奧の細道のすべて【松尾芭蕉 肉筆(原本)朗読 (野沢本)】 俳句

[奥の細道][於くの細道][おくのほそ道]松尾芭蕉自筆・肉筆(幻の野坂本)世界の古典貴重な.芭蕉の自筆紹介.故翁真跡墨付三十二丁

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1.序章〜22.塩釜  ・奥の細道(松尾芭蕉) 朗読・原文・現代語訳

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の細道(松尾芭蕉) 朗読・原文・現代語訳
1.序章

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原文
月日は百代の過客にして、行かふ年も又旅人也。舟の上に生涯をうかべ、馬の口とらえて老をむかふる物は、日々旅にして旅を栖とす。古人も多く旅に死せるあり。予もいづれの年よりか、片雲の風にさそはれて、漂泊の思ひやまず、海浜にさすらへ、去年の秋江上の破屋に蜘の古巣をはらひて、やゝ年も暮、春立る霞の空に白川の関こえんと、そゞろ神の物につきて心をくるはせ、道祖神のまねきにあひて、取もの手につかず。もゝ引の破をつゞり、笠の緒付かえて、三里に灸すゆるより、松島の月先心にかゝりて、住る方は人に譲り、杉風が別墅に移るに、


 草の戸も住替る代ぞひなの家


面八句を庵の柱に懸置。
現代語訳
月日は百代という長い時間を旅していく旅人のようなものであり、その過ぎ去って行く一年一年もまた旅人なのだ。
船頭のように舟の上に生涯を浮かべ、馬子のように馬の轡(くつわ)を引いて老いていく者は日々旅の中にいるのであり、旅を住まいとするのだ。
西行、能因など、昔も旅の途上で亡くなった人は多い。
私もいくつの頃だったか、吹き流れていくちぎれ雲に誘われ漂泊の旅への思いを止めることができず、海ぎわの地をさすらい、去年の秋は川のほとりのあばら家に戻りその蜘蛛の古巣をはらい一旦落ち着いていたのだが、しだいに年も暮れ春になり、霞のかかった空をながめていると、ふと【白河の関】を越してみたくなり、わけもなく人をそわそわさせるという【そぞろ神】に憑かれたように心がさわぎ、【道祖神】の手招きにあって何も手につかない有様となり、股引の破れを繕い、笠の緒をつけかえ、三里のつぼに灸をすえるそばから、松島の月がまず心にかかり、住み馴れた深川の庵は人に譲り、旅立ちまでは門人【杉風(さんぷう)】の別宅に移り、

 草の戸も 住み代わる世ぞ 雛の家

(意味)戸口が草で覆われたこのみすぼらしい深川の宿も、私にかわって新しい住人が住み、綺麗な雛人形が飾られるようなはなやかな家になるのだろう。
と発句を詠み、面八句を庵の柱に書き残すのだった。

2.千住
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原文
弥生も末の七日、明ぼのゝ空朧々として、月は有明にて光おさまれる物から、冨士の峰幽にみえて、上野・谷中の花の梢、又いつかはと心ぼそし。むつましきかぎりは宵よりつどひて、舟に乗て送る。千じゅと伝所にて船をあがれば、前途三千里の思ひ胸にふさがりて、幻のちまたに離別の泪をそゝぐ。

 行春や鳥啼魚の目は泪

是を矢立の初として、行道なをすゝまず。人々は途中に立ならびて、後かげのみゆる迄はと、見送るなるべし。
現代語訳
三月二十七日、夜明け方の空はおぼろに霞み、有明の月はもう光が薄くなっており、富士の峰が遠く幽かにうかがえる。
上野・谷中のほうを見ると木々の梢がしげっており、これら花の名所を再び見れるのはいつのことかと心細くなるのだった。
親しい人々は宵のうちから集まって、舟に乗って送ってくれる。千住というところで舟をあがると、これから三千里もの道のりがあるのだろうと胸がいっぱいになる。
この世は幻のようにはかないものだ、未練はないと考えていたが、いざ別れが近づくとさすがに泪があふれてくる。

 行春や鳥啼魚の目は泪

(意味)春が過ぎ去るのを惜しんで鳥も魚も目に涙を浮かべているようだ。
これをこの旅で詠む第一句とした。見送りの人々は別れを惜しんでなかなか足が進まない。ようやく別れて後ろを振り返ると、みんな道中に立ち並んでいる。後ろ姿が見える間は見送ってくれるつもりなんだろう。

3.草加
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原文
ことし元禄二とせにや、奥羽長途(ちょうど)の行脚(あんぎゃ)、只かりそめに思ひたちて、呉天に白髪の恨を重ぬといへ共、耳にふれていまだめに見ぬさかひ、若生て帰らばと定なき頼の末をかけ、其日漸(ようよう)早加と云宿にたどり着きにけり。痩骨の肩にかゝれる物、先くるしむ。只身すがらにと出立侍を、帋子(かみこ)一衣(いちえ)は夜の防ぎ、ゆかた・雨具・墨・筆のたぐひ、あるはさりがたき餞(はなむけ)などしたるは、さすがに打捨がたくて、路次(ろし)の煩(わずらい)となるこそわりなけれ。
現代語訳
今年は元禄二年であったろうか、奥羽への長旅をふと気まぐれに思い立った。
この年で遠い異郷の空の下を旅するなど、さぞかし大変な目にあってさらに白髪が増えるに決まっているのだ。
しかし話にだけ聞いて実際目で見たことはない地域を、ぜひ見てみたい、そして出来るなら再びもどってきたい。
そんなあてもない願いを抱きながら、その日草加という宿にたどり着いた。
何より苦しかったのは痩せて骨ばってきた肩に、荷物がずしりと重く感じられることだ。
できるだけ荷物は持たず、手ぶらに近い格好で出発したつもりだったが、夜の防寒具としては紙子が一着必要だし、浴衣・雨具・墨・筆などもいる。
その上どうしても断れない餞別の品々をさすがに捨ててしまうわけにはいかない。こういうわけで、道すがら荷物がかさばるのは仕方のないことなのだ。

