源氏物語のすべて=写本・本文・訳・音=美しい文章と文字(紫式部)

古典は小学生から学ぶとよい。[源氏物語] 写本・本文(原文)・現代語訳 を比較して見ると便利。 古典を読む-小中高大学生涯教育、

源氏物語概要

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本文概要

本文
概要
写本については池田亀鑑の説では以下の3種類に分けられるとされる。ただし、その後もこの分類について妥当か研究されている。
青表紙本系 (詳細は青表紙本を参照)
藤原定家が校合したもの。その表紙が青かったことからこう呼ばれる。定家の直筆『定家本』4帖を含む。一般的には最も紫式部の書いたものに近いとされている。 河内本系 (詳細は河内本を参照)
大監物 源光行、親行の親子が校合したもの。彼ら2人とも河内守を経験したことがあることからこう呼ばれる。表題は『光源氏』となっているものも多い。
別本 (詳細は別本を参照)
「青表紙本系」および「河内本系」のどちらでもないもの。特定の系統を示すものではない。一般には「青表紙本系」と「河内本系」が混合し、崩れた本文であると考えられているが、藤原定家らによって整理される以前の形態を残すものも同じく別本の名でよばれている。 ただし、流通しているものは混合している。
近世以前に印刷されたものはほとんど仏典に限られ、そうでないものは写本によって流通していた。また、筆写の際に文の追加・改訂が行われ、書き間違い、錯簡も多く、鎌倉時代には21種の版があったとされる。そこで藤原定家はそれらを原典に近い形に戻そうとして整理したものが「青表紙本」系の写本である。ただし、その写本も定家自筆のものは4帖しか現存せず、それ以降も異本が増え室町時代には百数十種類にも及んだ。 なお、16世紀末に活字印刷技法が日本に伝えられ、のち慶長年間になって、はじめて『源氏物語』の古活字版(大字10行本)が刊行された。現在、竜門文庫、実践女子大学図書館、国立国会図書館にその所蔵が知られている。

参考
『源氏物語』とその前後 古典文学作品では何をもって「オリジナル」と考えるべきか?

本文の伝承の始まり
紫式部の書いた『源氏物語』の原本は現存していない。また『紫式部日記』の記述によれば紫式部の書いた原本をもとに当時の能書家によって清書された本があるはずであるが、これらもまた現存するものは無い。『紫式部日記』の記述によると、そもそも作者の自筆の原本の段階で草稿本、清書本など複数の系統の本が存在し、作者の手元にあった草稿本が道長の手によって勝手に持ち出されるといった意図しないケースを含めてそれぞれが外部に流出するなど、『源氏物語』の本文は当初から非常に複雑な伝幡経路をたどっていたことが分かる。確実に平安時代に作成されたと判断できる写本は現在のところ一つも見つかっておらず、この時期の写本を元に作成されたと見られる写本も非常に数が限られている。このため現在ある諸写本を調べていけば何らかの一つの本文にたどり着くのかどうかさえ議論に決着がつかない状態である。そのため現在では紫式部が書いた原本の復元はほぼ不可能であると考えられている。
なお、平安時代末期に成立したと見られる『源氏物語絵巻』には、絵に添えられた詞書として『源氏物語』の本文と見られるものが記されており、その中には現在知られている『源氏物語』の本文と大筋で同じながら現在発見されているどの写本にも見られない本文が含まれている。この本文は、現在確認されている限りで最も古い時代に記された『源氏物語』の本文ということになるが、「絵巻の詞書」というその性質上もともとの本文の要約である可能性などもあるため本来の『源氏物語』本文をどの程度忠実に写し取っているのか解らないとして本文研究の資料としては使用できないとされている。
『源氏物語』は完成直後から広く普及し多くの写本が作られたと見られる。しかしながら鎌倉時代以降の『源氏物語』が古典として重要な教養の源泉であるとされた以後の時代に作成された写本は、証本となしうる信頼できる写本を元に注意深く写しとって、きちんと校合などもした上で完成させることが一般的であったが、それ以前、平安時代には『源氏物語』等の物語は広く普及し多くの写本が作られており、その中には従一位麗子本等の身分の高い人物が自ら作ったと見られる写本もあったのであるが、物語という作品の位置付けが「絵空事」「女子供の手慰み」といったものであり、勅撰集等公的な位置付けを持った歌集はもちろん、そうでない私的な歌集等と比べても極めて低いものであった。そのため当時は筆写の際にかなり自由に文の追加・改訂が行われるのがむしろ一般的であったと見られる。この際、作者の紫式部が受領階級の娘であり妻であったという、当時の身分・階級制度の中では高いとは言えない地位にあったことも、本文を忠実に写し取り伝えていこうとする動機を欠く要因になったとする意見も学者の中には多い。
また『更級日記』の中の、作者(菅原孝標女)が『源氏物語』の一部分だけを読む機会があって最初からすべてを読みたいと願ったという記述に見られるように、『源氏物語』のような大部の書物は常に全体がセットになって流通しているというわけではなかったと見られる。写本による流通が主であった時代には大部の書物は全体の中から自分が残したい、あるいは人に読ませたいと考えた部分だけを書き写すといった形で流通することも少なくなかったと考えられる。このようないくつかの現象の結果として、平安時代末期から鎌倉時代初期にかけてのころには多くの『源氏物語』の写本が存在しているものの、家々が持つ写本ごとにその内容が違っており、どれが元の形であったのか分からないという状況になっていた。

