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前回同様、文字のみです。ご理解とご協力を…(ry
国鉄がアボンした後も205系は製造された。しかし早速問題が発生する。山手線の増備を再開するに伴い、西日本が引き継いだ205系の車番をすっ飛ばすかどうかである。これには理由があり、山手線の205系の車番にはある法則性がある。10両編成でクハは編成番号と車番が同じ。サハは編成番号の二倍、もしくは二倍-1。モハは編成番号の三倍、もしくは三倍-1、-2である。で、これには二種の対策法が練られた。一度は山手線投入分の続番とし、京阪神地区の205系は無かったことにすると考えられたものの、もしも乗り入れするようなことがあり、両社に車番の重複があったら不都合だと考えられ、京阪神地区の分は飛ばされて配備されることとなった。その代わり、切りのいい番号までを欠番となることになる。また、量産先行車以外のの山手線投入分は、運番表示器がオレンジ色のマグサインに変更されている。これは山手線が運番変更が多く、手巻き式だと不便だったためだと考えられる。さらに民営化後に製造された車両は乗務員扉後ろのハシゴや5号車のMGが省かれている。これは国鉄時代に製造された300両にも施工され、余ったMGは新製車に使いまわされている。なお先程の理由で欠番が生じている上、先頭車の車番が編成番号となっているため、国鉄時代に製造された編成は『ヤテ1-34』、民営化後に製造された編成は『ヤテ41-60』を名乗っている。 山手線製造分を経て次は横浜線に導入された。7連で落成し、帯色は上段ウグイス、下段深緑となった。また、横浜線に新製配置されたグループからドアの窓が大型化され、帯も205系としては初めて二色となり、半年という短期間で103系を横浜線から全て追い出した。他にも種別表示器を装備している。編成番号は法則などは無く、『H1-25』となっている。 一方その頃阪和線では103系や113系たちがのんびんたらりんと走っていたが、輸送力増強のためにスカイブルーの205系が増備されることとなった。これに伴い西日本独自のアレンジが加えられ、1000番台となった。全面デザインが変更された他、ベンチレーターが二個に減ったり110km/hに対応したりしている。110km/hに対応するために台車などにも変更が加えられた。もうここまで行くと近郊型になってるような… 横浜線続き205系は南武線に導入された。帯色が三段になり、上段がカナリア、中段がオレンジバーミリオン、下段がブラウンとなっている。それ以外は横浜線から進化してない。初回は輸送力増強のためだったか次回投入分からは103系置き換えのために6両編成16本が投入されたが初期型のクモハを含んだ103系置き換えたのみで、全て置き換えるには至らなかった。なんでもっと増備しないのかな… 1985年に開業した埼京線は沿線に毎日のように爆音を撒き散らしながら走っていた。そもそも埼京線は新幹線が沿線に爆音を撒き散らす見返りとして東北新幹線の真横を通り抜ける路線だ。その路線を走るウグイス色の103系が新幹線以上の爆音を撒き散らしながら走っている。これでは本末転倒だ、ということでとっとと新型に置き換えろ。との意見が沿線から出ていた。東日本も折れて低騒音タイプのディープグリーンの帯を巻いた205系が導入された…が、数本投入されたとことである事件が発生する。東中野駅の追突時後で総武緩行線に車両不足が生じてしまったのである。これにより埼京線に投入予定だった205系を事故補填として二本投入した。帯色はカナリアだが従来のカナリアより色が薄く、レモン色っぽい色をしていた。しかしこれが多くまた弊害を巻き起こす。総武緩行線には東西線が直通している。当時東西線の直通運用に入っていた301系と103系1200番台はアルミシルバーに黄色の帯を巻いていた。これで黄色い電車は総武緩行線、銀色の電車は地下鉄東西線と案内されていたため、205系を東西線の新車だと思い込んで誤乗してしまう客が続出。あえなくして205系の種別表示器に各駅停車と掲出した上に、301系103系1200番台はグレーに青帯という新塗装に塗り替えることとなった。 この一連の騒動が落ち着いた1990年に埼京線への投入が再開された。結局埼京線には10両編成23本が導入され、1990年秋までには103系を置き換えた。 また同時に1989年から京浜東北にも京葉線に転属させた103系の補填用にスカイブルーの205系が10連4本投入されている。また特に老朽化が著しかった二本を置き換えるために1990年度に2本追加投入された。 これまた同時に京葉線でも快速運転をするため205系が投入されており、前面が大幅に変わっており、一般的にはこれをメルヘン顔と言うらしい。どの変がメルヘンなんだがは知らん。色はスカイブルーからワインレッドに変更された…のだが在来車両はスカイブルーのままとなっている。