかかわらず、3つの村にはそれぞれに庚申塔がある点です。
仮に、往古からあったとすると、宿村も手子神社に接していた小名はありますので、設置しやすかっただけかもしれませんが、庚申講は江戸時代の身分制度を反映したヒエラルキがあったのも事実。ここに奉納できる講とできない講があった可能性も排除できません。

金沢区の庚申塔-坂本村

坂本村

地勢は宿村とほとんど同じだったようです。
小名はカナクソ、松橋、坂本、堀之内、小貫山、會下、横手山、大丸(山)、宮ケ谷、文殊沢、徳辨軒。36軒の民戸。
基本は一本の谷戸で、中央に小川が流れ、その両岸に寺院があります。川下の谷を出た辺りは、新編武蔵国風土記稿だと別の村になっていますが、時代によって変化していたかもしれません。

坂本村 沢之木の庚申塔
イメージ 1釜利谷東7-11自性院(山王社脇)
笠付合掌青面金剛
宝暦11年11月26日
「奉供養庚申塚一基」
福松山自性院
台石に9名
三猿。

自性院は小川を境にした南側の寺院。
山王社は新編武蔵国風土記稿に宇賀山王社の記載があり、自性院持ちとしています。
もともとは寺の裏山にあったようで、移築されたようです。山王社は鳥居基礎に刻まれた内容から宇賀山王社と現在の山王社が同一であることが判ります。
庚申塔と結びつけたくなりますが、移転縁起の内容からすると、全く関係ないことになります。


イメージ 2方形板
昭和55年4月17日
「庚申塔移転縁起」
「近時 釜利谷地区開発ニヨル宅地造成ノ頓ニ進ムニ当リ 功徳主松野賢治ハ旧所有地ノ沢木ケ谷一七九三ノ山林ニ先祖同族ニヨリ建立サレタル庚申塔ノ損壊埋没ヲ畏レテ自性院ノ世話人一同ト相計リ庚申ノ年庚申ノ吉日ヲ期シテ此処ニ移転セリ/国家豊穣 穣災招福 乃至法界 平等利益 十五世順光代」
自性院世話人5名。

山王社の旧所在地は自性院の裏山上。
沢木ケ谷は自性院の西になるため、両者はたまたま同じ場所に移されたのでしょう。
この庚申塔がもともとは山林にあったというのは興味深く、鎌倉方面への細い往還があったので、そこに設置されていたのでしょう。
宿村の夏山にある庚申塔も、以下の三叉路にある庚申塔も、金沢領の内ではなく外を意識して設置されている傾向が見受けられます。


坂本村 坂本の庚申塔
イメージ 3釜利谷東6-40-20、三叉路
駒形合掌青面金剛
正徳2年10月
「奉修請庚申供養」
7名
二鶏三猿。

現在の地図で見ると、もう1つ東の辻にある方が自然な印象を持つ場所。
しかし明治期の地図では東の辻は存在しておらず、ここの三叉路が坂本集落の西の外れになっています。
三叉路から西へは上記、沢之木の庚申塔(尾根越えで鎌倉方面)と、尾根伝いで現在の大船方面へ抜けるルートがあったようです。











坂本村 白山道の庚申塔※
イメージ 4釜利谷南1-1手子神社
(白山道1242(旧)から移設)
上欠舟形合掌青面金剛
享保2年9月
「奉造立供養庚申塔」
願主坂本村 6名
三猿。

金沢区の石仏資料は4冊あり、調査年代が昭和45,52,57,62に別れており、後年の資料は追補する形です。
白山道1242としているのは最初の昭和45年調査による記録。
同時期に調査されている手子神社には記録がありません。
その後、手子神社へ移設されたようです。










白山道1341(旧)※
舟形合掌青面金剛
宝暦2年11月3日
庚申講中 釜利谷坂本村 8名
邪鬼三猿。

未見。
該当地のお宅で「確かにそういうものがあったのは覚えている」と教えて頂けましたが、マンション建設時に消えてしまったそうです。
あった場所は山越えルートの麓部分でした。

※昭和45年資料は白山道の2基について、坂本村のものがここにある理由が判らないとしていました。
資料掲載の所在地図と明治や昭和初期の地図を比較すると、確かに妙な場所で、昭和初期・明治ともに民家が全くない場所になっていました。
山越え道らしきものもない崖下の田畑際の農道だったようです。
宅地造成で行き先を失って坂本集落の人所有の田畑の隅に仮設されていたのか、あるいは往古から同所にあったのか見当がつきません。
新編武蔵国風土記稿だと白山道は宿村に含まれているのですが、地図で確認すると宿村というより坂本村に含まれている方が自然な位置関係です。
江戸時代の村、特に相模や武蔵は天領、藩領、旗本領、寺社領が複雑に入り組んでいますので、位置関係だけが決め手になるわけではありませんが、昭和45年当時にあった場所が坂本村だった時期があるのでは、という気がしています。新編武蔵国風土記稿だけでなく、郷土資料を徹底的に調べれば判明すると思いますが、さすがにそこまで手が廻りません(笑)。


金沢区の庚申塔-宿村

金沢を概観すると、鎌倉時代の重要な湊「六浦」があり、日蓮が房総から渡って来たり、唐船も来たりした国際貿易港でした。文化面でも金沢文庫がありましたし、経済的には塩田もあり、江戸時代には金沢八景で知られる景勝地でもありました。
六浦藩の陣屋もありましたがこれらは全て海沿い。
一歩内陸へ入ると狭い谷(やと)と、低山ですが山の方が多い土地でもありました。
六浦藩の領地は宿村、坂本村、赤井村、寺前村、社家分村、寺分村、平分村でしたが、
寺前、社家分、寺分は寺社領なので実質4村です。

