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さくらの花びらの「日本人よ、誇りを持とう」
保守の会会長 松山昭彦のブログ

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3月23日に公表された日韓歴史共同研究報告書。

韓国側は日本の「新しい歴史教科書をつくる会」執筆の扶桑社、自由社版の教科書を
「まるで日本が西洋勢力の支配からアジア諸国を解放しようと引き起こしたかのようだ」
「侵略戦争を主導した大日本帝国の当局者が羊頭狗肉として掲げた大東亜戦争をわざわざ踏襲」
「日本の一部の教科書が公然と大東亜戦争史観を標榜するなら韓国と日本の歴史の和解は
永遠に不可能だろう」と言った。
 
しかし、
東京書籍版については満州事変など「日本の行為を批判的な視点から記述している」と評価し、
南京大虐殺の被害者を「約20万人ともいわれる軍人・捕虜・非戦闘員」としている点も
好意的に取り上げているが、植民地朝鮮についての記述がないと不満をもらしているという。
 
また、
日本側は今回竹島問題を取り上げ、この問題に関する戦後の処理状況や日韓交渉などを
資料的に分析、研究しようとしましたが、
韓国側は韓国政府が日本との間で領有権問題は存在しないという公式立場のためしなかったという。
 
これに対して岡田外相は「共同研究というのは意味あることだ」と述べました。
しかし日本の委員の一人は「議論は格闘技だった」と振り返ったそうです。
・・・・・・

この共同研究は韓国側も「韓国と日本の歴史の和解は永遠に不可能だろう」と言う通りまったくの時間と労力の無駄です。
その最大の原因は韓国の歴史がねつ造、歪曲であるからです。
 
何も知らない日本人は日本の教科書に問題があるから韓国があれほど執拗に抗議してくると勘違いしています。
実際に問題なのは韓国の歴史教科書と歴史教育なのです。
 
歴史研究とは過去の真実はどうであったかを研究するものです。
しかし、韓国人の正しい歴史とは「民族が自己満足する歴史」を言います。
つまり実際の歴史とは違う真実を全く無視した都合のよい歴史を作ることが、
彼らにとって真実の歴史なのです。
そしてこの作られた歴史教育のために最も被害に遭っている国は日本なのです。
 
日本は韓国の近代化に多大の貢献をしてきました。
しかしこの真実が韓国にとってはあるべき民族の歴史ではなく、
自己満足する歴史に反するのです。

だから「日本の貢献など全く必要なかった。日本のせいで独立が遅れた。
近代化は我が民族の自力で出来たのに、日本の侵略によって妨害された。
すべて日本が悪い」という感じなのです。
 
このねつ造された歴史教育で教育された韓国人たちは、
この嘘の歴史が真実だと思い込んでいます。
竹島も含めて日本は歴史や真実を捻じ曲げていると本気で思っています。
だからこそ阪神淡路大震災の時に、
「日本に向かって天罰が下った、ざまあみろ」 などと言えるのです。
 
 
しかし、最も許しがたいのは日本人の中に真実をすり替えて、
韓国や支那に同調する反日日本人や団体組織、マスコミがいることです。

つまり支那や朝鮮に対して日本の真実を発言すると、この手の人たちから、
攻撃的で圧倒するような非難や脅迫を受けてしまうのが今の日本なのです。
歴史の無知なのか、ゴマ摺りなのか、しらじらしいほどの近隣国に配慮し過ぎる姿は、おめでたいを通り越して、もはや日本にとっては害である。
 
今回、日本側は韓国側にこのように求めたという。
「韓国の教科書に昭和天皇以降の反省の「お言葉」や、植民地支配と侵略に対する反省とおわびを表明した「村山談話」
も記述してもらいたい」と。
 
