英雄も利用する半島人

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鮮人は編△麻られている鮮人を「出してくれ」と言う。
しかしインドネシア英雄墓地にいる鮮人を「出してくれ」とは言わない。
 
昭和173月、350年間インドネシアを支配してきたオランダを打倒した日本軍は、昭和2097日にインドネシア独立を約束して、スカルノ(初代大統領)に独立準備委員会を結成させた。
 
しかしこの約束は日本の終戦で果たせず、インドネシアは自分達の力で独立しようと817日に独立宣言した。
 
これをオランダは認めず、「独立」の動きを「暴動」と言って日本軍に武力鎮圧を命じた。
 
インドネシアは植民地に戻るわけにはいかなかった。
 
インドネシアは日本軍によって育てられたPETA出身の将兵達が中心となって10万人でインドネシア独立戦争を戦った。
 
この時、インドネシアにいた日本軍は日本に帰ることも出来たが、インドネシア独立のために一身を捧げることを選んだ二千人がいた。
 
彼らは経験乏しい独立軍を指導するため常に第一線に立ったために千人が命を落とした。
 
この中に鮮人軍属の梁七星(日本名 梁川七星)がいた。梁は幼いころ両親と死別し、叔母夫婦に引き取られて育てられた。
 
大変心の優しい子供で、小学校に入る時に近所の貧しい子供に学用品を分け与えたという。また親孝行でもあり、引き取ってくれた養父を早く亡くすと、家計を助けるため、日本軍の軍属の募集に応じてジャワに渡った。
 
ジャワでは捕虜の監視を務め、日本軍の給料を実家に届けていた。
 
終戦後、実家には「インドネシアにもう少し留まる」との手紙を書き、アジア解放のために上官であった青木政四郎曹長と長谷川勝雄軍曹と共にインドネシア独立軍に加わった。
 
彼らはバンドンなどでオランダ軍相手にゲリラ戦を展開。インドネシア人部隊とジャングルの中を転戦してオランダ軍を悩ませた。
 
リーダーの青木はオランダ軍が懸賞金をかけるほどの優れた戦士であった。特に「民家のものは決して奪うな。日本人でも女を襲ったり、物品を略奪したら撃ち殺す」と規律も厳格に維持して、現地人とも信頼関係を得ていた。
 
梁はこうした青木の姿勢と理想に共感して生死を共にする決心だった
 
オランダ軍はインドネシア軍が日本軍の訓練で強くなっていたことを知らず、オランダ軍は簡単に鎮圧出来ると考えていた。
 
しかしインドネシア人は見違えるほど強かった。
 
戦いは4年間も続きインドネシア側は80万人の死者を出した。それでもオランダ軍は占領することが出来ず、インドネシアの独立に同情した国際世論の圧力で、昭和24年、インドネシアの独立を認めた。
 
しかし青木や長谷川や梁の3人はインドネシアの独立に立ち会うことなく、捕えられて、独立の4ヵ月前に銃殺された。
 
処刑前に3人は「君が代」を歌い、「天皇陛下万歳」を三唱して死に赴いた。
 
青木曹長は3人の共同辞世に一首留めた。
「国思う 大和をのこの散り際は 盛り短き桜花かな」
 
3人は共に戦った独立軍の墓地に埋葬してくれるようにオランダ軍に頼んだが、拒否されて民衆墓地に埋葬された。
 
インドネシア民衆は3人の遺体が運ばれる時、沿道に集まって「ムルデカ(独立)!」とオランダ軍をも恐れず叫んで見送った
 
その後、3人の遺骨はインドネシアが「独立英雄」と公式に認め、昭和50年に彼らが戦ったガルングン山を仰ぐガルートの英雄墓地に埋葬した。

独立の英雄をいつまでも忘れないインドネシアは立派である。日本は見習わなければいけない。
 
この時、分骨された小さな棺は遺族に送られたが、梁七星の棺だけ取り残された。それを知った日本人が遺族を探し出したが、梁がインドネシア独立軍として戦っていたことを知らず、帰りをずっと待って全州駅に出迎えていた義母は、この9年前に他界していた。
 
この英雄墓地の梁七星の墓碑には「日本 梁川七星」と刻まれていた。
 
しかし韓国はこの碑文を「韓国名」と「韓国国籍」にするようインドネシア政府に抗議した。
 
結果、「韓国名」と「韓国国籍」になった。
 
それは本人が望むのだろうか?
「日本 梁川七星」のままがよかったのではないか。

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日本人は年末が近づくと「赤穂浪士」である。
 
1214日は大石以下四十七士が吉良上野介を討ちとった日である。
 
江戸時代、民衆は赤穂事件で「大石内蔵助は楠正成公の生まれ変わり」と言った。
 
この意味が分かるであろうか?
 