「青表紙本」と「河内本」の成立
『源氏物語』が単なる「女子供の手慰み」という位置づけから『古今和歌集』等と並んで重要な教養(歌作り)の源泉として古典・聖典化していった平安時代末期から鎌倉時代初期にかけて、『源氏物語』の本文について2つの大きな動きが起こった。1つは藤原定家によるもので、その成果が「青表紙本」系本文であり、もう1つが河内学派によるものでその成果が「河内本」系の本文である。これ以後20世紀末ころから「別本」系本文の再評価が始まるまでの長い間、『源氏物語』の本文についてはこの2つの本文をめぐって動くことになる。
この両者の作業はいずれも乱れた状況にあった『源氏物語』の本文を正そうとするものであったが、その結果は若干異なったものとなった。現在ある「青表紙本」と「河内本」の本文を比べると、「青表紙本」の方を見ると意味が通らない多くの箇所で「河内本」を見ると意味が通るような本文になっていることが多い。これは「河内本」が意味の通りにくい本文に積極的に手を加えて意味が通るようにする方針で校訂されたのに対して、「青表紙本」では意味の通らない本文も可能な限りそのまま残すという方針で校訂されたためであるからだと考えられている。このことは藤原定家と源光行らが共にほぼ同じ資料を前にして、当時の本文の状況を「さまざまに異なった本文が存在し、その中のどれが正しいのかわからない。」と認識していたにもかかわらず、定家は「その疑問を解決することはできなかった。」という意味のことを述べ、源光行は「さまざまな調査の結果疑問をすっきりと解決することができた。」という意味のことを述べるという正反対の結論に達していることともよく対応していると考えられて来た。但し藤原定家の作り上げた「青表紙本」系統の本文が本当に元の本文に手を加えていないかどうかについては、近年になって藤原定家の『土佐日記』等の他の古典の写本作成に対する態度を詳細に調査することによってある場合には積極的に本文に手を加えることもあるということが明らかになってきたために、再検討の必要が唱えられている。
室町時代・江戸時代
この2系統の本文のうち、鎌倉時代には「河内本」が圧倒的に優勢な状況であり、今川了俊などは、「青表紙本は絶えてしまった。」と述べていたほどであった。その最も大きな原因は、話の筋や登場人物の心情を理解するためにはそれ自体として意味のくみとれなかったり、前後の記述に矛盾のある(ように見える)箇所を含んでいる「青表紙本」よりも、そのような矛盾を含んでいない(ようにみえる)「河内本」のほうが使いやすかったからであると考えられている。それでも室町時代半ば頃から藤原定家の流れを汲む三条西家の活動により古い時代の本文により忠実だとされる「青表紙本」が優勢になり、逆に「河内本」の方が消えてしまったかのような状況になった。ただし三条西家系統の「青表紙本」は純粋な「青表紙本」と比べると「河内本」等からの混入が見られる本文であった。
その後江戸時代に入ると、版本による『源氏物語』の刊行が始まり、裕福な庶民にまで広く『源氏物語』が行き渡るようになってきた。「絵入源氏物語」、「首書源氏物語」、「源氏物語湖月抄」といった版本の本文は当時最も有力であった広い意味での「青表紙本」系統の三条西家系統の本文にさらに「河内本」や「別本」からの混入が見られる本文であった。写本や版本によって本文が異なることはこの時代すでに知られており、本居宣長などもその点に付いての指摘を行ったこともあるが本格的な本文研究に進むことは無かった。この時代、良質な写本の多くは大名や公家、神社仏閣などに秘蔵されており、どこがどのような写本を所蔵しているのかということすらほとんどの場合明らかではなかったため、複数の写本を実際に手にとって具体的に比較することは事実上不可能であった。

