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			<title>人見知り坊さんのスローライフ日記</title>
			<description>日々をシンプルに、大事に、そして笑顔で生きることがスローライフだと考えています。
仏教・東洋医学などの考えを基にして、日常生活の中でのスローを紹介していきたいと思います。</description>
			<link>https://blogs.yahoo.co.jp/bosan32000</link>
			<language>ja</language>
			<copyright>Copyright (C) 2019 Yahoo Japan Corporation. All Rights Reserved.</copyright>
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			<title>人見知り坊さんのスローライフ日記</title>
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			<description>日々をシンプルに、大事に、そして笑顔で生きることがスローライフだと考えています。
仏教・東洋医学などの考えを基にして、日常生活の中でのスローを紹介していきたいと思います。</description>
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		<item>
			<title>天上天下唯我独尊</title>
			<description>４月８日は花まつりです。&lt;br /&gt;
お釈迦様は甘露の雨の中で生まれ、『天上天下唯我独尊』と言われたと言い伝えられています。&lt;br /&gt;
この意味は、決して自分が偉いという意味でも、人間は孤独だと言う意味でもありません。&lt;br /&gt;
最後の言葉“尊”というところに大事な意味が隠れています。&lt;br /&gt;
“尊”というのは尊敬すること。敬意を示すこと。認めること。&lt;br /&gt;
誰を尊ずるか。それはまず自分自身ではないでしょうか。&lt;br /&gt;
現代は、自分自身を認められづらい世の中です。&lt;br /&gt;
少年の凶悪犯罪であっても、暴走族などであっても、誰かに自分を認めてもらいたい強烈な衝動から起きるものだと思います。&lt;br /&gt;
誰かに認めてもらいたいということは、自分を認めていないから。自分を認めるためには、無条件の愛情が降りかかっている事が必要ではないかと思います。&lt;br /&gt;
しかし、親であっても人間が人間である限り、お互いを認める事ができない時があります。&lt;br /&gt;
いつでも、どこでも、どの状態であっても見守ってくれている存在。それが“仏さま”の役割ではないでしょうか。&lt;br /&gt;
“仏さま”を思い、大事にすることは、自分自身を認めることにつながります。&lt;br /&gt;
その意味で、自分を認めることは、仏さまのみならず、他人や自然に感謝する気持ちを自然に持つことにもつながります。</description>
			<link>https://blogs.yahoo.co.jp/bosan32000/50231897.html</link>
			<pubDate>Mon, 09 Mar 2009 07:20:22 +0900</pubDate>
			<category>練習用</category>
		</item>
		<item>
			<title>修証儀１７－２後半</title>
			<description>　肉体は当然に自我が所有しているものではない、命は年月のなかに移ろい暫くも停まるところがない。若き日の紅顔は何処に去ってしまったのかと、尋ねようにもその跡は無い。よくよく観じ念えば、過ぎ去った昔の出来事には二度と逢うことのないものが多い。真心も停まることなく、片々として浮雲のように漂っている。たとえ真というものがあるとしても、我が身の周辺に沿って停まっているものではない。</description>
			<link>https://blogs.yahoo.co.jp/bosan32000/49905339.html</link>
			<pubDate>Fri, 27 Feb 2009 06:39:35 +0900</pubDate>
			<category>練習用</category>
		</item>
		<item>
			<title>修証儀１６下ー４８中盤</title>
			<description>　今の生は来世に生まれ変わるための仮の生ではない、今の今こそが全てである、今を云い尽くす言語は来世の存在をも云い尽くすのである。今生の存在は来世の存在をも併せるのであるから、今生に在って仏となり仏祖となるなら、来世の仏をも超え来世の仏祖をも超えるのである。</description>
			<link>https://blogs.yahoo.co.jp/bosan32000/49905254.html</link>
			<pubDate>Fri, 27 Feb 2009 06:30:07 +0900</pubDate>
			<category>練習用</category>