平成2年5月24日、天皇陛下が盧泰愚大統領との宮中晩餐で
「朝鮮半島と我が国との長く豊かな交流の歴史を振り返るとき,昭和天皇が
『今世紀の一時期において,両国の間に不幸な過去が存したことは誠に遺憾であり,再び繰り返されてはならない』と述べられたことを思い起こします。
我が国によってもたらされたこの不幸な時期に,貴国の人々が味わわれた苦しみを思い,私は痛惜の念を禁じえません」
と述べられました。
 
これこそ内閣の助言と承認によってなされる政治の愚かさであり、
この「お言葉」と「村山談話」を韓国の教科書に載せてほしいとは、
「日本は天皇陛下も含めてこんなに反省しているのです。許して下さい」
と言うことなのか。
 
あきれ果てるばかりです。
どこまで日本を下げる気なのか・・・。
 
 
 

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チャイナネットが報じたところによると、
日中両国の日中歴史共同研究の学者は3年間に及ぶ共同研究と学術討論を通じて、
日中歴史共同研究報告を完成させた。
日本側の学者は報告の中で、対中戦争は侵略戦争であり、
南京大虐殺は反ヒューマニズムの集団的な虐殺事件であることを認めている。

中国国民が関心を寄せる南京事件について、歩平所長は、
「今回の研究の中で、学者たちが関心を寄せているのは犠牲者の数ではなく、
この大規模なヒューマニズムに反した暴行の性質である」と話す。
双方の学者は論文の中で、南京事件は集団的な虐殺事件であるという判断で一致した。:

1月31日の日中両国の歴史共同研究委員会の報告書について、
南京虐殺については多くの新聞で取り上げていました。
しかし南京では大虐殺などありません。
それよりも、日本側はその5ヶ月前に起きた通州事件こそ大きく取り上げるべきでした。

昭和12年7月に、通州で支那人の保安隊による日本人民間人虐殺事件がありました。
この通州事件というのは戦後一切語られることもなくなり、通州事件を載せる本もほとんどありません。
もちろん学校でも教えませんので知る人は少ないです。

同じ年の12月にあった南京事件のありもしない大虐殺は学校で教えられ、日本人も多く知っていますが、
南京での支那の督戦隊による支那人への大量殺害や実際にあった通州事件は全く知らないという、
日本の戦後の教育とマスコミのゆがみを象徴するものです。

<通州事件についての報告書>
25日、26日と連続して起こった小衝突事件(廊坊、広安門事件)を契機として、
陸軍省部は延期していた3個師団の動員実施を決定し、27日の閣議はこれを了承した。
駐屯軍は28日に全面攻撃を開始し、翌日には永定河以北の北平・天津地区をほぼ制圧した。
その直後に起こった通州事件は日本の中国に対する強硬な世論を決定的なものにした。:

<南京事件についての報告書>
12月1日、中支那方面軍に南京攻略命令が下った。
12月10日、日本軍は南京総攻撃を開始し、最初の部隊は12日から城壁を突破して城内に進入した。
翌13日、南京を占領した。この間、中国政府高官は次々に南京を離れ、
住民の多くも戦禍を逃れ市内に設置された南京国際安全区(難民区)に避難し、
また、日本軍に利用されないために多くの建物が中国軍によって焼き払われた。

国民政府は11月中旬の国防最高会議において重慶への遷都を決定したが、
首都南京からの撤退には蒋介石が難色を示し、一定期間は固守する方針を定めた。
首都衛戍司令官に任命された唐生智は、当初は南京の死守方針であり、
松井司令官の開城投降勧告を拒否したが、12月11日、蒋介石から撤退の指示を受けると、
12日に各所の防衛指揮官に包囲突破による撤退を命じた。

しかし、計画通り撤退できた部隊はわずかで、揚子江によって退路が塞がれ、
中国軍は混乱状態となり、多数の敗残兵が便衣に着替えて「難民区」に逃れた。
中支那方面軍は、上海戦以来の不軍紀行為の頻発から、南京陥落後における城内進入部隊を想定して、「軍紀風紀を特に厳粛にし」という厳格な規制策(南京攻略要領)を通達していた。
しかし、日本軍による捕虜、敗残兵、便衣兵、及び一部の市民に対して集団的、個別的な虐殺事件が発生し、強姦、略奪や放火も頻発した。

