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シルバー生活初級編
平成30年3月定年退職してシルバー生活始めました。
いつもご訪問いただきありがとうございます。

都合により「シルバー生活初級編」しばらくお休みさせていただきます。

(いろいろ多忙のためで、体調不良等ではありません)

いつ再開するかはまだ決めていませんが、その節にはまたよろしくお願いいたします。


(続き)
というわけで、伯父の遺骨はまだ硫黄島のどこかにあるはずなのです。20才で故郷から遠く遠く離れた南の島で、いったいどんな気持ちで亡くなったのだろうなと思うと切ないです。

映画「硫黄島からの手紙」がテレビで放映されたことがあって見たのですが、なんか泣けてきましたね・・・。

父はそのころ、東京の立川にある工場で戦闘機「隼(はやぶさ)」をつくっていたそうです。やはり戦争末期には空襲を受けて死ぬところだったけど何とか運良く生き残ったそうです。

米軍の爆撃機B29がたくさん飛んできて、どんどん爆弾を落としていくんだけど、日本軍は何もできなかった。迎撃用の高射砲を撃つんだけど、超高空を飛ぶB29には全く届かず、むなしく空中で爆発して破片が落ちてきて、その破片にぶつかっても死んでしまうので大変だったそうです。

一度、至近距離で爆弾が爆発したときは、爆発した光は見えるけどなぜか爆発音は聞こえなかったと言ってました。そのとき死んでてもおかしくなかったけど、人が入るぐらいの大きくて丈夫な木製の道具箱が吹っ飛んで自分の上に被さってきたので、破片などが体に当たることがなく軽傷で済んだそうです。

近くにはばらばらになった人の体も散乱していてひどい状況だったそうです。まあ、父は幸いにも生き延びて無事に故郷に帰ってきたのだそうです。

うちには今でも父親が工場で使っていたという、金属製の定規(インチとセンチが両側に目盛ってあります)が置いてあります。あとは空襲の後に近くの柱に突き刺さっていた日本軍高射砲弾の破片もあります。
(続く)

(続き)
というわけで、私の母は、戦死した自分の父をおまつりするための儀式の折に、昭和天皇のお姿を間近で見たことがあったそうです。戦中のことです。(東条英機さんが首相だったころですから)

さて、実は私の父の兄も戦死しています。亡くなったのは太平洋戦争末期の平成20年のことです。戦死した場所は硫黄島です。クリントイーストウッド監督の映画「硫黄島からの手紙」で描かれた激しい戦いの中で戦死しました。

ウィキペディアで見てみると、日本軍では「守備兵力20,933名のうち20,129名(軍属82名を含む)が戦死した」となっています。この「軍属」の一人が私の父の兄に当たる人です。

戦死したのは3月19日となっていますが、実際にはどこでどのように亡くなったのかは分かっていないはずです。「硫黄島から手紙」で渡辺謙さんが演じた硫黄島司令官の栗林忠道大将でさえ、いつどこでどのように亡くなったのか詳しくは分かっていないのですから、軍属の一人にすぎなかった伯父のことは分かるはずもなく、おそらく全滅した前後の適当な期日を命日としたのでしょう。

戦後に骨壺が送られてきたけれども、遺骨は入っていなくて名前の書いた紙が一枚入っていただけだったということです。

子どものころ、祖父母に伯父のことをきくと「戦争の時に硫黄島で、病気で死んだ。体が弱かったから。」と言っていました。分かるはずないので、ただアメリカ軍に砲撃されたり銃撃されたりして死んだと思いたくないので「病死」と言っていたのだろうと思います。
(続く)

(続き)
昭和20年の終戦までは、天皇陛下は現人神とされ、一般人がお姿を直接見ることなどはとてもとてもできなかったと思われる。しかし私の母は、お姿を直接見たことがあったそうである。

母は昭和6年生まれであるが、父親は幼いころに中国戦線で戦死しており、ほとんど父の記憶はなかったそうである。しかしおそらく10代前半のころと思われるが、戦死した父が靖国神社に英霊としてまつられることになり、東京に招待されたようである。

母と似たような世代の少女達がおおぜい、靖国神社の参道の両側にきちんと並び、膝をついてすわっていたのだそうだ。拝殿の前のあたりだろうか?拝殿と本殿の間の場所なのだろうか?それは分からない。

みんな緊張してすわっていたが、宮内庁の職員であろうか?担当者が説明してくれたそうで「陛下と総理(東条英機さん)が皆の前をお通りになるが、姿勢を正して顔を上げているように。」と言われたそうだ。

まもなく、天皇陛下、東条首相、と戦死者名簿を高く捧げ持った従者が一列になって母達の前を通っていったそうだ。

私が母から聞いた記憶では「戦死者の名簿を捧げ持った従者・天皇陛下・東条首相」の順で通ったと聞いたような気がするのだが、おそらくは私の記憶違いだと思う。「天皇陛下・従者・東条首相」だったのだろう。

母は、自分の父の名簿が東条首相よりも前を進んでいるところを見て「自分の父は、総理大臣よりも尊い立場になったのだ。」と思ったそうだ。
(続く)

育苗の短期アルバイト本日で終了!
 
