なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

マタイによる福音書による説教

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   「おぼれそうです」マタイ8:23−27、2019年7月7日(日)船越教会礼拝説教
            

・今日のマタイによる福音書の記事は、嵐を静めるイエスの自然奇跡の物語です。自然とか、社会は、私

たちにとって命と生活を紡ぐ場所であって、その場所が私たちにとって生き易い場所であるか、生き難い

場所であるかは、大変大きなことです。


・最近大きな地震や豪雨がいろいろな所で起きていますが、地震や豪雨によって生活基盤が失われてし

まった人々には、文字通り死活問題です。自然と共に社会もまた、私たちの命と生活にとって重要です。

戦争状態の社会の中では安心して生活することはできません。


・今日のマタイによる福音書の物語は、イエスと弟子たちが舟に乗ってガリラヤ湖に出て行ったとき、

「湖に激しい嵐が起こり、舟が波にのまれそうになった」というのです。


・こういう経験をしたことのある方も多いと思います。私も若いときに二人の子供を連れて、横須賀の久

里浜から金谷までフェリーに乗ったことがあります。最初に赴任した教会の夏期集会が千葉の内房であ

り、それに参加するためでした。ところがその時台風が近づいていて、フェリーが出るかどうか危ぶまれ

ましたが、出航するというので乗り込みました。途中から海が荒れだして、舟がドスーン、ドスーンと激

しく揺れました。二人の子供は船に酔ってしまいました。周りの人も酔って気持ち悪がっている人が大分

いました。私は必死で二人の子供を両手で抱えて、励ましながら、何とか金谷に着いて、ほっとしたこと

があります。


・その経験から、「湖に激しい嵐が起こり、舟が波にのまれそうになった」というマタイの記事を読みま

すと、それは大変な状況だったことが想像できます。


・新共同訳の「湖に激しい嵐が起こり」と訳されているところは、直訳しますと、「海で大きな振動(=

地震)が起こり」(岩波訳注)となります。「嵐」と新共同訳で訳されている言葉は、セイスモスという

語の訳で、セイスモスは元来「地震」を意味します。


・しかし、マタイのこの嵐を静める箇所では、地震では意味をなさないので、新共同訳のように「湖で激

しい嵐が起こり」と訳したり、「海が大荒れとなり」(岩波訳)、「海上に激しい暴風が起こって」(口

語訳)、「湖は大しけとなり」(本田訳)などと訳されています。


・この地震を意味するセイスモスという言葉は、新約聖書の中に14回出てきますが、その内このマタイの

箇所を除いて13回すべてが「地震」の意に用いられています。


・マタイによる福音書ではこの地震という言葉は、終末時に全地に臨む天地異変の一環としての地震(24

:7)、イエスの死に伴った異変としての地震(27:54)、イエスの復活に伴った異変としての地震(28:2)