金沢領の宿村は内陸部。
陸田が多く、農閑期は栄えている海側への燃料供給(マキ)が副業。
薪は塩田で塩を作るときに使われていたらしく、消費量が多かったのでしょう。
宿という名前の由来は鎌倉と六浦を結ぶ間に駅があったかららしく、早くから開けていた土地ではあったようです。


新編武蔵国風土記稿によると小名は白山、宿、北谷、宮前、小泉、六郎谷、ホシ山、夏山、三本松。81軒あったそうです。
小名は小字と同じですが、この場合「白山、宿、北谷」が小字で以降は小字以下の地名や人が住んでいない山、目印も入っています。
余談ですが、新編武蔵国風土記稿は1810~1830年にかけての内容で、この時代は金沢領○○ですが、以前は釜利谷村◯◯とか、明治には六浦庄村◯◯と表現されています。

宿村 夏山の庚申塔
イメージ 1釜利谷東5-19付近
舟形剣人青面金剛
寛文11年11月
「奉造立庚申供養二世安楽」
二童子、邪鬼三猿。

集落の外れ、鎌倉方面へ出る山越え道(脇街道)の分岐に位置していたと思われます。
夏山は集落ではなく目印のようなもので、小字北谷の集落の人達によるものかもしれません。
本来は台石があり、そこに奉納者銘が付いていたかもしれません。

二童子付き塔として横浜市現存最古。
もしかすると神奈川県でも最古です。
二童子が横向きでちょっと珍しい。




宿村 白山の庚申塔
イメージ 2釜利谷南2-40東光寺
笠付合掌地蔵
元禄7年11月
「奉建立庚申本尊」
白山□ 施主 九人
三猿。

資料は地蔵にしていますが、主尊は不明瞭です。
白山□はおそらく字名の「白山道」で、施主は東光寺の檀家でしょう。
東光寺の本尊は薬師如来なのですが、庚申塔の主尊も合掌or定印ではなく薬壷持ちなのかもしれません。












宿村 北谷の庚申塔
イメージ 3金沢町174称名寺
笠落角柱剣人青面金剛
宝暦5年6月
施主釜利谷北谷構中(北は草書)
邪鬼二鶏三猿

字の北谷は現在の釜利谷東5丁目あたり。およそ2kmも移動しています。
金沢自然公園の敷地内になってしまったため、金沢文庫へ移転され、その後、称名寺境内へ移転となったようです。
地理的には夏山の庚申塔がかなり近いのですが、なぜ文庫→称名寺に移されたのかは不明。
称名寺境内には3基庚申塔がありますが、いずれも別の場所から持ち込まれたようです。










宿村
イメージ 4釜利谷南1-1手子神社
尖角柱三猿塔
寛政12年正月
「青面大金剛」
宿邑講中
台石に三猿。

手子神社は赤坂村にある神社ですが、釜利谷界隈3つの村の鎮守でした。
集めなのか奉納なのか不明ですが、庚申が8基あり、奉納者が判るものだけで2つの違う村の庚申塔があります。

寛政12年は新編武蔵国風土記稿の時代とほぼ同じ。「宿邑」が使われている唯一の事例。





実はあともう1基、天明2年の青面金剛塔が宿村ではないかと思われるのですが未見です。


イメージ 1



























ぱっと見、大きいだけの石祠ですが、承応4年(1655)で戸塚区最古の庚申塔です。
山王祠として解説されていますが、銘文の内容は庚申そのもの。
以前の状態や銘文については以下にあります。
http://blogs.yahoo.co.jp/board_woccha/33451778.html

戸塚区の資料には「大踏切」と呼ばれるJRの線路近くにあると掲載されていますが、随分前に区画整理と道路工事のため、矢部町の住宅地内の空き地に移され、笠と函や基部がバラバラの状態で数年野ざらしでした。
組まれた状態の写真はありましたが、現物は見たことがなく、おそらく4.5年ぶりの復活でしょう。

銘文に「彫刻 庚申彫像」とあるので、内部に刻像塔が収められていたと考えられているそうです。
承応年間の刻像塔となると神奈川ローカルで大曲型と呼ばれる四臂の青面金剛などが思い起こされますが、どのような刻像塔だったのかは記録が無いようです。

解説は「かつて戸塚宿北東にあった山王山と呼ばれた丘の上にあり、鬼門除けであったと伝えられています。祠に刻まれた文字から江戸時代の承応四年(一六五五年)頃に造られた庚申塔が中にあったと推察され、手水鉢の寄進者からは商売繁昌を祈願したことがうかがわれます。現在、庚申塔は無く、残された祠が戸塚の歴史を伝えます。」となっています。

山王山はJR線路脇の公園付近にあったようですが、現在は完全に削平されています。
手水鉢は「寄進 本宿食売旅籠屋中」で安政2(1855)年。200年も後のものですが、石祠に刻まれている施主には屋号がついたものもあるので、もしかするとお店の人達かもしれません。


全6ページ

[1] [2] [3] [4] [5] [6]

[ 前のページ | 次のページ ]


よしもとブログランキング

もっと見る

[PR]お得情報

CMで話題のふるさと納税サイトさとふる
毎日お礼品ランキング更新中!
2019年のふるさと納税は≪12/31まで≫

その他のキャンペーン


プライバシー -  利用規約 -  メディアステートメント -  ガイドライン -  順守事項 -  ご意見・ご要望 -  ヘルプ・お問い合わせ

Copyright (C) 2019 Yahoo Japan Corporation. All Rights Reserved.

みんなの更新記事