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さくらの花びらの「日本人よ、誇りを持とう」
保守の会会長 松山昭彦のブログ

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戦前の教科書には今に教えないことがたくさんあります。なぜ教えなくなったのか。現在の日本に合わない古いことだからなのでしょうか・・・。
「真理」や「倫理」「道徳」というものは古いも新しいもない”絶対的”なものです。その趣旨を理解していれば会社に勤めても、会社を経営しても、政治家になっても、自分を律する倫理道徳というのは変わらないものです。
国民一人ひとりがこれを常識として持っているのが民度の高さであり、今の教育や日本の社会はそれを常識として持っていないのかもしれません。それが様々な問題を起こしているのではないでしょうか。
 
人間、いつ逆境に遭うかわかりません。その逆境の時の振る舞い方で、その人の品格が表われるものです。そういう時こそ他人の目はよく見ているものです。昔の国語読本によい実例があります。日本人として消さずにぜひ継承していきたいものです。
 
老社長
僕は今日学校から帰ると、お父さんのお手紙を持って、精米会社へお使いに行ってきました。会社では幾台もある精米機械が電力で勢いよく回り、45人の若い人々がぬかだらけになって働いていました。社長さんは余程の年寄りらしいが、ニコニコして元気な方です。僕は何となく偉そうな人だと思いました。
 
お返事をお渡しした後で、お父さんに「あの精米会社の社長さんは偉い方なんでしょう」と言うと、お父さんは「お前にもそう見えるかね」とおっしゃって、あの方の小さい時分からのお話をして下さいました。
「あの社長さんは元上方の人で、この町へ始めて奉公に来たのは丁度お前と同じ12の年だったそうだ。主人の家が大きな醤油屋だったので、はじめは近在の小売店へ毎日毎日、降っても照っても、おろしに歩き回っていたそうだが、その辛さはとてもお前たちにわかるものではない。10年余りも辛抱してようやく一人前の番頭になり、それからまた長い間忠実に勤めて、30ぐらいの時、年来の貯金と主人から貰った金を資本にして小さい米屋を始めた。さて、商売を始めると、あの人ならという信用はあるし、それにわき目もふらず働くので、店は段々繁盛して、10年も経たぬ中に、町でも屈指の財産かとなった。そうして人々に推されて町の銀行の頭取になった。それは私の156歳の自分だったろう。うちのお祖父さんはあの人とは前から友達だったので、よくその話をなさっては大変誉めていらっしゃったものだ」
 
「本当に偉い人ですね」
「いや、これから先があの人の本当に偉いところだ」
お父さんはすぐ言葉を次いで、
「社長さんが銀行の頭取になってから丁度10年目の秋、いろいろの手違いから銀行が破産しなければならないことになった。世間にはこんな場合に、なるだけ自分の負担を軽くしようとする者があるが、あの人は反対に少しでも他人の負担を軽くしようとして自分の財産を残らず差し出した。
そうして全く無一物になって、親子三人、町外れの裏長屋に移ってしまった。けれども社長さんはそれを少しも苦にしないで『なあに、もう一度出直すのです』と言って笑っていた。
 
社長さんは早速荷車を一台借りてきて、醤油の計り売りを始めた。町の人々はこれを見かねて『そんなことまでなさらなくても』と言って、資本を出そうとする者もあったが、社長さんは『自分の力でやれるところまでやってみます』と言って、夜を日についで働いた。人々の同情は集まっているし、商売の仕方は十分心得ているので、毎朝引いて出た荷が、夕方には必ず空になるという景気。それにあの人のことだから決して焦らず、一軒二軒と得意先をまして行って、後には表通りへ店を出すまでになった。
それからだんだん商売の手を広げて、656歳の時にはもう余程の財産が出来た。そこで間もなく片手間に精米所を始め、追々に大きくして、あんな立派な会社にしたのだ。全くあんな人は珍しい」、とお話になりました。
僕は今日その偉い社長さんに会って来たのだと思うと、何となくうれしい気がしました。(国語読本巻九)
 
 
人間、いつ逆境に遭うかわかりません。生きていれば必ず逆境に遭うでしょう。その困難の時に、こういうことをふっと思い出し、「あの時の社長さんならばきっとこうするだろう」として、その生き方を自分なりに真似てみると道が開けることがあります。これが本当の学びであるといえるのではないでしょうか。
 
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イメージ 1薩摩の西郷隆盛といえば、地元の鹿児島では神様として神社に祭られているほどの人物です。
その西郷が吉之助(きちのすけ)と名乗っていた頃、若者たちを集めて庭で相撲を取らせていました。
そこに小柄で弱々しげなある若い男が来たことを告げられると、西郷は一目見て「これは大した人物ではないだろう」と思い、相撲が終わるまで部屋で待たせていました。
 