に用いられています。これらの用法は単なる自然現象としての地震ではありません。


・このセイスモスという言葉の使い方から、盒胸囲困気鵑蓮△海Ω世辰討い泙后「マタイはここに(今

日の聖書の箇所で)、神に敵する霊的勢力の攻撃」を、描こうとしたのではないかと思われる。イエスは

対岸に上陸した後も、悪霊にとりつかれた人に出会い(28節)、悪霊との対決を敢行することになるのだ

が、その前哨戦は、すでに始まっているのである。こう見ることができるとすれば、弟子たちはただ沈没

の危険に戦(おのの)いただけではなく、むしろそれ以上に、霊的攻撃の矢面に立たされ、死の脅かしを

直感し、大きな恐怖に襲われたのであろう」と。


・舟の中で眠っていたイエスを起こして、弟子たちは「主よ、お助けください。おぼれそうです」と言っ

たと、新共同訳では訳されています。


・この「おぼれそうです」という言葉も原語では「滅びる」という言葉が使われています。岩波訳ではこ

のことろは、「主よ。お救いを。私たちは滅んでしまいます」と訳されています。「マタイのこの言葉は

原始教団の、キリストに対する祈り、信仰告白だ」(ローマイヤー)という人もあります。


・並行記事のマルコによる福音書では、このところは、「先生、わたしたちがおぼれてもかまわないので

すか」となっています(4:38)。マルコは「先生」ですが、マタイは「主」です。マルコの「おかまいにな

らないのですか」に対し、マタイは「お助け下さい」(岩波訳「お救いを」)です。


・マルコはこの時だけのことになっていますが、マタイはそうではなく、ここに教団の、われわれの祈り

があるというのです。マタイは、滅びようとする者がこの祈りをし、それを主が聞きいれて助けて下さる

ということを、ここで書いているというのです。


・嵐によって荒れた海を舟によって渡っていくその舟は、マタイによる福音書の記者にとっては教会を意

味したと思われます。そして舟は、古代教会から今日まで「教会という小舟」と解釈されてきました。


・その小舟にはイエスが寝ているのです。海が激しく荒れて弟子たちは、あわてふためいてしまったわけ

です。でもその舟で寝ているイエスに気づき助けを求めます。イエスは言います。「『なぜ怖がるのか。

信仰の薄い者たちよ』と言って、起き上がって風と湖とをお叱りになると、すっかり凪になった」と。


・弟子たちは彼らの主であるイエスの力と臨在を忘れ去って、嵐で揺れ動く船の中でもはやどうすること

もできないと、不安に駆られてしまったのです。


・マタイはその福音書の最後に、「・・・・わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」と記し

ました。主であり、神の子であるイエスが、いつも私たちと共にいることを忘れてしまったとき、教会は

教会でなくなってしまうというのです。


・しかし、その主の臨在を信じるとき、そこに人間の生命の足場があります。イエスがやすろうておわれ

る、そこには風や海が静まる、社会的な環境、自然的な環境も整えられてきます(瀧澤克己)。


・「どんな自然現象であると、社会現象であるとを問わず、どんな危機が襲ってきても決して静けさ・や

すらぎを破られない、揺るがされない、そういう所にイエスは生きていたということです」。


・ところが、イエスを信じるといっても、弟子たちの方は、ちょっと何かが起こるとすぐ、あわてふため

いてしまいます。


・今の世の中というのは、世界中、怖いことばかりです。それでどうしていいか分からない。こういう時

には、この物語のように、主イエスの力と臨在を見失いがちです。。ところが、そういう怖いことがどん

なにあっても、それでゆがむとか、崩れるとかいうことが、けっしてない。人間の生命の足場というもの

は、実際にあるのです。そこにイエスがおられ、やすろうている限り。そこでは風や海が静まる、社会的

な環境、自然的な環境も整えられるのです。


・人を成り立たせ、人を保ち、人を養うということは、やはり自然の環境を整えるということも入ってく

るわけです。それで、神の助けがイエスを通して現れているということです。


・狭い意味での精神的な覚醒という、健康ということだけでなしに、狭い意味での身体の病気を癒すとい

うこと、身体の調子を整えるということだけでなしに、自然の環境を整えるということ、人を成り立た

せ・それを養うという神の助け・神の力という時には、そこまで入っているわけです。


・瀧澤克己さんはこのように言っています。


・「信」という時には、狭い意味で精神的ということではなくて、生命の根元にある、創造の主の光・力

をまともに全身で受けとるということです。そのことの中には、教えをよく聞きわけるということと同時

に、身体を整える、自然の環境を整えるということも入ってなくてはならないわけです。


・そうすると、嵐を停めるとか、海を静にするとかいうようなことも、神の力を受けて人間が働くという

ことが、そのことの中には含まれているわけです。実際、人間はそういうことをずっとやってきているわ

けです。


・神の助けを成り立たしめるその力を現すということの中には、やはり自然の環境を整える人間の働きと

いうものも要求されてきています。


・イエスがなさった通りのことができなくても、やはり本当にイエスがそこで生きておられる、人間の成

り立ちの起点というものを踏まえてイエスに従っているということになると、そうすると、自然現象も含

めてどんなことがきても、絶望するということはない。そういうことなしに、しっかり立って、人間にで

きるだけのことをするということは少なくとも出来るはずです。


・自然の環境を整えるということは、人に課せられた務めであるし、喜ばしい働きであるということを、

本当の「信」であれば、ここのイエスの働きから学ばなくてはならないのです。

(以上滝沢克己による。)


