日本の城

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「小諸城」(懐古園)

イメージ 1「小諸城祉」(懐古園)重文
二層の城門で寛保2年(1742)の大洪水で流され、明和2年(1765)に再建された物です。
両側の袖塀に矢狭間・鉄砲狭間がある戦闘用の門です。
扁額の懐古園の文字は、徳川宗家16代当主」の徳川家達(いえさと)の筆です。
 
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「二の門跡」
右の石垣が二の丸で、向こうが南丸跡の石垣です。この両石垣の間に二の門がありました。参考の絵があったので記載します。
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「二の丸跡」  
ここには白鶴城があった。。関ヶ原の合戦のとき、家康の息子の徳川秀忠の軍(3万8000人)が、上田城で真田親子(2千500人)にさんざんに苦しめられて、ここに逗留を余儀なくされたために、関ヶ原の合戦に間に合わなくて、家康に大変叱られた。と言う話は有名で、真田の名を世の武将に知らしめることとなった。
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「南丸跡」
石段を上がれば南丸です。
一つ大きな石が石垣の中にあるが、「鶯石」といって、城主の通行や祝い事があるたびにウグイスの鳴き声を出したといわれている。
 
 
 
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左が南丸石垣で、右の植込みの所が番所跡になります。
その先が「中仕切り門跡」です
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中仕切り門は絵のように三層で写真の様に右の低い北丸石垣と左の南丸を二階部分で結ぶ渡櫓門の様式でした。門をくぐった左が北丸になります。今の北丸跡には弓道場がありました。
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北丸と南丸の東側は堀切の空堀になっていて、「黒門橋」
渡っています。奥に見えるのが本丸の石垣ですが、橋の傍には黒門がありました。
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本丸まではそんなに曲がりくねっていなくて小規模な枡形が数カ所あるだけですが、
ここを最終的に改修したのが、かの有名な武田信玄が軍師「山本勘助」なのです。
両サイドが深い谷で後ろの谷の下が千曲川なので、この地形を最大限に生かした造りになっています。たただ真直ぐに攻め込む方法しかないのでしょう。もし、そうすれば横から矢玉が雨あられのごとくお見舞いされることになるのでしょう。
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「天守台」
この日も小雨でしたが、霧が多いのかもしれません。
どの石垣もみごとに苔生していて素敵な雰囲気でした。
この左に広場があって馬場跡でした。直線だけの乗馬の練習ができたらしいです。
 
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「天守台石垣」
 
苔むした石垣に桜花が彩を添えて、松が往時を偲ばせる。
 
松風騒ぐ 丘の上
  古城よ独り 何偲ぶ
   栄華の夢を 胸に追い
    ああ 仰げば侘し 天守閣

懐かしい歌を思い出した(笑)
 

「上田城」

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真田幸村の故郷「上田城」へ初めて訪れることができた。
「二の丸堀跡」
昭和3年から47年まで私鉄が走っていた。右の歩いている所がプラットホームの跡で公園前駅だった。
前方の橋は「二の丸橋」
 
 
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「二の丸東虎口櫓台」
この橋から奥がよく見えるが、
当時は「蔀塀台」しとみべい)がありました。写真に張り付けてみましたが解るかな?
左の石垣が櫓台で右が蔀台。
櫓台から奥に続いて図の様に奥が見えない様に蔀台があり枡形虎口になっていました。
蔀とは目隠しの意味です。
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「二の丸橋標柱」
飾りの模様は、丸が二つで二の丸。その下両側にハの字で
中央に ・ ・ 跳ねでシです。
「にのまるはし」となります。
 
 
 
 
 
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「本丸東虎口櫓門」
昭和24年に南北の櫓が、平成6年に城門が復元された。
 
今後も本丸の櫓が再建される予定で、年々その雄姿が蘇ってくるでしょう。
 
 
 
