☆福chanのSL写真(関東以西編)☆

九州から関東まで、1972〜1974年を主体とした蒸気機関車の写真と撮影記です。

関東のSL

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その昔、半世紀ほど前に新鶴見操車場に近い小学校に入学した。

あまりに古いことなので記憶にあるというほどではないが、学校には絶えず煙がたなびき、汽笛とドラフト音(当時は、こういう用語も知らなかったとは思うが)が聞こえていた。

近くの山(今は川崎市立夢見が崎動物公園となっている)では、ハンプに押し込むSLの姿を見ながら、遊んでいた。同期入学した近くの寺(寿福寺という)の友(現住職さん)と共に良く寺にも遊びに行ったがそこでもSLの息づかいは聞こえていた。残念ながら父親の転勤により2年生の時には現中原区の小学校に転校してしまった。

中学が終わる頃、当時住んでいた横浜市磯子区から自転車で、入学した小学校と、転校した小学校が懐かしくてトリップに行った。(中原区の小学校も4年生の2学期には大阪へ転校)そのついでに立ち寄ったのが新鶴見操車場だった。

ハンプの押し込みはD51になっていた。
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多分小学校の時は9600等が主だったように思うが、外から見える機関区には9600の姿はなかった。

SLの代わりに大量にいたのは、旧型といわれるEF10たちだった。自分で作った転籍簿によると、写真を撮影した当時では、EF10、EF13、EF15などが所属していたとは思うが、ELについては詳しくないので良くはわからない。
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奥の方には2輌のカマが見られる。8620だと思うが、良く見ると2輌とも煙突に蓋がしてあるし、主連結棒が外してあるので休車扱いか転属の準備がされているのかも知れない。

こちらの写真には、スノープラウ付きのEF15 47が休んでいる。
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EF15 47は、私の車歴簿では高崎第2機関区の所属していたELで、主に上越線を活躍の場としていた車輌だった。ハンプにはD51が、後方にも煙が見えている。中央の留置線では、SLの灰ガラらしき様子も見られ、ELだけの機関区とは様相が違うのがわかる。旧型ELだけではなく後方にはEF60らしき姿も見えている。

ハンプも3線もあり、日本でも有数の大規模操車場だった新鶴見操を彷彿させる姿である。
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奥の機回し線上にはEF60に挟まれたEF10クラス2輌の合計4輌の単機回送が見られる。

北方向(どちら方向が上り線なのか不明)へ進む貨物列車。操車場の一番西側を通るこの線路が本線で東海道本線の鶴見方向から品川方向へ行く経路だった。
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どうしようもないほど、へたくそな写真だが、お許しあれ。
線路の境界が小さなドブ川であり大きな国鉄の施設にもかかわらず柵もない。また小道の舗装が切れた後は土の道で、人の姿もなく、民家のたたずまいはまだこの地がいなかだったことを示していておもしろい。

この当時のネガフィルムは、保存状態が良くなくてカビが増殖していることと重なってか細かい部分が読み取れないのが惜しい。

撮影日は、1965年(S.40)の3月で、日付は15〜25日の間の1日である。(確定できないでいる)
カメラは、ミノルタSR−3。フィルムは、Fuji-NeopanSS。



D51 676は、1942年(S.17)2月25日に日本車輌で誕生し、新製配置は柳井であった。その後は新鶴見に転属し、最終配置は八王子で、1970(S.45)年4月30日に廃車となった。

EF60 45は、1963年(S.38)2月7日に川崎車輌で誕生し、同日付で新鶴見機関区に新製配置された新型機関車である。この撮影をしたすぐあとの1965年(S.40)9月25日に岡山機関区に転属した。
足尾線のSLが無くなる(関東からSLが無くなるということだったかも)という情報から、足尾線に撮影に行った。

初めてに近い知識しかなかったので、ともかく終点の間藤まで行き、少しずつ桐生に戻るような形で行動した記憶だが、定かではない。

当時、足尾には機関支区があったと思う。写真はそこで休んでいたC12を撮影したものである。カマは前側のプレートが形式付きの大型プレートがついた187号だった。
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後ろや側面は普通のプレートであった。

それから随分時間が経ってから、このカマは長らく九州で活躍していたということから、九州独特の風取入れ口が、コ−ルバンカ−後面にある、ということがわかった。
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バック運転時にはさぞかし涼しい風が入ってきただろうと想像できたが、実際、自分が九州に行った時には気がつかなかったので、晩年に活躍したカマには付いていなかったのかも知れない。

このC12 187は、日本車輛で製造された110輌のC12の内の1輌で1938年に誕生した。九州から桐生機関区へ転属後に関東型の特徴である、シ−ルド・ビ−ム副灯が取り付けられたという。この副灯は後部にも備えられ、後方確認用の穴とライト2灯が真横に並ぶ独特の顔となっていた。
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後方のライトにはヒサシが付いているが、たぶんこれは冬場の雪よけと思われる。フロントは熱で溶けるが、後方はむしろ温度が低いため、雪が溶けなかったり、凍ったりしてライトが減光されてしまうのを防ぐためのものでないかと想像している。

なお、このC12 187は、水郡線の常陸大子駅近くにある大子町中央公民館(茨城県久慈郡)に静態保存されている。

水郡線ではSL時代には水戸機関区の8700形や8620形が客貨列車牽引に使用されたということであるが、C12が運行されたかどうかは不明である。

撮影日は、1970年(S.45)9月25日。
カメラは、マミヤC220(職場から借用)。フィルムは、Fuji-NeopanSS。
1970年(S.45)9月、あいにくの天気の中で初めての足尾線の撮影。

