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(前回からのつづき)
そんなわけで、場所を南へ移動する途中、木崎湖の湖畔に八重桜が咲いているのをみつけました。
木崎湖は仁科三湖の中でもいちばん下流に位置して、大町の市街地にもちかいため、キャンプ場や宿泊施設など、はやくから観光地として開けていました。
今から40年以上前の夏に行ったことがありますが、湖ではモーターボートが水上スキーを引いて、キャンプ場では炊事の煙がたなびいて、それはとても賑やかなものでした。
いまでも、湖畔には下手の一部にサイクリングコースが残っています。
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ただ、湖の東岸は大糸線と国道が湖畔に沿っていて、青木湖のように山側にバイパスが設けられていないため、とくに国道は交通量が多く、小径車は走りにくいと思います。
また青木湖と違って対岸に小熊山という標高1302.7mの山が連なっているため、これが後立山連峰を隠してしまうので、湖に雪山が映るということはありません。
小熊山の尾根には、北側の鹿島槍スキー場から林道が伸びています。
この林道を自転車で走ってみれば、ひょっとしたら稜線から爺ヶ岳や蓮華岳を望めるのかもしれませんが、昔と違って鹿島槍スキー場まで登る公共交通機関がありません。
八方尾根や栂池高原のように夏季にリフトを運行しているわけでもありませんし。
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ということで、大町市にある水田の中の一本道にゆきました。
こことて簡単には見つかりません。
一応事前にグーグルマップの航空写真とストリートビューで
・両側が水田の舗装された一本道であること
・あまり勾配がないこと
・車の往来があまりない道であること
・道の両脇に電信柱が並んでいないこと
・ガードレールや柵がないこと
などを確認しておきました。
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大町市の周辺では、このような条件を満たしている水田の中の直線路は、5か所ほどしかありません。
(松川村に2か所、池田町にも3か所あります)
それに、青鬼集落同様に、行ってみないと肝心な田んぼに水が入っているかどうかは分からないのです。
結局、どのあたりの水田群に水が入っているかは、鷹狩山の展望台から目視することで確認しました。
翌朝、朝食前に行ってみたら、水が張ってある状態でまだ田植え前の水田が殆どで、山を映す鏡としてのコンデションはとても良好でした。
なお、白馬同様に、このような状態に巡り合えるのはせいぜい1、2週間の間と思われます。
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この地点から見て目立つのは、鷹狩山同様蓮華岳でしょう。
この山ひとつで蓮華をあらわしているのではなく、周囲の山々が蓮華の花弁のように並んでいるので、この名前になったようです。
見上げると他の山に比べてなだらかに見えるので、登ってみたくなるのかもしれませんが、初心者向けの山ではありません。
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標高も2,500mを超えているため、高山慣れしていないハイカーは高山病の危険があります。
また、夏山であっても、途中針ノ木雪渓を通過するため、アイゼンやストック等の装備が必要です
立山アルペンルートの長野県側玄関口である扇沢から、針ノ木峠経由で上り6時間、下り4時間かかります。
これは休憩や食事の時間を見込んでいないコースタイムです。
ということは、大町の5時台のバスで発って扇沢を朝6時に歩き始めても、頂上へ着くのは昼過ぎになり、昼食をとってから踵を返して下山しても、17時55分の最終バスに間に合わせるためには、あまりのんびりできないと思われます。
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やはり、こうして里をブロンプトンで巡りながら、眺めるためのベストアングルを探していた方が、無難かもしれません。
それにしても、今回の写真、「ブロンプトンの休日」って感じですよね。
ちゃんと動画を撮っているので、近日中にYouTubeの方へUPします。
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大北地域というのは、長野県の大町市周辺部(大町市、池田町、松川村)以北の地域、白馬村、小谷村を指します。
住所でいうと、大町市と北安曇郡、大糸線の駅名でいうと、細野駅から北小谷駅までの間を指します。
鉄道の車窓からみていると、大糸線の中でも地形が劇的に変化する区間です。
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鷹狩山のほかに、北アルプス(後立山連峰)の展望台はないかと地図で探してみました。
前にも記述した通り、山を眺めるのなら、眺めたい山の反対側の丘や山に登るのが合理的です。
白馬村の地形図を眺めていると、姫川の東側にある支流の谷は、南から谷地川、峰方沢、菅沢、青鬼沢と4つあります。
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(土手上に立つのが野平の一本桜)
 