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「南櫓」
明治7年に廃城された時、西櫓を残して解体され別の2棟の櫓だけが遊郭に使われた。
昭和17年に市民有志が買い戻してこの場所に南北の両櫓として移築されました。
だから柱などは昔のままです。
 
 
 
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「北櫓」
石垣は当時のままです。
この写真に少し「真田石」が写っています。
二代城主真田信之が父の初代昌幸の形見として松代城へ持っていこうとしたが大きすぎて動かなかったと伝説されている。
 
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「南櫓の矢狭間」
北向きの狭間から見える櫓門と北櫓。六連銭の旗印が格好いいですね。六文銭とも言います。六文は冥途への三途の川を渡る代金だそうです。
いつでも死ぬ覚悟を持って臨むことの意味から真田一族の家紋となっている。
 
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「西櫓」
唯一江戸時代の建造物です。
寛永5年の完成だから380余年まえですね。
ここも本丸西虎口としての構えがあり、本丸南西の隅櫓と左の石垣には櫓門があり西の防御の枡形虎口を形成していました。
 
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「本丸堀」
本丸西側の水堀です。
しかしこの堀への水の流入口はありません。雨水だけで大丈夫なのか、江戸時代に一度枯れてしまったことがあるらしいが、いつの間にか復活したようです。湧水があるかも?って噂もあるらしい。
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「尼ヶ渕」
上田城の南側は千曲川の湿地帯で石垣も少なく土塁でできています。土塁と言うより天然の要塞ですね。高さがあるので容易に攻め登ることはできません。でも真田の戦略は守るより打って出る奇襲が得意でした。
 

「松代城」

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松代城は武田信玄が築いた海津城が始まりで、川中島の合戦の頃には完成していた。
その後、幸村の兄の真田信之が城主となった。
この城は全くの平地に築かれた平城であり、千曲川を利用して濠をめぐらせた造りになっている。
 
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大手門に当たる太鼓門枡形虎口になっている。
写真は最初の「二の門」で形は、高麗門になっています。
これらは平成になって再建されたものです。でも城郭は当時の資料を参考に再現されています。
 
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「太鼓門一の門」
一の門をくぐって振り返れば、
こんな風景です。
右の石段の上には未申櫓があったと思われる。
 
 
 
 
 
 
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「乾櫓跡」
 
野面積の立派ないしがきである。二重の櫓を立てられていたらしいが天守を立てることができる石垣らしいです。
でも天守は存在しなかったそうです。
 
 
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「北不明の門」きたあかずのもん
本丸搦手に位置する門で当初は千曲川に近かったため「水の手御門」とよばれていた。
小さな屋根が見えるのが二の門で門は内から数えるので左が内側だから大きい櫓門が一のもんで二の門に対して向きが違っている。
 
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一の門を二の門から見ると枡形になっている。二の門は幅が狭く一度におおくの兵が攻め入ることができない様になっています。頃を枡形虎口といいます。
 
 
 
 
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「埋門」
いざの時は埋めることができるようになっているから埋門。
 
土塁の上部は本来は土塀が築かれていて矢座間や鉄砲狭間備えられており、容易に近づくことができません。
 
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「東不明門前橋」
 
今はまだ門は再建されていませんが、当時は太鼓門の木橋とどちらかが腐ってくれば修理のためにこっちを使っていたらしい。
 
 
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「野面積み」で積まれた石垣は、地中深く埋め込んで積まれており、見た目より大規模な石垣らしいです。
松代城石垣の材料は、近くの金井山の「柴石」を石材を切り出した。柴石は「白石」とも呼ばれた。尼飾山など東条の山から切り出された石は「赤石」と呼ばれ、松代城の石垣のうち、白系の石は金井山の柴石であり、赤系の石は尼飾山の東条石であるらしい。
 