日本軍による虐殺行為の犠牲者数は、極東国際軍事裁判における判決では20 万人以上
(松井司令官に対する判決文では10 万人以上)、
1947 年の南京戦犯裁判軍事法廷では30 万人以上とされ、
中国の見解は後者の判決に依拠している。

一方、日本側の研究では20 万人を上限として、4 万人、2 万人など様々な推計がなされている。
このように犠牲者数に諸説がある背景には、「虐殺」(不法殺害)の定義、
対象とする地域・期間、埋葬記録、人口統計など資料に対する検証の相違が存在している。
日本軍による暴行は、外国のメディアによって報道されるとともに、
南京国際安全区委員会の日本大使館に対する抗議を通して外務省にもたらされ26、
さらに陸軍中央部にも伝えられていた。
その結果、38 年1 月4 日には、閑院宮参謀総長名で、松井司令官宛に「軍紀・風紀ノ振作ニ関シテ切ニ要望ス」との異例の要望が発せられたのであった。

虐殺などが生起した原因について、宣戦布告がなされず「事変」にとどまっていたため、日本側に、捕虜の取扱いに関する指針や占領後の住民保護を含む軍政計画が欠けており、また軍紀を取り締まる憲兵の数が少なかった点、食糧や物資補給を無視して南京攻略を敢行した結果、略奪行為が生起し、それが軍紀弛緩をもたらし不法行為を誘発した点などが指摘されている。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

26 石射猪大郎東亜局長は、38 年1 月6 日の日記に、
「上海から来信、南京に於ける我軍の暴状を詳報し来る。略奪、強姦、目もあてられぬ惨状とある。
嗚呼これが皇軍か」と記していた
(伊藤隆・劉傑編『石射猪太郎日記』中央公論社、1993 年、240 頁):



通州事件の日本側の報告はこれだけです。当時、日本国内でも世論が沸騰し、
日本人が大いに怒った通州事件が単なる一事件のように軽く流されています。
これでは日本の国の立場のものとはいえません。

報告書の通州事件の説明書きには
「北京郊外の通州で、冀東政府の保安隊が約200人余の日本人居留民などを殺害した事件」
と書かれています。

当時、この事件を知った現地の日本軍兵士たちは激昂し、
さらに日本に伝わって日本国民の多くが憤慨し国民世論は沸騰しました。
今回の共同研究の日本側の委員達が本当に日本人であるならば、
恨みを飲んで殺された同胞の鎮魂を込めて通州事件を最大限に訴えていくべきではなかったのか。
日本側は日本人の無辜の市民に対する大量の非人道的な虐殺をした済南事件や通州事件という事実を
どうして大きく指摘しないのだ。
日本人を虐殺してきた支那人の責任、それこそ責めるべきことでありこの機会に取上げるべきであった。

中国側は南京虐殺について
学者たちが関心を寄せているのは犠牲者の数ではなく、この大規模なヒューマニズムに反した暴行の性質だとか、
双方の学者は論文の中で、南京事件は集団的な虐殺事件であるという判断で一致したと発言する。
日本国民よ、こんなことを言われて許せるのか。
・・・・・・

上記の南京事件の報告書にはこうあります。
日本軍による暴行は、外国のメディアによって報道されるとともに、
南京国際安全区委員会の日本大使館に対する抗議を通して外務省にもたらされ

これには次のような注釈がついています。
石射猪大郎東亜局長は、38 年1 月6 日の日記に、
「上海から来信、南京に於ける我軍の暴状を詳報し来る。略奪、強姦、目もあてられぬ惨状とある。
嗚呼これが皇軍か」と記していた
(伊藤隆・劉傑編『石射猪太郎日記』中央公論社、1993 年、240 頁)