このうち、谷地川の谷は長野市方面から車やバスで来るとお馴染みの道筋で、美麻トンネルを抜けて白馬村に入ってくる際に、1か所展望台になりそうな場所があるほかは、細長い谷のため視界があまり開けていません。
なお、この谷地川沿いの集落は、201411月の長野県神城断層地震の際、特に被害が大きかった地域です。
一本北の峰方沢は、姫川との合流点にあたる大出公園のあたりより山よりは、やはり谷が深くて見通しがききません。
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(松川大橋と、姫川、松川、菅沢の出合)
 
いっぽう菅沢と青鬼沢には右岸の河岸段丘上に集落を認めます。
それぞれ、野平と青鬼(あおに)という小さな集落ですが、野平は裏の柄山峠を越えて鬼無里村に通じる、善光寺古道が通っておりました。
善光寺だけではなく、木曽義仲の守り神と伝えられる、山向こうの裾花川沿いにある土倉文殊堂への参詣客で賑わった道だそうです。
白馬でトレッキングを考えるとき、八方池やその上の唐沢岳、大雪渓や白馬岳への登山だけでなく、こうしたお向かいの里山にハイキングにゆくことも考えるとよいと思われます。
野平には後立山連峰を背景に咲く、一本桜が有名で、開花期にはカメラマンが集まるそうです。
この時は5月連休でしたが、桜の木は青々として、菜の花が咲いていました。
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(青鬼地区)
 
もうひとつの青鬼ですが、縄文時代の遺跡が存在し、村の鎮守である青鬼神社の創建が9世紀初頭と伝えられているので、かなり古い集落です。
平成12年に国の重要伝統的建造物保存地区に選定され、現在は村の入口にある駐車場で協力金を支払って、歩いてまわるシステムになっています。
自転車については何も記述がありません。
野平地区もそうなのですが、姫川を渡ったあと激坂をのぼらないと両集落にはたどり着けず、また道路は行き止まりのため、電動アシスト自転車でもなければ、根性が無いと到達できないと思われます。
青鬼の方は、北アルプスを映す棚田に田植えを行う構図が有名です。
ただし、5月初頭に行ったときはまだ田に水が入っておりませんでした。
山に雪が残っているのは6月中旬までで、それも雪山と呼べるような状態は5月中でしょうから、棚田に映る雪山を撮影したい場合、5月の中旬、2週間くらいが勝負になると思います。
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(青鬼集落)
 
そんなこんなで、ゴールデンウィークに水田に映る雪山を探すとなると、信濃大町か安曇野の方へ行かないと難しことがわかったのでした。(つづく)
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久々に、アメリカ人の男性おひと方をご案内して、三崎漁港へ行って参りました。

彼はお友だちの妹さんの旦那さん。

わたしのこと、色々心配してくれて、また自転車に乗って見知らぬ街を走ってみたいと申し出てくださいました。

鎌倉出発なので、朝早くに三崎口まで電車で行き、そこから三崎港へ立ち寄って、三浦半島西岸を鎌倉へ戻ってくるというコースと、そのまま江の島へ出て、サイクリングコースで平塚までゆき、その先大磯、二宮、小田原くらいまで旧東海道を走って電車で戻ってくるコースと、2つ提案しました。

港を見たいのなら三崎、お城を見たいのなら小田原で、どちらも進行方向に富士山は見えますよと伝えたら、三崎の方にゆきたいとのこと。

彼のお父さんはポルトガルで漁師だし、彼自身の仕事も海運関係の事務だから港にゆきたいのでしょう。

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この時期は暑くてお昼食べたらすぐに帰るつもりだったので、朝5時に鎌倉駅から電車に乗れるよう、4時半に出発します。