明治時代以後

明治時代以後
明治時代に入ると活字による印刷本文の発行が始まった。当初は江戸時代に発行された刊本をそのまま活字化するだけであったが、次第により古い、より原本に近いと考えられる本文を求めるようになり、「首書源氏物語」の本文と「源氏物語湖月抄」の本文とではどちらが優れているのかといった議論を経て1914年(大正3年)に「首書源氏物語」を底本にした校訂本である源氏物語が有朋堂文庫から出版され、広く普及した。やがて明治末年ころから学問的な本文研究の努力が本格的に始まった。多くの学者の努力によって「大島本」などの「青表紙」系統の写本や当時はすでに失われてしまったと考えられていた「河内本」系統の写本など多くの古写本が発見され、学問的な比較作業が行われた。その結果は池田亀鑑により『校異源氏物語』および『源氏物語大成 校異編』に結実した。
池田亀鑑は集められた多くの写本を「青表紙本系」と「河内本系」の2つに分け、それに属さない写本を「別本」として1つにまとめ、3種類の系統に分けた。古注の中等で言及されており、言葉だけは広く知られていた「青表紙本」と呼ばれる写本のグループと「河内本」と呼ばれる写本のグループが本当に存在することはこの時代になって初めて明らかになったと言うことが出来る。この3分類法はいろいろな別の分野での研究結果とも一致すると考えられたこともあって、説得力のある見解として広く受け入れられるようになった。但し、池田はそれぞれの写本をどの分類に入れるかを決めるに当たってはそれぞれの写本の奥書(その写本がどのような写本からいつ誰によってどのように写されたのかといったことを記してある部分)の内容等のそれぞれの写本の外形的なものを重視した。
しかしこのような歴史的経緯や写本を外形的な特徴に基づいて分類することが本文そのものの内容の分類として正しい、妥当なものであるのかどうか、そもそも「青表紙本」や「河内本」が成立したのは事実であるとしても本文の系統としてそのような区分を立てることが妥当なのかどうかについての検討をすることも無かった点には注意を払う必要がある。
このように、その後の研究によってこの3分類法はいろいろと問題点も指摘されるようになってはいるが、現時点でも一応は有効なものとされている。
これらの3分類を見直すべきだとする見解としては、阿部秋生による、「奥書に基づいて写本を青表紙本、河内本などと分類することが妥当なのかどうかは、本文そのものを比較しそういう本文群が存在することが明らかになった後で初めて言えることであって、その手続きを経ることなく奥書に基づいて写本を分類することは本文そのものを比較するための作業の前段階の仮の作業以上の意味を持ち得ない。」あるいは、「もし青表紙本がそれ以前に存在したどれか一つの本文を忠実に伝えたのであれば、河内本が新しく作られた混成本文であるのに対し青表紙本とは別本の中の一つであり、源氏物語の本文系統は青表紙本・河内本・別本の3分類で考えるべきではなく別本と河内本の2分類で考えるべきである。」といったものがある。