・このイエスの自然奇跡の物語から、少し飛躍するかもしれませんが、原発の廃止や基地廃絶も自然の環

境を整えるということに属するのではないかと思われます。


・ガリラヤ湖で嵐が吹き荒れ、イエスや弟子たちが乗っていた船が波に呑み込まれそうになったその状況

は、本来人間を含むすべての生きものが、生きる場所=環境として与えられた自然の一角に、人間が原発

や基地を設置することによって自然環境を破壊している状況をも意味するのではないでしょうか。


・イエスが安らうことによって、神に敵する悪霊の支配を破り、自然や社会の環境が整えられ、人間を含

めすべての生きる者がそこで安心して平和に生きることができる、それが今日の自然奇跡が語るメッセー

ジであるとすれば、自然破壊につながる原発や基地を撤去し、ありのままの自然環境を取り戻すことも、

イエスの働きから私たち人間に課せられた務めではないでしょうか。


・横須賀は軍転法(旧軍港都市転換法)によって、京都の舞鶴、広島の呉、長崎の佐世保と共に、「旧軍

港市を平和産業都港湾都市に転換することにより、平和日本実現の理想達成に寄与する」ことを求められ

ました。軍転法が公布・施行されたのが1950年(昭和25年)です。


・軍転法では、旧軍用財産を無償または減額して譲渡するなどの特別な措置が定められていて、一部旧軍

用財産が、学校、公園、道路、港湾をはじめとする公共施設や市の産業経済を支える民間施設用地へと転

換、活用されましたが、軍転法の目的が果たされているとは思われません。むしろ横須賀は米海軍基地が

居座り、海上自衛隊の基地も強化されています。平和産業港湾都市どころではありません。


・イエスの自然奇跡からすれば、基地の無い横須賀を取り戻すことが、横須賀の自然環境を整えることに

なります。そのことも、この箇所からのメッセージとして受け止めておきたいと思います。


・祈ります。

  「枕する所もない」マタイ8:18−22、2019年6月30日〈日〉 船越教会礼拝説教


・この数回私たちは、マタイによる福音書の8章1節から17節までで、いずれも病気の人をイエスが癒す奇

跡物語から、何が私たちに語り掛けられているのかを聞いてきました。そのような奇跡物語は、マタイに

よる福音書では9章の終わりまでずっと続いています。しかし、その中に奇跡物語におけるイエスの奇跡

行為ではなく、イエスの言葉が中心になっている物語が出てきます。今日のところ(8:18-22)もその一

つです。18節に≪イエスは、自分を取り囲んでいる群衆を見て、弟子たちに向こう岸に行くように命じら

れた≫とあります。


・イエスの弟子とは、イエスに従う者のことです。群衆はどちらかといいますと、自分が苦しんでいる病

や悪霊からの癒し・解放を求めて、イエスの所に来る者のことです。ここでは「群衆」と「弟子」が分け

られています。


・私たちとイエスとの関わりは、群衆の一人としての関わりと弟子の一人としての関わりが、どちらも自

分自身の中にあるように思えます。


・昨日の教区総会で准允を受けた5人の中の一人の方が、その所信表明でこのように語っていました。

「自分はセクチャリティーの問題で悩んでいた時に、導かれて洗礼を受けた。その後医者から癌ステージ

4、余命6っか月と宣告されたが、奇跡的に助かり、この生かされた自分の命をイエスの福音を語る伝道

者として生きたいと思い、神学校を卒業して教団の教師検定試験にも合格し、教団の教師として、今自分

が招かれた教会の伝道師として働くために准允を志願している」とおっしゃっていました。この方の所信

表明の中にも、群衆の一人としてイエスと出会い洗礼を受け、イエスに従う弟子として生きてい行こうと

していることが示されていると思います。


・キリスト者の中には多かれ少なかれ、そのような群衆の一人としてイエスに出会い、救いや解放を経験

して、イエスに従う者になったということがあるのではないではないでしょうか。しかもそれは一度だけ

でなく、ひとりの人生の中で群衆の一人としてイエスに出会うことと、弟子の一人としてイエスに出会う

こととが、繰り返し起こっているのではないでしょうか。


・そういう意味では、今日のマタイによる福音書の箇所は、弟子としてのイエスとの私たちの関わりが

テーマになっている物語ではないかと思います。新共同訳聖書では「弟子の覚悟」という表題がついてい

ます。


・「覚悟」という日本語の意味合いは、私たちの心構えを表しているように思われます。たとえば、中学

生や高校生が、学校の音楽の授業の時に順番にみんなの前で歌を歌たわなければならないようなときに、

自分の番がきたので、足が震えたが覚悟を決めて歌ったというようにです。しかし、覚悟という言葉の意

味を国語辞典で調べてみますと、広辞苑では、第一番目の意味に、仏教用語なのでしょうか、括弧で仏と

あって、〈迷いを去り、道理をさとること〉となっています。


・道理とは、物事の正しい筋道、人として行うべき正しい道ということですから、覚悟をそのような意味

で受けとりますと、「弟子の覚悟」とは、弟子が自分の歩むべき本来の道、本当の道を見出すことという

風に理解できます。


・新共同訳の翻訳者が「弟子の覚悟」という表題に、どのような意味を込めているのかは、よくは分かり

ません。しかし、このマタイによる福音書の8章18-22節に記されています、「ある律法学者」と「弟子の

一人」とのイエス問答に出てきますイエスの言葉、〈狐には穴があり、空の鳥には巣がある。だが、人の

子には枕する所もない〉と〈わたしに従いなさい。死んでいる者たちに、自分たちの死者を葬らせなさい

(死人を葬ることは、死人に任せておくがよい)〉は、二つとも、弟子の心構えを促すというよりも、弟

子たるものがどこに根拠を置いて生きるかという道理をさとす面が強いように思われます。


・〈狐には穴があり、空の鳥には巣がある。だが、人の子には枕する所もない〉というイエスの言葉は、

<先生、あなたがおいでになる所なら、どこへでも従って参ります>というある律法学者の問いに対する

イエスの答です。


・<人の子には枕する所がない>とは、「わたしには枕する所がない」ということです。ですから、ここ

での「人の子」はイエスが自分を指して「人の子」と言っていますので、イエスの自称と見ることができ

ます。福音書の中で同じ自称として「人の子」がイエスの受難との関連で使われているところがありま

す。<人の子は人々の手に引き渡されようとしている。そして殺されるが、三日目に復活する>(マタイ

17:22-23)。です。


・また、人の子についは、イエスの自称ではありませんが、イエスが語ったとされる言葉として旧約聖書

のダニエル書7章の〈人の子のようなものが雲に乗ってやってくる〉があります。これは「人の子」が終

わりの時の審き主として来られるという意味です。


・このようにイエスの受難や終わりの時の審き主との関連で使われている「人の子」を踏まえて、「人の

子には枕する所がない」というイエスの言葉を受け止めなければならないと思われます。そうしますと、

一つは、イエスの受難との関連で、人の子には枕する所がない、と言う言葉が語られているということで

す。もう一つは、終わりの審き主との関連で考えれば、イエスは、枕する所なき自分のほんとうの仕事・

意味は終わりの日にさばきをすることにある、と言われとも考えられます。


・ですから、「9章を見ますと、イエスには御自分の町があり、また御自分の家もあったようでから、

『枕する所がない』ということも、家がなくて野宿する、という意味ではないでしょう。イエスの本質、

ありかた、使命が、この地上には自分の枕を高くし寝る所をもたない、自分の心を休める所、本拠が地上

にない。イエスは天から来た人の子であり、終末の日に再び天から来る人の子なのだ」(滝沢克己)と言

われているのではないでしょうか。


・イエスは、世の終わりの審き主として地上に遣わされ、彼の運命は人々から唾をはきかけられ、遂には

十字架にかけられて殺されるのです。それが「人の子には枕する所がない」という意味なのです。


・ですから、「イエスの弟子になるとは、彼にあってすばらしことを見出すことになる、というのではな

く、地上からたたき出される、人間の関係からつまはじきされる道におのれを見出すことになる、とい

う」ことなのです。


・それが、〈狐には穴があり、空の鳥には巣がある。だが、人の子には枕する所もない〉と、イエスが<

「先生、あなたがおいでになる所なら、どこへでも従って参ります」と言ったある律法学者に対するイエ

スの答なのです。この律法学者がそこまでの覚悟をもっていたかどうかは分かりません。しかし、イエス

の弟子となるについて、そのことを考えておくことは、中心的な問題なのだと、このマタイ福音書の箇所

は語っているのです。


・しかしこのようにイエスに従うことを、ただ苦しい道を歩くということだけにとるとすれば、それは福

音を誤解していることになります。イエスに従う者は、この地上では旅人、寄留者と言われます。この世

に深くコミットしますが、この世に呑み込まれてしまうのではなく、この世にあって、「みこころの天に

なるごとく、地にもなさせたまえ」と祈る者として異質な者として生きているのです。そのことは、この

世にあっては確かに苦しい道ではあるかも知れません。しかし、イエスに従って生きるその道には私たち

を生かす真の喜びと命であるというのです。


・22節の≪「わたしに従いなさい。死んでいる者たちに、自分たちの死者を葬らせなさい」(死人を葬る

ことは、死人に任せておくがよい)≫というイエスの言葉の背後には、≪わたしは道であり、真理であ

り、命である≫(ヨハネ14:6)というイエスの存在があるのです。「復活を生きる者の現実の力が、この

言葉にはこもっているのです。・・・キリスト教的な生は死んで生きている、ということである。・・・信

仰は、この地上ではキリストと共に死んでしまった、ということであり、同時に復活の生を生きているこ

とである。・・・直接的には地上の生にとらわれない。そうでなければ、有頂天になっているか、絶望する

かどちらかである。信仰者であっても信仰に絶望しているとすれば直接的に生きているのである」。


・滝沢克己さんは、このイエスの言葉を、「この世のことをユーモアを以って受けることのできる自由な

人間かどうかが問題なのである。神の支配の中に生き、そのように生きるのが真の人間であるということ

を伝えよ、それが君のつとめだというのである。


・べつに親不幸をせよとすすめているのではない。親をすてねばならぬ時もあるが、外側の形がどうとい

うことではない。問題はほんとうに死んでいるかである。それは自分の罪をしらされ、罪、罪と言ってい

ることではない。その罪を十字架の主の故に忘れているということである。われわれは、各自家族関係を

もちこの世に生きてゆくことが、どんなに重要なことかを知っている。だから上にのべたことは大切なの

である。われわれに一番近い所でこの世のものと接触している。その場所で福音に生きよというのが、イ

エスの弟子への重要なすすめである」。


・この地上を「枕する所もない」者として歩まれたイエスは、私たちにとっても「道であり、真理であ

り、命でる」方なのです。その方が「わたしに従って来なさい」と、今も繰り返し私たちを招いている招

きに応えて、命ある限り地上と天(神の国)の境界を天(神の国)に属する者として歩み続けたいと願い

ます。


・主がその私たちの歩みを支えて下さいますように!