やがて汗を拭きながら現れた西郷に向かい、その男は「我が国の進むべき道について教えて頂きたい」と畳に両手をつきました。
しかし、西郷は笑いながら「いやいや、おいはそのような大それたことは何も考えておりません」と受け流そうとしました。
しかし、その男はあきらめることなく教えを求め、まずは自分の意見を語りはじめました。すると西郷はだんだんその男の話に引き込まれていく自分に気付きました。
 
自分よりずっと年下であるこの男の言葉は、西郷の心を熱くさせ、時に打ちのめし、時に激しく揺さぶったのでした。
この男が去った後、西郷は見た目だけで人を判断した自分を深く恥じ、深く反省しました。
そして、翌日、西郷はすぐにその男の藩邸を訪ね、その男が姿を現すまでその場に両手をついて座り、その男が現れると、昨日の無礼を詫びました。 
この男こそ、橋本佐内であります。そのこと以来、西郷はこのように人々に語るようになりました。「わしが心から尊敬する人物は先輩では水戸藩の藤田東湖先生、同輩では橋本佐内だ」。
 
明治になり、西郷は日本政府が新しい近代国家を建設しようとするばかりに、元々持っていた日本の素晴らしい精神を忘れていることを憂いていました。そして明治10年、士族の乱(西南戦争)を起こして、その戦いに敗れ、切腹して亡くなりました。
西郷の死後、カバンの中から手紙が見つかりました。それは西郷が昔、橋本佐内からもらったものでした。西郷は死ぬまで橋本佐内の手紙を肌身離さず大切に持ち歩いたのです
 
イメージ 2安政の大獄によって橋本佐内が江戸の牢獄に閉じ込められていた頃、同じ獄の別室には長州の吉田松陰がいました。松陰は佐内がいると知ると、何としても直接会って話したいと願ってやみませんでした。
また、佐内もすぐそばに松陰がいることを知ると、一編の詩とともに松陰に手紙を送りました。
「以前からあなたのことを人づてに聞き、これほど素晴らしい人がまだ我が国に入るのかと自分をなぐさめていました。ぜひ、一度お目にかかり親しく話し合いたいものです」と書かれていました。
しかし、それからしばらくした107日、佐内は処刑され、26歳という若さでこの世を去ったのです。
 
イメージ 3佐内と同じ牢にいた勝野という武士はその後、偶然にも松陰の牢に移されることになります。
勝野から佐内が処刑されたことを聞いた松陰は「今更ながら佐内と一度も会えなかったことが悔やまれてならない。」と日記に記しています。
その20日後、松陰もまた佐内の後を追うように、わずか30年の生涯を閉じました。
安政の大獄という徹底した取り締まりの中で、佐内や松陰など多くの優秀な人材が命を落としていったのです。
 
戦前の「修身」の教科書には『人間の度量』という題でこのようなことを習っていました。ここには今の学校教育にはない、日本人として忘れてはならない大切なことが多く詰まっています。
<橋本佐内の生誕地が校区にある福井県福井県福井市春山小学校では、住民たちでつくる「佐内塾」が協力して橋本佐内の功績や精神を学ぶ学習が行われています。授業を受けた生徒の一人は「佐内は相手を大切にしたり日本のために努力したり心の広い人。教科書に載っていないこともわかったし、もっと調べてみたい」と話した。>(平成23118日 福井新聞)
福井県は「全国学力テスト」の際に全国でもトップクラスの成績を出しています。福井で教育に従事している方は「佐内さんの啓発録が大きく関係していると思う」と話しています。
橋本佐内が福井県の教育に直接影響を与えているかは定かではありませんが、歴史を尊び、歴史に学ぶ地元の教育が子供たちによい影響を与えているのは確かかもしれません。
 