		</item>
		<item>
			<title>修証儀１６上ー３５前半</title>
			<description>　天法輪とは、身心から発する行動と行為としての言語によって法を説くのであるが、行為と言語との間に隙間があってはならないのだ。行為が言語によって確かに示される力量を体得し、言語が行為によって確かに示される力量を体得するのである。このようであるから、終日説きつづけることが、終日行うことなのだ。それは、行いえないところを行い、説きえないところを説くに等しい。</description>
			<link>https://blogs.yahoo.co.jp/bosan32000/49905194.html</link>
			<pubDate>Fri, 27 Feb 2009 06:23:47 +0900</pubDate>
			<category>練習用</category>
		</item>
		<item>
			<title>修証儀１６上ー４</title>
			<description>　この縁起そのものである行持を現成する行持が、すなわちこれこそが、われわれがいま僧として日日にする修行の持続である。行持している時間としての「今｣は、形而上の有ではなく形而上のものではない、行持の今とは、人の自発性としてする修行であるから自分から離れたりやってきたり出たり入ったりするものではない、今の連続なのだ。ここに今と云うのは、行持から離れている今ではない、「今」の現成は修行の持続である、修行の持続の現成を「今」と云うのである。</description>
			<link>https://blogs.yahoo.co.jp/bosan32000/49905131.html</link>
			<pubDate>Fri, 27 Feb 2009 06:18:01 +0900</pubDate>
			<category>練習用</category>
		</item>
		<item>
			<title>修証儀１６上ー３後半</title>
			<description>　己を知るのが仏道修行であるから、己にも修行とはいかなるモノかがはっきりとしないのである、仏道修行は何かの因縁があって生ずるのであって、だから修行するのだろう発心するのだろうと誤って考えるのだが、そのような誤りは修行が人にとって特別なものではないことが理解されないからである。行持が縁起そのものなのだ、修行は縁起にかかわりがないのだからと、努めて学ばねばならない。</description>
			<link>https://blogs.yahoo.co.jp/bosan32000/49905071.html</link>
			<pubDate>Fri, 27 Feb 2009 06:11:25 +0900</pubDate>
			<category>練習用</category>
		</item>
		<item>
			<title>修証儀１６上ー１</title>
			<description>　仏祖の仏道修行には、かならず一生を捧げる行持がある。それは環のように切れ目がなく、発心と修行と覚りと涅槃の境地との間には、少しの隙間もない、これらは別々のものではないのである。こうしたことから、行持は自らに強いてするものではなく、他から強いられるものでもなく、何者にも妨げられぬ自ずとなる修行の持続である。</description>
			<link>https://blogs.yahoo.co.jp/bosan32000/49905045.html</link>
			<pubDate>Fri, 27 Feb 2009 06:07:59 +0900</pubDate>
			<category>練習用</category>
		</item>
		<item>
			<title>納棺夫日記</title>
			<description>青木新門　文春文庫&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
P72&lt;br /&gt;
生きている間に、どのような悪や善を行ったか知らないし、信仰が篤いとか薄いとか、宗教が何派だとか、宗教そのものに関心があるとか無いとか、そんなことにも関係なく、死者の顔が安らかな顔をしているように思えてならない。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
P102&lt;br /&gt;
生への執着がなくなり、死への恐怖がなくなるということは、煩悩が消滅し生死を超越したということであり、安らかな清らかな気持ちになるということは，寂滅〈涅槃〉を得たということであり、すべてを許す心になったということは、善悪を超越したということであり、あらゆるものへの感謝の気持ちがあふれ出るということは、回向のことにほかならない。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
P103&lt;br /&gt;
親鸞以前までの回向は、自分の積んだ善根を仏のほうへさしむけることであったが、親鸞は逆に、仏の方から衆生の方へ向かうのが回向であるとした。そして、仏への感謝が往相回向で、その仏からの慈悲が観相回向であるとし、この二種の回向がおのずから同時にはたらく現象を、光如来の本願ととらえたのである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