実際の写本 古い時代に作られ現在まで伝わっている実際の写本は、出来上がった写本が完成当時の姿をそのまま伝えられていることは少なく、一部が欠けてしまったり、その欠けた部分を補うために別の写本と組み合わせたり、別系統の本文を持った写本と校合されていることも少なくない。またこのような状態の写本を元にしてそのまま写した写本を作成したために最初に完成した時点ですでに巻ごとに異なった系統の本文になったと見られる写本も存在する。
例えば「青表紙本」系統の写本の中で最も良質な本文であるとされ、現在多くの校訂本の底本に採用されている飛鳥井雅康筆の「大島本」の場合でも、「浮舟」を欠いた53帖しか現存しておらず、「初音」帖は他の部分と同じ飛鳥井雅康の筆でありながら本文自体は「青表紙本」系統の本文ではなく「別本」系統の本文であり、「桐壺」と「夢浮橋」は後世の別人の筆である。またほぼ全巻にわたって数多くの補筆や訂正の跡が見られるが、その内容は「河内本」系統の写本に基づくと見られるものが多い。

校訂本
まず、本文校訂のみに特化して校異を掲げた文献をあげる。この他に主要な写本については個別に翻刻したものが出版されている。
『校異源氏物語』(全4巻)池田亀鑑(中央公論社、1942年)
『源氏物語大成』(校異編)池田亀鑑(中央公論社、1953年-1956
『河内本源氏物語校異集成』加藤洋介編(風間書房、2001年)ISBN 4-7599-1260-6
『源氏物語別本集成』(全15巻)伊井春樹他源氏物語別本集成刊行会(おうふう、1989年3月〜2002年10月)
『源氏物語別本集成 続』(全15巻の予定)伊井春樹他源氏物語別本集成刊行会(おうふう、2005年〜)
注釈が付いたものとしては、次のようなものが出版されている。多くは校訂本も兼ねており、現代語訳と対照になっているものもある。また注釈などの内容を簡略化した軽装版や文庫版が同じ出版社から出ているものもある。これらはすべて青表紙本系の写本を底本にしており、中でも三条西家本を底本にしている(旧)日本古典文学大系本(およびその軽装版である岩波文庫版)を除き基本的に大島本を底本にしている。
『源氏物語』日本古典全書(全7巻)池田亀鑑著(朝日新聞社、1946年〜1955年)
『源氏物語』日本古典文学大系(全5巻)山岸徳平(岩波書店、1958年〜1963年)
『源氏物語評釈』(全12巻別巻2巻)玉上琢弥(角川書店、1964年〜1969年)
『源氏物語』日本古典文学全集(全6巻)阿部秋生他(小学館、1970年〜1976年)
『源氏物語』新潮日本古典集成(全8巻)石田穣二他(新潮社、1976年〜1980年)
『源氏物語』完訳日本の古典(全10巻)阿部秋生他(小学館、1983年〜1988年)
『源氏物語』新日本古典文学大系(全5巻)室伏信助他(岩波書店、1993年〜1997年)
『源氏物語』新編日本古典文学全集(全6巻)阿部秋生他(小学館、1994年〜1998年)