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DQN患者「治らなかった」とクレームつけて医療費踏み倒す
生活に困窮し、税金や保険料を払えない人に紛れて、支払い能力があるのに「払わない人々」が増えている。給食費に医療費、奨学金まで次々と踏み倒す彼らは、カネの問題ではなく、モラルを崩壊させる存在として、やがてこの国を脅かす。
「払わない人々」の被害は広がる一方だ。都内大学病院の勤務医が語る。
「子供を連れてきて診察中は神妙な顔をして説明を聞いているお母さんが、精算窓口では“私は頼まれて連れてきた親戚です。次回払うように母親にいっておきます”などと言い張って逃げてしまうケースが多いんです。受診後にそのまま窓口に寄らず帰ってしまい、支払いを求めても無視する人もいます」
日本病院会など4つの病院団体で作る四病院団体協議会の発表によると、医療費の未収額は136億円(2008年度)に上っている。
多くのケースでは保険証を提示しているのだから、まず常識的に逃げられるはずはないのに、その場だけ払わずに済めばそれでいいという、もはや完全な場当たり生活である。
「たしかに窓口を通らないというのは昔からちょくちょくありましたが、最近多いのは、『治らなかった』とか、『なんでこんなに治療費が高いんだ』とかクレームをつけて、結局払わないという患者ですね。私たちは飲食店などの商売じゃないので、その場で払わないといわれても警察を呼べません。事務担当者も“後日話し合いましょう”とソフトな対応しかできないので、そのまま踏み倒されてしまうケースが多いですね」(前出・勤務医)
ちなみにDQNとは、「ドキュン」と読み、常識のない方々を称するネット用語である。
(週刊ポスト2012420日号)
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DQNと書いて「常識のない方々」と言うそうです。
我々が日々、生活したり、仕事をしたり、買い物をしたり、旅行に行ったり、・・すると、今や必ず見かけるのが「常識のない方々」であります。
その根本にあるのは「自分勝手」ということです。
それでも日本はギリギリの面ですがまだ一定の秩序は保っています。
だからこそ常識のない方々に接すると「何だ、この人」となるわけです。
 
「治らなかった」と言って医療費を踏み倒して、「義務教育なのになぜ払わなきゃならない」と言って給食費を踏み倒す。しかし一方では携帯やパチンコには浪費する。
 
「自分さえよければ他人のことなど関係ない」。
ここには道徳心のかけらもありません。
マナーやモラルがない要因は、きちんと躾をされず道徳心を教わっていない上に自由や権利を植え付けられたことにあるのでしょう。
道徳とは何かもわからず自分勝手の振る舞いのまま社会に出るから必ずトラブルを起こしてしまうのです。モラルも何もわからないから自分勝手にやってしまう。他人がどのように思おうとも恥も何も関係ない。
最も悪質なのは悪いことだと知っていてやることです。嘘でもデタラメでも何でもいいから言い逃れればいいという考えです。これはまるで支那・朝鮮の民族性であります。
 
身を修めると書いて修身という。戦前は「修身」の授業で歴史上の人物を題材として子供の頃から道徳心を学んだわけです。戦前の教育を受けた世代は生活や人生の場面で修身で学んだことを重ね合わせる時があります。私の顧問税理士の先生は昭和3年生まれで、話をすると修身の教科書の人物の名が今もスラスラ出てきます。そして誰がどういうことをやったのかも覚えているのです。もちろん教育勅語も覚えておりました。
「乃木大将ってニンジンが嫌いだったのです。しかし、大将の母はえらい人で、乃木大将が食べたもので嫌いなものがあると三度の食事に必ずその嫌いなものばかり出して、好きになるまで家じゅうの者がそれを食べるようにしたのです。それで乃木大将は食べ物に好き嫌いがなくなったのです」と、具体的に話されるのです。
やはり子供の時の修身教育は日本人として人間形成の上で重要であると確信するところです。
戦後、この修身の授業がなくなったために、「正直」「努力」「忍耐」「勤勉」「勇気」「謙遜」「責任」「友情」「公益」などという徳目を聞いても、具体的な人物など出てこないし、徳目を人生のあらゆる場面で活かすことも出来ないのです。
 
教育荒廃は日本の荒廃につながります。子供たちには「個性」や「自主性」を強調するだけで、「努力」や「忍耐」、「責任」、「勤勉」などの徳目を含む道徳教育を怠り、子供たちに尊敬できる人格を示すこともありません。そしてメディアでは「崩れた姿」ばかり見せられていては荒廃するのも当たり前です。
 
 
 
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「公徳を守る」
公園の樹木を折りとったり、塀や壁に落書きをしたり、人ごみの中で人を押しのけて進んだりするのは、公徳心に欠けた行いです。どんな人ごみの中でも、知り合いの人を押しのけるようなことはしないでしょう。知り合っている間では決してしないことでも、見ず知らずの人の間となると平気でするのは、つまり自分が公衆と一体の生活をしているという考えがなく、このようなことをしては恥ずかしいと感じないからです。
私たちは、自ら慎んで、知っている人に対しても、また知らない人に対しても、決して迷惑をかけるようなことをせず、常に公衆の一人として、何ごとをするにも公衆のためを考えて、世の中の幸福を進めるように心がけなければなりません。
乃木希典大将が学習院長であったとき、大将は常に生徒に、少しでも人の迷惑になるようなことはしてはいけないと言い聞かせました。そうして、自分も決して人の迷惑になるようなことはしませんでした。
人がたがいに公徳を重んずれば、世の中の秩序をととのい、みんな楽しく生活することができます。
(第四期 尋常小学校修身書より)
 