戦前、楠正成公と言えば誰もが尊敬する人物であったが、戦後は楠正成公が何をした偉人であるのかほとんど教えられなくなった。
 
これでは江戸時代の民衆が理解していたことを、現代の日本人が理解できなくなるのも当然である。
 
楠正成公と言えば、わずか数百の手勢で天皇陛下に弓ひく国賊・足利高氏の数十万にもひるまず戦いに臨んだ“忠義”の人である。
 
形勢不利になると周りは裏切って足利に寝返る中、天皇陛下に変わらぬ忠義を貫く正成公の姿勢に多くの日本人が共鳴した。
 
特に幕末維新の風雲の中、祖国のために若い命を散らした志士達も、そして楠の家紋「菊水」と「七生報国」で祖国を守るために”特攻”に殉じた英霊達も、楠正成公の“忠義”こそが心の支えであった。
 
「お国の大事には大楠公のように忠義に殉じる」。
 
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「回天」にある菊水(楠家の家紋)

正成公が湊川で「ついにここまで」と弟・正季と刺違える時に言い残したのが「七たび生まれ変わっても、国賊・足利を滅ぼす」、つまり「七生滅賊」(後に七生報国である。
 
つまり正成公が湊川で討ち死にした後も、正成公の子孫は足利幕府に徹底して抵抗して、国賊・足利を滅亡させるまで戦い続けた。

記録に残っているだけでも1429年に楠光正、1437年には楠兄弟、1447年には楠雅楽助らが足利幕府に反旗を翻した。

日本の歴史の中でこれほど長い間抵抗した一族はいないというほど、国賊を滅ぼすことに対する凄まじい執念であった。
 
そして楠一族の抵抗が歴史の記録から消えた7年後、応仁の乱が起こり、足利幕府崩壊となったのは偶然ではない。
 
明治になると、明治政府は南朝の子孫を探し出して顕彰したが、どうしても楠一族の子孫だけは一人も探し出せなかった。
 
これは最後の一人になるまで戦い抜いて全滅したということである
 
ここで冒頭の「大石内蔵助は楠正成公の生まれ変わり」である。
 
赤穂事件で吉良上野介の吉良家は滅ぶが、実は吉良家は足利の血筋であった。
 
三代将軍・足利義氏の嫡男を初代としたのが吉良家であった。
 
つまり最後の足利の正統である吉良を滅ぼして、ついに正成公の悲願が達成されたということである。
 
これを江戸の民衆は「楠公は大石内蔵助に生まれ変わって足利家を滅ぼした」と言ったのである。
 
天皇陛下に弓引く国賊は徹底して滅ぼす“忠義”に最も恐怖を感じたのは米国であった。
 
何せ、日本軍の特別攻撃隊と直接戦った恐怖は二度と味わいたくなかった。
 
牙を抜かれた戦後日本人よ、大楠公を取り戻すことが日本を取り戻すことであることを知るのが「吉良上野介を討ちとった日」なのである。

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納得しませんね 18年は軽すぎる

刑務所が足りないなら 辺境の地にどんどん作るべき

一生 社会に出すべきでない


以下 転載記事

東名あおり、石橋被告に懲役18年 危険運転致死傷罪を認める

12/14(金) 11:13配信
毎日新聞
 神奈川県大井町の東名高速で昨年6月、あおり運転で停車させられたワゴン車が後続のトラックに追突されて夫婦が死亡した事故で、自動車運転処罰法違反(危険運転致死傷)などの罪に問われた石橋和歩被告(26)=福岡県=の裁判員裁判で、横浜地裁(深沢茂之裁判長)は14日、危険運転致死傷罪の適用を認め、懲役18年(求刑・懲役23年)を言い渡した。

 死亡したのは、静岡市の萩山嘉久さん(当時45歳)と妻友香さん(同39歳)。自動車運転処罰法は危険運転の要件を「重大な交通の危険を生じさせる速度で自動車を運転する行為」としている。裁判では、停車後の事故に危険運転致死傷罪を適用できるかどうかが、大きな争点となった。

 検察側は、高速道路上では停車させただけで危険として、被告による停車行為は危険運転の要件に該当すると述べた。一方「仮に停車行為を危険運転に含まなくても、停車させるまで繰り返した妨害運転は危険運転に該当する」と主張し、事故は被告の妨害運転が誘発したもので、因果関係は明らかとも述べた。