石射猪太郎東亜局長が日記に記したとあります。

当時、南京には安全区には国際安全委員会という組織があり、その委員長はラーベというドイツ人宣教師です。
(安全区とは南京城内に欧米人や残留した南京市民のために軍事力の行ってはいけない非武装の安全地域を設けていました)
国際安全委員会は南京陥落直後から「日本兵が略奪や虐殺をおこなっている」と総領事館に抗議していました。

総領事館はその内容を東京の外務省の東亜局に報告することになっています。
この時の東亜局長が石射猪太郎でした。
石射はその内容の写しを陸軍省・軍務局長と外務大臣の広田弘毅に報告していました。
このような報告書は南京陥落の12月13日から2月7日までで五百数十件ありました。

南京事件前後、石射は東亜局長として東京にいました。つまり南京の状況を直接見てはいません。
石射は、後の東京裁判で広田弘毅の証言台に立った時の自分の手記では、
南京のことは宣教師たちから提出された報告書によるものだと書いています。

実際に南京陥落翌日の12月14日から翌3月まで南京にいた外交官の福田篤泰は
当時のことを昭和54年にこのように述べています。
「当時、私は毎日のように外国人が組織した国際委員会の事務所へ出かけていたが、
そこへ支那人が次から次へと駆け込んでくる。
『いま上海路で10歳くらいの少女が5人の日本兵に強姦されている』あるいは
『80歳くらいの老婆が強姦された』等々、
その訴えをフィッチ神父が私の前でどんどんタイプしているのだ。
『ちょっと待ってくれ。君たちは検証もせずにそれを記録するのか』と私は彼らを連れて
現地に行ってみると、何もない。住んでいる者もいない。
また『下関(シャーカン)にある米国所有の木材を日本軍が盗み出しているという通報があった』と
早朝に米国大使館から抗議があり、ただちに雪の降る中を本郷参謀と米国大使館員を連れて行くと、
その形跡はない。とにかくこんな訴えが連日山のように来た」

1月に南京に入って10月までいた外交官の粕谷孝夫は昭和60年このように述べています。
「南京の様子は普通でした。特別なことはありません。店は開いていますし、
日本の商人もいました。虐殺とかそういうことはありませんでした」
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宣教師たちからは2月にも報告書は提出されていたので不法行為は続いていたはずですが、
日本の外交官は否定しています。

総領事館に入ってくる抗議は裏付けも証拠もないものを東京に報告していたのです。

12月16日に南京に入った外交官の日高信六郎は
「日本軍によって行われたと称する行為に関して、在留外国人から総領事館宛申し入れがありました。
これらの大多数は伝聞でありましたが、総領事館では事実をいちいち調査する暇もなかったため、
一応そのまま東京外務省に報告した」と話しています。

東京の外務省に届いていた南京からの報告書とは、支那人がつくり上げた事件を国際委員会などを通して
事実確認もせず現地の総領事館へ抗議し、その抗議を更に事実確認もしないまま東京に報告していたのです。

石射猪太郎は東京裁判で広田弘毅の証言台に立ち、
「南京からの報告書は大部分事実であろうと思った」という証言により、
広田はこのような事実を知りながら適切な策を講じなかったと判定されて、
南京事件の責任を取ることになり、絞首刑となる七人のうちの一人となりました。

このような「石射猪太郎の日記」などを今回の報告書で使うとは全く許せない売国奴たちである。

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1月31日、日中両国の歴史共同研究委員会が報告書を公表しました。
近現代史の部分を全て読みましたが、いつまでもこんな認識では困ったものです。

2月1日の中国紙は日中両国の有識者が公表した日中歴史共同研究報告書について、
「日本側は対中戦争の性格を侵略戦争と認めた」(新京報)
「南京虐殺事件について被害者数はともかく虐殺が起きたことを日本側学者が認めた」
(時事紙、環球時報)と報じました。

