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信仰と宗教の略史

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⒡おわりに
 
‐‐‐‐‐‐ ‐‐、倶梨迦羅不動の信仰は、かっては多くの寺社の縁起にみられたにもかかわらず、現在ではあまり盛んではないようで、
 
一般に不動明王は、代表的な仏であり、様々な現生利益のことで信仰されることがおおかった。
 
現在では、成田山に代表されるように交通安全を最大の現生利益として主張する事例がおおい。
 
倶梨迦羅不動の例にあてはめてみると、(本節で見てきたように)、その時期の現生利益をうまくとらえることが出来たもののみが、
 
その信仰を維持しえたと‐‐‐‐‐‐ ‐‐‐‐‐‐‐ ‐‐‐‐‐ 。それが、倶梨迦羅不動寺や七宝瀧寺の姿であろう。
             『不動信仰』読書終わり
 廻船業についていうと1841・天保12年からの天保の改革による株仲間の解散や1858・安政5年の日米修好通商条約による開港、
 
その結果起こった従来の江戸・大坂を結ぶ流通に変化が起こった影響などが考えられる。
 
そして、明治初年の廃仏毀釈のために、一時は堂社などもあれはて、仏像や史料などもかなり散逸‐‐‐‐‐‐ ‐‐‐‐‐‐‐ ‐‐‐‐‐ 
 
徐々に復興し、『南海鉄道案内』上巻では、伽藍の案内に続き、寺僧の語るところとして、
 
 講中は、大阪、堺、和歌山、神戸、兵庫、其の他丹波、播磨、泉州などに沢山あります。‐‐‐‐‐‐ ‐‐‐‐‐‐‐ ‐‐‐‐‐ ‐‐‐‐‐‐ ‐‐‐‐‐‐‐ ‐‐‐‐‐ ‐‐‐‐‐‐ ‐‐‐‐‐‐‐ ‐‐‐‐‐ 一昨年より僧坊の建築に着手し、本年中に落成の筈、‐‐‐‐‐‐ ‐‐‐‐‐‐‐ ‐‐‐‐‐ ‐‐‐‐‐‐ ‐‐‐‐‐‐‐ ‐‐‐‐‐ 鉄道が通じて‐‐‐‐‐‐ ‐‐‐‐‐‐‐ ‐‐‐‐‐ ‐‐‐‐‐‐ ‐‐‐‐‐‐‐ ‐‐‐‐‐ 鉄道の便によって諸府県の紳士淑女も自由に登臨するようになりますから、いよいよ犬鳴の勝(価値?)が天下に顕れませう。
 
とあって、‐‐‐‐‐‐ ‐‐‐‐‐‐‐ 明治の末頃にはほぼ江戸時代の伽藍を復興したようである。
 
戦後、修験道が復興し、近畿36不動尊霊場のひとつになり、現在では、命乞い不動として信仰されている。            続く
さらに『犬鳴山畧記』になると、あらたな効験として、
 
 文政八年‐‐‐‐‐ 以下‐‐‐‐‐‐‐ ‐‐‐ 引用文は原著書をお読みください‐‐‐‐‐ ‐‐‐‐‐‐ ‐‐‐‐‐‐‐ ‐‐‐‐‐ 
とあるように、眼病のことをいうようになる。
 
そして、七宝瀧寺の不動の指揮であるといい、当時すでに眼病の効験で有名であった河内の滝谷不動より優れていると主張したのである。
 
 もっとも、七宝瀧寺の本尊、倶梨迦羅不動は龍の姿であるので、雨乞いや海とは関連しても、眼病とは関連しにくい。そこで滝谷不動を引き合いにだして、
眼病のことを主張するようになったのである。
 