4.室の八島
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原文
室の八島に詣す。同行曾良が曰く、「此神は木の花さくや姫の神と申て富士一躰(いったい)也。無戸室(うつむろ)に入りて焼給ふちかひのみ中に、火々出身のみこと生れ給ひしより室の八島と申。又煙を読習し侍もこの謂也」。将(はた)、このしろといふ魚を禁ず。縁起の旨、世に伝ふ事も侍し。
現代語訳
室の八島と呼ばれる神社に参詣する。旅の同行者、曾良が言うには、「ここに祭られている神は木の花さくや姫の神といって、富士の浅間神社で祭られているのと同じご神体です。
木の花さくや姫が身の潔白を証しするために入り口を塞いだ産室にこもり、炎が燃え上がる中で火々出身のみことをご出産されました。それによりこの場所を室の八島といいます。
また、室の八島を歌に詠むときは必ず「煙」を詠み込むきまりですが、それもこのいわれによるのです。
また、この土地では「このしろ」という魚を食べることを禁じているが、それも木の花さくや姫の神に関係したことだそうで、そういった神社の由来はよく世の中に知られている。

5.仏五左衛門

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原文
卅日、日光山の麓に泊まる。あるじの云けるやう、「我名を仏五左衛門と云。万正直を旨とする故に、人かくは申侍まゝ、一夜の草の枕も打解て休み給へ」と云。いかなる仏の濁世塵土に示現して、かゝる桑門の乞食巡礼ごときの人をたすけ給ふにやと、あるじのなす事に心をとゞめてみるに、唯無智無分別にして正直偏固の者也。剛毅木訥の仁に近きたぐひ、気稟の清質、尤尊ぶべし。
現代語訳
三月三十日、日光山のふもとに宿を借りて泊まる。宿の主人が言うことには、「私の名は仏五左衛門といいます。なんにでも正直が信条ですから、まわりの人から「仏」などと呼ばれるようになりました。そんな次第ですから今夜はゆっくりおくつろぎください」と言うのだ。
いったいどんな種類の仏がこの濁り穢れた世に御姿を現して、このように僧侶(桑門)の格好をして乞食巡礼の旅をしているようなみすぼらしい者をお助けになるのだろうかと、主人のやることに心をとめて観察していた。
すると、打算やこざかしさは全くなく、ただひたすら正直一途な者なのだ。
論語にある「剛毅朴訥は仁に近し(まっすぐで勇敢で質実な人が仁に近い)」という言葉を体現しているような人物だ。
生まれつきもっている(気稟)、清らかな性質(清質)なんだろう、こういう者こそ尊ばれなければならない。

6.日光
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原文
卯月遡日(ついたち)、御山(おやま)に詣拝す。往昔(そのかみ)、此御山を「二荒山(ふたらさん)」と書しを、空海大師開基の時、「日光」と改給ふ。千歳未来をさとり給ふにや、今此御光一天にかゝやきて、恩沢八荒にあふれ、四民安堵 の栖(すみか)穏(おだやか)なり。猶(なお)、憚(はばかり)多くて筆をさし置きぬ。

 あらたふと青葉若葉の日の光


黒髪山は霞かゝりて、雪いまだ白し。


 剃捨(そりすて)て黒髪山に衣更(ころもがえ)

曾良は河合氏にして惣五良と云へり。芭蕉の下葉に軒をならべて、予が薪水の労をたすく。このたび松しま・象潟の眺共にせん事を悦(よろこ)び、且(かつ)は羈旅の難をいたはらんと、旅立暁(あかつき)髪を剃て墨染にさまをかえ、惣五を改て宗悟とす。仍て黒髪山の句有。「衣更」の二字、力ありてきこゆ。
廿余丁山を登つて滝有。岩洞の頂より飛流して百尺(はくせき)、千岩の碧潭(へきたん)に落ちたり。岩窟に身をひそめ入て、滝の裏よりみれば、うらみの滝と申伝え侍る也。

 暫時(しばらく)は滝にこもるや夏の初

現代語訳
四月一日、日光の御山に参詣する。昔この御山を「二荒山(にこうざん)」と書いたが、空海大師が開基した時、「日光」と改められたのだ。
大師は千年先の未来までも見通すことできたのだろうか、今この日光東照宮に祭られている徳川家康公の威光が広く天下に輝き、国のすみずみまであふれんばかりの豊かな恩恵が行き届き、士農工商すべて安心して、穏やかに住むことができる。
なお、私ごときがこれ以上日光について書くのは畏れ多いのでこのへんで筆を置くことにする。

あらたふと青葉若葉の日の光

ああなんと尊いことだろう、「日光」という名の通り、青葉若葉に日の光が照り映えているよ。
古歌に多く「黒髪山」として詠まれている日光連峰のひとつ、男体山(なんたいざん)をのぞむ。霞がかかって、雪がいまだに白く残っている。