日中両国の歴史共同研究委員会が報告書は日本側と中国側で相互に歴史見解を示すものですが、
あえて日中間で共通の歴史認識にする必要があるかは疑問です。
日本側が侵略とか南京虐殺を認めたというならば売国行為ではないか。

今回、日本側の歴史見解を読んでみると日本にある歴史書などを参考に作り上げたものです。
その参考とする書物はいわゆる自虐的な著書です。
しかも中国の強い意向で天安門事件、チベットなどは取り上げないという。

これではあまりも中国に都合のよいものになりはしないか。
報告書は全体的に日本が侵略したから悪くて、中国は被害者のように受け取れました。

・・・・・・

済南事件という事件があります。今回の報告書にはこのように書いてあります。

蔣介石が1928 年4 月に北伐を再開すると、田中内閣は第2 次山東出兵を行った。
済南で居留民保護に携わった日本軍は、支那駐屯軍臨時済南派遣隊と第6 師団であった。
日本軍と国民革命軍は、5 月3 日に済南で衝突した。
藤田栄介駐青島総領事は、
「三日午前十時頃、邦人家屋内に支那兵の掠奪ありとの報に、我軍4名救護のため赴きたるに対し、
発砲負傷せしめたるにつき我軍やむなく応戦」と伝えた。
ただし、多くの事件と同様に済南事件の発端に関して日中の史料は相容れない。
この済南事件に際して田中内閣は、第3 次山東出兵に踏み切った。
正確な数字を挙げるのは困難であるが、済南事件では日本側よりも中国側に多数の死傷者を出している。
このころ吉野作造は「今度の様な形で支那と戦ふは我国に取て一大不祥事である」と論じていた。:

この中に
ただし、多くの事件と同様に済南事件の発端に関して日中の史料は相容れない
とありますが、相容れないからこそ日中でこのようなことをやっているのではないでしょうか。
済南事件のような中国に都合の悪いものだからといって、中国におもねるような報告は許されない。
なぜそんなに気を遣う必要があるのか。
日本側としては日本としての真実を報告すればいいのではないか。
中国側に気を遣うようなことをしているから彼らは調子に乗るのです。

しかしこの報告書は全体としてこういう部分が多い。そういうところも気に入りません。

この報告書の内容では済南事件が何のことかわかりにくいです。
しかし、この事件こそ日本人がきちんと知っておくべき屈辱的事件です。
済南事件は学校でも教えられないのでほとんど知られていません。
・・・・・・

イメージ 2

昭和3年、軍閥が割拠していた支那で、
蒋介石が支那全土を統一しようと北に向かって戦っていくところです(北伐)。

この時、済南には日本人は1810人(内女性829人)が居住していました。
蒋介石の国民革命軍(南軍)が北上し、済南の日本人の中には、にわかにあの日本人の悲惨な虐殺のあった
南京事件の再来が起こるのではないかと危惧しはじめました。

済南から日本の田中首相に出兵の要請がきました。
田中首相は迷った末に日本人保護のため4月下旬に済南に出兵を決断します。これが第二次山東出兵です。
済南の日本軍は日本人の大部分が住んでいる商埠地に、東西2箇所の守備地区を設けて日本人たちを収容保護しました。
イメージ 3

しかし5月1日、蒋介石の南軍が済南に入って来ました。
日本国旗の侮辱や反日のビラをあちこちに貼り付け、市内は一気に緊迫します。

5月2日、蒋介石が「治安は我々が絶対に確保するので、日本軍は警備を撤去してほしい」と要請があり、蒋介石の約束を信じた日本軍は夜を徹して防御工事を撤去してしました。
そして、事件は警備を撤去した5月3日の朝起こりました。

