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日本は12年連続で自殺者が3万人を超えたという。 理由はどうあれ残念なことです。 皆さんは死ぬことを考えたことがありますか。 勘違いしないでください。死ぬことを勧めているわけではありませんし、 私が死のうとしているわけでもありません。 人間、生まれた限りは精一杯生きるべきです。 昨年、妻はがんで手術をしました。 そして、いろいろ考え抜いたのでしょう。自分には死ぬ権利があると言います。 もし病気によって苦しい思いをするならば死んだ方がよいと・・。 それを選ぶ権利は自分にあると・・。 たとえば、植物人間状態になって、生きてはいるけど、意識もあるけど、 自分では何もできない。他人の手を借りないと、食べることも排泄することも出来ない。 自分のそういう姿を想像して、そんな惨めで、他人に迷惑をかけるなら、死んだ方がいいと思うか、 命のある限りは生きたいと思うか。 それは人それぞれです。 それにこの世で絶対はないと言いますが、生あるもの必ず死にます。 これは不変であり絶対です。 偶然ですが、土屋たかゆきさんがこのように書いていました。 医学部、歯学部に進学するとヒポクラテスの誓いを勉強する。
曰く この医術を教えてくれた師を実の親のように敬い、自らの財産を分け与えて、必要ある時には助ける。 師の子孫を自身の兄弟のように見て、彼らが学ばんとすれば報酬なしにこの術を教える。 著作や講義その他あらゆる方法で、医術の知識を師や自らの息子、また、医の規則に則って誓約で結ばれている弟子達に分かち与え、それ以外の誰にも与えない。 自身の能力と判断に従って、患者に利すると思う治療法を選択し、害と知る治療法を決して選択しない。 依頼されても人を殺す薬を与えない。 同様に婦人を流産させる道具を与えない。 生涯を純粋と神聖を貫き、医術を行う。 膀胱結石に截石術を施行はせず、それを生業とする者に委せる。 どんな家を訪れる時もそこの自由人と奴隷の相違を問わず、不正を犯すことなく、医術を行う。 医に関するか否かに関わらず、他人の生活についての秘密を遵守する。 と言うものだ。 いわば医師としての倫理だが、それがどうも間違ったように使われている。 全体としては正論だが、しかし、医学技術が発達した今日、機械によって 「生かされている人間」をヒポクラテスは予定していない。そうだろう、 当時はそんなこと想像も出来なかったからだ。 (大体、紀元前460年くらい前の人間の言うことを科学文明が発達した今日、適用しようと言うことが 間違っている。医師としてやることは別にあるんじゃないか) ところが、医学と言うより、医学的機械の発達によって、 本来は「死んでいるべき」人間が「生きている」 何故、カッコ付きなのか。それは「生きていると言う一般の概念と相当乖離」した状態だからだ。 患者が食物を摂取出来なくなり、自発的呼吸が出来なくなり、 鼻・口などからチユーブが挿入されているさまを、医者は「スパゲティ症候群」と言う。 つまりチューブが交錯してスパゲティのようだからだ。 死んで行く過程を考えて見たらいい。 食物が摂取出来ないとチープが挿入される。同時に点滴が行われ、 それまでも点滴が数多く行われているから、通称「とんぼ針」と言う極細の針さえも入らなくなる。 最後は、鎖骨の下にある、鎖骨下静脈を確保して点滴が行われる。 更に心臓が停止すると、対処療法的措置の後、いわゆる補助心臓が使われる。 気道確保のため、気道切開も行われる。 また、胃ろうの確保なども行われ、大量の抗生剤の投与も行われる。 となると、心臓は「機械で動かされ」「栄養は点滴」や「チュープ」から摂取。 意識は完全にない。 ある外科医が『先生、死ぬ時は相当痛いですよ。覚悟していてください』と言っていたが、 死人に口なし、死んでしまった者がどんな激痛を伴っていたかはあの世でなければ聞くことは出来ない。 人生いろいろで、人さまざまに人生を送ってきた。 その最後の締めくくりで、機械に生かされている状態が一定期間続く。 骨と皮になり、間接は動かさないから硬直し、果たして「人間」と言えるのかと言う疑問が湧いてくる。 戦後の、安直な「生命尊重主義」はそれでもその人間を生かせと言う。 治る見込みのない者を機械的に生かしていると言うことは、動物実験と同じではないか。 更に、人間、死ぬ直前が莫大な医療費がかかる。つまり国家財政を圧迫している。 ヒポクラテスの誓いに確かに「死ぬ薬を与えてはいけない」とあるが、 それは、繰り返すが「当時の医療」でのこと。 果たして、機械で心臓が動き、心臓停止になると高電圧の心臓カウンターをすることが 果たして「医療」と言えるか。どの道、数日で死ぬのだ。