       「弱さを負い、病を担う方」マタイ8:14-17 2019年6月23日


・イエスの苦難と死の出来事であります、十字架を担われたイエスは、旧約聖書のイザヤ書53章に描かれ

ています苦難の僕の預言を成就した者として、初代教会では信じられていました。


・このイザヤ書53章の苦難の僕の預言の一節が、先ほど司会者に読んでいただきました今日私たちに与え

られています聖書の箇所であります、マタイによる福音書の8章17節に出てくるのであります。


・このマタイによる福音書の8章14節から17節のところは、マタイによる福音書では、8章1節から4節に記

されていましたハンセン病の人の癒しと、5節から13節に記されていました百人隊長の僕の癒しに続く、

三つ目のイエスによるペトロのしゅとめの癒しが14節、15節に記されています。そして16節、17節には、

イエスの癒しに関する一つの総括的な記事が記されています。その中にイザヤ書53章4節の自由な引用が

出てくるのであります。


・このマタイによる福音書の箇所は、マルコの資料に従っていますが、イザヤ書53書からの引用だけは、

マタイにしかありません。それはマタイの特殊資料からのものです。ルカによる福音書の並行記事にもあ

りません。ですから、病者の癒しと悪霊追放というイエスの業を、マタイによる福音書の著者は、イザヤ

書53章の苦難の僕の預言の成就として理解していることを示しています。


・このことが何を物語っているのかについては、最後にお話ししたいと思いますが、その前にペトロの

しゅうとめの癒しのマタイによる描き方に注目したいと思います。このところは、マルコとルカの並行記

事と比べてみますと、マタイの描き方の特徴がはっきりします。


・マルコもルカも、イエスがペトロのしゅうとめを癒すまえに、マルコでは、イエスが会堂を出て、弟子

たちをつれてシモンとアンデレの家に行かれたときに、「シモンの姑が熱を出して寝ていたので、彼らは

すぐに彼(イエス)にそれを告げた」とあります。ルカでも、「シモンの姑が熱で苦しんでいたので、人々

はそのことで彼(イエス)にお願いした」と記されています。


・マタイの記事は、イエスがペトロのしゅとめを癒したという事実のみを簡潔にしるしているだけであり

ます。もういちど14節、15節を読んでみます。


・「イエスはペトロの家に行き、そのしゅうとめが熱を出して寝込んでいるのをご覧になった。イエスが

その手に触れられると、熱が去り、しゅうとめは起き上がってイエスをもてなした」。


・簡潔ではありますが、マタイがこの記事を通して語ろうとしている含蓄は深いのです。

➀ 当時のユダヤ社会の中では女性はひとり前には扱われませんでした。そのことはイエスの5千人や4

千人の供食の物語で、食事を共にした数が「男5千人」「女4千人」と記されていて、女の人と子どもは

数に入っていなかったことからも明らかです。その女性であるシモンのしゅうとめが、イエスの癒し(救

い)の対象になっていることです。

◆.ぅ┘垢録佑らの願いを待つまでもなく、ご自分から自発的に、ペトロのしゅうとめの熱病を癒され

たということです。

 またその手段として8章1-4節のハンセン病者のいやしの場合と同じように、手を伸ばして病人に触れ

られたということです。
                         (以上は高橋三郎による)