その日は夜の3時に横浜を出たときには月が煌々と輝いていたのに、鎌倉市内に入った途端に物凄い霧に包まれました。

車で走っていても、50mくらいしか視界が効きません。

自転車で鎌倉駅へ向かう際も、4時半なので明るくはなっているのですが、ミストサウナの中を走行しているようで、20分かけて鎌倉駅に到着したとき上半身に着ていたシャツはぐっしょりと濡れていました。

でも彼は「こんな天気の中を涼しく自転車に乗れるなんて、なかなかないよね」と喜んでくれます。

確かに。

雨が降っているわけではないので、気持ちがよいのです。

山の稜線から街の甍の波まで、すべてソフトフォーカスがかかって墨絵みたいになっていて、幼い日に鎌倉にいたときも、こんなに幻想的な風景にはお目にかかった記憶がありません。

5時前に鎌倉駅に自転車で乗りつけるなんてことは、人生の中でもそうそうありませんから、当たり前といえば当たり前ですが。

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横須賀線に乗って久里浜まで行き、京浜急行線に乗り換えて三崎口へ。

久里浜で電車を待っている際に、「ここはペリー提督が日本に初上陸して、米大統領の親書を手渡したところなんですよ」と話したのですが、どこまで伝わったやら。

天候の方はといえば、三崎口駅までいっても、霧はすっきりとは晴れません。

スイカ、メロン、ニンジン、ナス、エダマメとバラエティに富んだ作物をつくっている畑の道をゆきます。

冬ならばこの時間に朝日に照らされた赤富士が見え、正面の太平洋にダイブしてゆくような下り坂の道なのに、霧に包まれた畑のなかをゆくになってしまいました。

しかし、おかげで野菜の名前の英単語は思い出しましたよ。

(water)melon carroteggplantでしょう。

「エダマメだけは何ビーンなのかわからないや」って言ったら、「エダマメはedamameだよ」と笑われました。

彼が「夏はビールにはエダマメ」って言うから、同感だねって誰もいない畑の中で一緒になって笑っていました。

ただ、メロンは種類が複数あって、品種までは分かりません。

ふと、スイカとメロンの違いはなんだろうと考えました。

帰って調べたら、スイカとメロンはウリ目ウリ科ながら、スイカ属とキュウリ属で違うのですね。

メロンがキュウリ属に入っているのも知りませんでした。

目、科、属、種を英語になおすと、order, family, genus, speciesとなるそうで、そういう英語の勉強、したことなかったなぁ。

後でパン屋さんに立ち寄るのに、「あんこは大丈夫?」って訊いたのですが、「アンコって何?」といわれ、“Anko is anko”と答えたら(正しくはsweet bean paste)、「uncleにしか聞こえないよ」と言われ、そうか、叔父さんって「あんこ」と発音すれば間違いないのかと内心ほくそ笑む私。

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港にゆくと、彼は仕事柄か、港湾の大型保冷庫や漁船、保冷車に興味があるようです。

そういえば、アメリカの海産物物流ってどうなっているんでしょう。

広場では朝市をやっており、彼と私は朝食代わりにマグロの漬け丼をいただきました。

食べていると、彼がポツリポツリと仕事のことや親せき付き合いのことを話してくれました。

わたしは深いところまで英語の機微はわからないから、半分も理解できていないのに、「ふーん、そうなんだ」とか、「いろいろ大変だねぇ」なんて相槌を打つばかり。

そうしていたら、自分もバックパッカーだったころ、旅行先で出会った民宿の女将さんに、悩みを打ち明けたくなったときのことを思い出しました。

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あれはオーストリアの山中のこと、当時日本人なんか行きっこない谷間深くの民宿で、「今日は雨だから、スキーはやめときなさい」とコーヒーとプレッツエルを出されて、雑談していた時のことです。

