--- ★ 撮影日と掲載日が同日のシリーズ ★ --- 室木線内の午後の客車運用から次の日の午前の客車運用までを担当するカマと客車を若松区から派遣する運用の回送客825レは、筑豊本線の二島から分岐して連絡線に入る。二島から折尾間は4.5kmもあったが、早々と専用の連絡線に入る運用の仕方は、筑豊本線内の列車運用が非常に多かった時代の遺産でもあった。 かって筑豊地区の炭鉱から採掘された石炭は、積み出し港への連絡口だった若松へ多数の運炭列車が運用されていた。これらの列車は長大でかつ積荷は重量級であったため、D型の強力なカマであっても、その足は遅く、また列車運用の効率化のため早くに複線化されていた。しかも国策としての優先権があった。 そのため回送の下り列車に於いては、上り線を亘る必要があり、足の速い回送の客レであっても、その貨物列車の合間に入れるのは容易でなかったと思われる。 その対策として考えられたのが3km位手前から、連絡線を分岐して専用線として運行する方式だった。(この分岐位置は、現在の北九州市八幡西区、本城駅東の県道11号線がオーバークロスする付近と思われる) さて、1970年代では、まだまだ列車本数は多かったが、それでも繁栄していた当時よりは列車本数も減り、間合いは十分取れていたが、室木線への回送列車は相変わらず二島から分岐する連絡線を使っていた。特に分岐したあと折尾に近いところで築堤を上り下りするところまで(約2km弱)は、筑豊本線と並んで3線区間となっていた。 この3線区間は、架線が全くなく、空が広い開放的な貴重な区間であった。 この日のカマは88622。当時の九州地区における8620機のラストナンバーだった。 程よく煙を吐いて走っては来たが、カメラの前を通過する頃には客車が黒い煙で巻かれてしまった。 カマが見えるところまで我慢していたら相当離れてしまった。 架線がないと本当に開放感たっぷりである。 列車はこの先、左に曲がり込み、築堤への上り勾配となる。 なお、2枚目の写真の付近は、現在「本城駅」となっていて、写真のようなのどかな雰囲気は全くなくなってしまった。 撮影日は、1973年(S.48)4月29日。 カメラは、1〜2枚目までがミノルタSR−Tsuper。3枚目以降は、マミヤC330。フィルムは、35mm判がコニパンSSS。6×6判がKodak-TriX。(ただし6×6判は、ISO感設定ミスで超露出過多だった) 88622は、1926年(T.15)2月汽車会社で誕生。 1931年(S.6)〜1937年(S.12)88620〜88623と共に羽越線で活躍。1937年(S.12)には新津区村上分区<のちに閉区>に所属。新潟区を経て1942年(S.17)1月に仙台に転属。その年の11月には成田に転属。1948年(S.23)5月には千葉<千葉区は1961年(S.36)2月閉区>に転属。のち新小岩を経て1966年(S.41)8月に若松に配属。 1974年(S.49)2月25日廃車。同時に保管扱いとなり、現在は、長崎県壱岐郡芦辺町那賀=現在の壱岐市=総合グランドに静態保存されている。
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室木線のSL
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室木線への客車運用は若松区が担当していた。室木線用の客車は毎日交代で牽引機とともに若松-遠賀川間を回送されていた。 列車は客車を牽いたまま若松を12:26に出発し、二島-折尾間にあった鹿児島本線との連絡線を通り、遠賀川へ回送されていた。室木線内では午後の客車列車として3往復半して室木で駐泊。 室木を21:31に発車する最終列車は東折尾まで直通する貨物列車であった。東折尾では入換作業を行った後、翌朝03:23発の単機回送列車として中間を経て若松に04:23に帰着していた。 室木線内の朝の客車列車は、2往復半したあと、遠賀川を10:48に出発する回送客824レとして折尾からの連絡線を通り若松に11:35に戻る仕業にて運用されていた。 貨物列車は、早朝と夜間に運用されていたため、室木線内では室木構内を除くと、同時に2両のカマを見ることは出来なかったが、午前と午後で別のカマを見ることは出来た。 特に若松と鹿児島本線との連絡線までの間では、筑豊本線の列車と共に約1時間の範囲で2両の8620が見られる貴重な時間であった。 カマは38629で、デフなし、テンダー側のプレートは形式入りである。 8620は、そもそも逆行運転用には設計されていないので、機関士も機関助手さんも後方確認は大変だったろうと推測される。 若松区のカマは比較的綺麗に磨かれている車輌が多かったが、この8620は、かなり煤けた感じだった。 場内信号を過ぎると、まもなく鹿児島本線の折尾構内へと進入する。 撮影日は、1973年(S.48)5月1日。カメラは、マミヤC330。フィルムはKodak-TriX。