・ヘンリ・ナウエンの『今日のパン、明日の糧』の3月25日の文章は「癒しの触れ合い」という題のついた

ものです。短い文章ですので、読んで見たいと思います。

「癒しの触れ合い」      3月25日

≪触れること、そう、人に触れることは言葉にならない愛の言葉を語りかけます。赤ん坊の頃は沢山触れ

てもらいますが、大人になるとほとんど触れられることはありません。でも友だちとの関係においては、

触れることは、しばしば言葉よりも多くのいのちを与えてくれます。背中をさすってくれる友人の手、私

たちの肩にかかった友人の腕、涙をぬぐい去ってくれる友人の指先、額にそっと口づけしてくれる友人の

唇、これらのものが本当のなぐさめをもたらしてくれます。こうした触れ合う瞬間は本当に尊いもので

す。触れ合う瞬間は、回復をもたらし、人を和解させ、安心させます。触れ合う瞬間は人を許し、癒しま

す。

 イエスに触れた人はみな、そしてイエスに触れられた人はみな癒されました。神の愛と力とがイエスか

ら出て行ったのです(ルカ6:19)。友人が、無償の何も拘束しようとしない愛をもって私たちに触れる

時、私たちに触れるのは、人となられた神の愛であり、私たちを癒すのは神の力です≫。


・マタイは、イエスがペトロのしゅうとめの手に触れて癒したと記していますが、16節の総括的な記事で

は、「イエスは言葉で悪霊を追い出し、病人を皆いやされた」とあり、言葉の強調が目立ちます。このと

ころはルカでは、「一人一人に両手を置いて」癒されたと記されています。病者の癒しは、病者からの悪

霊追放であるという点はマタイ、マルコ、ルカとも共通しています。


・さて、マタイによる福音書のみにある8章17節ですが、ここももう一度お読みします。「それは預言者

イザヤを通して言われたことが実現するためであった。『彼はわたしたちの患いを負い、私たちの病を

担った』」


・私は牧師として病者を見舞う時には、最後に祈りますが、その祈りの前にっこのマタイ8章17節の『彼

はわたしたちの患いを負い、私たちの病を担った』を読んでから祈ることにしています。


・ここの「患い」と訳された言葉は、弱さを意味する名詞であって、人間の根源的無力を語る言葉だとい

われます。この無力さが病と病による死として人間を苦しめ、脅かしているであります。


・高橋三郎さんは、「イエスはこれをわが身に引き受け、取り除くことによって、その救いを実現してく

ださる。つまりこれは、単なる疾病治癒の物語に終わるのではなく、人間存在全体が、救いの対象となっ

ているのである。そしてイザヤ書では、『苦難の僕』は世の罪を負って、贖いの死をとげたのだが、イエ

スによる癒しは、この預言の成就とマタイは解したのであった。しかも『悪霊との戦い』として、この癒

しが叙述されていることも、重大な眼目であったにちがいない」と語っています。


・私は若い時に、筋萎縮症で身動き一つ自分ではできない、寝たきりの状態になりました病んだ母との関

係におきまして、逃げまくっている自分を経験したことがあります。


・母が筋萎縮症を発症して、手足を初めとして、体の先端の筋肉から委縮しはめたのが、私が中学3年生

の時でした。まだその頃は父が薬の仕事をしていましたので、母の病気に効くと言われる薬を飲んだり、

よい病院があると言って入院したりしていましたが、薬も病院での治療も効果がなく、私が高校生になっ

た頃には、体全身が動かなくなり、寝たきりの状態で家にいるようになりました。その頃父親の勤めてい

た薬の仲卸の会社が倒産し、我が家は経済的にも厳しい状態に陥り、母のためにお手伝いさんを頼むこと

もままならず、父は会社の清算と自分の仕事を見い出すためにほとんど家にいませんでしたので、兄と妹

と私の3人と、私の家の近所に住んでいた父の会社に勤めていた人のお連れ合いが時々母の世話に来てく

れたりして、母の世話を何とかしていました。


・その頃の私は高校に通っていましたので、何かと理由をつけて、私は母の世話から逃げていました。そ

ういう経験をしていますので、『彼はわたしたちの患いを負い、私たちの病を担った』という苦難の僕の

預言の一節で描かれている、イエスが、患いと病に苦しむ人と真正面から向かい合い、逃げずに、自分か

ら他者である病む人の患いを負い、病を担うという積極的な姿勢に驚きを覚えずにはいられません。「患

いを負い、病を担う」ということは、イエスがその病む人と一体化されたと言ってもよいのではないで

しょうか。一体化して、その病む人に代わって悪霊の支配としての病をその人から追放しているというの

です。


・病む人にとってそういう他者であるイエスが、自分と一体となって、「患いを負い、病を担って」下

さっているということは、どれほど大きな慰めと力になるか、計り知れないものがあるのではないでしょ

うか。


・先程朗読させていただいたヘイリー・ナウエンの「癒しの触れ合い」の中に、「イエスに触れた人はみ

な、そしてイエスに触れられた人はみな癒されました。神の愛と力とがイエスから出て行ったのです(ル

カ6:19)」と記されていました。ルカ6章19節には、「群衆は皆、何とかしてイエスに触れようとした。

イエスから力が出て、すべての人の病気をいやしていたからである」と記されています。

・その後にナウエンはこのように記しているのです。「友人が、無償の何も拘束しようとしない愛をもっ

て私たちに触れる時、私たちに触れるのは、人となられた神の愛であり、私たちを癒すのは神の力です」

と。


・「友人」は私たちと同じ人間です。私たちは友人である他者によって、また私たちが

他者である友人に対して、「無償の何も拘束しようとしない愛をもって触れる時、それが人となられた神

の愛であり、私たちを癒す神の力となる」。つまり他者を拘束しない無償の愛を持って触れ合うほどに、

お互いを大切に思い合う人と人との関係の中に、人となられたイエスの神の愛が働き、患いや病を癒す神

の力が働くと、ナウエンは言っているのです。


・本来医療の進歩や薬の発明は、他者を拘束しない無償の愛を持って触れ合うほどに、お互いを大切に思

い合う人と人との関係の中で、愛する人を何とかその病から解放したいという思いから生まれたものでは

ないでしょうか。それに資本が目をつけ、儲けの為に利用しているのが、現在の病院や製薬会社の現実で

はないでしょうか。その逆転した現実をしっかりと見据え、医療や薬の効果を無視する必要はありません

が、何よりも私たちの患いや病が「触れ合い」において癒されるということを見失わないようにしたいと

思います。


・『彼はわたしたちの患いを負い、私たちの病を担った』


・祈ります。

     「信の力」 マタイ福音書8:5-13、2019年6月16日船越教会礼拝説教


●今日のマタイ福音書の物語は、イエスが拠点としてガリラヤで宣教活動されたと思われるカファルナウ

ムという町での出来事であります。

・このカファルナウムはガリラヤ湖北西岸の町で、漁港でもありました。

・共感福音書の伝承では、ペトロとアンドレアスの故郷(マコ1:29)でもあります。

・また、カファルナウムはローマ式に組織された(ガリラヤの領主)ヘロデ・アンティパスの軍隊にとっ

ての、重要な駐屯地の一つ(マタイ8:5-13並行)でもありました。

                           (以上岩波聖書解説より)