お互い英語が母語ではないので、この先どこへ行くの、日本では何を勉強しているの、なんてとりとめもない話をしていたのですが、ふと「自分はこの先何を求めて仕事や生活をしたらいいのか分からないから一人旅している」と話したのです。

そうしたら、彼女は、

「私だってこうしてシャーレーをやっているけれど、縁があってやっている以外に理由なんて分からない。

でも、何を求めての何は、一生かかっても探し続ける価値のあるものじゃないかしら。

たとえ見つからなかったとしても、探すこと自体に意味があると私は思うわ」

そんな内容のことを言っていました。

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あのとき私は、お互いがあまり得意じゃない英語だから、そんな話が出来たのかなと思ったものです。

そう思ったら、個人的なガイドは外国語がペラペラ喋れる能力云々より、正面から向き合ってあげることの方が大事な気がしてきました。

以前、配偶者がアメリカ人でバイリンガルの人が、「浪馬さんみたいに英語が上手じゃない人の方が、ネィティブの人も接しやすいと思うよ」と言っていたのは、そういう意味なのかもしれません。

言葉が分からないぶん、心で聴いてあげようって気になるではありませんか。

おもてなしの心って、上手に英語で道案内するとか、相手の思っていることを先回りしてやってあげることとか、行為の外形ばかりに目がゆきがちですが、こちらの魂の在り方が大切だと思います。

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日本語で話をするときも、深刻な内容であればとくに、相手に何か気の効いた助言を求めているのではなく、ただ黙って聴いて欲しいだけというケースの方が多いように思います。

それに、これも互いに、一期一会のような出会だからこそ、臆面もなくあんな会話が交わせたのだと思います。

自分の生活圏とは遠く離れた誰も自分のことを知らない旅先で、ふと出会った人に自分の悩みを話してみたくなることって、旅は人生を見直す機会でもあるからこそ、あるのではないでしょうか。

言葉の問題以前に、話をしてもよさそうな人と、そうでない人(たんに人当たりが柔らかいとか、話を聴くことを職業にしているとか、そういうことではありません)っているじゃないですか。

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福祉職や教職のような、人の気持ちに寄り添うのが職業の人の中には、良い意味でも悪い意味でも他人に世話を焼くことに夢中になるあまり、自分を見つめることをおろそかにしている人が多いので、注意せねばなりません。

私は、一見でも悩みを話してよい相手とは、自分の欠点や短所にきちんと向き合っている人だと思います。

そういう人でなければ、お互いさまという共感力に乏しいでしょうし、相手の悩みを聞くふりをして、その実相手を裁いたり軽蔑してたりしている自分を隠すのに長けている、とんでもない人になりかねませんから。

(見ていればわかりますけれどね)

むかし、カウンセラーになってみないかと言われた時、「ミイラ取りがミイラになるみたいで嫌」と断った私ですが、ガイドをしながら人の話を聴く役回りの年寄りになれたらいいな、などと空想してみるのでした。

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自転車旅の方は、暑い中がんばって葉山、逗子を走り、鎌倉まで帰りましたよ。

彼はどこかで海に入りたかったみたいですが、お昼の時間もあったため、お預けになってしまいました。

途中、長者ヶ崎付近で進入禁止になっている海岸を指して、「どうして誰もいないの」ときかれたので、「この海岸、グレネード(手りゅう弾のこと)が落ちているかもしれないから入れないの」と看板を指して説明したら、驚いていました。

なぜそんな物騒なものが?とさらに聞く彼に、「大戦末期にここから米軍が上陸して東京を占領する計画(Operation Downfall)というのがあって、蓄えていた武器を遺棄したみたい。

あなたの嫁さんの実家に近い、稲村ケ崎や江の島にだって水上特攻の基地跡がのこっているんだよ」と教えてあげたら、「そんなことになっていたら、自分たちの運命も変わっていたかもね」と応じるのでした。

たしかに、日米で国際結婚した彼には他人ごとではないでしょう。

こんな話を自転車に跨ってのんびりと会話できる時代に感謝しないと。

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それにしても、海パンを履いてくるほどの熱の入れようだったため、秋谷か葉山で海に入れてあげればよかったと反省しました。