国宝「松本城」

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国宝「松本城」 長野県松本市
 
安土桃山時代末期に建てられた戦国時代当時の面影を残した城である。
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 「黒門」→
堀に出張った外枡形を形成している。
前の「二の門」と内側の「一の門」で本丸への正門です。
この二の門と両サイドの袖塀は平成二年に復元された高麗門様式の門です。
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「一の門」
本丸防衛の要である櫓門である。
昭和35年に復興して、後で再演された二の門とで枡形虎口が再現されました。
櫓や石垣が直角に折れているのが特徴です。矩折れ(かなおれ)と言うらしい。
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黒門一の門の飾り金具。
松本城の基本形を造った石川数正が豊臣秀吉に入封された際に使用が許された五七桐(ごしちの桐)の紋です。
五七桐紋は石川氏が秀吉の権威を背景に家康を監視する城として松本城を築いたことに由来しているが、再建した松本市民は今も秀吉派なのかな?
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「天守閣建造物群」
戦うための黒い堅固な天守と平和な時代に増築された優雅な建造物群です。
左端の低い屋根が月見櫓その後ろが辰巳附櫓で後の物。
天守と乾小天守を渡櫓で繋いでいる現存する最古の五重六階の天守で風格をただよわせている。
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「乾小天守」
松本城の外壁は上部が白漆喰で下の黒い部分は、下見板張りの黒漆で仕上げています。多くは板に柿渋と墨を混ぜた多ものを使うが、松本城は狭間の内側にも漆がにられていました。
 
 
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「月見櫓」と「戌亥附櫓」
平和な時代に建造された二つの櫓で特に月見櫓には朱塗りの回縁がめぐらされていて開放的に造られています。
天守は戦国に世にふさわしく、
層塔型で最上階の周りに望楼型の回縁がない戦闘型に造られている珍しい天守群になっています。
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「乾小天守の屋根」
天守の三階の窓から眺めた風景です。お城に桜は似合いますね。庇の鬼瓦には五七の桐の紋がありました。
徳川時代もこの紋が秀吉が後陽成天皇から下賜されたからでしょう。家康は天下人になってからこの紋の下賜を断っている。
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「埋橋」 
天守上階から北西を見た風景
赤い埋橋と先の埋門が工事中で門に近づけなかった。
埋門は非常時に埋めてしまうためにあり常用の門ではなかった。橋は昭和の大修理の時に再建されましたが、現存していなく、資料もなく、形は想像です。
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「天守と桜」
 
桜と松と天守閣って常套手段ですが、外せません(笑)
 
 
 
 

「高遠城址公園」

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長野県伊那市
「高遠城址公園」
高遠城は諏訪氏一門の高遠頼継の居城であったが、甲斐の武田氏と領地をめぐり対立、
信玄公に滅ぼされました。
そのご山本勘助が大規模な改修を行った。写真は「楼門」
大手門だったと伝えられています。
 
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「高遠閣」
城址公園のシンボルで建物は木造2階建て、入母屋、鉄板葺き、玄関と上部の屋根が唐破風で、昭和初期に建てられた和風建築として国登録有形文化財に指定されています。
 
 
 
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「南曲輪跡」
桜が満開です。
「タカトウコヒガンザクラ」です。
明治8年ころから植えられて、今は約1500本の桜の林になっています。130年の老木もあるそうです。当然さくらの名所100選に入っています。
 
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「桜雲橋」と「問屋門」
二の丸から本丸へ渡る橋です
 
高遠城はこのような空堀でそれぞれの曲輪を分けています
 
この橋と門も高遠城のシンボルになっています。
 
 
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橋の下の空堀から見上げた二の丸の法面です。
 
 
 
 
 
 
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空堀の池に映り込んだ桜。
 
空堀が当時のまま現存していることがうれしいですね。
 
どの空堀も桜のトンネルになっていました。
 
 
 
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「太鼓櫓」
藩政時代、場内の搦手門内にあった太鼓は、毎日偶数時にその数だけ鳴らして藩士の出退や城下町民に時を知らせていました。
 
 
 

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