☆福chanのSL写真(関東以西編)☆

九州から関東まで、1972〜1974年を主体とした蒸気機関車の写真と撮影記です。

駅・駅舎と周辺

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香月線に撮影に行った日、上下合わせて4本の客レを岩崎付近で撮影したあと、香月駅の入場券欲しさにバスを使って香月に向かった。

乗車した深沢バス停より乗車時間は4分。料金は30円ナリ。

香月駅構内は、石炭積み出しの最盛期を彷彿させる、広い構内と立派な駅舎のある終着駅だった。
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もちろん駅員の居る有人駅で、多客時にも対応できる券売窓口も2つあった。行き先の一番遠くは東京で、東海道本線、山陽本線の主要駅も、また新横浜、新大阪などの新幹線の駅名も見受けられた。
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バスで着いたときが07:55。改札の中間方面の発車時刻表を見ると、次の列車は10:22発ということで、列車待ちの人たちどころか、駅員を含めて構内には誰も見えず、開放的ではあるが浦島太郎的な、変な感じを受けたことを今でも覚えている。
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そして、さらに?と思ったのが、普通、駅舎入口にある駅名が書かれた看板がどこにもなかった事だった。
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懸命に探し回ったあげくに見つけたのが、この立入禁止の看板。
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それと駅前のバス停の駅名板だった。
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駅員が居なくて、入場券が買えず困っていたが、次に乗車するバスの発車時刻寸前に駅員が窓口に出てきてくれたので、無事購入することが出来た。


撮影日は、1973年(S.48年)4月30日。カメラは、ミノルタSR-3。フィルムは、コニパンSSS。
岩崎駅は、全長3.5kmの香月線の起終点合わせて4駅中の3番目の駅だった。

香月線は、1908年に石炭輸送のための貨物線として開業。1911年からは旅客営業も開始された。一時は、中間 - 新手間が3線化(旅客列車用の単線+貨物列車用の複線)されるなど活況を呈したが、周辺炭鉱の閉山により輸送量は激減し、全線が単線化されていた。1973年に、中間市は「路線は中間市街を分断しており、地域発展には邪魔な存在」ということから廃止要望を出していた。結局、1985年3月31日に廃止された。

駅は、黒川が直角に曲がる付近の北側に位置していた。
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線路跡は最近は道路化(幅員拡張)されたり、宅地化されたりしている。画面の左奥に見える橋は黒川に架かる道路橋で現在もある。

線路とホームがあるので駅とわかるが、一般の家と境が無く、溶け込んではいるが変な違和感がある。
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そのホームから中間側を見る。
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ホームは客車4両分。後ろの小高いところは、新四国八十八番札所である。
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年季の入った駅名板。
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中間側から見た駅舎。
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駅(ホーム)に通じる路地は一般の家に入る道でもあった。踏切の先は黒川を渡る橋梁。線路の先は終点の香月となる。
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駅舎の全容。実に趣のある建物。
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その駅舎に付けられていた駅名板。
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駅舎内部。外(ホーム)側からの見た目より、奥行きはあまりない。一見では無人駅のように思えるが、床には打ち水がしてあり、駅員さんが居て少々驚いた。
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多客時の名残か、板材の角が丸くなっていたり、ピカピカに光っていたりしていた。
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列車の数は、上り=中間側は11本。下り=香月側は10本あり、ローカル線とは思えない本数があった。

旅客運賃表には、九州内はもとより、東京まで表示されていて、利用客が有ったことを示していた。
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ちなみに、東京は3380円。名古屋が2640円で神戸・大阪が2230円。九州内では、鹿児島と宮崎がともに1560円で、隔世の感・・・。

駅改札口から見たホームと線路の向こう側の道路。
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改札口は、かっては駅員が手すりの前に立って検札を行っていたのだとは思うが、この時はすでにフリーパスだった。

ここでは記念に入場券を買ってきたのだが、買った最初のが券番0002か0003だった。そして券番0005が最終(買い占めてきたことになる)だった。その最後の券の裏側には赤色の線が何本も引かれていた。フリーパスで乗降できる駅だったので入場券など必要がなかったわけで、誰も買わなかったらしい。

駅舎内に張られていた臨時列車運転のお知らせ。今見るとJNRが新鮮。
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撮影日は、1973年(S.48)4月30日。カメラは、ミノルタSR−3。フィルムは、コニパンSSSだった。
「ふるさと列車おくのと」号を撮影に行った七尾線の能登中島駅である。

ホームは2本あり、通常の列車交換の他、優等列車の追越にも使用され、跨線橋があった本格的な駅形態を持っていた。
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駅は、熊木川と日用川が合流して七尾西湾に注ぐ、中州のような場所に位置し、両方向に60m強の小高い丘があるため、両方向とも築堤があり、かつΩカーブの中央に駅があるといった形態で、駅から列車の発着が早くから望めた。

列車がいないときは、海側は田んぼで、山側は丘のため、ほとんど人の姿の見えない静かな駅だった。
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撮影日は、1973年(S.48)9月23日。カメラは、ミノルタSR-3。フィルムは、Fuji-Neopan SSSだった。


現在は、JR西日本が所有し、のと鉄道が運営する「のと鉄道七尾線」の駅となって存続している。

平日の7時から17時まで駅員が配置される有人駅で、構内の側線(旧3番線)に郵便車(オユ10)およびNT800形気動車(のと恋路号で使用された車両)が保存されている。このうちオユ10形は能登線の甲駅に保存されていたもので、同線の廃止に伴って中島駅に移動されたもの。これらを含め、駅周辺は鉄道公園として整備されている。
画像は拡大して見ることが出来ます
当時の筑前庄内駅。
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この時代では片面ホームしかなかったが、駅舎はしっかりとした木造駅舎だった。駅員が居たかどうかは記憶にない。列車が通り過ぎた後、ポツポツと雨が降り出し、慌てて駅に戻った頃には本降りの雨と成ってしまった。

駅名看板。
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かって、石炭の積み出しも行われていたらしく、積み出し設備の残骸や広い構内の雰囲気が残っていた駅構内とホーム。写真の奥手にはここから始まる勾配区間が見渡せる。雨は一時的に止んでいた。
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撮影日は、1973年(S.48)7月26日。カメラはミノルタSR−3。フィルムは、Neopan-SSSだった。
画像は拡大して見ることができます
後輩3名とともに出かけた若狭・山陰旅行の中間くらいの日程の時に利用した大社線の駅。
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列車の到着時間までのわずかな時間を利用して撮影したので、仲間も一緒に走っていた。

この当時所有していたレンズでは駅舎の全容を1枚に納めることが出来ず、計3枚に分けて撮影した。
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タクシーの車種が時代を感じさせてくれる。
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駅舎の中で特に目を惹いたのが切符の販売窓口。料金表が現代的なモノに変えられているのが惜しいといえば惜しい気がした。
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出札口。発車時刻表を見ると一日に15本の列車があることが判る。
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当時、どこの駅にもあった右側の「手荷物・小荷物扱所、携帯品一時預かり」の看板が、とても懐かしく感じる。


撮影日は、1973年(S.48)3月8日。カメラは、ミノルタSR−3、レンズはロッコール35mm F2.8。フィルムは、Konipan-SSだった。

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