 危険運転致死傷罪が認められなかった場合に備え、同罪と同じく法定刑の上限が懲役20年の監禁致死傷罪を予備的訴因に追加。東名の事故以外のあおり運転に絡む事件3件についても強要未遂罪などで起訴されており、これらの罪と合わせて懲役23年を求刑した。

 弁護側は事実関係をほぼ認めた上で、「危険運転致死傷罪を適用するには、少なくとも時速20〜30キロ程度で妨害運転していたことが必要」とし、停車行為は同罪で処罰できないと主張。停車させてからトラックが追突するまでの約2分間に複数の車が追突を回避していたことを考慮すれば、妨害運転による危険は停車時点で断絶していると述べ、事故との因果関係を否定した。

 監禁致死傷罪についても、夫婦らが脱出するのは不可能ではなかったとして無罪を主張。暴行罪のみ成立するとしていた。

 検察側によると、被告は昨年6月5日、東名下り線で、萩山さん夫婦と長女(17)、次女(13)が乗るワゴン車をあおり運転で停車させ、そこに後続のトラックが衝突。夫婦が死亡、娘2人もけがをしたとされる。【木下翔太郎、国本愛

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昨日、編⊃声劼播贓蟇儺‖臂の位牌を燃やした、シナ共産党の資金で反日活動をしている保釣行動委員会のシナ人に繋がるニュースである。
 
今年1213日から南京市では「南京大虐殺追悼式典」の時刻に1分間の「黙祷」と「車は停止してクラクションを鳴らし続ける」ことを義務付けた条例を施行した。

アホか?

当時の南京の人口は11月18日から12月21日まで20万人のまま変わっていない(警察庁長官の王談話及び南京安全区国際委員会「人口調査表」)。つまり人口減となる虐殺はなく、12月13日は「南京陥落」の日である。

しかも南京戦を戦っていたのは蒋介石国民党であり、毛沢東共産党ではない。大体、9000万人以上の虐殺をしてきたシナ共産党が何を言うか。
 
このアホらしいニュースを日本の各メディアが一斉に報じた。
 
まるでシナの“広告塔”そのもののメディアを見る思いである。
 
こんな”嘘”を報じて、関西生コンの逮捕者数十人の”大事件”は全く報じない
 
これだけでも日本のメディアが如何に日本国民のためになっていないかがわかる。
 
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南京虐殺から81年 追悼の一斉警笛や黙とう義務付け
旧日本軍が多くの中国人を殺害したとされる「南京事件」から81年となる13日、中国政府は追悼式典を開きました。(平成301213日 テレ朝)
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「南京事件」から81年、追悼式典では日中関係に配慮も
旧日本軍が多くの中国人を殺害したとされる「南京事件」から、13日で81年です。追悼式典では日中間で議論がある犠牲者数について、「30万人」だと改めて強調。日本に対する厳しい言葉が減り、日中関係への一定の配慮がみられました。(平成301213 TBS
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追悼式典で日本批判“封印” 「南京事件」から81
1937年に旧日本軍が多くの市民を殺害したとされる南京事件の追悼式典が、13日朝、南京市で行われ、およそ8,000人が出席し、共産党幹部は、演説で30万人が殺害された」と主張した。(平成301213日 フジテレビ)
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日本のテレビ局は自ら日本を貶める南京の嘘虐殺をそのまま報道しているが、これを見てシナは笑っている。
 
もし日本が逆の立場で、シナがシナ自身を貶める嘘話を報道をしたり、シナ政府がその嘘話に謝罪ばかりしていたら、「バカなシナ人だ」と笑ってしまうだろう。
 
日本はそういうバカなことをしているのである。
 
我々の先人を貶めているのはシナだけではなく、こういう嘘をそのまま報じているマスコミにも原因があるのだ。
 
どうして「南京虐殺はなかった」と真実を言えないのか?
 
30万人」の捏造に反論する識者を出演させてきちんと反論するべきである。
 
それが日本国のマスコミの姿である。
 
しかし、それ以上に、日本政府はこれに何も反論しない。
 
30万人の南京大虐殺」など、今やいくらでも反論できるであろう。

日本国のために仕事しろ、と言いたい!

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銀杏の葉の絨毯

わんこの散歩道 歩道が一様の葉の絨毯です カサカサと音をたてながら 散歩 銀杏が落ちていないので助かりますが あれは踏みつぶすと臭いですから
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