源氏物語の登場人物

登場人物
源氏物語の登場人物
『源氏物語』の登場人物は膨大な数に上るため、ここでは主要な人物のみを挙げる。
なお、『源氏物語』の登場人物の中で本名が明らかなのは光源氏の家来である藤原惟光と源良清くらいであり、光源氏をはじめとして大部分の登場人物は「呼び名」しか明らかではない。また、『源氏物語』の登場人物の表記には、もともと作中に出てくるものと、直接作中には出てこず、『源氏物語』が受容されていく中で生まれてきた呼び名のふた通りが存在する。また作中での人物表記は当時の実際の社会の習慣に沿ったものであると見られ、人物をその官職や居住地などのゆかりのある場所の名前で呼んだり、「一の宮」や「三の女宮」あるいは「大君」や「小」君といった一般的な尊称や敬称で呼んだりしていることが多いため、状況から誰のことを指しているのか判断しなければならない場合も多いだけでなく、同じひとりの人物が巻によって、場合によっては一つの巻の中でも様々な異なる呼び方をされることがあり、逆に同じ表現で表される人物が出てくる場所によって別の人物を指していることも数多くあることには注意を必要とする。
光源氏
第1部・第2部の主人公。桐壺帝と桐壺更衣の子で桐壺帝第二皇子。臣籍降下して源姓を賜る。いったん須磨に蟄居するが、のち復帰し、さらに准太上天皇に上げられ、六条院と称せられる。原文では「君」「院」と呼ばれる。妻は葵の上、女三宮、事実上の正妻に紫の上。子は、夕霧(母は葵の上)、冷泉帝(母は藤壺中宮、表向きは桐壺帝の子)、明石中宮(今上帝の中宮。母は明石の御方)。ほか養女に秋好中宮(梅壺の女御)(六条御息所の子)と玉鬘(内大臣と夕顔の子)、表向き子とされる薫(柏木と女三宮の子)がいる。
桐壺帝
光源氏の父。子に源氏のほか、朱雀帝(のち朱雀院)、蛍兵部卿宮、八の宮などが作中に出る。末子とされる冷泉帝は、桐壺帝の実子でなく、源氏の子。
桐壺更衣
桐壺帝の更衣。源氏が3歳のとき夭逝する。
藤壺中宮
桐壺帝の先帝の内親王。桐壺更衣に瓜二つであり、そのため更衣の死後後宮に上げられる。源氏と密通して冷泉帝を産む。
葵の上
左大臣の娘で、源氏の最初の正妻。源氏より年上。母大宮は桐壺帝の姉妹であり、源氏とは従兄妹同士となる。夫婦仲は長らくうまくいかなかったが、懐妊し、夕霧を生む。六条御息所との車争いにより怨まれ、生霊によって取り殺される。
頭中将/内大臣
左大臣の子で、葵の上の同腹の兄。源氏の友人でありライバル。恋愛・昇進等で常に源氏に先んじられる。子に柏木、雲居雁(夕霧夫人)、弘徽殿女御(冷泉帝の女御)、玉鬘(夕顔の子、髭黒大将夫人)、近江の君など。主要登場人物で唯一一貫した呼び名のない人物。
六条御息所
桐壺帝の前東宮(桐壺帝の兄)の御息所。源氏の愛人。源氏への愛着が深く、その冷淡を怨んで、葵の上を取り殺すに至る。前東宮との間の娘は伊勢斎宮、のちに源氏の養女となって冷泉帝の後宮に入り、秋好中宮となる。源氏は御息所の死後、その屋敷を改築し壮大な邸宅を築いた(六条院の名はここから)。
紫の上
藤壺中宮の姪、兵部卿宮の娘。幼少の頃、源氏に見出されて養育され、葵の上亡き後、事実上の正妻となる。源氏との間に子がなく、明石中宮を養女とする。晩年は女三宮の降嫁により、源氏とやや疎遠になり、無常を感じる。
明石の御方
明石の入道の娘。源氏が不遇時にその愛人となり、明石中宮を生む。不本意ながら娘を紫の上の養女とするが、入内後再び対面し、以後その後見となる。
末摘花
常陸宮の娘。大輔の命婦の手引きで源氏の愛人となるが、酷く痩せていて鼻が象の様に長く、鼻先が赤い醜女。作品中最も醜く描かれている。
女三の宮
朱雀院の第三皇女で、源氏の姪にあたる。藤壺中宮の姪であり、朱雀院の希望もあり源氏の晩年、二番目の正妻となる。柔弱な性格。柏木と通じ、薫を生む。
柏木
内大臣の長男。女三宮を望んだが果たせず、降嫁後六条院で女三宮と通じる。のち露見して、源氏の怒りをかい、それを気に病んで病死する。
夕霧
源氏の長男。母は葵の上。母の死後しばらくその実家で養育されたのち、源氏の六条院に引き取られて花散里に養育される。2歳年上の従姉である内大臣の娘雲居雁と幼少の頃恋をし、のち夫人とする。柏木の死後、その遺妻朱雀院の女二宮(落葉の宮)に恋をし、強いて妻とする。