平成から令和にかけてのバイトでした。
午後から「うちあげ」やったので昭和シリーズは今日、お休み。見に来て下さった皆さんスミマセン。
農家は高齢化進み、どこも人手不足。田植えの手伝いや、キュウリの収穫の手伝いなどにもスカウトされました。ヒマなときには小遣い稼ぎに、行こうかな・・・。

(続き)
時代は平成から令和へ移り変わっていこうとしています。テレビではずーーーっと、平成時代を振り返る内容の番組が放送されています。

4月10日に「天皇陛下御即位三十年奉祝感謝の集い」があり、そこでの北野武さんの祝辞は、天皇皇后両陛下に敬意や感謝の気持ちを込めながらもユーモアがあって「さすが」と思いました。

その中で、お二人のご成婚パレードを見に行ったときの話がありましたね。12才のタケシ少年は、母親から「頭を下げろ!決してあげるんじゃない!バチが当たるぞ!」と言われ、ずっと頭を下げ続けて「お姿を拝見することはできませんでした」という内容です。

私は「昭和」についてずっと書き綴ってきましたが、私が生まれたのは昭和の真ん中あたりですから、前半のこと、戦前〜戦中のことは当然分からず、父母から聞いた話を少し覚えているだけです。

子どものころ、誰か忘れたけれどお年寄りから聞いた話では、天皇陛下のお召し列車が近くの駅を通られることがあり、小学校の子ども達が先生に引率されてみんなで駅まで行って(直接お姿を見たりするとバチが当たるので)腰から前に体を九十度に折る最敬礼をして、列車が通過する音を聞いていたということもあったそうです。

昭和の戦前〜戦中は、よほど特別の場合をのぞいては、一般の人が天皇陛下のお姿を拝見することなどはできなかったということのようです。写真も「ご真影」と言って、直接見てはいけないとされていたと聞いたこともあります。

しかし、私の母は戦中に昭和天皇のお姿を直接見ていたことがあるのだそうです。それは母の父が中国戦線で戦死していたため、英霊として靖国神社にまつられることになり、そのためにほかの多くの遺族とともに上京したときのことだそうです。
(続く)

(続き)
私がマイカー通勤を始めたころ(昭和50年代半ば)には、若手はみんなカローラ・サニークラスの1300cc程度の車に乗ってました。上司はかっこいいスカイラインに乗ってました。

ところが昭和末期あたりのバブル?のころの新人はもう最初から高級車に乗ってる人も結構見受けられるようになってきましたね。新卒でいきなりトヨタの「セリカ ダブル エックス」とか三菱の「パジェロ」とかに乗ってくる人も見受けられるようになってきてビックリしました。親の世代が豊かになってきていたからだろうけど・・・。

平成の今の若い人はどうなんだろう?私の住むような田舎では車はほぼ生活必需品ですが、「若者の車離れ」などと言われるように、あんまり車にはこだわらない人が増えてきているように思います。燃費のいいハイブリッド車とか、便利に使える軽自動車の人も増えてきているようです。

昭和のころはセダンタイプが主流だったと思うけど、今ではセダンと言えばクラウンとかレクサスとか、あとはベンツやアウディなどドイツ車とかの高級車以外はあまり見ることがなくなってきました。今多いのは、7〜8人乗れるワンボックスとか、中が広くて使い勝手のいい軽とか、SUVとか、あとはプリウスなどのハイブリッド車かな?

(田舎なので農作業などに使う軽トラックもよく見ます。軽トラも何かと便利ですね。うちにはありませんが。)

私はコルト→カローラ→カローラ→カローラ→ステップワゴン→ステップワゴンと乗り継いできましたが、人生でもう1〜2回は買い換えることになりそうです。次に買うのはホンダの「フリード」あたりかな?
(続く)

(続き)
私が就職したころは、私も含め就職したての若者でもマイカー通勤するのが当たり前になっていました。(公共交通が発達していない地方ではそうしないと通勤が困難だったのです。バスなども1時間に1本あればいい方という感じなので)

私と同世代の人たちも私と大体似たような大きさ・値段の乗用車に乗ってました。当時はセダン型などが多かったです。セダンでなければハッチバックっていうのかな?それともファイブドアっていうのかな?今の軽自動車によく見られるような形のもの。

私は三菱の「コルト」とトヨタの「カローラ」を乗り継ぎました。同僚では、ニッサンの「サニー」に載ってた人もいましたね。あと当時はCVCCエンジンで有名だったホンダの「シビック」。(CVCCエンジンの開発物語も「プロジェクトX」で取り上げられてましたね!)

