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天上天下唯我独尊

4月8日は花まつりです。
お釈迦様は甘露の雨の中で生まれ、『天上天下唯我独尊』と言われたと言い伝えられています。
この意味は、決して自分が偉いという意味でも、人間は孤独だと言う意味でもありません。
最後の言葉“尊”というところに大事な意味が隠れています。
“尊”というのは尊敬すること。敬意を示すこと。認めること。
誰を尊ずるか。それはまず自分自身ではないでしょうか。
現代は、自分自身を認められづらい世の中です。
少年の凶悪犯罪であっても、暴走族などであっても、誰かに自分を認めてもらいたい強烈な衝動から起きるものだと思います。
誰かに認めてもらいたいということは、自分を認めていないから。自分を認めるためには、無条件の愛情が降りかかっている事が必要ではないかと思います。
しかし、親であっても人間が人間である限り、お互いを認める事ができない時があります。
いつでも、どこでも、どの状態であっても見守ってくれている存在。それが“仏さま”の役割ではないでしょうか。
“仏さま”を思い、大事にすることは、自分自身を認めることにつながります。
その意味で、自分を認めることは、仏さまのみならず、他人や自然に感謝する気持ちを自然に持つことにもつながります。

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修証儀17−2後半

 肉体は当然に自我が所有しているものではない、命は年月のなかに移ろい暫くも停まるところがない。若き日の紅顔は何処に去ってしまったのかと、尋ねようにもその跡は無い。よくよく観じ念えば、過ぎ去った昔の出来事には二度と逢うことのないものが多い。真心も停まることなく、片々として浮雲のように漂っている。たとえ真というものがあるとしても、我が身の周辺に沿って停まっているものではない。

 今の生は来世に生まれ変わるための仮の生ではない、今の今こそが全てである、今を云い尽くす言語は来世の存在をも云い尽くすのである。今生の存在は来世の存在をも併せるのであるから、今生に在って仏となり仏祖となるなら、来世の仏をも超え来世の仏祖をも超えるのである。

 天法輪とは、身心から発する行動と行為としての言語によって法を説くのであるが、行為と言語との間に隙間があってはならないのだ。行為が言語によって確かに示される力量を体得し、言語が行為によって確かに示される力量を体得するのである。このようであるから、終日説きつづけることが、終日行うことなのだ。それは、行いえないところを行い、説きえないところを説くに等しい。

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修証儀16上ー4

 この縁起そのものである行持を現成する行持が、すなわちこれこそが、われわれがいま僧として日日にする修行の持続である。行持している時間としての「今」は、形而上の有ではなく形而上のものではない、行持の今とは、人の自発性としてする修行であるから自分から離れたりやってきたり出たり入ったりするものではない、今の連続なのだ。ここに今と云うのは、行持から離れている今ではない、「今」の現成は修行の持続である、修行の持続の現成を「今」と云うのである。

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