第3部の主人公。源氏(真実には柏木)と女三宮の子。生まれつき身体からよい薫がするため、そうあだ名される。宇治の八の宮の長女大君、その死後は妹中君や浮舟を相手に恋愛遍歴を重ねる。
匂宮
今上帝と明石中宮の子。第三皇子という立場から、放埓な生活を送る。薫に対抗心を燃やし、焚き物に凝ったため匂宮と呼ばれる。宇治の八の宮の中君を、周囲の反対をおしきり妻にするがその異母妹浮舟にも関心を示し、薫の執心を知りながら奪う。
浮舟
八の宮が女房に生ませた娘。母が結婚し、養父とともに下った常陸で育つ。薫と匂宮の板ばさみになり、苦悩して入水するが横川の僧都に助けられる。

源氏物語の登場人物

登場人物
源氏物語の登場人物
『源氏物語』の登場人物は膨大な数に上るため、ここでは主要な人物のみを挙げる。
なお、『源氏物語』の登場人物の中で本名が明らかなのは光源氏の家来である藤原惟光と源良清くらいであり、光源氏をはじめとして大部分の登場人物は「呼び名」しか明らかではない。また、『源氏物語』の登場人物の表記には、もともと作中に出てくるものと、直接作中には出てこず、『源氏物語』が受容されていく中で生まれてきた呼び名のふた通りが存在する。また作中での人物表記は当時の実際の社会の習慣に沿ったものであると見られ、人物をその官職や居住地などのゆかりのある場所の名前で呼んだり、「一の宮」や「三の女宮」あるいは「大君」や「小」君といった一般的な尊称や敬称で呼んだりしていることが多いため、状況から誰のことを指しているのか判断しなければならない場合も多いだけでなく、同じひとりの人物が巻によって、場合によっては一つの巻の中でも様々な異なる呼び方をされることがあり、逆に同じ表現で表される人物が出てくる場所によって別の人物を指していることも数多くあることには注意を必要とする。
光源氏
第1部・第2部の主人公。桐壺帝と桐壺更衣の子で桐壺帝第二皇子。臣籍降下して源姓を賜る。いったん須磨に蟄居するが、のち復帰し、さらに准太上天皇に上げられ、六条院と称せられる。原文では「君」「院」と呼ばれる。妻は葵の上、女三宮、事実上の正妻に紫の上。子は、夕霧(母は葵の上)、冷泉帝(母は藤壺中宮、表向きは桐壺帝の子)、明石中宮(今上帝の中宮。母は明石の御方)。ほか養女に秋好中宮(梅壺の女御)(六条御息所の子)と玉鬘(内大臣と夕顔の子)、表向き子とされる薫(柏木と女三宮の子)がいる。
桐壺帝
光源氏の父。子に源氏のほか、朱雀帝(のち朱雀院)、蛍兵部卿宮、八の宮などが作中に出る。末子とされる冷泉帝は、桐壺帝の実子でなく、源氏の子。
桐壺更衣
桐壺帝の更衣。源氏が3歳のとき夭逝する。
藤壺中宮
桐壺帝の先帝の内親王。桐壺更衣に瓜二つであり、そのため更衣の死後後宮に上げられる。源氏と密通して冷泉帝を産む。
葵の上
左大臣の娘で、源氏の最初の正妻。源氏より年上。母大宮は桐壺帝の姉妹であり、源氏とは従兄妹同士となる。夫婦仲は長らくうまくいかなかったが、懐妊し、夕霧を生む。六条御息所との車争いにより怨まれ、生霊によって取り殺される。
頭中将/内大臣
左大臣の子で、葵の上の同腹の兄。源氏の友人でありライバル。恋愛・昇進等で常に源氏に先んじられる。子に柏木、雲居雁(夕霧夫人)、弘徽殿女御(冷泉帝の女御)、玉鬘(夕顔の子、髭黒大将夫人)、近江の君など。主要登場人物で唯一一貫した呼び名のない人物。
六条御息所
桐壺帝の前東宮(桐壺帝の兄)の御息所。源氏の愛人。源氏への愛着が深く、その冷淡を怨んで、葵の上を取り殺すに至る。前東宮との間の娘は伊勢斎宮、のちに源氏の養女となって冷泉帝の後宮に入り、秋好中宮となる。源氏は御息所の死後、その屋敷を改築し壮大な邸宅を築いた(六条院の名はここから)。
紫の上
藤壺中宮の姪、兵部卿宮の娘。幼少の頃、源氏に見出されて養育され、葵の上亡き後、事実上の正妻となる。源氏との間に子がなく、明石中宮を養女とする。晩年は女三宮の降嫁により、源氏とやや疎遠になり、無常を感じる。
明石の御方
明石の入道の娘。源氏が不遇時にその愛人となり、明石中宮を生む。不本意ながら娘を紫の上の養女とするが、入内後再び対面し、以後その後見となる。
末摘花
常陸宮の娘。大輔の命婦の手引きで源氏の愛人となるが、酷く痩せていて鼻が象の様に長く、鼻先が赤い醜女。作品中最も醜く描かれている。
女三の宮
朱雀院の第三皇女で、源氏の姪にあたる。藤壺中宮の姪であり、朱雀院の希望もあり源氏の晩年、二番目の正妻となる。柔弱な性格。柏木と通じ、薫を生む。
柏木
内大臣の長男。女三宮を望んだが果たせず、降嫁後六条院で女三宮と通じる。のち露見して、源氏の怒りをかい、それを気に病んで病死する。
夕霧
源氏の長男。母は葵の上。母の死後しばらくその実家で養育されたのち、源氏の六条院に引き取られて花散里に養育される。2歳年上の従姉である内大臣の娘雲居雁と幼少の頃恋をし、のち夫人とする。柏木の死後、その遺妻朱雀院の女二宮(落葉の宮)に恋をし、強いて妻とする。