●今日の物語に登場する「百人隊長」は非ユダヤ人である『異邦人』であったと思われます。

・マタイ福音書の物語では、この百人隊長が、自分の病気の僕のことで、直接イエスに癒しを懇願してい

るのであります。

●しかし並行記事のルカ福音書の物語では、百人隊長は直接イエスに懇願してはいません。ユダヤ人の長

老を介してイエスに取り次いでもらったことになっています。

・ルカの物語では、その長老たちがイエスにこう語ったと記されています。「あの方は(百人隊長)、そう

していただくのにふさわしい方です。わたしたちユダヤ人を愛して、自ら会堂を建ててくれました」(ル

カ7:4)と。

・ルカがこのようにユダヤ人の長老たちを介して百人隊長の懇願をイエスに伝えたのは、イエスの救いが

ユダヤ人から非ユダヤ人(異邦人)へともたらされるというルカ特有の考え方からであろうと言われていま

す。

●マタイ福音書にはこのようなユダヤ人の長老たちの執り成しはなく、百人隊長の直接の懇願に応えて、

「イエスは『わたしが行って、いやしてあげよう』」言われたというのであります(8:7)。

●同じマタイによる福音書の中には、非ユダヤ人であるカナンの女が、悪霊に憑かれて苦しんでいる娘か

ら悪霊を追い出してくれるようにイエスに頼んだ物語があります(マタイ15:21-28)。

・その中で、イエスはカナンの女の懇願に最初は「わたしはイスラエルの家の失われた羊のところにしか

遣わされていない」と、冷たく答えたと記されています(15:24)。

・けれども、このカナンの女の執拗な懇願にイエスはその女の娘の病気を癒されました。

・このカナンの女の場合と今日のマタイ福音書の物語の百人隊長の場合における、イエスの態度が違うの

はどうしてなのでしょうか。それは分かりません。とにかく、今日の百人隊長の懇願に対してイエスは自

分から積極的に行動を起こそうとされたのです。

●「しかし、それに対する百人隊長の応答は、驚くべきものであります。

・イエスが百人隊長の懇願に対して、『わたしが行って、いやしてあげよう』と言われたのですから、百

人隊長は、すぐに「どうぞよろしくお願いします」と言って、イエスを自分の家に迎え入れてもおかしく

ありません。百人隊長は、病んでいる百人隊長の僕が癒されることを切実に願っていたのですから。で

も、百人隊長はそうしませんでした。

・『わたしが行って、いやしてあげよう』と言うイエスに、百人隊長はこう言ったのです。<すると、百

人隊長は答えた。「主よ、わたしはあなたを自分の屋根の下にお迎えできるような者ではありません。た

だ、ひと言おっしゃってください。そうすれば、わたしの僕はいやされます。わたしも権威の下にある者

ですが、わたしの下には兵隊がおり、一人に『行け』と言えば行きますし、他の一人に『来い』と言えば

来ます。また、部下に『これをしろ』と言えば、そのとおりにします。」>(マタイ8:8,9)。

●この自分の屋根の下にイエスをお迎えする資格がないという百人隊長の告白には、三つの意味合いが込

められているように思われます。

・一つは、イエスへの配慮です。ユダヤ人であるイエスが、非ユダヤ人である『異邦人』の百人隊長の家

に入ったとなると、その汚れを身に受けるという律法の規定に基づいて、それは禁じられていることなの

で、イエスに律法違犯を強いることになると。

・二つ目は、自分の限界についての謙虚な自覚も、その言葉によって百人隊長は言い表しているのではな

いでしょうか。

・三つ目は、それに加えて、イエスの言葉に対する絶大なる信頼を表白している点です。

・そういう意味で、この百人隊長の告白は驚くべきものです。(以上高橋三郎より)。

●「たたひと言おっしゃってください。そうすれば、わたしの僕は癒されます」(マタイ8:8)。

・新共同訳の「ただひと言おっしゃってください」は直訳しますと、「ただ言葉をもってお語りくださ

い」(高橋)、「ただ言葉で仰言って下さい」(佐藤研・岩波訳)になります。

・そのことによって、このマタイ福音書の物語は奇跡物語でありますが、マタイがいかに言葉の威力に思

いを寄せていたかが分かるところであります。

・イエスの言葉が癒しを起こすのです。

●このような百人隊長のイエスの言葉への信頼は、彼の軍人としての経験に裏付けられていたと言われま

す。

・「わたしも権威の下にある者ですが、わたしの下には兵隊がおり、一人に『行け』と言えば行きます

し、他の一人に『来い』と言えば来ます。また、部下に『これをしろ』と言えば、そのとおりします」

(8:9)。

・つまり、「百人隊長は軍隊において、上官の命令は必ず実行されるという経験的事実に基づいて、イエ

スの命令もまた必ず実行される、と信じたのであります」(高橋)。


●滝沢克己さんは、この部分についてこう言っています。

・「こういうところを読みますと、これだから、キリスト教はやはり、イエスも駄目、と。/第一、軍隊

の命令・条件に従うということを、こんなに大変なことのように言っている、えらいことのように言って

いるというのは、これはやはり駄目だ、という風に現代の民主主義者・自由主義者は考えるでしょう。/

ところが、よく読んでみますと、この百人隊長は、自分にそういうことができるということに驚いている

わけです。/だから、普通の部隊長とか、分隊長とかいうような人は、自分の命令に部下がすぐ従うとい

うことが、これは大変なことだと、不思議なことだという風に驚くことはないのです。ところが、この百

人隊長の言い方は、日常おこっていることだけれども、それに、どこかこう、驚いている感じがありま

す。/こういうことが、人間の間で起こるのですから、こういうことが人間の世界に現に起こっているの

だから、あなたがわたしの僕を直すなどということは、言葉一つでできます、ということです」。

・神と人との距離は、「そこに何者も入ることができないほどに、近い。ところが、世界の果てまで行っ

ても、(人間は)神様にはなれない。(神から)無限に遠いのです」。

・イエスは神から無限に遠い人間として、何者もはいることができないほど、神と近い人間としてこの世

を生きられたのではないでしょうか。

・イエスに会って「百人隊長がそういうことが言えたということは、百人隊長自身に、人間の存在、生き

るのは資格によらないと、驚くべきことは日常起こっているというのです。ましてあなたには、それがお

できになるということを、百人隊長が感じとったということは、その場合の百人隊長の生命の一番元のこ

と、根元のことに関する感覚、従ってその根元から現れた光と力に対する感受性が、いかに純粋で鋭かっ

たかということの徴です」

●イエスが「イスラエルの中にさえ、わたしはこれほどの信仰を見たことがない」と言われたのは、この

ような百人隊長の中に「これほどの信仰」をイエスは見たからです。