剃捨てて黒髪山に衣更 曾良

深川を出発した時に髪をおろして坊主になった、今また日光の黒髪山に通りかかる時、ちょうど衣替えの時節だ。
曾良は河合という姓で名は惣五郎という。深川の芭蕉庵の近所に住んでいて、私の日常のことを何かと手伝ってくれていた。
今回、有名な松島、象潟の眺めを一緒に見ることを喜び、また旅の苦労を労わりあおうと、出発の日の早朝、髪をおろして僧侶の着る墨染の衣に着替え、名前も惣五から僧侶風の「宗悟」と変えた。
こういういきさつで、この黒髪山の句は詠まれたのだ。「衣更」の二字には曾良のこの旅にかける覚悟がこめられていて、力強く聞こえることよ。
二十丁ちょっと山を登ると滝がある。窪んだ岩の頂上から水が飛びはねて、百尺もあうかという高さを落ちて、沢山の岩が重なった真っ青な滝つぼの中へ落ち込んでいく。
岩のくぼみに身をひそめると、ちょうど滝の裏から見ることになる。これが古くから「うらみの滝」と呼ばれるゆえんなのだ。

暫時は滝に籠るや夏の初

滝の裏の岩屋に入ったこの状況を夏行(げぎょう)の修行と見立ててしばらくはこもっていようよ。

7.那須

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原文
那須の黒ばねと云所に知人あれば、是より野越にかゝりて、直道(すぐみち)をゆかんとす。遥に一村を見かけて行に、雨降日暮る。農夫の家に一夜をかりて、明れば又野中を行。そこに野飼の馬あり。草刈おのこになげきよれば、野夫(やふ)といへどもさすがに情(なさけ)しらぬには非ず。「いかゞすべきや。されども此野は縦横にわかれて、うゐうゐ敷旅人の道ふみたがえん、あやしう侍れば、此馬のとゞまる所にて馬を返し給へ」と、かし侍ぬ。ちいさき者ふたり、馬の跡したひてはしる。独は小娘にて、名をかさねと云。聞なれぬ名のやさしかりければ、

 かさねとは八重撫子の名成べし 曽良

頓(やがて)て人里に至れば、あたひを鞍つぼに結付て、馬を返しぬ。
現代語訳
那須の黒羽という所に知人がいるので、これから那須野を超えてまっすぐの道を行くことにする。
はるか彼方に村が見えるのでそれを目指して行くと、雨が降ってきて日も暮れてしまう。
百姓屋で一晩泊めてもらい、翌朝また広い那須野の原野の中を進んでいく。
そこに、野に飼ってある馬があった。そばで草を刈っていた男に道をたずねると、片田舎のなんでもない男だが、さすがに情けの心を知らないわけではなかった。
「さあ、どうしたもんでしょうか。しかしこの那須野の原野は縦横に走っていて、初めて旅する人が道に迷うことも心配ですから、この馬をお貸しします。馬の停まったところで送り返してください」
こうして馬を借りて進んでいくと、後ろから子供が二人馬のあとを慕うように走ってついてくる。
そのうち一人は女の子で、「かさね」という名前であった。あまり聞かない優しい名前だということで、曾良が一句詠んだ。

かさねとは八重撫子の名成べし 曽良

(意味)可愛らしい女の子を撫子によく例えるが、その名も「かさね」とは撫子の中でも特に八重撫子を指しているようだ。
それからすぐ人里に出たので、お礼のお金を馬の鞍つぼ(鞍の中央の人が乗るくぼんだ部分)に結び付けて、馬を返した。

8.黒羽
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原文
黒羽の館代浄坊寺何がしの方に音信おとづる。思ひがけぬあるじの悦び、日夜語りつゞけて、其弟桃翠など云が、朝夕勤とぶらひ、自の家にも伴ひて、親属の方にもまねかれ、日をふるまゝに、ひとひ郊外に逍遥して、犬追物の跡を一見し、那須の篠原をわけて、玉藻の前の古墳をとふ。それより八幡宮に詣。与市扇の的を射し時、「別しては我国の氏神正八まん」とちかひしも、此神社にて侍と聞ば、感応殊にしきりに覚えらる。暮れば桃翠宅に帰る。
修験光明寺と云有。そこにまねかれて、行者堂を拝す。

 夏山に足駄を拝む首途哉


現代語訳
黒羽藩の留守居役の家老である、浄坊寺何がしという者の館を訪問する。主人にとっては急な客人でとまどったろうが、思いのほかの歓迎をしてくれて、昼となく夜となく語り合った。
その弟である桃翠という者が朝夕にきまって訪ねてきて、自分の館にも親族の住まいにも招待してくれた。
こうして何日か過ごしていたが、ある日郊外に散歩に出かけた。昔、犬追物に使われた場所を見て、那須の篠原を掻き分けるように通りすぎ、九尾の狐として知られる玉藻の前の塚を訪ねた。
それから八幡宮に参詣した。かの那須与一が扇の的を射る時「(いろいろな神々の中でも特に)わが国那須の氏神である正八幡さまに(お願いします)」と誓ったのはこの神社だときいて、神のありがたさもいっそう身に染みて感じられるのだった。
日が暮れると、再び桃翠宅に戻る。
近所に修験光明寺という寺があった。そこに招かれて、修験道の開祖、役小角(えんのおづぬ)をまつってある行者堂を拝んだ。

夏山に足駄を拝む首途哉

役小角(えんのおづぬ)のお堂を拝む。この夏山を越せばもう奥州だ。小角が高下駄をはいて山道を下ったというその健脚にあやかりたいと願いつつ、次なる門出の気持ちを固めるのだ。

9.雲巌寺

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原文
当国雲岸寺のおくに、仏頂和尚山居跡有。

「竪横の五尺にたらぬ草の庵
むすぶもくやし雨なかりせば」

と、松の炭して岩に書付侍りと、いつぞや聞え給ふ。其跡みんと雲岸寺に杖を曳ば、人々すゝむで共にいざなひ、若き人おほく道のほど打さはぎて、おぼえず彼麓に到る。山はおくあるけしきにて、谷道遙に、松杉黒く苔したゞりて、卯月の天今猶寒し。十景尽る所、橋をわたつて山門に入。
さて、かの跡はいづくのほどにやと、後の山によぢのぼれば、石上せきしょうの小庵岩窟にむすびかけたり。妙禅師の死関、法雲法師の石室をみるがごとし。

