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本文
概要
写本については池田亀鑑の説では以下の3種類に分けられるとされる。ただし、その後もこの分類について妥当か研究されている。
青表紙本系 (詳細は青表紙本を参照)
藤原定家が校合したもの。その表紙が青かったことからこう呼ばれる。定家の直筆『定家本』4帖を含む。一般的には最も紫式部の書いたものに近いとされている。 河内本系 (詳細は河内本を参照)
大監物 源光行、親行の親子が校合したもの。彼ら2人とも河内守を経験したことがあることからこう呼ばれる。表題は『光源氏』となっているものも多い。
別本 (詳細は別本を参照)
「青表紙本系」および「河内本系」のどちらでもないもの。特定の系統を示すものではない。一般には「青表紙本系」と「河内本系」が混合し、崩れた本文であると考えられているが、藤原定家らによって整理される以前の形態を残すものも同じく別本の名でよばれている。 ただし、流通しているものは混合している。
近世以前に印刷されたものはほとんど仏典に限られ、そうでないものは写本によって流通していた。また、筆写の際に文の追加・改訂が行われ、書き間違い、錯簡も多く、鎌倉時代には21種の版があったとされる。そこで藤原定家はそれらを原典に近い形に戻そうとして整理したものが「青表紙本」系の写本である。ただし、その写本も定家自筆のものは4帖しか現存せず、それ以降も異本が増え室町時代には百数十種類にも及んだ。 なお、16世紀末に活字印刷技法が日本に伝えられ、のち慶長年間になって、はじめて『源氏物語』の古活字版(大字10行本)が刊行された。現在、竜門文庫、実践女子大学図書館、国立国会図書館にその所蔵が知られている。
参考
『源氏物語』とその前後 古典文学作品では何をもって「オリジナル」と考えるべきか?
本文の伝承の始まり
紫式部の書いた『源氏物語』の原本は現存していない。また『紫式部日記』の記述によれば紫式部の書いた原本をもとに当時の能書家によって清書された本があるはずであるが、これらもまた現存するものは無い。『紫式部日記』の記述によると、そもそも作者の自筆の原本の段階で草稿本、清書本など複数の系統の本が存在し、作者の手元にあった草稿本が道長の手によって勝手に持ち出されるといった意図しないケースを含めてそれぞれが外部に流出するなど、『源氏物語』の本文は当初から非常に複雑な伝幡経路をたどっていたことが分かる。確実に平安時代に作成されたと判断できる写本は現在のところ一つも見つかっておらず、この時期の写本を元に作成されたと見られる写本も非常に数が限られている。このため現在ある諸写本を調べていけば何らかの一つの本文にたどり着くのかどうかさえ議論に決着がつかない状態である。そのため現在では紫式部が書いた原本の復元はほぼ不可能であると考えられている。
なお、平安時代末期に成立したと見られる『源氏物語絵巻』には、絵に添えられた詞書として『源氏物語』の本文と見られるものが記されており、その中には現在知られている『源氏物語』の本文と大筋で同じながら現在発見されているどの写本にも見られない本文が含まれている。この本文は、現在確認されている限りで最も古い時代に記された『源氏物語』の本文ということになるが、「絵巻の詞書」というその性質上もともとの本文の要約である可能性などもあるため本来の『源氏物語』本文をどの程度忠実に写し取っているのか解らないとして本文研究の資料としては使用できないとされている。
『源氏物語』は完成直後から広く普及し多くの写本が作られたと見られる。しかしながら鎌倉時代以降の『源氏物語』が古典として重要な教養の源泉であるとされた以後の時代に作成された写本は、証本となしうる信頼できる写本を元に注意深く写しとって、きちんと校合などもした上で完成させることが一般的であったが、それ以前、平安時代には『源氏物語』等の物語は広く普及し多くの写本が作られており、その中には従一位麗子本等の身分の高い人物が自ら作ったと見られる写本もあったのであるが、物語という作品の位置付けが「絵空事」「女子供の手慰み」といったものであり、勅撰集等公的な位置付けを持った歌集はもちろん、そうでない私的な歌集等と比べても極めて低いものであった。そのため当時は筆写の際にかなり自由に文の追加・改訂が行われるのがむしろ一般的であったと見られる。この際、作者の紫式部が受領階級の娘であり妻であったという、当時の身分・階級制度の中では高いとは言えない地位にあったことも、本文を忠実に写し取り伝えていこうとする動機を欠く要因になったとする意見も学者の中には多い。