第3部の主人公。源氏(真実には柏木)と女三宮の子。生まれつき身体からよい薫がするため、そうあだ名される。宇治の八の宮の長女大君、その死後は妹中君や浮舟を相手に恋愛遍歴を重ねる。
匂宮
今上帝と明石中宮の子。第三皇子という立場から、放埓な生活を送る。薫に対抗心を燃やし、焚き物に凝ったため匂宮と呼ばれる。宇治の八の宮の中君を、周囲の反対をおしきり妻にするがその異母妹浮舟にも関心を示し、薫の執心を知りながら奪う。
浮舟
八の宮が女房に生ませた娘。母が結婚し、養父とともに下った常陸で育つ。薫と匂宮の板ばさみになり、苦悩して入水するが横川の僧都に助けられる。

現代語訳
現代日本語

もともと『源氏物語』は作者と同じ時代、同じ環境を共有する読者のために書かれたと考えられており、作者と同じ時代、同じ環境を共有するだけでなく作者と直接の面識がある人間を読者として想定していたとする見解もある[51]。書かれた当時の『源氏物語』は周囲からは「面白い読み物」として受け取られており、少し下がった時代でも、例えば当時12歳であった菅原孝標女が特に誰の指導を受けると言うこともなく1人で読みふけっていたとされている。しかし時代が経過するとともにこの物語が使用している日本語が変化し物語が前提としている知識・常識が変化するとともに『源氏物語』を気軽に読むことは困難になっていった。
現代の日本人にとっては『源氏物語』の原文は専門的な教育なしにはかなり難しいもので、むしろ現代語訳で親しんでいる人のほうが多いといえる。数ある日本の古典文学の中でも恐らくその豊かな内容ゆえに最も現代語訳が試みられており、また訳者に作家が多いのも特徴である[52]。しばしばこれらは翻訳者の名前をとって「与謝野源氏」、「谷崎源氏」といった風に「○○源氏」と呼ばれている。学者・研究者による翻訳は比較的直訳・逐語訳的な翻訳が多いのに比べて作家・小説家による翻訳は多くの場合原文に対して叙述の順番を入れ替えたり和歌によるやりとりを普通の会話文に直したり、原文とは視点を変えて叙述したりといった操作が行われていることがあるため、そのような作品は単なる現代語訳ではなく翻案作品として扱われることもある。