 木啄も庵はやぶらず夏木立

と、とりあえぬ一句を柱に残侍し。
現代語訳
下野国の臨済宗雲巌寺の奥の山に、私の禅の師である仏頂和尚が山ごもりしていた跡がある。


「縦横五尺に満たない草の庵だが、雨が降らなかったらこの庵さえ必要ないのに。住まいなどに縛られないで生きたいと思ってるのに残念なことだ」

と、松明の炭で岩に書き付けたと、いつか話してくださった。
その跡を見ようと、雲巌寺に杖をついて向かうと、ここの人々はお互いに誘い合って案内についてきてくれた。若い人が多く、道中楽しく騒いで、気付いたら麓に到着していた。
この山はだいぶ奥が深いようだ。谷ぞいの道がはるかに続き、松や杉が黒く茂って、苔からは水がしたたりおちていた。
さて、仏頂和尚山ごもりの跡はどんなものだろうと裏山に上ると、石の上に小さな庵が、岩屋にもたれかかるように建っていた。
話にきく妙禅師の死関や法雲法師の石室を見るような思いだった。

 木啄も庵はやぶらず夏木立


(夏木立の中に静かな庵が建っている。さすがの啄木鳥も、この静けさを破りたくないと考えてか、この庵だけはつつかないようだ)
と、即興の一句を柱に書き残すのだった。

10.殺生石・遊行柳

殺生石・遊行柳 白河の関 - YouTube
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原文
是より殺生石に行。館代より馬にて送らる。此口付のおのこ、「短冊得させよ」と乞。やさしき事を望侍るものかなと、

 野を横に馬牽むけよほとゝぎす

殺生石は温泉(いでゆ)の出(いづ)る山陰にあり。石の毒気(どくき)いまだほろびず、蜂・蝶のたぐひ、真砂の色の見えぬほどかさなり死す。
又、清水ながるゝの柳は、蘆野の里にありて、田の畔(くろ)に残る。此所の群守戸部某(こほうなにがし)の、「此柳みせばや」など、折ゝにの給ひ聞え給ふを、いづくのほどにやと思ひしを、今日此柳のかげにこそ立より侍つれ。

 田一枚植て立ち去る柳かな


現代語訳
黒羽を出発して、殺生石に向かう。伝説にある玉藻前が九尾の狐としての正体を暴かれ、射殺されたあと石に変化したという、その石が殺生石だ。
黒羽で接待してくれた留守居役家老、浄法寺氏のはからいで、馬で送ってもらうこととなった。
すると馬の鼻緒を引く馬子の男が、「短冊をくれ」という。馬子にしては風流なこと求めるものだと感心して、

野を横に馬牽むけよほとゝぎす

(広い那須野でほととぎすが一声啼いた。その声を聞くように姿を見るように、馬の頭をグーッとそちらへ向けてくれ。そして馬子よ、ともに聞こうじゃないか)
殺生石は、温泉の湧き出る山陰にあった。石の姿になっても九尾の狐であったころの毒気がまだ消えぬと見えて、蜂や蝶といった虫類が砂の色が見えなくなるほど重なりあって死んでいた。
また、西行法師が「道のべに清水ながるゝ柳かげしばしとてこそたちどまりつれ」と詠んだ柳を訪ねた。
その柳は蘆野の里にあり、田のあぜ道に残っていた。ここの領主、戸部某という者が、「この柳をお見せしなければ」としばしば言ってくださっていたのを、どんな所にあるのかとずっと気になっていたが、今日まさにその柳の陰に立ち寄ったのだ。

田一枚植て立ち去る柳かな

西行法師ゆかりの遊行柳の下で座り込んで感慨にふけっていると、田植えをしているのが見える。(私は?)田んぼ一面植えてしまうまでしみじみと眺めて立ち去るのだった

11.白河の関
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原文
心許なき日かず重るまゝに、白川の関にかゝりて旅心定りぬ。「いかで都へ」と便求しも断也。中にも此関は三関の一にして、風【馬+「操」の右】の人心をとゞむ。秋風を耳に残し、紅葉を俤にして、青葉の梢猶あはれ也。卯の花の白妙に、茨の花の咲そひて、雪にもこゆる心地ぞする。古人冠を正し衣装を改し事など、清輔の筆にもとゞめ置れしとぞ。

 卯の花をかざしに関の晴着かな 曾良

現代語訳
最初は旅といっても実感がわかない日々が続いたが、白河の関にかかる頃になってようやく旅の途上にあるという実感が湧いてきた。
平兼盛は「いかで都へ」と、この関を越えた感動をなんとか都に伝えたいものだ、という意味の歌を残しているが、なるほどもっともだと思う。
特にこの白河の関は東国三関の一つで、西行法師など、昔から風流を愛する人々の心をとらえてきた。
能因法師の「都をば霞とともにたちしかど秋風ぞ吹く白川の関」という歌を思うと季節は初夏だが、秋風が耳奥で響くように感じる。
また源頼政の「都にはまだ青葉にて見しかども紅葉散りしく白河の関」を思うと青葉の梢のむこうに紅葉の見事さまで想像されて、いっそう風雅に思えるのだった。
真っ白い卯の花に、ところどころ茨の白い花が咲き混じっており、雪よりも白い感じがするのだ。
陸奥守竹田大夫国行が白河の関を越えるのに能因法師の歌に敬意を払って冠と衣装を着替えて超えたという話を藤原清輔が書き残しているほどだ。