P105&lt;br /&gt;
〈仲間〉&lt;br /&gt;
死という&lt;br /&gt;
絶対平等の身にたてば、&lt;br /&gt;
誰でも&lt;br /&gt;
許せるような気がします&lt;br /&gt;
いとおしく&lt;br /&gt;
行き交う人も&lt;br /&gt;
なにか温かい思いが&lt;br /&gt;
あふれでます&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
P107&lt;br /&gt;
他力とは、如来が成仏させるのであって、人間が沙汰することではない。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
P109&lt;br /&gt;
　釈迦の説いた仏教の教理は、すべて実践との関係においてのみ意義が認められているのであって、実践に関係の無い形而上学の問題には、釈迦は答えられていない。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
P134&lt;br /&gt;
　本来、原生生物には死がないといわれている。単純な分裂によって増殖し、その過程で一切の死骸に相当するものを残さないそうである。&lt;br /&gt;
　このほうが自然の摂理に叶っているのであって、高等生物の自然死は、有機体が複雑に進化し、不完全な統合しかできなくなって引き起こされる付帯現象であるという。&lt;br /&gt;
　要するに、死ぬということは、有機体が複雑になったがゆえに生じた不完全さの結果であるというわけである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
P137&lt;br /&gt;
　末期患者には、激励は酷で、善意は悲しい、説法も言葉もいらない。&lt;br /&gt;
　きれいな青空のような瞳をした、すきとおった風のような人が、側にいるだけでいい。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
P200&lt;br /&gt;
　「根源的現象に出会うと、感覚的な人たちは驚嘆の中へ逃げ込むし、知性的な人たちはもっとも高貴なものを最も卑俗なものと結びつけて分かったと思おうとする」ゲーテ〈蔵言と省察〉</description>
			<link>https://blogs.yahoo.co.jp/bosan32000/49596288.html</link>
			<pubDate>Wed, 18 Feb 2009 07:38:28 +0900</pubDate>
			<category>練習用</category>
		</item>
		<item>
			<title>小説　ブッダ</title>
			<description>ティク・ナット・ハン　著&lt;br /&gt;
池田久代　訳&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
P76&lt;br /&gt;
この世のすべてのものは本質的に独立した実体がなく、たがいに依存しあっている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
P90&lt;br /&gt;
〈気づき〉の生活は、今この瞬間を十分に生きることです。自分のなかや身のまわりで起こっていることに気づき、毎日の生活にいつも触れながら暮らしてみてください。このように生きられたら、自分自身と自分の住む環境を深く理解することが出来ます。理解は忍耐と愛に繋がっている。みんながお互いを理解すれば、お互いを受け入れ、大切に思うようになる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
P149&lt;br /&gt;
宇宙の成り立ちを説明することではなく、みんながそれぞれの直接体験をとおして、ものごとの真のありようを知る手助けをすることなのです。言葉では実在の真のありようを語れません。直接体験によってのみ実在の真の姿を見ることができるのです。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
P165&lt;br /&gt;
自分の心に平和と喜びなくして、真に他者を助けることはできない。&lt;br /&gt;
深く理解する心を育てることによって、愛する力を深めることができる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
P197&lt;br /&gt;
苦しみにもふたつの種類があります。私たちの心や身体をかき乱すだけの苦しみと、いたわりと責任をはぐくむ力を持つ苦しみです。〈慈悲〉にもとづく愛は、他者の苦しみに関わっていく力を生み出し、執着や欲望にもとづく愛は、不安やさらに大きな苦しみを生みだします。慈悲は苦しみを減らす行動を促進するための燃料となるのです。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
P226&lt;br /&gt;
もっとも重要な戒律は四つ(四重禁)&lt;br /&gt;