与謝野晶子訳
与謝野晶子は生涯に3度現代語訳を試みた。与謝野晶子は、12歳当時に源氏物語を原文で素読していたことを後に自身の歌に中に詠み込んでおり、さまざまな創作活動の中に源氏物語の大きな影響を読み取ることが出来る。一度目の翻訳は与謝野夫妻の支援者であった実業家(小説家でもある)の小林政治の依頼により100か月で完成させることを目標に始められたもので、1912年(明治45年)2月から1913年(大正2年)11月にかけて「新訳源氏物語」上、中、下一、下二巻として、金尾文淵堂から出版され、1914年12月に4冊ものの縮刷版が刊行されている。これは全文の翻訳ではなくダイジェストであるが通常これが源氏物語の最初の現代語訳であるとされている。この最初の翻訳には与謝野晶子の夫与謝野鉄幹の手も入っているとする見解もある[53]。これは『源氏物語』の専門家でない森鴎外が校訂に当たっているなどといった問題もあり、その後再度『新新訳源氏物語』として翻訳を試みていた(二回目)が「宇治十帖の前まで終わっていた」とされる[54]。この時の原稿は1923年9月の関東大震災により文化学院に預けてあった原稿が全て焼失したため世に出ることはなかったとされている。現在通常流布しているのは晩年の1938年(昭和13年)10月から1939年(昭和14年)9月にかけて「新新訳源氏物語」(第一巻から第六巻まで)として金尾文淵堂から出版された三回目のものである。1939年10月完成祝賀会が上野精養軒にて開催されており、同人はこれを「決定版」としている。この翻訳は当時まだ学術的な校訂本がなかったことから「流布本」であった『源氏物語湖月抄』の本文を元にしていたとされる。原文にない主語を補ったり作中人物の会話を簡潔な口語体にするなど大胆な意訳と、敬語を中心とした大幅な省略で知られている。それに対して歌の部分については歌人らしく、「和歌は源氏物語にとって欠かせない重要な要素である」としていずれの翻訳も全く手を加えることなくそのまま収録しており、他の翻訳が行っているような和歌の部分を会話文に改めるといったことをしていない。また新新訳では各帖の冒頭に自身の和歌を加えている[55]。また池田亀鑑の解説を加えたものが1954年(昭和29年)10月から1955年(昭和30年)8月にかけて「全訳源氏物語」として全9冊で角川文庫から出版されており、1971年(昭和46年)8月から1972年(昭和47年)2月にかけて全3冊に合本・改版され、さらに2008年に源氏物語千年紀を記念して「全訳源氏物語 新装版」として再度全5冊に改版されている。この他に1948年には日本社から日本文庫で、1951年には三笠書房から三笠文庫で、1976年(1987年には新装版)には河出書房新社から日本古典文庫で、2002年には勉誠出版発行の鉄幹晶子全集の第7巻及び第8巻として、2005年から2006年には舵社からデカ文字文庫でと数多くの出版社から刊行されている。これとは別に最初の翻訳も後の翻訳より読みやすいといった評価があったことから2001年(平成13年)に角川書店から単行本として出版されており、さらに2008年(平成20年)に『与謝野晶子の源氏物語』として全3冊で角川ソフィア文庫に収められた。どちらの翻訳も1942年(昭和17年)5月29日に与謝野晶子が死去したため1993年に著作権の保護期間が満了しており、パブリック・ドメインで利用できるため青空文庫などに収録されている。

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