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6月8日、日付繋がりで796-68。 後藤寺で入換作業を行っていた79668の姿。 79668は、1970年(S.45年)7月20日に小倉工場にて全検を受けた際、C50 58が装備していた「波と千鳥」の装飾付門デフ(K-7標準型)を譲渡されたことで知られていたが、当時は煤けていてほとんど判別が出来ない状態だった。 後藤寺の北側には筑豊の象徴であるボタ山がそびえ、多線の広い構内と腕木信号機が独特の雰囲気を醸し出していた。 船尾と苅田港を行き来するセキは外側も真っ白だった。線路脇を歩いている人は、出勤する駅員だろうか。 撮影日は、1973年(S.48年)8月3日。カメラは、ミノルタSR-3。フィルムは、Kodak TriX。 79668 は、1926年(T.15年)3月に汽車製造大阪で誕生。新製配置は名古屋局管内で1931年(S.6年)1月末現在では直江津。同年9月には行橋に転属。翌1932年には鳥栖へ移動。1938年4月末現在では長崎区。戦後の1947年4月現在では若松区。1958年(S.33年)9月28日に行橋区に移動。1974年7月21日より一休指定。同年8月26日に廃車となった。 |
田川線のSL
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師匠と2名で九州の最後のSLを撮影をしに出かけた。 九州地区は、高森線と湯前線を除き、1974年(S.49年)の年末までに無煙化されるという通告があり、年末から正月に掛けての職場の休暇期間までは待っていられなかったため、9月の祝日の前後を利用して、撮影を敢行したのだった。(高森線と湯前線は翌1975年(S.50年)3月10日に無煙化された。) この時点では、南九州にも湯前線、山野線、大隅線、日南線、志布志線と、吉松、都城の入換にカマが健在だったが、日程的に無理があったため、筑豊地区に絞って撮影を行った。 また山陰地区の米子-下関間にもD51が残っていたが、こちらも同年12月には無煙化されるということだったので、一度は撮っておきたいと思い、3日目に師匠と別れ(師匠は高森線へ行ったとのこと)山陰西部の撮影に向かった。 なお、地元で入会していたアマチュアの録音研究会が翌月に急遽、筑豊地区のSL録音に行くことになり、案内役を仰せつかったので再度訪問し、録音の合間に撮影をすることが出来たので、この9月の撮影は、結果的に九州SL撮影の最後ではなかった。 基本的に、「最新SLダイヤ情報」の第4号を参照して撮影計画を作っていたが、この9月の時点では既に一部列車に時刻変更や運転区間の変更があって、現場では予想外のこともあった。 さて、写真は勾金を通過する単5493レである。 機関助手が前の区間のタブレットを駅の通過授受用器具に引っかける瞬間。 そしてここからのタブレットを受け取って行く。 撮影日は、1974年(S.49年)9月20日。カメラは、ミノルタSR-1s。フィルムは、Kodak-TriX。
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1974年9月。連休を利用して、最後の九州・筑豊地区(実際には翌月、再度筑豊に行くことになったが)と山陰西部の撮影に出かけた。 この時点では、九州北部では、筑豊地区の田川線、伊田・糸田線、後藤寺線、日田彦山線、宮田線と筑豊本線の若松-飯塚間および日豊本線の門司港-行橋間。 九州南部では、日豊本線の宮崎-西鹿児島間、肥薩線の隼人-吉松間、山野線の吉松-薩摩大口間、湯前線、志布志線、日南線、大隅線。 そして九州中央部の、豊肥本線の熊本-立野間と高森線と相当絞られてきていた。 線区数的には、まだそれなりに数があったが、北・中・南と分断されていて、撮影効率はかなり厳しい状況になってきていた。 また形式的には、大型機では花形のC61、C55、C57やD60などは全滅で、筑豊にD51がわずかに残っていたが、あとは9600、8620、C58、C11、C12と万能機のみが細々と活躍する事態になっていた。 山陰地方では、山陰本線の米子-下関間と三江北線および山陽本線の幡生操-下関操間のみ。カマは、三江北線+山陰本線江津-浜田間がC56で、その他は全てD51だった。 ただし、全国的に見て(と、云っても他は、北海道と中央西線の木曽福島-上松間のC56のみ)も、8620の運用は湯前線のみ、またC12の運用も高森線と山野線のみ、そしてC56も三江北線と木曽福島だけ、しかも木曽福島のは入換と単機回送のみの運用なので貨車を牽く姿は三江北線だけ、という状態であった。 さて、その北九州初日は、田川線の勾金よりスタート。 小倉から日田彦山線725Dで伊田へ、ここで426Dに乗り継ぎ勾金09:40着。すでに貨1491レは到着していて426Dが出るとすぐ入換開始。 入換が終わると、発車時刻まで約20分休憩に入る。この間に後補機の付く貨5492レを撮影しに内田信号場の方向へ行った。 5492レを撮影し終わると、すぐ勾金に引き返すした。 戻って約5分後。駅務員がタブレットを持ってカマへ向かった。 キャブに近づくと意外と窓まで高さがあることが分かる。 発車寸前。モクモクと黒い煙が噴き上がってきた。遠くのボタ山が筑豊の雰囲気をよく伝える。 あまり風が吹いていなかったためか煙は真っ直ぐ上がっていた。 発車する頃には煙があまり出ていなく、さびしい感じだった。 高さの低い腕木信号機が良いアクセント。 勾金駅では通過列車もあるので対向の腕木信号機の数も多い。 貨車と貨車の間に、腕章を付けた係員が乗っていたが何の役目の人なのかは分からなかった。 勾金を出る下り列車は次の伊田までは10パーミルの下り坂となるため、発車時の加速だけであとは転がって行く様な様子だった。 撮影日は、1974年(S.49年)9月20日。カメラは、ミノルタSR-1s。フィルムは、Kodak-TriX。
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1973年(S.48年)夏の九州撮影の第一日目、最初の撮影となったのがこの写真だった。 線路沿いにロケハンをしながら歩いているうちに、ドラフトが聞こえ始め、仕方がなしに荷物を放りだして、セットの早いカメラで撮影をした次第。 本務機は結構力を出しているらしく、猛烈な迫力のある煙を吐いていたが、貨車がゴトゴト云いながら走り抜けた後に見え始めた後補機は、スコスコという感じで、軽く走り抜けていった。 撮影日は、1973年(S.48年)7月25日。カメラは、マミヤC330。フィルムは、Kodak-TriX。
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--- 田川線は半年ぶりの更新(記事追加)です --- 夏の盛り、出発時刻までカマから降りて休憩する乗務員。夕日の残照でナンバープレートが光る位置を見つけ出して撮影をした。 出発寸前! 発車。 気温が高いためもあり、またカマの調子も良いらしく、わずかの時間、給炭しただけで機関助手は手を休めていた。 追い撮りに挑戦! 背の低い腕木信号機が良いアクセント。 この陸橋をくぐり、右にカーブすると狭い切り通しのようなところを走って伊田へ向かってゆく。陸橋の桁についた煙の跡が懐かしく感じる。 撮影日は、1973年(S.48)8月2日。カメラは、ミノルタSR-1s。フィルムは、Kodak-PlusX。
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