性的関係を持つなかれ、盗むなかれ、殺すなかれ、悟ってもいないのに悟ったと偽りを言うなかれ。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
P228&lt;br /&gt;
「私たちは真実の心という土地に信仰という種を蒔きます。〈気づき〉という鋤と、勤勉な修行という水牛で耕して、愛と理解を収穫するわけです。あなたの心に信仰と理解と愛がないとしたら、人生は苦しみばかりではありませんか」&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
P230&lt;br /&gt;
怒りを克服するためには慈しみを学びなさい。慈しみはいっさい見返りを求めることなく、他者に幸福をもたらします。残酷さを克服するにはあわれみを学びなさい。あわれみはいっさいの見返りを求めることなく、他者の苦しみをとり除きます。憎しみを克服するために共感する喜びを学びなさい。共感する喜びは、他者の幸福を喜び、他者の幸福や成功を望むときに生まれるもの、偏見を克服するために無執着を学びなさい。無執着は全てをひらかれた心で平等に見る力です。かれあるがゆえにこれあり。これあるがゆえにかれあり。自分と他人はわけることができません。あれを追っているからといって、これを拒んではならないのです。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
P230&lt;br /&gt;
「息を吸いながら、あなたは今息を吸っていると気づく。息を吐きながら、今あなたは息を吐いていると気づく。この呼吸の瞑想をおこなうときは、心を息だけに集中すると、心があれこれ思いをめぐらせなくなり、〈気づき〉のなかに安住できる。自分の息に気づくと、〈気づき〉のなかに安住し、〈気づき〉のなかに安住すると、いろいろな思いが浮かんできても、それに迷わされなくなる。たった一度の呼吸であなたはめざめることができる。めざめとは、万物のなかに存在する仏性そのものである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
P273&lt;br /&gt;
この世から逃避しても悟りや自由が得られるわけではありません。万象の本質を深く見つめてはじめて得られるのです。&lt;br /&gt;
不殺生戒とは、自らも故意に殺してしまうことも含まれる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
P287&lt;br /&gt;
すべての思想や教義は知覚や感覚に迷わされて作り上げられたものです。〈気づき〉の修行をしなければ、知覚や感覚の真の性質を知ることはできません。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
P298&lt;br /&gt;
人はたやすく四つの罠にかかります。ひとつめは肉欲への執着です。ふたつめは狭い了見への執着、三つめは疑惑と猜疑心、四つ目は実態いぇ事故についての間違った考え方です。〈悟りの道〉は、みなさんが、この四つの大きな罠を克服するたすけとなります。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
P303&lt;br /&gt;
「やさしさ、慈悲、喜び、平静は、賢者や有徳の士に支持され奨励されるでしょうか」&lt;br /&gt;
「はい、奨励されます」&lt;br /&gt;
「みなさんは、何を受け入れ、何を捨てたらよいか見分ける能力をすでにお持ちです。ですから、みなさんの理性にかなうもの、賢者や有徳の士に支持されるもの、そして実践において利益と幸福をあなた自身や他者にもたらすものだけを信じ、受け入れるようにしてください。この原理に反するものは捨てるべきです。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
P306&lt;br /&gt;
「川岸に止められるとは、六つの感覚器官（六処）とその対象物（六境）にからめとられてしまうことです。流木が沈むとは、欲望や貪欲の奴隷になって、修行に必要なエネルギーを奪われること。浅瀬に座礁するとは、いつまでもぐずぐずと自分の欲望を満たすことばかり思い煩い、悟りという目的を忘れ、おのれの利益や名声ばかりを求めること。川から引き上げられるとは、修行に打ち込まず、よからぬ仲間と道草を食って自分の心を乱すことです。渦に巻き込まれるとは、五つの快楽、つまり、美食、セックス、金銭、名声、惰眠に耽ってしまうこと。すっかり朽ちてしまうとは、偽善的な暮らしをすること、すなわち、仏法を自分の欲望を達成する道具に使って、サンガを欺くことですよ。&lt;br /&gt;
　比丘たちよ、あなたがたが勤勉に修行をし、この六つのわなを避けるならば、一本の流木がすべての障害を越えて海へとたどりつくように、あなた方も必ず悟りという果実を手にするでしょう」&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
P314&lt;br /&gt;
すべてのものは他から独立して存在する〈自己）(我）を持たない。だから空だといったのです。六処、六境、六識のどこにも、他から独立して存在する〈我〉を持つものはないのです」&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