これはその辺に落ちてた101系をワインレッドに塗って見たらあまりにも似合わなかったというのが真相らしい。確かに血まみれ電車みたいで気持ち悪いな… 結局10連12本が増備された。 ここで山手線の205系に変化が起きる。輸送力増強のために11連になった。こういえばなんだ、ただサハくっつけただけじゃん。となるだろう。そう、ただサハくっつけただけなのだがそのサハがとんでもない車両なのである。形式名はサハ204。車体は101系からの伝統の片面四扉…じゃないのだ。じゃあ二扉?いやいや違う。側面にドアが六つついているのだ。そう、サハ204は片側六扉、一両に12個も扉がついている通勤輸送に特化した仕様で登場したのだ。1990年に試作車である901-902が登場した後に驚くべきペースで生産された。その間、通常の編成にどこから持ってきたかわからないようなサハ205を仮編成として京浜東北線のウラ4(のちのウラ91)借り、ヤテ35編成として運用した。 所変わってここは相模線。茅ヶ崎から厚木を経由して橋本へと至る路線だ。この路線は非電化であり、キハ35が走っていた。しかし相模線は1991年に電化路線として生まれ変わる。それに際し、特別仕様の205系が送られる事になる。全面は大きく変更され、半自動ドアボタンを装備した。うん、もう近郊型である。 昔から貨物が主体だった武蔵野線。ここもまた103系や201系の6連が爆音をあげて走っていた。しかし周りは住宅街。混雑するのに6連の103系などでは輸送力不足に陥り、京葉線仕様の205系メルヘン車を増備することになる。カラーは全面がオレンジ一色、側面が3色の上からオレンジ、白、茶色となり、第一編成は既存車に合わせて6連で投入された。その後、第二編成は10両で落成し、第一編成を組み替えて8連2本となり、その後数本増備される。 時は過ぎ去り1993年、革新的なコンセプトを持った901系(後の209系900番台)が誕生する。東日本がコストダウンのための独自設計を取り入れ、京浜東北線線のボロを追い出すべく投入された。この時に中央総武快速線、中央総武緩行線、横浜線で増発の話が上がっており、205系を捻出する必要があった。ここで南武線と京浜東北線から205系を捻出することになり、209系1次量産車を京浜東北線に3本、南武線に1本投入することになった。これにより横浜線に1本、総武緩行線に3本捻出され、205系で総武緩行線の201系を2本、中央総武快速線に転属させた。この時横浜線に増車が必要となり、205系の4扉車としては最後のサハ205 232が製造されている。このサハ205 232にはベンチレーターが銀色だったり側面の閉締確認灯の形状が異なっていたり、吊革が209系と同じ物になっていたりと、いろいろと特徴がある。 そして1996年、205系にも撤退の波が普及する…て早すぎないか?と思われるだろう。京浜東北線から205系が撤退したのである。それも置き換え対象であったハズの103系よりも早く。これは埼京線の恵比寿開業に伴い、3本205系が必要になったからであり、京浜東北線の205系が209系に置き換えられる形で約6年走った路線に別れを告げた。最後にはウラ91編成がヘットマークを掲げ、ラストランを務めた。 そして2000年代初頭、205系は大きく動く。 |
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こんにちは…というより凄くお久しぶりですね。こちらを更新したのってマジで何ヶ月ぶりだっけな…
今回から新章となりますが、今回は文字のみとなっております。ご理解とご協力を強制いたします。ではどうぞ。 『ステンレス鋼』。stain-less、要するに『汚れ-なし』という意味を持つ英語の造語である。その名の通り汚れや腐食に強く、錆びないことを活かして家具から生活雑貨まで様々な形に加工されて使われている。鉄道業界では試作車として東急車両がセミステンレス車両の東急5200系4両を試作。塗装のメンテが省けるなどのメリットがあり、やがてはオールステンレス車両の東急7000などに派生し、強く根付いていった。国鉄もセミステンレスのサロ95901-902(後のサロ111 900番台)や塩害が多い房総地区むけのオールステンレス車両、キハ35 901-905などが製作されたが試作車両としての扱いからは抜け出せず、量産はされなかった。その後国鉄は車両を鋼製に戻し、管理が雑な国鉄などに扱えるはずもないアルミなどに浮気しながらステンレスとは関係ない生活を送っていた。時は流れて1981年。国鉄は旧型国電駆逐兵器、103系を経て超高額省エネ車両、201系をたらたらと製造していた。しかし1980年代の国鉄の経営は火の車。高価な201系を無闇矢鱈と製造するにはコスト的な面で無理があった。それでもユニット窓を簡易化した201系軽装版などにモデルチェンジして頑張っていたが、いくら車体を安くしても床下のチョッパ制御機器が高いから意味がない。そして1984年、武蔵野線や横浜線で増発を行うために今度は103系40両を山手線から押し出さなくてはならない。