・そしてイエスは、「帰りなさい。あなたが信じたとおりになるように」(佐藤研・岩波訳「行きなさ

い。[あなたが]信じたようにあなたに成るように」滝沢「汝の信ずるごとく、汝になれ」)(8:13)と言

われました。

・イエスは自分のところに人を集めませんでした。「汝の信ずる如く、汝になれ」といって、百人隊長を

普段彼自身の生活している場所に帰します。

・「あなたが信じたとおりのあなたになって帰りなさい」と。

●イエスの箱舟の千石イエスの言葉に「客観が動く」という言葉があるそうです。その言葉を「客観が動

けば、信仰(主観)はそのまま変わらなくでも、信仰(主観)の行為は変わりうる」と解釈している人が

います。

・百人隊長を含めて私たち人間は、日常生活をどのように送っているのでしょうか。主観と客観からすれ

ば、主観は私たち一人ひとりの才覚といったらいいのでしょうか。自分の知識と知恵です。客観は人間が

造り出した現実の社会でしょう。

・今連れ合いが癌に侵されていますので、その治療を東海大学病院で行っています。それは人間の知識と

知恵の領域です。体の正常な細胞を侵す癌細胞を、何とか体からなくそうとしているわけです。病んだ体

をもって生きている彼女がいます。現代の進歩した医療現場があります。その主観と客観の関係の中で、

彼女は治療の道を選んでいるわけです。

・体が病気になると、その人も病気に負けて、病気になることがあります。それは病気の人が絶望へ追い

やられてしまうからだと思います。しかし、神にはなれない私たちですが、神を信じていきることは出来

ます。神を信じるとき、私たちの存在は神の働きに包まれていることを感じることができます。

・私は、連れ合いが体は癌に侵されながら、めげずに一日一生を大切に生きている姿を近くで見ていて、

連れ合いの中に見えない神の御業が及んでいることを実感しています。

・主観と客観ということからすると、客観は人間が造り出した現実社会とも言えますが、同時にその客観

の根底には神の働きがあると、聖書は言うのです。その神の死を命に変える働きは何ものにも邪魔されず

に私たちの日常にも及んでいると言うのです。

・何者も邪魔することのできない近き神の御業に動かされて、神にはなれないという人間である限り、神

から遠い日常を生きている私たちですが、「汝の信ずる如く、汝になれ」というイエスの言葉に自分をか

けていきたいと思います。そのような私たちの神への信仰、信によって、百人隊長のように他者である病

める僕の癒しが起こるとすれば、そんな日常を私たちが生きることができる幸いを思わずにはおれませ

ん。


 祈ります。

   「思い込みが人を殺す」 マタイ8:1-4 2019年6月2日(日)船越教会礼拝説教


・マタイによる福音書8章、9章には、5章から7章までがイエスの教えとしての山上の説教が記されてい

たのに対して、イエスの奇跡と言われていますイエスの癒しの業が記されています。


・今日はその8章の最初の部分、1節から4節の「らい病人の癒し」の記事から、語りかけを聞きたいと思

います。


・今私は「らい病人の癒し」と言いましたが、新共同訳聖書の中には「らい病」ではなく「重い皮膚病」

と訳し変えているものもあると思います。


・これは1996年4月に日本において長年ハンセン病者を苦しめてきた「らい予防法」(1931年成立)の廃

止にともなって、既に新共同訳聖書が完成していてギリシャ語の新約聖書の「レプラ」を「らい病」と訳

していたのを、「重い皮膚病」と表記変更を求める動きが強くなって、そのように変えられたのです。


・ですから、新共同訳聖書でも、1993年版では「らい病」となっていますが、1998年版では「重い皮膚

病」と表記されています。


・しかし、私はマタイによる福音書8章1−4節のイエスの癒しは、「重い皮膚病を患っている人の癒し」

というよりも、聖書の記事としては、「らい病人の癒し」として受け止める方がよいのではないかと思い

ますので、このところを「らい病人の癒し」と言わせてもらいます。 


・今、私たちがこのマタイによる福音書の「らい病人の癒し」の箇所を読むとき、ご存知の方も多いと思

いますが、日本におけるハンセン病問題を抜きにして、この箇所を読むことはできません。


・ハンセン病の国家賠償訴訟が、2001年5月11日熊本地裁の原告全面勝利判決を勝ち取り、同判決に対す

る国の控訴断念によって同年(2001年)5月25日判決が確定しました。


・このことによって90年にわたるハンセン病者に対する国の隔離撲滅政策の非が明らかになりました。


・この政策がハンセン病者にとっていかに酷い非人間的な政策だったかということは、「胎児標本問題」

として問われたことからも明らかです。強制的に堕胎させられたハンセン病者の胎児が標本として残され

ていて、その胎児が誰の胎児であるのか明らかにされないままであるという問題です。


・私は、1967年の夏に瀬戸内海の長島愛生園に行ったことがあります。その頃はまだ船で行き来していま

したが、今は橋がかかっているそうです。


・この夏神学校の夏期伝道実習ということで、私は岡山蕃山町教会に行きました。その時の蕃山町教会牧

師は内藤留幸さんでした。教団で私が戒規免職処分を受けた時の総幹事です。


・蕃山町教会の青年会で長島愛生園の対岸にあります虫明伝道所に行き、そこから船で長島愛生園に行き

ました。


・長島愛生園には曙教会があって、その教会でハンセン病の当事者で牧師の仕事をされている方から、い

ろいろとお話を伺い、長島愛生園の建物や敷地を案内してもらいました。


・その時お聞きしたお話の中で今でも覚えているのは、ハンセン病が治って社会復帰していく方の中に

は、病気で不自由になった手の指に握力がなく、ドアのノブを動かすことが出来なくて、アパートで一人

で生活することが出来ず、社会復帰しても、また長島愛生園に帰って来る人がいるということでした。


・ハンセン病の方々の厳しさは、社会的な差別だけではなく、病で冒された体の不自由さもあるのかと、

その時は強く思わされました。 


・この長島愛生園が作られたのは「らい予防法」ができた前年の1930年で、初めての国立療養所です。


・1930年代から国の政策でハンセン病者の強制隔離と断種によるハンセン病の撲滅が進められていきま

す。


・それは1931年9月の「満州」事変勃発以降、日本のファシズム化が急激に進み、富国強兵政策の障害と

見なされるハンセン病者の囲い込みが「民族浄化」を掲げて強力に推し進められていったことと並行して

います。


・医学的には既に1930年代には、日本でもハンセン病は伝染性がそう強くない病気で、わざわざ隔離する

必要がないことが明らかになっていたにも拘らず、隔離撲滅政策が進められ、それを光田健輔(けんす