5分後に死ぬかも知れない。 人間が生きているとは、尊厳をもって生きていると言う意味だ。 機械で心臓が動かされ、寝たきりになれば、後頭部、肩甲骨部、肋骨角部、 脊柱棘突起部、仙尾・仙腸部、踵骨部 などに、褥瘡(じょくそう)が出来る。 ひどくなれば骨が露出し、感染もある。 昔はイソジンに砂糖を混ぜて部位に塗っていた病院もある。 当然、感染が確認されれば、抗生剤を使用するが、この痛さは並大抵のものではない。 私は、繰り返しになるが、人間は尊厳を持って「死ぬ権利」があると思う。 安っぽい「生命尊重主義」で苦痛を伴い、国費を浪費して死にたくはないだろう。 ヒポクラテスの誓いを言うのなら、昔の医師のように、夜中の急患、 夜中の往診を患者は望んでいるのではないか。 在宅でそれなりの治療で最後は肺炎か何かで死んでいく。それが人間としての幸せではないかと思う。 敬老の日、式典があるが、そこの責任者は、 「見舞いに家族が余り来ないですね。ご臨終を連絡すると、 金目のものだけを持って行って、遺体は適当にしてくれと言う人もいる位ですから。 今日くらいは、来ていただきたいですね」と言っていた。 ある老健施設の開所式の日、館内の見学があった。 洗濯物の洗い場があったので、委託してクリーニングさせたらどうなんですか?と聞いたら、 職員が「先生、そこまですると家族が来ないのです。ですから敢えてこうしています」 と答えが返って来た。 驚いた。 生かす医学も必要だが、安楽に死ぬ医学の研究も必要ではないか。 少なくとも私はみじめな死に方は拒否する。 どう拒否するか?それはここでは言えない。でも、確実に実行する。 人間、今生しかないと思うから死を恐れる。 来世があると信じれば、どうと言うことはない。: |

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私の友人も奥様が脳溢血で7年ほど植物状態になり亡くなりました。奥様が元気な頃から知っていたので、以来いつも考える事の一つでもあります。
権利というか、生きる誇りというのでしょうか、人は誇り無くして生きているとは言えないと思う今日この頃です。
考えさせられる大ポチです!
2010/2/9(火) 午前 11:28
奥様のお見舞いを申し上げます。
暖かい日は体調もいいかと存じます。
記事ですが、前段は患者本人に意識のある場合、後半の土屋氏のお話は…
>>本来は「死んでいるべき」人間が「生きている」何故、カッコ付きなのか。
>>それは「生きていると言う一般の概念と相当乖離」した状態だからだ。
ということで、状況が違うと思います。
前段では患者本人の意思で、医療を受ける権利と受けない権利は尊重するべきだと思います。薬の投与や手術、延命治療全てですね。
患者が積極的に死を、また医者が手を貸すのは自殺・殺人の意味合いがあるので賛成できません。しかし、場合によっては患者本人が死を選択するのを黙認したいと思うこともあるでしょう。いずれにしても私の周りでそういう状況に直面したことがないので偉そうな事はいえませんが…。
2010/2/9(火) 午前 11:54
後半は重度の昏睡状態、いわゆる蔓延性意識障害のことですね。
脳死判定されれば問題ないわけですが、数年とか長期間つづくと支障もでてくるでしょう。本人に意識がないわけですから、世話をしている家族などの問題だと思います。経済的な問題や愛する人間がただベッドで横たわっているのが見るにしのびないというのはあると思います。また逆に、患者に言葉をかけたり、蔓延性意識障害であっても髪や爪は伸びるらしいので、それを切ったりする世話をすることを望む肉親もいるでしょう。その辺は世話をする周りの人間次第だと思います。
生命維持装置の解除は法的にも認められていたと思いますが…、
どなたか詳しい方がいらっしゃるのならご意見を…。
参考
http://www.sankei.co.jp/yuyulife/iryo/200806/iry080612006.htm
傑作
2010/2/9(火) 午前 11:55
ジョウジさん
こんにちは。
その通りです。
権利というよりは生きる誇りなんですね。
大切なことです。
大ポチありがとうございます。
2010/2/9(火) 午後 2:46
seijinさん
こんにちは。
お気遣い頂き感謝申し上げます。
また参考までいただき恐縮いたします。
やはりいろいろ考えるのですよね。
そこまでして生きたくはない。
これは前から言っていたので本気でしょう。
私も死を選びます。これは武士の情けです。
私の身内もそう言って亡くなりました。
ただこれについては人それぞれ、その置かれた状況や考え方で違うと思います。
その時に妻に対してその判断が出来るか?