卯の花をかざしに関の晴着かな 曾良

(かつてこの白河の関を通る時、陸奥守竹田大夫国行(むつのかみたけだのだいふくにゆき)は能因法師の歌に敬意を表して 衣装を着替えたという。私たちはそこまではできないがせめて卯の花を頭上にかざして、敬意をあらわそう)

12.須賀川

須賀川 あさか山 しのぶの里 佐藤庄司が旧跡 笠島 武隈の松  ー(YouTube ) 

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原文
とかくして越行まゝに、あぶくま川を渡る。左に会津根高く、右に岩城・相馬・三春の庄、常陸・下野の地をさかひて山つらなる。かげ沼と云所を行に、今日は空曇て物影うつらず。すか川の駅に等窮といふものを尋て、四、五日とゞめらる。先「白河の関いかにこえつるや」と問。「長途のくるしみ、身心つかれ、且は風景に魂うばゝれ、懐旧に腸を断て、はかゞしう思ひめぐらさず。

 風流の初やおくの田植うた


無下にこえんもさすがに」と語れば、脇・第三とつゞけて三巻となしぬ。
此宿の傍に、大きなる栗の木陰をたのみて、世をいとふ僧有。橡ひろふ太山みやまもかくやと里靴鼎に覚られて、ものに書付侍る。其詞そのことば、
栗といふ文字は西の木と書て、西方浄土に便ありと、行基ぎょうぎ菩薩の一生杖にも柱にも此木を用給ふとかや。

 世の人の見付ぬ花や軒の栗


現代語訳
このようにして白河の関を超えてすぐに、阿武隈川を渡った。左に会津の代表的な山である磐梯山が高くそびえ、右には岩城・相馬・三春の庄という土地が広がっている。後ろを見ると常陸、下野との境には山々がつらなっていた。
かげ沼という所に行くが、今日は空が曇っていて水面には何も写らなかった。
須賀川の駅で等窮というものを訪ねて、四五日やっかいになった。等窮はまず「白河の関をどう越しましたか(どんな句を作りましたか)」と尋ねてくる。
「長旅の大変さに身も心も疲れ果てておりまして、また見事な風景に魂を奪われ、懐旧の思いにはらわたを絶たれるようでして、うまいこと詠めませんでした」


風流の初やおくの田植うた

(白河の関を超え奥州路に入ると、まさに田植えの真っ盛りで農民たちが田植え歌を歌っていた。そのひなびた響きは、陸奥で味わう風流の第一歩となった)
何も作らずに関をこすのもさすがに残念ですから、こんな句を作ったのです」と語ればすぐに俳諧の席となり、脇・第三とつづけて歌仙が三巻も出来上がった。
この宿のかたわらに、大きな栗の木陰に庵を建てて隠遁生活をしている何伸という僧があった。西行法師が「橡ひろふ」と詠んだ深山の生活はこんなであったろうとシミジミ思われて、あり合わせのものに感想を書き記した。
「栗」という字は「西」の「木」と書くくらいだから西方浄土に関係したものだと、奈良の東大寺造営に貢献した行基上人は一生杖にも柱にも栗の木をお使いになったということだ。

世の人の見付ぬ花や軒の栗

(栗の花は地味であまり世間の人に注目されないものだ。そんな栗の木陰で隠遁生活をしている主人の人柄をもあらわしているようで、おもむき深い)
13.あさか山
http://www.1-em.net/sampo/haiku/okunohosomiti/13.mp3
原文
等窮が宅を出て五里計(ばかり)、檜皮(ひはだ)の宿を離れてあさか山有。路より近し。此あたり沼多し。かつみ刈比もやゝ近うなれば、いづれの草を花かつみとは云ぞと、人々に尋侍れども、更知人なし。沼を尋、人にとひ、「かつみかつみ」と尋ありきて、日は山の端にかゝりぬ。二本松より右にきれて、黒塚の岩屋一見し、福島に宿る。
現代語訳
等窮の家を出て五里ほど進み、檜肌の宿を離れたところにあさか山(安積山)が道のすぐそばにある。
このあたりは「陸奥の安積の沼の花かつみ」と古今集の歌にあるように沼が多い。昔藤中将実方がこの地に左遷された時、五月に飾る菖蒲がなかったため、かわりにこのり歌をふまえて「かつみ」を刈って飾ったというが、今はちょうどその時期なので、「どの草をかつみ草というんだ」と人々に聞いてまわったが、誰も知る人はない。
沼のほとりまで行って「かつみ、かつみ」と探し歩いているうちに日が山際にかかって夕暮れ時になってまった。
二本松より右に曲がり、謡曲「安達原」で知られる鬼婆がいたという黒塚の岩屋を見て、福島で一泊した。

14.しのぶの里
http://www.1-em.net/sampo/haiku/okunohosomiti/14.mp3
原文
あくれば、しのぶもぢ摺の石を尋て、忍ぶのさとに行。遙山陰の小里に石半(なかば)土に埋(うづもれ)てあり。里の童部わらべの来りて教ける、「昔は此山の上に侍しを、往来(ゆきき)の人の麦草をあらして、此石を試侍をにくみて、此谷につき落せば、石の面下ざまにふしたり」と云。さもあるべき事にや。

 早苗とる手元や昔しのぶ摺

現代語訳
夜が明けると、忍ぶもじ摺りの石を訪ねて、忍ぶの里へ行った。遠い山陰の小里に、もじ摺りの石は半分地面に埋まっていた。
そこへ通りかかった里の童が教えてくれた。もじ摺り石は昔はこの山の上にあったそうだ。行き来する旅人が青麦の葉を踏み荒らしてこの石に近づき、伝承にある摺り染を試そうとするので、これはいけないと谷に突き落としたので石の面が下になっているのです、ということだ。
そういうこともあるだろうなと思った。