中国兵士が満州日報取次販売店の吉房長平を襲撃掠奪します。
そこに駆けつけた日本人巡査にも暴行したため、日本の部隊が現場に急行すると、
中国兵は逃げて兵舎に隠れ銃撃してきました。
これがそのまま交戦状態となり中国兵による乱射や掠奪が市中に拡大していきました。

すぐに両軍の間で停戦の申し合わせをしますが、中国兵はこれを無視します。
白旗を掲げて停戦を呼びかける日本の軍使までも射殺したのです。
市内はたちまち修羅場となりました。

5月4日の東京新聞には
「日本人は狂暴なる南軍のため 盛んに虐殺されつつある」と書いています。

惨殺、暴行恥辱、婦女陵辱、掠奪・・。
イメージ 4

「腹部内臓全部露出せるもの、女の陰部に割木を挿し込みたるもの、
顔面上部を切り落としたるもの、右耳を切り落とされ左頬より右後頭部に貫通突傷あり、
全身腐乱し居れるもの各一、陰茎を切り落とし足るものに」(外務省公電)

「予は病院において偶然其の死体の験案を実見したのであるが、酸鼻の 極だった。
手足を縛し、手斧様のもので頭部・面部に斬撃を加へ、或い は滅多切りとなし、
婦女は全て陰部に棒が挿入されてある。或る者は焼 かれて半ば骸骨となってゐた。
焼残りの白足袋で日本婦人たる事がわかったやうな始末である。我が軍の激昂は其の極に達した」
(南京駐在武官・佐々木到一中佐 手記)
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5月5日、南軍のために惨殺陵辱された日本人の死体が日本軍によって発見され、
済南事件の真相が明らかとなると、日本国内では軍民ともに憤激し、
南軍を叩きのめせという声が起こります。

参謀本部は事件解決のため現地の日本軍に次の条件を南軍に示すよう指示します。
暴虐行為の高級武官の処刑、排日宣伝の一切禁止、南軍は済南から12キロ離れるなど・・。
しかし南軍がこの要求を拒否します。

もうこれ以上日本人の被害を出したくない日本軍は、ついに支那軍の立てこもる済南城砲撃を行いました。
このとき日本軍は無用な流血を避けるために退避路を指定したため、
支那軍はこの夜、この退避路を通って城外へ脱出していきました。
・・・・・・

日本守備隊は3500名で蒋介石の南軍は10万人超える大軍です。
日本軍はよく戦ってくれたというべきでしょう。

済南事件の中国側の史料には「北伐を妨害するための日本側の計画的挑発」とされています。

しかし今回の日中の報告書には上記に示すとおり藤田栄介駐青島総領事が
支那兵の掠奪ありとの報に・・我軍やむなく応戦とあります。

さらに今回の日本側の報告書にはありませんが、藤田総領事は事件後の5月13日にこのように語っています。

「我が軍は蒋介石の声明を信頼して軍の防御施設を撤去した。
にもかかわらず翌3日、我が居留民家屋に南軍兵士が侵入してきたので、これを制止しようと発砲した。
何人が事件の端を開いたかは極めて明瞭であり、責任は全部南軍にある。

しかもこの衝突が最初から組織的に計画されていたことは、
掠奪とほとんど同時に商埠地各所で一斉に銃声が起こり、すなわち大混乱の巷と化せしめた事実、
彼らが手榴弾を所持していたこと、掠奪されたのが悉く日本人家屋であって
支那人は殆どその厄に遭わなかったこと等から推して、最初より日本人を目標とせること疑いない。

我が軍の砲弾は彼ら南軍のいる督弁公暑、城壁等を目標とし、
在住支那人家屋には何等の被害を与えなかったので、
商民等は日本軍の砲撃の正確なるによって被害のなかったことに感謝している」

藤田総領事はこのように語っているのです。
出来ればこの部分を協調していただきたかったものです。
歴史共同研究委員会の日本側は、もっと日本国の立場になって頂きたいです。

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