け)のような人が積極的に支えていくわけです。


・このハンセン病の隔離撲滅政策は、ハンセン病の人に対するある種の存在の抹消ではないかと思い

ます。


・マタイによる福音書のイエスによる「らい病人の癒し」の背景にある当時のユダヤ社会でも、基本的に

は同じでありました。


・「らい病は古代イスラエルにおいて最も恐れられていた病気の一つでした。ヘブライ語のらい病人は

「打たれた者」という意味です。その言葉は、神の罰として打たれた者というニュアンスを含んでいまし

た。


・つまり、この病気は医学的な事柄というより宗教的な評価が下される病でありました。その診断は祭司

に委ねられていたのです(レビ記13章参照)。


・医学の十分に進んでいなかった当時は、「らい病」には通常皮膚病やかびも含まれていました。らい病

と診断された者はイスラエルの共同体から隔離され、一般の人が近づかないように『汚れた者』と呼ばわ

らねばなりませんでした。患者に触(さわ)られた者は『汚れた者』となるからです(レビ記22:5)。


・あるラビによりますと、患者に2メートル以上近づいてはならず、患者が風上にいる場合は50メート

ルほども離れていなければならないとされました」(以上、新共同訳注解書より)。


・また、みんなが住んでいる町や村の中にはらい病人は住めませんでしたので、町や村の外の洞窟のよう

なところで生活しなければなりませんでした。道を通るときに、人が来たときには、自分から、「らい病

ですから近づかないでください」と言わなければならなかったと言われています。


・らい病になると、同じ人間として自分たちの仲間として周囲の人から受け止められなくなり、「汚れた

者」として排除の対象とされるようになるのです。


・そういう社会では、らい病人は生きながら死んでいる人なのです。


・本人にとってどんなに辛く苦しいことか、想像を絶するほどです。


・そういう背景を考えますと、このマタイによる福音書の記事は驚きそのものです。2節、3節を岩波の佐

藤研さんの訳でもう一度読んで見ます。


・「すると見よ、一人のらい病人が近寄って来て、彼にひれ伏して言った、『主よ、もしあなた様がお望

みならば、清めていただけるのですが』。すると彼は手を伸ばして彼に触れ、言った『もちろんだ、清く

されよ』。するとすぐさま、彼のらいは清められた」。


・このらい病人とイエスの会話は面白いですね。


・らい病人の言葉は、病気を治してくださいという嘆願の言葉と言うよりも、ある種のイエスに対する信

仰告白のように思えます。「ひれ伏して、・・・『主よ、もしあなたがお望みならば、清めていただけるの

ですが』」と言ったというのですから。


・それに対して、イエスの方も、「手を伸ばして彼に触れ、・・・『もちろん、清くされよ』」と言ったと

いうのです。


・本田哲郎さんは、このマタイによる福音書の箇所の表題を「らい病の人は、イエスが『けがれ』を共有

したときに、清められた」と記しています。


・イエスはらい病人を対象化していません。ユダヤの社会からは「汚れた者」として疎外されていたその

人の「汚れ」をイエスは共有することによって、らい病人を一人の人間として真正面から受け止めておら

れるのです。


・すると「清め」が起こり、癒されたというのです。


・荒井英子さんは『ハンセン病とキリスト教』で、1930年代「救癩報国、祖国浄化」の「患者狩り旋風」

の吹き荒れる中、敢然と強制隔離・断種に反対し、患者の通院治療を守り通した小笠原登と良心的な多く

のキリスト者の違いをこのように述べています。


・「小笠原の発言を注意深く見るとき、決して『人間』としての患者から視点がずれていないことに気づ

く。(光田健輔の流れをくむ)林文雄にしても小川正子にしても、良心的な多くのキリスト者の場合、患

者から「救癩」そのものに視点が移っていっている。・・・『人間』から『使命』への視座の転換であ

る。小笠原の場合は、ひたすら患者の人権に焦点が結ばれている」と。


・キリスト者の場合、患者その人の人権を尊重するというよりは、らい患者を救済するにはどうしたらい

いのかという、自分の使命の方に視点がある、と言うのです。


・この人間としてのらい患者その人から、キリスト者としての自分の使命の方に視点が移行することに

よって、らい患者その人を、キリスト者である自分の使命としての「救癩」運動のための手段・道具のよ

うに扱ってしまいかねないということなのでしょう。


・良心的なキリスト者としてらい患者の人たちと関わった林文雄にしろ、小川正子にしろ、二人にはその

ようなところがあったのではないか、と言うのです。


・それに対して、小笠原登の場合は、そうではなく、「ひたすら患者の人権に焦点が結ばれている」と言

うのです。


・先程私は、「イエスはらい病人を対象化していません。ユダヤの社会からは「汚れた者」として疎外さ

れていたその人の「汚れ」をイエスは共有することによって、らい病人を一人の人間として真正面から受

け止めておられるのです」と申し上げました。


・小笠原登にもイエスと同じらい病人との関わりを貫こうとしたところがあったのではないでしょうか。


・以前に、いじめ、少年犯罪、虐待などに苦しむ子どもたちの人権救援活動に弁護士として携わっていま

す坪井節子さんの講演を伺ったことがあります。その講演で坪井さんは人権に関する三つの規定について

話されました。


・その人権に関する三つの規定とは、(1)ありのままのあなたで生きていいんだよ。(2)ひとりぼっ

ちじゃないんだよ。(3)あなたの人生はあなたが歩くんだよ。です。


・イエスに癒されたらい病人は、「汚れた者」というレッテルを貼られて、ユダヤ社会の中で自分の存在

が否定されていた時に、イエスと出会いました。イエスは他のユダア人のようにはらい病人を「汚れた

者」として分離し、隔離しようとはしませんでした。


・むしろ、らい病人が負わされていた「汚れ」を共に負い、らい病人のパートナーなって「(1)ありの

ままのあなたで生きていいんだよ。(2)ひとりぼっちじゃないんだよ。(3)あなたの人生はあなたが

歩くんだよ。」というメッセージをらい病人に送ったのではないでしょうか。そのことは、人間としての

尊厳を持って、イエスと共に生きる者として、このらい病人はイエスに招かれたのではないでしょうか。


・この「らい病人の癒し」の物語から、そのようなイエスの招きが私たちに向けても与えられていること

を覚えたいと思います。現代もイエスの生きたユダヤ社会と本質的には変わらない生きづらさに私たちも

苦しめられていますが、イエスと出会った人々の間に始まった新しい人間関係を他者と共に生きていきた

いと願います。

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