修証儀

[ リスト | 詳細 ]

記事検索
検索

全5ページ

[1] [2] [3] [4] [5]

[ 次のページ ]

修証儀17−2後半

 肉体は当然に自我が所有しているものではない、命は年月のなかに移ろい暫くも停まるところがない。若き日の紅顔は何処に去ってしまったのかと、尋ねようにもその跡は無い。よくよく観じ念えば、過ぎ去った昔の出来事には二度と逢うことのないものが多い。真心も停まることなく、片々として浮雲のように漂っている。たとえ真というものがあるとしても、我が身の周辺に沿って停まっているものではない。

 今の生は来世に生まれ変わるための仮の生ではない、今の今こそが全てである、今を云い尽くす言語は来世の存在をも云い尽くすのである。今生の存在は来世の存在をも併せるのであるから、今生に在って仏となり仏祖となるなら、来世の仏をも超え来世の仏祖をも超えるのである。

 天法輪とは、身心から発する行動と行為としての言語によって法を説くのであるが、行為と言語との間に隙間があってはならないのだ。行為が言語によって確かに示される力量を体得し、言語が行為によって確かに示される力量を体得するのである。このようであるから、終日説きつづけることが、終日行うことなのだ。それは、行いえないところを行い、説きえないところを説くに等しい。

開く トラックバック(1)

修証儀16上ー4

 この縁起そのものである行持を現成する行持が、すなわちこれこそが、われわれがいま僧として日日にする修行の持続である。行持している時間としての「今」は、形而上の有ではなく形而上のものではない、行持の今とは、人の自発性としてする修行であるから自分から離れたりやってきたり出たり入ったりするものではない、今の連続なのだ。ここに今と云うのは、行持から離れている今ではない、「今」の現成は修行の持続である、修行の持続の現成を「今」と云うのである。

修証儀16上ー3後半

 己を知るのが仏道修行であるから、己にも修行とはいかなるモノかがはっきりとしないのである、仏道修行は何かの因縁があって生ずるのであって、だから修行するのだろう発心するのだろうと誤って考えるのだが、そのような誤りは修行が人にとって特別なものではないことが理解されないからである。行持が縁起そのものなのだ、修行は縁起にかかわりがないのだからと、努めて学ばねばならない。

全5ページ

[1] [2] [3] [4] [5]

[ 次のページ ]


よしもとブログランキング

もっと見る

[PR]お得情報

ふるさと納税サイト『さとふる』
実質2000円で特産品がお手元に
11/30までキャンペーン実施中!
いまならもらえる!ウィスパーうすさら
薄いしモレを防ぐ尿ケアパッド
話題の新製品を10,000名様にプレゼント
いまならもらえる!ウィスパーWガード
薄いしモレを防ぐパンティライナー
話題の新製品を10,000名様にプレゼント
お肉、魚介、お米、おせちまで
おすすめ特産品がランキングで選べる
ふるさと納税サイト『さとふる』

その他のキャンペーン


プライバシー -  利用規約 -  メディアステートメント -  ガイドライン -  順守事項 -  ご意見・ご要望 -  ヘルプ・お問い合わせ

Copyright (C) 2019 Yahoo Japan Corporation. All Rights Reserved.

みんなの更新記事