彼がスノーボードやスキーなど、ウィンタースポーツの方が好きというから、「今度冬に日本へ来て、スキー場のはしごするのなら、ガイドをやってあげる。英語よりスキーの方が得意だから」と申し出ておきました。

でも、また宿の暖炉で身の上話をきかされるんだろうな。

スキー教師やっていた時も、高校生からは技術云々よりも、学校生活の悩みとか聞かされているのが常でしたから。

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細い路地を高層ビル群の方へと戻ります。
 
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中央線の線路に行く手を阻まれたと思ったとたん、由緒がありそうなバレエ学校の前に出ました。
ホームページによると、1952年(昭和27年)に池袋で開設し、ここへ移ってきたのは昭和31年。
当時としては画期的で、床は無垢の総檜張りだったとか。
職業舞踏家の養成機関だそうです。
身体が硬い私は、ヨガとバレエだけは勘弁して、と内心思っているので、それ以上の興味は湧かないのでした。
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大久保駅南口の前を通り過ぎます。
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大久保というといまや外国文化の街として有名ですが、その昔は代々木と並んで、予備校の街でした。
その名残なのか、教科書専門の販売会社があって、ここは小売りもしているようです。
教科書って、配られたばかりの匂いが独特でしたよね。
 
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これ、左手の窓には1から4までやはり並んでいました。
グーグルのストリートビューでも確認できるため、ずっとこのままなのでしょう。
下はお店でもないし、何のサインでしょうか。
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朝露に濡れたビョウヤナギの花。
中国から日本に渡来したのは300年も前だそうです。
この花を「未央柳」と書くのは、白楽天が長恨歌の中で未央宮殿の柳を楊貴妃に喩え、この花の美しさと柳に似た葉を重ねたからということです。
確かに、花が派手ですね。
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新宿西口の高層ビル群の下にやってまいりました。
今も建設しているビルがあるんだ。
よく見ると、クレーンには天神、風神、雷神と名前がついているのでした。
いや、余計なことですが、絵は天神ではなく、天女になっているのですが…。
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アイランド・アトリウムの入口にある彫刻は、ロイ・リキテンスタイン(RoyLichtenstein)作、「トウキョウ・ブラッシュストロークⅡ」(Tokyo Brushstoroke Ⅱ)。
1993年のポップ・アートだそうです。
絵筆の躍動ということですが、時代を反映して元気です。
 
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こうしてみると、高層ビルもそれぞれ時代を感じます。
ハイアット・リージェンシー東京は、1980年に日本初進出したハイアットホテル。
その頃は、ハイアットといっても、気軽に海外へ行ける時代ではありませんでしたから。
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ひときわ目立つのが、繭をイメージした某デザイン学校のビルです。
本屋好きとしては、あの中に夜の11時まで営業している大型書店が入っていて、一度は覗いてみたいと思っているものの、東口の紀伊国屋本店で一日過ごせてしまうため、なかなか足を運べないのでした。
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都庁の展望台は、外国人からよく行き方を尋ねられます。
ただし、空気の澄んでいる早朝に開いていないのが残念。
おそらく、季節によっては赤富士など見えそうです。
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そしてやってきました中央公園。
かつてここには、円形に噴射ノズルが並ぶ、上に向って噴き上げる噴水がありました。
(その1)でとりあげた、遠藤周作著『悲しみの歌』の最後の部分では、その噴水の前で小説を閉じます。
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主人公の勝呂医師(「海と毒薬」の続編なので、戦時中に大学病院で助手として米兵捕虜の生体解剖実験に参加したという過去をもつ)は、早朝に新宿の裏手にある神社の境内で、縊死を遂げます。
その現場検証に駆けつけた、生前の彼を執拗に追いかけて記事にすることで糾弾していた新聞記者が、「俺のせいじゃない」と呟く傍らで、例のガストン・ポナパルドが、涙で顔をくしゃくしゃにしながら、あの人は良い人だった、そして悲しい人だった、しかし、今は天国で誰かが彼の涙を拭いてくれているだろうと話します。
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何を言っているのか理解できない新聞記者を背に、ガストンは西口の中央公園に向かうと、そこでは噴水の縁に腰かけた女性が、ひとりで泣いています。
郷里に残した子どもが危篤で、始発列車を待って信州に帰るのだと嘆く彼女の傍らに、ガストンは黙って腰をおろし、そこに朝日が差し込んで、止まっている噴水のノズルに光があたりだすという場面で小説は閉じます。
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遠藤周作の描く「無力のイエス」には批判のあることは承知のうえで、当時の私には「悲しみの歌」に出てくるガストンが、最も親しみやすい人生の随伴者としてのイエスだったことを思い出しました。