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修身について
 
 
修身について八木秀次氏がいいことを書いています。
一部加筆して掲載しておきます。
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「修身」は戦前の教育にあったものです。
大東亜戦争後の昭和201022日、
GHQは『日本教育制度に対する管理政策』という第一の指令を手始めに、
次々教育に関する指令を日本政府に命じました。
これらの指令は軍国主義教育の解体を目的としたもので、極端な国家主義、神道主義、
軍国主義教育の禁止と教材の排除、それらの提唱者と実践者の教職からの追放、
民主主義教育の奨励、自由主義者や反軍国主義者の復職を命じたものでした。
 
さらに1231日、GHQは日本政府に『修身、日本歴史及び地理停止に関する件』という指令を出し、
修身、国史(日本歴史)、地理の授業停止とこれらの教科書の回収を厳命しました。
教科書は地区ごと回収され、中央に送られた後、全て廃棄処分にされて製紙の原料となりました。
その後、地理と歴史はGHQの承認を得た教科書が作成されて授業が再開されましたが、
修身の教科書は編集さえなされませんでした。
 
修身はこのようにして葬り去られ、その後、日本の教育ではまともに取り扱われることはされませんでした。
GHQ同様に日本人自身も「修身」を国家主義の軍国主義のイデオロギーの宝庫とみなし、頭ごなしに否定してきました。
しばしば修身教育の復活ということが恐れられ、道徳教育さえ忌避されました。
その結果、学校の「道徳」の時間はホームルームと化し、
ある場合には「同和教育」や「人権教育」、「平和教育」の名のもとに日教組の教職員やそれと連携関係にある民間団体のイデオロギーを子供たちに教え込む時間となったのです。
「道徳」をあえて「人権」と言い換えている学校もあったくらいです。
道徳を「価値観の押しつけ」、「強制」だとと、くだらない理屈をつけて教えたがらない教師たち。
そういう教師に限って自己中心で我がままで、自分の価値観は子供たちに押し付けているのです。
 
「修身」は日本人が思うほど怖いものでしょうか。
多くの人は修身の教科書さえ見ないまま修身を恐れているのでしょう。
修身の題材は今まで記事で書いてきたように我が国の歴史から採られているものが多いのです。
我が国の歴史の中には活きた教訓や愛情があふれています。
その多くは感動的な話が多く、日本人として我が国に自信と誇りを持つことができます。
それが子供たちの夢や希望、勇気となるのです。
それほどまでに先人達は自らを律し、正しい生き方のためには命を賭けて生真面目に向き合ってきたのです。
 
修身の廃止とともにこれらの立派な話は消された現在の日本。
今の子供たちは自分が「こういう人間になりたい」という具体的な人物像を失っているといいます。
戦後のある時期までは修身に変わって努力、忍耐、勇気、責任、友情、根性などの大切さを子供たちに教えていたのはスポーツ漫画でした。
それが80年代以降は「まじめの崩壊」と言われ、努力、忍耐、責任、勤勉、根性など大真面目に語ること自体恥ずかしいこととされたのです。
その結果はどうだろうか。
 
今日の教育荒廃の原因にはさまざまあるはずです。
しかし、その大きな一つに子供たちの個性や自主性を強調するだけで、
努力や忍耐、責任、勤勉などの徳目を含む道徳教育を怠ってきたことがあることは間違いないはずです。
子供たちは「尊敬できる人格」や「優れた人格」を示されることなく、
マスコミを通じて「崩れた姿」ばかり見せられているのです。
すでに子供の親たちにさえ道徳やモラルの欠如は甚だしい限りです。
戦後消された真実の「歴史」とともに「修身」を教育に取り戻さなければいけないのではないか。
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「ふくしゅう」
 
よい日本人になるには、忠義の心を持たねばなりません。
 
お父さんやお母さんには孝行を尽くし、兄弟とは仲良くし、友達には親切にし、
 
召使いを憐れみ、近所の人にはよくつきあわねばなりません。
 
何事も正直で、心のとがめるようなことはせず、
 
勇気があって、辛抱強く、物事にあわてんようにし、
 
自分のことは自分でし、そして、難儀をこらえねばなりません。
 
また、体を丈夫にし、倹約を守って、仕事に精を出さねばなりません。
 
その他、礼儀を守り、自慢をせず、恩を受けては忘れんようにし、
 
人をそねむようなことなく、度量を大きくし、人のものを大事にせねばなりません。
 
かように、自分のおこないを慎んで、よく人にまじわり、
 
その上、世のため人のために尽くすように心がけると、
 
よい日本人になれます。
 
(第一期(明治三十七年)尋常小学第三学年より)
 