早苗とる手元や昔しのぶ摺

(「しのぶ摺」として知られる染物の技術は今はすたれてしまったが、早苗を摘み取る早乙女たちの手つきに、わずかにその昔の面影が偲ばれるようだ。「しのぶ」は「忍ぶ」と「偲ぶ」を掛ける。)
15.佐藤庄司が旧跡
http://www.1-em.net/sampo/haiku/okunohosomiti/15.mp3
原文
月の輪のわたしを越て、瀬の上と云宿に出づ。佐藤庄司が旧跡は、左の山際一里半計(いちりはんばかり)に有。飯塚の里鯖野と聞て尋ねゝ行に、丸山と云に尋あたる。是庄司が旧館也。麓に大手の跡など、人の教ゆるにまかせて泪を落し、又かたはらの古寺に一家いっけの石碑を残す。中にも二人の嫁がしるし、先哀(まずあはれ)也。女なれどもかひゞしき名の世に聞えつる物かなと袂をぬらしぬ。堕涙の石碑も遠きにあらず。寺に入て茶を乞えば、爰(ここ)に義経の太刀・弁慶が笈をとゞめて什物(じふもつ)とす。

 笈も太刀も五月にかざれ帋幟(かみのぼり)


五月朔日(ついたち)の事也
現代語訳
月の輪の渡しを舟で越えて、瀬の上という宿場町に出る。源平合戦で義経の下で活躍した佐藤継信・忠信兄弟の父、元治の旧跡は、左の山のそば一里半ほどのところにあった。
飯塚の里、鯖野というところと聞いて、人に尋ね尋ねいくと、丸山というところでようやく尋ねあてることができた。
「これが佐藤庄司の館跡です。山の麓に正門の跡があります」など、人に教えられるそばから涙が流れる。
また、かたわらの古寺医王寺に佐藤一家のことを記した石碑が残っていた。
その中でも佐藤兄弟の嫁(楓と初音)の墓の文字が最も哀れを誘う。女の身でありながらけなげに佐藤兄弟につくし、評判を世間に残したものよと、涙に袂を濡らすのだった。
中国の伝承にある、見たものは必ず涙を流したという「堕涙の石碑」を目の前にしたような心持だ。
寺に入って茶を一杯頼んだところ、ここには義経の太刀・弁慶の笈(背中に背負う箱)が保管されており寺の宝物となっていた。

笈も太刀も五月にかざれ紙幟

(弁慶の笈と義経の太刀を所蔵するこの寺では、端午の節句には紙幟とともにそれらを飾るのがよいだろう。武勇で聞こえた二人の遺品なのだから、端午の節句にはぴったりだ。初案「弁慶が笈をもかざれ紙幟」)

16.飯塚
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原文
其夜飯塚にとまる。温泉(いでゆ)あれば、湯に入て宿をかるに、土坐に莚(むしろ)を敷て、あやしき貧家也。灯(ともしび)もなければ、ゐろりの火かげに寐所をまうけて臥す。夜に入て、雷鳴雨しきりに降て、臥る上よりもり、蚤・蚊にせゝられて眠らず。持病さへおこりて、消入計(きえいるばかり)になん。短夜の空もやうゝ明れば、又旅立ぬ。猶夜の余波(なごり)、心すゝまず。馬かりて桑折(こおり)の駅に出る(いづ)。遙なる行末をかゝえて、斯る病覚束なしといへど、羇旅辺土の行脚、捨身無常の観念、道路にしなん、是天の命なりと、気力聊(いささか)とり直し、路縦横に踏で伊達の大木戸をこす
現代語訳
その夜は飯塚に泊まった。温泉があったので湯にはいって宿に泊まったが、土坐に莚を敷いて客を寝かせるような、信用できない感じのみすぼらしい宿だった。ともしびもたいてくれないので、囲炉裏の火がチラチラする傍に寝所を整えて休んだ。
夜中、雷が鳴り雨がしきりに降って、寝床の上から漏ってきて、その上蚤や蚊に体中を刺されて、眠れない。持病まで起こって、身も心も消え入りそうになった。
短い夏の夜もようやく明けてきたので、また旅立つことにする。まだ昨夜のいやな感じが残ってて、旅に気持ちが向かなかった。馬を借りて桑折の宿場に着いた。
まだまだ道のりは長いのにこんな病など起きて先が思いやられるが、はるか異郷の旅に向かうにあたり、わが身はすでに捨てたつもりだ。人生ははかないものだし、旅の途上で死んでもそれは天命だ。
そんなふうに自分を励まし、気力をちょっと取り直し、足取りも軽く伊達の大木戸を越すのだった。

17.笠島
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原文
鐙摺、白石の城を過、笠島の郡(こおり)に入れば、藤中将実方の塚はいづくのほどならんと、人にとへば、「是より遙右に見ゆる山際の里を、みのわ・笠島と云、道祖神の社、かた見の薄、今にあり」と教ゆ。此比(このごろ)の五月雨に道いとあしく、身つかれ侍れば、よそながら眺やりて過るに、蓑輪・笠島も五月雨の折にふれたりと、

 笠島はいづこさ月のぬかり道


岩沼に宿る。
現代語訳
鐙摺、白石の城を過ぎて、笠島の宿に入る。
藤中将実方の墓はどのあたりだろうと人に聞くと、「ここから遙か右に見える山際の里を、箕輪・笠島といい、藤中将がその前で下馬しなかったために落馬して命を落としたという道祖神の社や、西行が藤中将について「枯野のすすき形見にぞ見る」と詠んだ薄が今も残っているのです」と教えてくれた。
このところの五月雨で道は大変通りにくく、体も疲れていたので遠くから眺めるだけで立ち去ったが、蓑輪、笠島という地名も五月雨に関係していて面白いと思い、一句詠んだ。