P315&lt;br /&gt;
すべてのものが〈空〉だというのは、すべてのものが、永遠不変の〈我〉を欠いているということを意味するのです。これが、すべてのものが〈空〉だということです。またみんな良く知っているように、すべてのものは変化し消滅するものですね。それゆえに、すべてのものは、他から独立した個別の〈我〉を持つとはいえないわけです。他から独立した個別の〈我〉がないことを瞑想して見てとるのが、〈空〉を瞑想するということなのです。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
P318&lt;br /&gt;
〈空〉の基本的意味は､これがあるのはあれがあるからだ､ということなのですよ&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
P331&lt;br /&gt;
〈空〉は非存在ということではありません。何ものも独立しては存在しないという意味であり､他と切り離された個別性､〈我〉がないということです。みんなすでに知っているように､『ある』と考えるのも､『ない』と考えるのも､どちらも間違っています。すべてのものはたがいに依存しあって存在しているからです。かれあるがゆえにこれあり。かれなければこれなし、かれ生ずればこれ生ず。かれ滅すればこれ滅す。このように、空の本質は相互依存的な存在なのです。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
P373&lt;br /&gt;
現在と未来､共に幸福を育てる道こそが、求めるべきもっとも賢い道なのです。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
P403&lt;br /&gt;
ブッダの教えの根本は、四念住、四正勤、四神足、五根、五力、七覚支、八正道です。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
公案&lt;br /&gt;
・”法”とは自然の成り立ち。動き、摂理&lt;br /&gt;
・罪は、思っているときも、手を出しているときも同じ罪である。&lt;br /&gt;
・意識によって世界は動き､成り立っている。&lt;br /&gt;
・”法”とは、経ではなく､世界全てがただつながっていることである。</description>
			<link>https://blogs.yahoo.co.jp/bosan32000/49297819.html</link>
			<pubDate>Tue, 10 Feb 2009 07:37:49 +0900</pubDate>
			<category>練習用</category>
		</item>
		<item>
			<title>明るいチベット医学</title>
			<description>大工原彌太郎&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
P21&lt;br /&gt;
チベット医学では、各臓器、個々の働きより、からだの生命力（ツァ）がどうであるかを診るのです。数値のように範囲を固定したものではなく、からだを生かしている”ツァ”が、どう働いているかを診て全体の流れの中で、異常をとらえようとするのです。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
P88&lt;br /&gt;
チベット医学では、人間のからだには生き物そのものがもっている命の時間というのがあると考えます。それはボールを投げて落ちてくるまでに描かれるところの、ゆるやかな放物線のような流れで、チベット語で「ツェ・ツェ」といいます。たとえば草なら草の芽が出て、伸びて、枯れていくまでの、静かな命の始まりから終わりまでの時間（ライフスパン)です。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
P89&lt;br /&gt;
病んでいることは忌むべきものでなく、他人より劣るものではない。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
P90&lt;br /&gt;
成長期にある子どもの場合は、からだがいったん調子を崩すことによって、その子の個体に合った生命規律(バイオリズム)を崩しているということがあります。すこしづつ病気しつつ、元に戻っていくことで、振幅の中心を探している。右に揺れたり左に揺れたりして、復元しつつ中心線に戻ることにより、その子の固有な慣性がついていくのです。からだはそういう経験を経て、自分なりの勢いと、それに見合ったリズムをつくり、生命力をつけていくのです。このときに過剰な対応をすると、中心線を見失うことになります。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
P132&lt;br /&gt;
犯罪心理学上、凶悪犯は、痛い痒いの感覚の鈍いケースが多い。&lt;br /&gt;
