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『神奈川県神社誌』の西俣野の項には御嶽大神と神明社の二社が記載されているだけである。従って『神奈川県神社誌』から西俣野左馬神社の由緒沿革を知ることは出来ない。
庶民の信仰に神礼寺の影響が大きく、広範囲に広がっていたことは地神塔の分布が語っている。『郷土いずみ』第3号の藤縄勝祐「珍しい地神像」は以下の文を報告している。
横浜市戸塚区俣野のドリームランドの外周道路に面して、西北の角に当たる場所に変電所があり、その横に石塔が二基立っている。一つは文字の庚申塔で、もう一つは1829・文政12年の地神塔であり、
庚申塔の台座と地神塔の側面に「下和泉村」と書かれている。地神が像の形で伝えられているのは珍しい(この石像は他の場所に移されて所在不明)。この地区の周辺には多数の地神塔、堅牢地神塔があり、
全国的に見ても地神密集地区である。これを成立させた地神講も盛んで、一部では今も行事を続けているようである。
この地区の地神像塔は、境川対岸の藤沢市西俣野にある御岳神社にその許がある。明治以前、その地は神礼寺文殊院と称して当山派修験の一大霊地であったのである。その神礼寺は堅牢地神を祀り、
地神信仰のセンターであった。ここで配られたお札は県下は勿論、現在の町田付近まで広く分布しているようだ。御岳神社はその神礼寺の境内社であった。
明治維新の神仏分離令とそれに便乗した廃仏毀釈の波はこの草深い地にも容赦なく襲い、神礼寺は破却され御岳神社のみが残った。現在の御岳神社には一本の立て札以外には地神信仰の片鱗もない。
その代わりに神道系の信仰である猿田彦大神の碑が多数立てられている。この神礼寺の影響で作られたと思われる地神像塔は、『神奈川の石仏』が12基を挙げ、例えば寒川町田端、藤沢市藤沢(庚申塔のもの)、
同柄沢、横浜市保土ヶ谷区仏向町、港南区上大岡、綾瀬市上土棚、鎌倉市玉縄などを挙げている。
神礼寺系の地神像の特長は、一面ニ臂の忿怒相で、右手に長柄の三戟を突きたて、左手は鮮花を盛った鉢を胸下にささげて直立している。
女神の地神像もある。上飯田の鎌倉道を真直ぐ北上し下瀬谷に入って直ぐの全通院勢至堂の石段下に堅牢地神の文字塔があり、その隣に少し崩れている女神と思われる石像塔がある。これは近くの路傍にあった
「ジチン様」と呼ばれていたものを移したものであると、勢至堂を菩提寺としている仙田氏が語っている。境川の対岸の上和田左馬神社の境内柵に並んでいる石造物中の中に表面が崩れ側面に
「地神供養」と書かれた女神仏像(本ブログ8月8日)がある。仏典にはそのご利益が、『金光明最勝王経』の「堅牢地神品」に見え、経典や絵画には女神として表現されているという。地神像を女神像として表現したのは、教典に忠実であったのだ。 続く
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堅牢地神像について、勉強になりました。ありがとうございます。
神礼寺文殊院についても,初めて知りました。
2009/10/7(水) 午前 0:24 [ 亀子 ]
ご訪問とコメント有り難うございます。また秦河勝の鎌倉も参考になりました。ところで日本の中世史に重大な役割を果たした波多野氏は、秦野市の秦氏の子孫と推測されており蓑毛の大日堂境内の不動堂の前庭の右側・金目川側の地蔵堂の前を通る山道に沿った場所に、自然石で作られた古い石碑があり(建立者?)秦川勝の文字が刻まれています。石碑の由来を語る記録をご存知でした教えてください。
2009/10/8(木) 午前 11:42 [ bos*t*uyo*de*o ]
石碑について、何も語ることが出来ず、残念です。
秦野の大日堂の経緯を測りました。35度24分47秒で出雲大社の13秒に近い。139度13分52秒で私のHPの「56、57 鷹取山のタカ2」の新島ー粟島ライン16分46秒に近いです。陰陽師は正確なので、近いって言うのでは意味が無いんですけど。ご参考まで。宣伝です。
http://homepage.mac.com/kamekokishi/takatoriyama.html
http://homepage.mac.com/kamekokishi/takanoshi.html
2009/10/9(金) 午後 3:41 [ 亀子 ]