笠島はいづこさ月のぬかり道

(実方中将の墓のあるという笠島はどのあたりだろう。こんな五月雨ふりしきるぬかり道の中では、方向もはっきりしないのだ)
その夜は岩沼に泊まった。

18.武隈
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原文
武隈の松にこそ、め覚る心地はすれ。根は土際より二木にわかれて、昔の姿うしなはずとしらる。先能因法師思ひ出。往昔(そのかみ)、むつのかみにて下りし人、此木を伐(きり)て名取川の橋杭(はしぐひ)にせられたる事などあればにや、「松は此たび跡もなし」とは詠たり。代々、あるは伐、あるは植継などせしと聞に、今将千歳のかたちとゝのほひて、めでたき松のけしきになん侍し。
「武隈の松みせ申せ遅桜」と、挙白と云ふものゝ餞別したりければ、

 桜より松は二木を三月超し

現代語訳
武隈の松を前にして、目が覚めるような心持になった。根は土際で二つにわかれて、昔の姿が失われていないことがわかる。
まず思い出すのは能因法師のことだ。昔、陸奥守として赴任してきた人がこの木を伐って名取川の橋杭にしたせいだろうか。能因法師がいらした時はもう武隈の松はなかった。
そこで能因法師は「松は此たび跡もなし」と詠んで武隈の松を惜しんだのだった。
その時代その時代、伐ったり植継いだりしたと聞いていたが、現在はまた「千歳の」というにふさわしく形が整っていて、素晴らしい松の眺めであることよ。
門人の挙白が出発前に餞別の句をくれた。
武隈の松見せ申せ遅桜M(遅桜よ、芭蕉翁がきたら武隈の松を見せてあげてください)今それに答えるような形で、一句詠んだ。


桜より松は二木を三月超シ

(桜の咲く弥生の三月に旅立ったころからこの武隈の松を見ようと願っていた。三ヶ月ごしにその願いが叶い、目の前にしている。言い伝えどおり、根元から二木に分かれた見事な松だ)
19.宮城野

原文
名取川を渡て仙台に入。あやめふく日也。旅宿をもとめて、四、五日逗留す。爰(ここ)に画工加衛門と云ものあり。聊(いささか)心ある者と聞て、知る人になる。この者、年比(としごろ)さだかならぬ名どころを考置侍ればとて、一日案内す。宮城野の萩茂りあひて、秋の景色思ひやらるゝ。玉田・よこ野、つゝじが岡はあせび咲ころ也。日影ももらぬ松の林に入て、爰を木の下と云とぞ。昔もかく露ふかければこそ、「みさぶらひみかさ」とはよみたれ。薬師堂・天神の御社など拝て、其日はくれぬ。猶、松島・塩がまの所々画に書て送る。且、紺の染緒つけたる草鞋二足餞す。さればこそ、風流のしれもの、爰に至りて其実を顕す。

あやめ草足に結ん草鞋の緒


現代語訳

名取川を渡って仙台に入る。ちょうど、家々であやめを軒にふく五月の節句である。宿を求めて、四五日逗留した。仙台には画工加衛門という者がいた。わりと風流を解する者だときいていたから、会って親しく話してみた。この加衛門という男は、名前だけ知れていて場所がわからない名所を調べる仙台藩の事業に長年携わっていた。案内役には最適なので、一日案内してもらう。宮城野の萩が繁り合って、秋の景色はさぞ見事だろうと想像させる。玉田・よこ野という地を過ぎて、つつじが岡に来るとちょうどあせび咲く頃であった。日の光も注がない松の林に入っていく。ここは「木の下」と呼ばれる場所だという。昔もこのように露が深かったから、「みさぶらいみかさ」の歌にあるように「主人に笠をかぶるよう申し上げてください」と土地の人が詠んだろう。薬師堂・天神のやしろなどを拝んで、その日は暮れた。それから加衛門は松島・塩竃の所々を絵に描いて、持たせてくれる。また紺色の染緒のついた草鞋二足を餞別してくれる。なるほど、とことん風流な人と聞いていたが、その通りだ。こういうことに人物の本質があらわれることよ。

あやめ草足に結ん草鞋の緒

(加右衛門のくれた紺色の草鞋を、端午の節句に飾る菖蒲にみたてて、邪気ばらいのつもりで履き、出発するのだ。実際にあやめ草を草鞋にくくりつけた、ということでなく、紺色の緒をあやめに見立てようという、イメージ上のもの)
20.壷の碑