 年代的にはこのあとに、『葛嶺雑記』が入るのだが、この頃には、こうした書物をだして宣伝しなければならないような状況、
 
つまり、葛城修験やその信者に変化がおこり、
信仰が衰退に向かいつつあったように思われる。         続く
『和泉名所図会』には、犬鳴山七宝瀧寺の項で、
 
 燈明嶽 当山の絶頂をいう。 西の海面を闇夜に渡海の船、方角を失う時、当山の不動尊を念じる時、此峯に燈明輝くといふ。
 
とあって、大阪湾を航行するうち、方角がわからなくなった時には、七宝瀧寺の倶梨迦羅不動を念ずることで山頂に燈明が輝き、燈台の役割を果たした‐‐‐‐‐ ‐‐‐‐‐‐‐ ‐‐‐‐‐ 。これは、廻船業者の信仰を集めた証左となろう。
 
また、山中の本堂への参道沿いにある江戸末期の作と言う倶梨迦羅不動の石仏には石仏の下の岩に、
 
泉州堺住
 塩屋善兵衛
心願成就
 
と彫られており、‐‐‐‐‐ ‐‐‐‐‐‐‐ ‐‐‐‐‐ 仕入れに坂出方面にいった岐路、時化にあい船が転覆し店も左前になったところ、
 
犬鳴山七宝瀧寺が運気の守護で霊験があることを聞き、参詣したところ繁栄を取り戻したと説明されている。
 
このように廻船業者達の信仰を集めることで、その信仰圏も広げていったことと思われる。
                   続く
⒠七宝瀧寺の倶梨迦羅不動信仰の広がり
 
 ところで、宝瀧寺の倶梨迦羅不動に対して、人々はどのような願いを求めたのであろうか。‐‐‐‐‐ ‐‐‐‐‐‐‐ ‐‐‐‐‐ 
 
 先ず、『政基公旅引付』である。七宝瀧寺は、当時雨乞いの効験を‐‐‐‐‐ ‐‐‐‐‐‐‐ ‐‐‐‐‐ 
文亀元年720日条では、
‐‐‐‐‐ ‐‐‐‐‐‐‐ ‐‐‐ 引用文は原著書をお読みください‐‐‐‐‐ ‐
‐‐‐‐‐ ‐‐‐‐‐‐‐ ‐‐‐‐‐ 
とあって、日照りの程度により、まず大木の瀧宮(現火走り神社)での講雨誓願、雨が降らねば山中の七宝滝での祈願、
 
次には七宝瀧寺の本堂の不動明王へに祈祷、それでも降らない場合は滝壺に鹿の骨などの不浄の物を投げ込み、水神を怒らせることで雨乞いをしたことがみられる。
 
 七宝瀧寺は、荘園絵図として有名な「日根野村古絵図」にみられるように日根野を流れる樫井川の上流に‐‐‐‐‐ ‐‐‐‐‐‐‐ ‐‐‐‐‐ 雨乞いの寺として信仰を集めていた。その背景には、‐‐‐‐‐ ‐‐‐‐‐‐‐ ‐‐‐‐‐ 山内に多くの滝がみられること、‐‐‐‐‐ ‐‐‐‐‐‐‐ ‐‐‐‐‐ ‐‐‐‐‐ ‐‐‐‐‐‐‐ ‐‐‐‐‐ 
 
その本尊は、水神を想わせる龍が剣にまきつく姿をした倶梨迦羅不動であること。そして七宝瀧寺の修験者達の加持祈祷の活動があったことが‐‐‐‐‐ ‐‐‐‐‐‐‐ ‐‐‐‐‐ 
これが、「犬鳴山七宝瀧寺記」では、
寛永年中‐‐‐‐‐ ‐‐‐‐‐‐‐ ‐‐‐ 引用文は原著書をお読みください‐‐‐‐‐ ‐ ‐‐‐‐‐ ‐‐‐‐‐‐‐ ‐‐‐‐‐ 
とあって、
 
寛永のころに泉佐野の廻船業者が相模大山の不動から犬鳴山の不動のすぐれていることの夢告をうけた。これをきっかけに倶梨迦羅不動を本尊とする七宝瀧寺が次第に信仰を集めていったことが記述されている。 
 
江戸時代七宝瀧寺の復興に当たり、江戸・大阪間の南海路の菱形廻船や樽廻船といった廻船業の発達とあいまって、新しい効験を主張する姿がうかがえる。          続く

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