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室木線の客825レである。室木線は、若松区の8620が担当し、鹿児島本線の遠賀川から分岐し、ほぼ直角方向の南へ向かい、終着室木に至る11.2Kmの全線単線の盲腸線であった。 遠賀川も室木も共に転車台が無かったため、若松の回送列車の出区以来、下り列車は逆行運転で運用されていた。 写真は、遠賀川にて客825レとして出発を待つ38629である。 38629は、デフ無しのスマートなカマだった。 リア(テンダー)のプレートは形式入りだったが、南九州の延岡、宮崎、吉松、鹿児島区などのように磨かれてはいなく、とても残念に感じた。 いよいよ発車であるが、この日は途中の古月まで乗車し、客車窓から乗り出すようにして撮影していった。遠賀川を出発すると鹿児島本線と平行するように西へ進む。 やがて西川橋梁を渡り、鹿児島本線と分かれて南南西に方向を変える。 室木線は水田を横切り、小さな丘を切通で抜け、わずかな上り下りを繰り返しながら室木へ向かって走って行く。 テンダーが普通の形なので、後方の視界は良くないため、機関士も助手も身を乗り出して後方確認をしていた。 撮影日は、1973年(S.48)5月1日。カメラは、ミノルタSR−Tsuper。フィルムは、コニパンSSS。
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当時、室木線には下りは早朝と上りは夜間になる貨物運用が1往復と6往復のSL牽引客レ運用があった。カマは全て若松区の8620が担当していた。 朝の貨物列車は、若松を02:27に発車し単機運用にて折尾でスイッチし、鹿児島本線の東折尾貨物駅(現在は信号所に降格)から貨物列車となり遠賀川から室木まで入っていた。上りの貨物列車は、逆コースにて東折尾からは単機運用になり、筑豊本線との連絡線にて中間まで行き、スイッチして若松に帰区していた。 客車運用はというと、回送客825レとして若松を12:26に出発、二島-折尾間の連絡線を通って鹿児島本線の折尾より遠賀川まで回送し、室木線内を次の日の客824レまでの6往復分を1両のカマが担当した。 次の日、遠賀川に到着した客824レは、回送客825レと逆コースをたどり鹿児島本線内と折尾の連絡線を通って若松までを回送客824レとして走り、11:35に若松に帰着するという運用だった。 写真は、鹿児島本線折尾から連絡線を通って筑豊本線に入ろうとする、回送客824レである。 カマは若松区の38634であった。若松の86は、デフのない原形に近いタイプが多く、スッキリした細身の雰囲気だった。 この連絡線は、室木線が廃線となった後、撤去されたので現在は写真の築堤跡のみとなっている。 8620牽引の貨物は早朝および夜間のため撮影はほとんど不可能であったが、扱いは回送であっても、客車を従えての8620の姿は、鹿児島本線内では遠賀川-折尾間で、また筑豊本線内では、折尾連絡線から若松間で撮影可能な時間帯に走っていたことになる。 鹿児島本線内では貴重なSL牽引列車であったが、当然のことながら架線下であった。筑豊本線内では中間-若松間では香月線の客レも8620の担当だったため、珍しさはやや薄れるが、しかし架線のない区間を走る客レとしては香月線用も室木線用もともに貴重な列車であった。 撮影日は、1973年(S.48)4月29日。 カメラは、1枚目がミノルタSR−Tsuperで、フィルムはコニパンSSS。2枚目以降は、マミヤC330でフィルムは、Kodak-TriX。
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