そのほかマツダの「ファミリア」も人気があって乗ってる人がいました。映画「幸せの黄色いハンカチ」で武田鉄矢さんが桃井かおりさん・高倉健さんを乗せて走ったあの赤いファミリアです。あとダイハツの「シャレード」も走りがいいという評判でした。(自動車のほかに、天気のいい日はホンダのバイク、CB750fore・・・ナナハンに載って通勤してる人もいました)

あとスバルの「レオーネ」に乗ってる人もいたはず。ホンダの「シティ」っていのはもうちょっと後に出たのだったかな?とにかく私の職場には30数人の職員が働いていたけど、車を持ってないのは年配の数人だけでほとんどの人がマイカーを持つ時代になっていました。

そうやってマイカーが普及してきて、いつの間にか道路もほとんどが舗装されるようになってきていました。土埃のたつ道を馬が歩いてた時代から10数年でみんながマイカーを持つ時代になってしまっていたのでした。スゴイ速さで世の中は変わっていきました。
(続く)

(続き)
自分が就職したころ(昭和50年代半ば)には、自動車を持つ人は珍しくなくなってきていた。というか、都会の方は知らないが田舎ではほとんどのうちに自動車があるようになってきていました。あっというまに、おどろくべき速さで日本全体が経済的に豊かになってきていたのです。

自動車免許もほとんどの人が取るようになってきた。高校を卒業して就職する人は就職が決まると自動車学校に通って卒業前には親に車を買ってもらうというのが普通になってました。大学に進学した人も学生のうちに普通免許を取るようになってきていた。私も友達と一緒に通いました。(延長教習いっぱいつきました・・・)

私のうちは前にも書いたが子どものころは、どちらかというと貧しい方だったのでマイカーなんて一生縁がないものと思い込んでいました。ところが、私が学生のうちに父が中古の車を買っていた。車種は三菱の「コルト」でした。色はグリーン。家の後ろの畑の一部をつぶしてパイプ車庫も作っていました。

で、私が就職したころには父はすでに大病を患って退職していたので、私がその父のコルトを通勤用に使わせてもらうことになったのです。ところが半年もたたないうちに通勤中に田んぼに落ちてしまってコルトはあえなく廃車になりました・・・。父母には大変申し訳ないことをしてしまいました。

それでも通勤用に車が必要だったので、また父が中古のカローラを買ってくれました。色はシルバー。父は別に自分用に軽自動車を買っていました。車種は忘れました。

当時は、就職したての若い人もほとんどマイカー通勤をするようになっていました。私と同世代の人たちは、私が乗っていたカローラとほぼ同クラスの、排気量が1300ccくらいで100数十万程度の車に乗る人が多かったと思う。
(続く)

(続き)
私が子どものころ〜成人して就職するまでの20年弱の期間は日本の高度経済成長期で、個人というか各家庭の乗用車の所有率もスゴイ勢いで上がっていった時代だと思います。

道に駐車していたアメ車らしい赤い車を、近所の子ども達が集まって珍しがって見てたのは、おそらく昭和30年代の終わり頃だと思います。そして私が小学校の高学年のころ、先生達の中で一番最初に自動車を買ったのが教頭先生で、それがスバル360だったように記憶している。昭和43〜44年あたりのことだと思う。

あの「プロジェクトX」でも取り上げられた人気車種ですね。外見はフォルクスワーゲンのビートルと似てるところがあったけど、それを前後にぐーーっと縮めた感じのデザインだった。ビートル「カブトムシ」に対して「テントウムシ」っていう愛称で呼ばれることもあった。

そして、当時は車よりもオートバイに乗る人も多かったかな?ホンダのドリーム号とかいう、黒い車体にタンクの横側が銀色(クロームメッキ?)でそこに翼のマークがついてたのをよく見かけたような気がする。私の叔父もときどきドリーム号でうちに遊びに来ていた。

私の中学校の時の卒業アルバムを見ると、始めの方に校舎全景が載ってるんだけど、それを見ると校舎前に7〜8台くらいの乗用車が駐車しているのが分かる。たしか先生達の人数は30人くらいの学校だったので、結構普及してきてたんだろうなと分かる。(昭和47年の初夏のあたりのはず)

ほんの3〜4年の間にも、免許を取得しマイカーを持つ人はどんどん増えてきてたのだろうと思う。下にその写真の一部をのせます。今はもう無くなってしまったなつかしの木造校舎です。
(続く)
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