まだ「ダイヤ情報」は発刊されていなく、鉄道3大誌である鉄道ピクトリアル、鉄道ファン、鉄道ジャーナルなどの情報が頼りだった。すでに「蒸気機関車」などには詳しい情報があったかも知れないが、当時はこの雑誌の存在を知らなかった。

ダム工事の影響もあって、足尾線のSLが無くなるという情報は、多分新聞の記事からだったと思う。

大学を出て直ぐの年であったことで給料は同期卒業の仲間と比べても1/3しかなかった。そのため資金も余りなく、往復の交通費+αの費用だけを持って出かけた日帰りの撮影だった。

初めての線区のため一旦終点の間藤まで行き、少しずつ桐生に戻る行程で、かなり行きあたりバッタリ方式で進めていった。

写真は、神戸(コウベではなく「ごうど」と読む)で、桐生へ向かう乗車していたDCと交換(行き違い)することになった下りの貨物列車である。
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駅長が行き違いの線路と線路の間に立っているので、何をするのかと思っていたら、SLが近づいてきたところで右腕を上に真っ直ぐ伸ばした。そこへSLの機関助手がタブレットの輪をみごとに引っかけて行った。
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ここでは、旅客のDCが早めに到着してSL貨物列車を待ち、貨物は止まらない(通過)でタブレットだけ交換して走り去る。そしてSLから受け取ったタブレットを貰ってDCが発車する、という形式を取っていたのだった。

現在は、草木ダム建設に伴い、1973(S.48)年6月27日に神戸〜沢入間の線路を付け替えをして草木トンネルで抜けてゆくことになり、渓流沿いの風光明媚な急勾配区間は無くなった、ということであるが、当時は神戸から先の沢入駅までの約6kmは急勾配区間で、神戸から重連運転もあったということだった。

したがって、重連運転するほど貨物がない場合でも、C12ではそれほど力がないため、神戸では止まらずに勢いを付けて行く方が得策だったのかも知れない。

撮影日は、1970年(S.45)9月25日。カメラは、ミノルタSR−3。フィルムは、Fuji-NeopanSS。



C12 163は、1937年(S.12)7月21日、日本車輌製。

1942年(S.17)には美濃太田に配属。1945年(S.20)5月には四国徳島県の小松島機関区へ転属した。同年7月に戦災により転籍簿が焼失したため、1945年以前の転籍が不明となってしまったが1942年に美濃太田に在籍したのは確認されている。

1961年(S.36)に小松島機関区が廃止され小松島客貨車区徳島派出所になったあともしばらく留まったが、1967年(S.42)9月には常磐線の平機関区へ転属し、2ライト化などの改造が行われた。

高崎機関区には翌年の1968年(S.43)10月に配属された。
足尾線が無煙化された後の1970年(S.45)11月11日には小郡機関区へ転属した。翌年の1971年(S.46)2月7日には稲沢第一機関区へ転属し、同日保存扱いとなった。

現在は、岐阜県加茂郡七宗町上麻生駅前の鉄筋コンクリ−ト製の立派な展示館に保存されている。美濃太田時代はちょうど戦中、戦後の時期で、山深い越美南線や高山本線で旅客列車を牽引していた、ということで、この地の静態保存に対して白羽の矢が立ったようである。

ここでのメンテナンスは美濃太田機関区OBが行っていて、給油等も万全であり、自治体貸与の静態保存機の中では最も状態が良いといわれている。
1972年10月。東京西鉄道管理局が主催・企画して、日本鉄道100年を記念したSL列車が運行された。

この運行では、八高線を使い、高崎-八王子間で計5日間(10月8日、10日、15日、22日、29日)、1日1往復のSL客車列車が走った。カマは、新津区のD51 498と酒田区のD51 1002を借り出して、高崎区(高崎第一)にて管理した。

運用は、高崎を09:21に発車し、14:07に八王子に着く、客9222レと、八王子を10:45に発車し、高崎に15:49に到着する客9221レが設定された。この2本の列車は途中の高麗川にて、交換するようにスジが引かれ、そのため高麗川では、多くの鉄道ファンと見物の客でものすごい状態だった。

写真は、高崎発八王子行の客9222レが先に高麗川に着いたところである。(9222レが定刻で11:53着、9221レが11:57着だった)
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このSL列車の運行は、首都圏の主要な新聞により報道されたので、沿線よりも遙かに遠くからもファンが詰めかけた。
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現在では考えられないが、当時は八高線というローカル線だったこともあり、駅構内をかなり自由に歩き回れた。
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八高線は当時、まだ腕木信号機であり、タブレットを使用していた。
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手作りのサボを付けた客車。
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D51 498号機。まさか、この時、498号機がJR東日本で復活、活躍するとは想像も出来なかった。
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既に首都圏では珍しくなっていたD51。特に寒冷地(新津、酒田)装備で綺麗に磨かれたカマの姿に、ファンならずとも熱心にシャッターを切る姿が多く見られた。
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警備の係員もいるが、大きな混乱は、少なくともこの日、この時はなかった。

この直ぐ後には八王子から来た客9221レが到着し、2機のカマのツーショットが見られ(後日アップします)ファンも一層のヒートアップした姿が見られた。

最後の写真は、高麗川駅に張ってあった、運行ダイヤ表。
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撮影日は、1972年(S.47)10月10日。カメラは、ミノルタSR-3。フィルムはKodak-TriX。

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