原文
かの画図にまかせてたどり行ば、おくの細道の山際に十符(とふ)の菅(すげ)有。今も年々十符の菅菰を整て国守に献ずと云り。
壷 碑 市川村多賀城に有。
つぼの石ぶみは、高サ六尺余、横三尺計カ。苔を穿て文字幽也。四維国界(しゆいこくかい)之数里をしるす。「此城、神亀元年、按察使鎮守符(府)将軍大野朝臣東人(あぜちちんじゅふのしょうぐんおおののあそんあずまびと)之所里也。天平宝字六年、参議東海東山節度使、同将軍恵美朝臣アサカリ修造尚。十二月遡日」と有。聖武皇帝の御時に当れり。むかしよりよみ置る歌枕、おほく語伝ふといへども、山崩川流て道あらたまり、石は埋て土にかくれ、木は老て若木にかはれば、時移り、代変じて、其跡たしかならぬ事のみを、爰(ここ)に至りて疑なき千歳の記念(かたみ)、今眼前に古人の心を閲(けみ)す。行脚の一徳、存命の悦び、羇旅の労をわすれて、泪も落るばかり也。
現代語訳
加衛門にもらった絵地図にしたがって進んでいくと、奥の細道(塩釜街道)の山際に十符の菅菰の材料となる菅が生えていた。今も毎年十符の菅菰を作って藩主に献上しているということだった。
壷の碑は市川村多賀城にあった。
壷の碑は高さ六尺、横三尺ぐらいだろうか。文字は苔をえぐるように幽かに刻んで見える。四方の国境からの距離が記してある。
「この砦【多賀城】は、神亀元年(724年)、按察使鎮守符(府)将軍大野朝臣東人が築いた。天平宝字六年(762年)参議職で東海東山節度使の恵美朝臣アサカリが修造した」と書かれている。
聖武天皇の時代のことだ。
昔から詠み置かれた歌枕が多く語り伝えられているが、山は崩れ川は流れ、道は新しくなり、石は地面に土に埋もれて隠れ(「しのぶの里」)、木は老いて若木になり(「武隈の松」)、時代が移り変わってその跡をハッキリ留めていないことばかりであった。
だがここに到って疑いなく千年来の姿を留めている歌枕の地をようやく見れたのだ。目の前に古人の心を見ているのだ。
こういうことこそ旅の利点であり、生きていればこそ味わえる喜びだ。旅の疲れも忘れて、涙も落ちるばかりであった。
http://www.1-em.net/sampo/haiku/okunohosomiti/21.mp3
原文
それより野田の玉川・沖の石を尋ぬ。末の松山は、寺を造て末松山(まっしょうざん)といふ。松のあひゝ皆墓はらにて、はねをかはし枝をつらぬる契の末も、終(ついに)はかくのごときと、悲しさも増りて、塩がまの浦に入相のかねを聞。五月雨の空聊はれて、夕月夜(ゆうづくよ)幽に、籬(まがき)が島もほど近し。蜑(あま)の小舟(をぶね)こぎつれて、肴わかつ声ゝに、「つなでかなしも」とよみけん心もしられて、いとゞ哀也。其夜盲法師(めくらほうし)の琵琶をならして、奥上るりと云ものをかたる。平家にもあらず、舞にもあらず、ひなびたる調子うち上て、枕ちかうかしましけれど、さすがに辺土の遺風忘れざるものから、殊勝に覚らる。
現代語訳
それから野田の玉川・沖の石など歌枕の地を訪ねた。末の松山には寺が造られていて、末松山というのだった。松の合間合間はみな墓のの並ぶところで、空にあれば比翼の鳥、地にあれば連理の枝「比翼連理」という言葉があるが、そんな睦まじく誓いあった仲でさえ最後はこのようになるのかと、悲しさがこみ上げてきた。塩釜の浦に行くと夕暮れ時を告げる入相の鐘が聞こえるので耳を傾ける。五月雨の空も少しは晴れてきて、夕月がかすかに見えており、籬(まがき)が島も湾内のほど近いところに見える。漁師の小舟が沖からこぞって戻ってきて、魚をわける声がする。それをきいていると古人が「つなでかなしも」と詠んだ哀切の情も胸に迫り、しみじみ感慨深い。その夜、目の不自由な法師が琵琶を鳴らして、奥浄瑠璃というものを語った。平家琵琶とも幸若舞とも違う。本土から遠く離れたひなびた感じだ。それを高い調子で語るから、枕近く感じられてちょっとうるさかったが、さすがに片田舎に古い文化を守り伝えるものだから興味深く、感心して聴き入った。
22.塩釜
原文
早朝、塩がまの明神に詣。国守再興せられて、宮柱ふとしく、彩椽(さいてん)きらびやかに、石の階(きざはし)九仞に重り、朝日あけの玉がきをかゝやかす。かゝる道の果、塵土の境まで、神霊あらたにましますこそ、吾国の風俗なれと、いと貴けれ。神前に古き宝燈有。かねの戸びらの面に、「文治三年和泉三郎奇(寄)進」と有。五百年来の俤(おもかげ)、今目の前にうかびて、そゞろに珍し。渠(かれ)は勇義忠孝の士也。佳命(名)今に至りて、したはずといふ事なし。誠(まことに)「人能道を勤、義を守べし。名もまた是にしたがふ」と云り。日既に午にちかし。船をかりて松島にわたる。其間二里余、雄島の磯につく。
現代語訳
早朝、塩釜(塩竃)神社に参詣する。伊達政宗公が再建した寺で、堂々とした柱が立ち並び、垂木(屋根を支える木材)がきらびやかに光り、石段がはるか高いところまで続き。朝日が差して朱にそめた玉垣(かきね)を輝かしている。このような奥州の、はるか辺境の地まで神の恵みが行き渡り、あがめられている。これこそ我国の風習だと、たいへん尊く思った。神殿の前に古い宝燈があった。金属製の扉の表面に、「文治三年和泉三郎寄進」と刻んである。父秀衡の遺言に従い最後まで義経を守って戦った奥州の藤原忠衡(ふじわらただひら)である。義経や奥州藤原氏の時代からはもう五百年が経っているが、その文面を見ていると目の前にそういった過去の出来事がうかぶようで、何がどうということではないが、とにかく有難く思った。俗に「和泉三郎」といわれる藤原忠衡は、勇義忠孝すべてに長けた、武士の鑑のような男だった。その名声は今に至るまで聞こえ、誰もが慕っている。「人は何をおいても正しい道に励み、義を守るべきだ。そうすれば名声も後からついてくる」というが、本当にその通りだ。もう正午に近づいたので、船を借りて松島に渡る。二里ほど船で進み、雄島の磯についた。

つづく    (上の「すべて表示」をクリックしてください)  〜23.松島
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