 
 
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太田恭三郎)

 
太田恭三郎
 
明治三十六年、二百五十人ばかりの一団を先頭に、日本人渡航者が相次いで、フィリピンに向かった。

フィリピンの首都、マニラからおよそ三百キロ北の高い山の中に、バギオという町を新しく建設するため、その手始めとして、険しい山坂を切り開き、三十五キロという長い道路を作ろうとしたのである。

岩が落ちてきて、人が怪我をする。出来かかった道は、すぐに崩れる。そのため、フィリピン人も、アメリカ人も、支那人も、これまで果たすことの出来なかった難事業を、今はしとげてみせようというのである。
 
日本人は、辛抱強くて、よく働いた。けれども、やっぱりこの仕事は生易しいことではない。何人も病気になったり、けが人もたくさんできた。

その上、日本人が一番困ったのは、急に食物が変わったことである。このまま仕事を続けていたのでは、みんな病気になってしまうかもしれない。
 
この様子を知って、義侠心を起こしたのは、マニラの街に住んでいた太田恭三郎であった。恭三郎は、早く明治三十四年からマニラへ渡って、そこで日本雑貨の輸入業を営んでいた。渡航した時は、まだ二十六の若者であったのである。

恭三郎は日本人渡航者たちの苦しみをみては、じっとしていられず、フィリピン政府に相談して、これを救う工夫をするとともに、自分で漁師からいわしを買い求めて送ることにした。

続いて梅干しやたくあん漬けなどをたくさん送り届けた。このことを聞いた日本人たちは、「太田さんは、偉い人だ。太田さんは、有難い人だ」と、心から感謝して元気づき、一生懸命に働いたので、間もなくフィリピンの島に、ベンゲット道路という立派な道路が、日本人の力で出来上がったのである。
 
ところが、今度はその日本人たちに、仕事のなくなる時がきた。早くもこの様子を見た恭三郎は、またしてもこれを救ってやろうと思い立ち、
ダバオこそ日本人の新しく働くところだ」
こう考えて、行く末を心配する日本人たちを励ましながら、ます百八十人だけをダバオに送り、マニラ麻を作らせることにした。

その頃、ダバオは非常にさびしいところであった。恭三郎は、まだ二十九歳にしかなっていない。

三十八年には、二度ほど日本人をベンゲットからダバオへ送ったが、二度目の時には、自分も一緒になってミンダナオ島のダバオに移り住むことにした。
 
そうして、今までの輸入業をやめて、太田興業という新しい会社を作り、広大な畑に麻を栽培し始めたのである。
「日本人にマニラ麻がうまく作れるものか」と、ばかにしていたアメリカ人やスペイン人をしり目にかけて恭三郎の会社はだんだん大きくなっていった。

それだけではなく、腕のある日本人たちは、引っ張りだこで、みんなに麻の作り方を教えるようにさえなった。
 
「有難い。これで日本人は、ダバオに落ち着くことができる」
恭三郎は、心から喜んだのである。

恭三郎の一生の望みは、どうしたら日本人が、海外でよく栄えることができるか、ということであった。この望みに向かって、いつも全力を尽くした。
ダバオに落ち着いたのも、せっかく苦心した麻が暴風のため一夜で倒されてしまったことがある。

その時恭三郎は、
「こんなことで、負けてなるものか」
と、雄々しい気持ちを奮い起して、日本人たちを励ましながら、一生けんめいになって復旧に努めた。
 
また、干ばつのときに困らないよう、畠に水を引く大きな工事を始めたり、
いつも先々のことを考えながら、細かく気をつかって、仕事をした。

恭三郎は日本人のために学校を作ったり、慰安の設備をしたりした。その上、フィリピン人も日本人にならって、幸せになるようにと大きな心から、
病院を建てたり、道を開いたり、港をつくったりした。

大東亜戦争になって、フィリピンの島々から、アメリカ人を追い払うことのできる前、すでに恭三郎は、ダバオ開拓の父と仰がれる大きな事業を成し遂げたのである。

ダバオのミンタルというところ、フィリピン群島第一の高峰アポを背にした緑深い山の上には、恭三郎の立派な記念碑が立っている。
(第五期(昭和十六年)・初等科修身四より)

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