また『更級日記』の中の、作者(菅原孝標女)が『源氏物語』の一部分だけを読む機会があって最初からすべてを読みたいと願ったという記述に見られるように、『源氏物語』のような大部の書物は常に全体がセットになって流通しているというわけではなかったと見られる。写本による流通が主であった時代には大部の書物は全体の中から自分が残したい、あるいは人に読ませたいと考えた部分だけを書き写すといった形で流通することも少なくなかったと考えられる。このようないくつかの現象の結果として、平安時代末期から鎌倉時代初期にかけてのころには多くの『源氏物語』の写本が存在しているものの、家々が持つ写本ごとにその内容が違っており、どれが元の形であったのか分からないという状況になっていた。
「青表紙本」と「河内本」の成立
『源氏物語』が単なる「女子供の手慰み」という位置づけから『古今和歌集』等と並んで重要な教養(歌作り)の源泉として古典・聖典化していった平安時代末期から鎌倉時代初期にかけて、『源氏物語』の本文について2つの大きな動きが起こった。1つは藤原定家によるもので、その成果が「青表紙本」系本文であり、もう1つが河内学派によるものでその成果が「河内本」系の本文である。これ以後20世紀末ころから「別本」系本文の再評価が始まるまでの長い間、『源氏物語』の本文についてはこの2つの本文をめぐって動くことになる。
この両者の作業はいずれも乱れた状況にあった『源氏物語』の本文を正そうとするものであったが、その結果は若干異なったものとなった。現在ある「青表紙本」と「河内本」の本文を比べると、「青表紙本」の方を見ると意味が通らない多くの箇所で「河内本」を見ると意味が通るような本文になっていることが多い。これは「河内本」が意味の通りにくい本文に積極的に手を加えて意味が通るようにする方針で校訂されたのに対して、「青表紙本」では意味の通らない本文も可能な限りそのまま残すという方針で校訂されたためであるからだと考えられている。このことは藤原定家と源光行らが共にほぼ同じ資料を前にして、当時の本文の状況を「さまざまに異なった本文が存在し、その中のどれが正しいのかわからない。」と認識していたにもかかわらず、定家は「その疑問を解決することはできなかった。」という意味のことを述べ、源光行は「さまざまな調査の結果疑問をすっきりと解決することができた。」という意味のことを述べるという正反対の結論に達していることともよく対応していると考えられて来た。但し藤原定家の作り上げた「青表紙本」系統の本文が本当に元の本文に手を加えていないかどうかについては、近年になって藤原定家の『土佐日記』等の他の古典の写本作成に対する態度を詳細に調査することによってある場合には積極的に本文に手を加えることもあるということが明らかになってきたために、再検討の必要が唱えられている。
室町時代・江戸時代
この2系統の本文のうち、鎌倉時代には「河内本」が圧倒的に優勢な状況であり、今川了俊などは、「青表紙本は絶えてしまった。」と述べていたほどであった。その最も大きな原因は、話の筋や登場人物の心情を理解するためにはそれ自体として意味のくみとれなかったり、前後の記述に矛盾のある(ように見える)箇所を含んでいる「青表紙本」よりも、そのような矛盾を含んでいない(ようにみえる)「河内本」のほうが使いやすかったからであると考えられている。それでも室町時代半ば頃から藤原定家の流れを汲む三条西家の活動により古い時代の本文により忠実だとされる「青表紙本」が優勢になり、逆に「河内本」の方が消えてしまったかのような状況になった。ただし三条西家系統の「青表紙本」は純粋な「青表紙本」と比べると「河内本」等からの混入が見られる本文であった。
その後江戸時代に入ると、版本による『源氏物語』の刊行が始まり、裕福な庶民にまで広く『源氏物語』が行き渡るようになってきた。「絵入源氏物語」、「首書源氏物語」、「源氏物語湖月抄」といった版本の本文は当時最も有力であった広い意味での「青表紙本」系統の三条西家系統の本文にさらに「河内本」や「別本」からの混入が見られる本文であった。写本や版本によって本文が異なることはこの時代すでに知られており、本居宣長などもその点に付いての指摘を行ったこともあるが本格的な本文研究に進むことは無かった。この時代、良質な写本の多くは大名や公家、神社仏閣などに秘蔵されており、どこがどのような写本を所蔵しているのかということすらほとんどの場合明らかではなかったため、複数の写本を実際に手にとって具体的に比較することは事実上不可能であった。
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