ここで国鉄のお偉いさん方は201系を中途半端に投入するか完全新規の山手線向きの車両を開発するして103系を全部駆逐するかの決定を迫られる。201系を生産するならば設計料はかからないが山手線のような路線にはチョッパの効果が薄い。その上お高い。そしてその頃には211系に搭載される予定だった界磁添加励磁制御やボルスタレス台車、軽量ステンレス製車両の基礎が完成しており、国鉄は民営化を見据えて新型車両を新規制作することにする。しかしここである問題が発生した。当時、軽量ステンレス車は東急車両しか製造できなかったのだ。だか国有である以上、何処か一社のみに優遇することはできない。その解決策として、国鉄は東急車両に軽量ステンレス車の技術を強制的に開示させた。 1985年初め、山手線向きの新型車両が落成した。201系から引き継がれたブ左右非対称のラックフェイス、側面にビートが入った銀色の車体、簡略化された台車、そう、国鉄発のステンレス量産車『205系量産先行車』の誕生である。側面は201系軽装車と同じ方式の二段窓を装備し、ビニール製の帯を二本入れただけというすっきりとしたデザインになった。また床下は界磁添加励磁制御を国鉄の車両としては初搭載したのは勿論、ブレーキに電気指令式を用いたためにブレーキ配管が大幅に削減されている。205系量産先行車は東海道線などで試運転を重ね、1985年に運用入りを果たした。量産先行車が落成してから約半年後に山手線向きの量産車が製造された。これは1985年に開業する埼京線向けに103系180両を転出させる必要があったからの措置である。車体は新たに一段下降窓に変更され、それ以外は大きな変更は無く国鉄時代には山手線向き量産車10両30本が製造される。一方その頃、遠く関西の京阪神地区でも205系が導入される。彼らは7両編成を組み、4本が投入された。これにて国鉄は増備を終了し爆発する。なおこの205系たちは京阪神地区の7連4本がJR西日本が引き継いだ以外は前者JR東日本が引き継いでいる。 |
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E233はその後207、203置き換えを目的に常磐線に投入され、運用範囲を取手まで伸ばした。翌年には京葉線にも投入され、201、205を置き換えた。
思えば新世代型が出てからもう20年近くが経った。時にはプレハブ、銀箱電車などとバカにされることもあった。しかし彼らの輝かしい功績がなければ今、鉄道業界はどうなってただろうか?彼らの挑戦は紛れもない成功者である。成功者である彼らに祝福と共にこのような言葉を贈り、この〜『E』の血統〜 直流通勤型編を締めたいと思う。 〜E電よ永遠であれ〜 ここまで長い間ありがとうございました。今回の話はここで終わりです。 次は京急のあの種別について書いてきたいとおもいます。今後とも宜しくお願いします。 |
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2006年、第三世代の新系列車両が登場した。『E233系』である。まずは首都圏ではボロくなっていた201系(関西ではバリバリ現役)が活躍する中央快速線に投入された。その後青梅線、五日市線、富士急行にも投入された。車内には空気清浄機、つり革は抗菌仕様、シートは231より柔らかい。機器はIGBT-VVVFになった。そのほかに主要機器の二重化などがおこなわれた。このE233は順調に勢力を伸ばしていった。
第三章そして次世代へ:近日アップロード予定
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1998年10月、総武緩行線に新しい形式が投入された。『209系950番台』である。この車両が今後の『E電』を確立した。特徴はなんといっても拡幅車体である。この形式でデータを取った後に103系置き換え用の新形式を投入する予定だったが、その前に103の故障が頻発したため、つなぎ役として急遽0番台の床下+950番台の車体という車両が作られた。これが209系500番台である。その後2000年に『E231系』が登場する。まずは試作車に続き総武緩行線に投入された。その後、首都圏最後の103系ワールドだった常磐線にもE231が投入された。しかしE531の影響で280両から265両に変更され、結局103系3編成を2006年まで残存させることとなる。
この頃地下鉄用の103系や301系にも老朽化が進み、E231系800番台が投入られた。209系1000番台がベースとなっている。2006年に209系900番台3本置き換えのために総武線から209系500番台が3本京浜東北根岸線に転属した。失った3本を補うために231系が3本追加製造されたが、その3本はある形式に準じた仕様になった。
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