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いま、西日本の広範囲にわたる地域において、集中豪雨による被害が出て、大変なことになっているようです。
縁や土地勘のない人には、岡山県倉敷市の真備(まび)町と聞いても、すぐにどこにあるのかわからないでしょう。
でも、ブロンプトンで街道めぐりをやっていると、真備の「高梁川と小田川の間で被害甚大」と聞くと、それって西国街道の川辺宿付近でしょうと、具体的にわかってしまいます。
川辺宿は、京都羅城門跡を起点として西国街道19番目の宿場です。
(広島県の坂町だって、広島駅からとびしま海道へゆくために呉線に乗り、広島市から呉市に入って最初の駅が「坂」だから、あそこか…とピンと来てしまいます。)
旧西国街道で辿る山陽路いうと、左手に穏やかな瀬戸内海をみ臨みながら浜辺をゆくという、優雅なイメージがあるかもしれませんが、実際は全然違います。
須磨浦あたりで明石海峡に臨んだあと、山に入っては峠を越えての繰り返しです。
次に海を見るのは広島県の尾道あたりまでありません。
岡山市内から、吉備津駅付近まで吉備線に沿って北上した旧街道は、そこから西進し、国分寺のある総社市を抜けて、伯備線の清音(きよね)へ出て、そこで高梁川を渡って以降は、小田川の谷を井原鉄道に沿って西へ遡るのです。
三原市から広島市へ抜ける際も、峠を2つ越えますし、岩国から徳山へ抜ける際も、海に近い山陽本線沿いではなく、欽明路とよばれる岩徳線沿いをゆきます。
つまり、予想とは裏腹に山また山なのです。
本州の中央部のように、標高の高い山がないからといって侮れません。
実際に、旧東海道よりもはるかに地形が複雑です。
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(西国街道 川辺宿 高梁川を渡ってすぐのあたり)
 
真備町は、字からもわかるように、吉備真備(きびのまきび 695-775)の出身地です。
彼は717年に第9次遣唐船で阿倍仲麻呂等とともに唐に留学、儒教、天文学、音楽、兵学など広く学び、膨大な量の書籍を日本へ持ちかえっています。
その後東宮学士(皇太子の教育係)になり、35年後の第12次遣唐使では、副使を務め、帰国後は右大臣にまでのぼりつめています。
(空海や最澄が留学する第18次遣唐使船は、そのさらに52年後)
日本史に少し詳しい人であれば、奈良時代の大学者として、平安時代の菅原道真とともに記憶されていると思います。
郷土の天才ですから、真備の墓と伝えられている古墳丘はまきび公園として整備され、麓には菩提寺や記念館もあります。
街道と並行する井原鉄道には「吉備真備駅」もあったと思います。
西国街道(山陽道)沿いには筆塚がありました。
そして、人口がさほど多いとは思われないこの街に、複数の書店が目につきました。
きっと、学問の神様として信仰を集めている真備のお膝元ですから、本を愛する人も多いのだろうと思いました。
そのうちの古そうな一軒に入って、二言三言、お店の人とことばを交わした記憶が蘇りました。
 
いま、教会やお寺などで「被災して困難なときにある人たちのために祈りましょう」といわれると、西国街道をブロンプトンで走ったときに出会った人たちの顔を思い出します。

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