それは、私たちは場の雰囲気を、目とか耳とかだけでなく、よくいう第六感でとらえていることがありますが、それは皮膚感覚、つまり（乳頭体）でとらえているのです。ところがその人たちは皮膚感覚が鈍いため、場の状況がつかみにくい。したがって、自分のからだがその状況になじめない。ー疎外を意識するー不快を感じるーその解消をはかる（凶行に及ぶ）－というプロセスです。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
P154&lt;br /&gt;
食べ物を分解摂取する消化酵素の向きは、二歳から五歳くらいの間に決まるのです。&lt;br /&gt;
癌になった人にどんな食生活をしていたか聞いてみると、郷里では米や野菜を食べていたが、都会に出てきて肉や加工食品が中心になったというようなケースが多い。途中で食べ物を変えると、消化酵素を分泌するリズムが狂い、からだを形成する質に異常が出てくるのです。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
P172&lt;br /&gt;
インドでは昔から、姿勢というものは、「背筋をまっすぐに伸ばす。足元は見ない。目は立っては身長の四倍、座しては二倍の前下方を半眼で見据える…」のが正しいあり方とされています。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
P214&lt;br /&gt;
痛みとか苦しみ、それをその場だけに限定して、早くこの苦しみをどうにかしたいと考えている間は、からだの質が乱れている。葛藤している中ではほんとうの生きる勢いというのは出てこないのです。&lt;br /&gt;
病に至った経緯をよく観察し、改めるべきものは改めて、体を尊いものとして扱う。そしてやはり、苦しみはあるけれど自分はそれとは関係なく生きていく（からだに生きつづけてもらう）という姿勢をとったときに、病気というのは治りやすいものなのです。&lt;br /&gt;
　他力本願で、痛みも命も人まかせというのでは、どんなにすぐれた医術を施してもプラスの方向に向くとは思えません。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
P222&lt;br /&gt;
インドでは、外科手術よりも、自分自身でからだの様子を探っていくという方法をとります。&lt;br /&gt;
自分のことは自分で片付ける。自分の範囲で考える。他人からも奪わない。たとえ死が迫ってきても、自分の範囲で起きる死であって、それは他人よりも優先させられるべき死ではない、と考える。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
P229&lt;br /&gt;
チベットの古派仏教の考え方は死んだらあの世も極楽もないという現実的な考え方です。&lt;br /&gt;
　彼らにとって、死は、満ち足りた、そして余力を残したものでありたいのです。苦しんでのたうちまわってなにがなんだかわからなくなっての死というのではなく、最終的に、自分の生を見つめて死にたいのです。だから延命医療とはまったく逆で、死にかかっている人を元気づけることで、改めてスッキリと死なせるのです。&lt;br /&gt;
　命を長らえるのが医療だとすればまったく反対の行為ですが、チベット医学のもとになる仏教では、お釈迦様がいっているのです。「坊さんは生き死にのことにかかわるな。生き死にがどうにかできると思うな」と。苦しみを救うのは坊主として医者として当然ですが、命をどうこうしようというのは僭越といっているのです。&lt;br /&gt;
　実際、命はいつまでも長らえるわけではありません。今長らえたとしてもせいぜい苦しみがあとに持ち越されるだけのことですし、だからチベット医学では、助けようと必死になるよりも、むしろその人が体力をもったまま、心残りのないように死なせようとするのです。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
P232&lt;br /&gt;
　インドやチベットのように、死に臨んでジタバタしない、キチンと終わりを見届けることが大事です。&lt;br /&gt;
だれもが己の生涯をふり返って、反芻し、うなずき、心安らかに死んでいきます。私はそういう死こそ人間らしい、尊厳ある死だと思うのです。&lt;br /&gt;
　日本のように、命を長らえさせることが優先して、あらゆる延命治療を施し、器具にからだを繋がれ、無抵抗なまま死んでいくというのは、個人の主体性を無視した死であり、それこそ生命の尊厳を無視しているのではないか、死んでいく本人にとっても、これほど悔しいことはないのではないかと思うのです。&lt;br /&gt;
　家族や医師は、「できるだけのことをした」といいますが、それは本人のためというより、まわりが安心したいがためにそうしているのではないでしょうか。死は、本人が納得し希望するかたちで迎えさせてあげることこそ最良の方法だと思うのです。</description>
			<link>https://blogs.yahoo.co.jp/bosan32000/47710137.html</link>
			<pubDate>Sun, 28 Dec 2008 07:46:55 +0900</pubDate>
			<category>練習用</category>
		</item>
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