と考えてしまいます。
傑作ありがとうございます。
2010/2/9(火) 午後 2:59
奥様にお見舞い申し上げます。
一般の人は生と死について真剣に考え日々を送っています。それに比べ鳩山の「命を守る」という言葉の何と軽い事か…。高校時代に何十億という莫大な遺産を相続した永遠の子供には一生分からないだろうと思います。
人生について考えさせられる素晴らしい記事でした。傑作。
[ 鳳山 ]
2010/2/9(火) 午後 3:02
知人の母親が25年位植物人間でしたが 月に20〜30万必要なので、まるで身代金を取られ続けて居るような状態でした。
傑作 ポチ凸
2010/2/9(火) 午後 3:25
鳳山さん
こんにちは。
お気遣い頂き感謝いたします。
全くそうです。
彼らには我々庶民のことは到底理解できないでしょうね。
また、あてにもしていません。
傑作ありがとうございます。
2010/2/9(火) 午後 4:31
hitoさん
こんにちは。
そういうことが現実なのでしょうね。
残念ですが・・。
傑作ありがとうございます。
2010/2/9(火) 午後 4:33
まずは改めてお見舞い申し上げます。
私自身は「尊厳死」を望んでいるものです。
生きるにしても死ぬにしても“自然”のままであるべきと考えていますし、科学的な延命が果たして生きているといえるかどうかに疑問を持っています。
言葉に語弊があるかもしれませんが晩節を汚したくないですね。
傑作
[ 敬天愛人 ]
2010/2/9(火) 午後 5:04
お見舞い申し上げます

と家族には申し伝えています。子供達は『お母さんらしい
』と笑って納得していますが いざ医師から『…どうなさいますか
』と聞かれたら 子供達も迷うのではないかと思います
処置無用というと『冷たい家族だ』と思われることもありましょうし もしもその処置で助かるのなら… など 悩むでしょうね
もともと医療行為(薬のまず
は予防接種も受けない
)は嫌いなので(ナースのくせに
)尚のこと延命措置は受けたくありませんね
尊厳ある生命… 本当にそうですよね
私も母親も 延命措置は一切無用
難しいテーマですね
[ 座敷童子 ]
2010/2/9(火) 午後 7:36
どう死ぬか、
よりも、
どう生きるか、生きたかなのでしょうね。
傑作です。
2010/2/9(火) 午後 8:18
敬天愛人さん
こんばんは。
お気遣い頂き感謝いたします。
そのお考えに同意致します。
特に潔く散りたいと思っております。
傑作ありがとうございます。
2010/2/9(火) 午後 9:45
座敷童子さん
こんばんは。
お気遣い頂き感謝いたします。
ナースさんですね(^^
私も全く同じ考えです。
尊厳ある生命ですから。
ご来訪ありがとうございます。
2010/2/9(火) 午後 9:48
レッドさん
こんばんは。
もちろんその通りです。
どのように生きるかが一番大切です。全く異論ありません。
ただ、命あるもの必ず死ぬ訳ですから、その時の話です。
私にとっては身近な話ですから、皆さまにはお付き合い頂き感謝しています。
傑作ありがとうございます。
2010/2/9(火) 午後 9:53
こんばんは。
歴史を調べるようになってから死生観というのを随分考えさせられますが、現代に目を向ければ安楽死などの問題がありますね。長く生きることがよしとする価値観がホントにいいのか・・・
ポチン
[ JJ太郎 ]
2010/2/9(火) 午後 9:57
JJ太郎さん
こんばんは。
そうですね。やはり如何に生き、如何に死ぬか。
実際に死を自分に置き換えてみることで、
生きることを無駄にしないようになります。
悔いなきように生き、悔いないように死ねれば、よき人生です。
ポチンありがとうございます。
2010/2/9(火) 午後 10:27
母の亡くなる前を見てますので あのような生かされ方は嫌ですね
すっきりと死にたい
わしの場合 家族も居ないので野垂れ死にですが!!
[ 道後 ]
2010/2/10(水) 午前 1:25
水大師さん
おはようございます。
そうですか、そのようなことがあったのですね。
水大師様は多くの市民が支えてくれます!
傑作ありがとうございます。
2010/2/10(水) 午前 10:15
はじめまして
生命には義務はあっても権利はないと思います。
権利なんて人間が考え出したもの。
遺伝子を伝える義務しかありません。
と思いますが・・・どうでしょう?
[ momo ]
2010/4/8(木) 午後 9:36