英字新聞を読む

学生の頃、語学は嫌いではなかったけれど、書くこと、読むこと、話すことのうち、一番好きだったのは読むことでした。
言葉とは物事や考えを伝える道具だと思うのですが、どう伝えるのか人それぞれに得手不得手があるのでしょう。
読んでいるうちに書きたくなるし、読んでいるうちに話したくなるという自分の癖は、どの言語でも共通しているような気がします。
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私は朝始業1時間前にゆくと、(それまでブロンプトンで走ってきたこともあって)ファミレスに入って朝食を食べます。
そこは英字新聞と日本の新聞が用意されていて、両方目を通すようにしています。
英字新聞なんて、大学生のころは「将来バイリンガルになりたい人」が、読めもしないのに無理して講読するアイテムだったと思いますが、最近は写真も多いし字も大きくなって(笑)読みやすくまりました。
順番はいつも英字新聞が先です。
日本語の新聞を先に読んでしまうと、同じ会社の英字新聞だからというのもあるのでしょう、英語で読むのが面倒くさくなるのです。
 
しかし、先に読んだからといって英字新聞が日本語の新聞同様にスラスラ読めるわけではありません。
そんな語学力もないし、今の環境は昔よりは多少改善されているとはいえ、英語ばかりに触れる環境ではありません。
新聞の内容はNEWSですから、それぞれのTOPICによって興味の度合いが違います。
時刻表オタクの私がトーマスクックの時刻表はスラスラ読めても、愛憎劇の「嵐が丘」は日本語だって理解できないのと同じです。
だから、まだ英語をおぼえ始めた子どもと同じように、見出しを読んで、興味ある記事だけ中身を読むようにしています。
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(以下は通勤途上の写真です)
 
つい最近、一面のロイヤル・ウェディングの写真の下に、 Koreeda’s ‘Shoplifters’wins Palme d’Or at Cannnes”という見出しを見つけ、ボーッとした頭で眺めていたら、“wins”を“wines”と取り違えてしまい「これえださんという生産者がカンヌあたりでなんちゃというワインの賞でも取ったんかい」と読んでしまいました。
それにしても「棚上げ」(笑)なんて面白いブランド名だなと思って本文をよくよくみたら、映画監督の是枝さんが「万引き家族」という作品で、パルムドールを受賞した記事なのでした。
なんだ、いつかロケ地を巡った「海街Diary」の是枝監督じゃないですか。
へえ、万引きって英語で“shoplifting”っていうんだ。
私の感覚だと、お店を下支えしているような映像を思い浮かべてしまうのですが、辞書をひくと“lift”には「盗む」「剽窃する」という動詞の意味もあったのでした。
もしかしたら、あちらの万引きは上からつまむのではなくて、下からごっそり持ち上げるイメージなのかもしれません。
こういうとき、スマホは便利です。
 
そのほかに時事で“football coach offers to quit”の見出しもありました。
いま世間で耳目を集めている問題が2段くらいにまとまっているので、読んでみます。
事実関係がわりと単純だから、英語でも読みやすいし、あとで読んだ日本語の新聞よりも問題点がはっきりしてくるような気がしました。
たとえば“The problem lies in a gap between instructions by coaches and how players took the instructions.”と、例の大学の発表文が英訳されているわけです。
今回、指導者による指導と選手の受け取り方に乖離(かいり)が起きていたことが問題の本質と認識しており』という部分が英語になると、曖昧な雰囲気が消えて、かなりストレートな言い回しに読めます。
すなわち、問題の本質は”Gap”(認識の差)であると。 
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英語は分別して物事を明確にする言葉に対して、日本語は婉曲にして状況を曖昧にする言葉なんて本で読みましたが、英文を読んでいると、指示自体も英語だったら勘違いを許さないくらいはっきりしたのかもしれないと感じました。
アメリカンフットボールなんだから、これからは戦術指令は全部英語でやるとか、言った言わないを避けるために音声データにして残しておくとか、そんな風にした方が良いのではないでしょうか。
 
現に国家間における条約などの外交的な取り決めをする際には、当該国言語の他に、英語とフランス語の条約文を作成して必ず手交すると聞きます。
なぜフランス語かといえば、仏語は英語以上に曖昧な解釈を許さない言語だからだそうです。
言った言わないとか、記録を破棄したの改竄したのという問題がおきるたびに、日本語の性質にも原因の一端があるのかなと思ってしまうのです。
日本語の文章って、受け取り手それぞれに解釈の幅があると思いますから。
それが日本語の魅力でもあるわけですが。
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何が真実か、当人たちが一番よく分かっているのだから、関係のない人は静観した方が良いと私は思います。
責任の取り方も、その人個人や組織の問題なわけですし。
ただ、昨年の暮れにあのチームが甲子園ボウルを制したとき、誰が半年後の今の事態を予測しただろうと感じるのです。
勝って兜の緒を締めよとはよく言ったもので、勝利から慢心が出て、他者へのリスペクトを忘れてしまうということは、他人事ではありません。
そしてあの時盛んに持ち上げていた方々にも言いたいのです。
あなた方にとって、どんな人でも人としての価値は尊重するというのはどういうことなのかと。


インドのヴェーダーンタ哲学では人間の欲情を6つあげています。
それは色欲、怒り、嫌悪、欺き、高慢、羨望です。
最初の5つは良いとして、他人を羨望することもまた欲情なのだそうです。
高慢の裏返しで嫉妬の感情なのでしょう。
新聞を読んでいて思うのは、他人の問題より自分の問題に向き合うことの方が大切だということです。
劇場型社会の昨今、新聞を読んで、怒りや嫌悪、羨望という感情にアクセスしたくないので、これはきな臭いトピックだなと思ったら、大見出しだけにして、空いた時間を上記のように外国語を味わうとか、読書に用いた方が賢明な気がしてきました。

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尺取り虫方式の旧東海道の旅でよく問題になるのが、家までにしろ、宿泊場所までにしろ、帰る場所がどこであれ、その日の旅をどの地点で切り上げるか、ということです。
これまでも説明してきたように、日本橋〜箱根湯本間(東海道本線・箱根登山鉄道線)、三島〜豊橋(吉田)間(東海道本線・但し宇津ノ谷峠、小夜の中山、潮見坂のように例外あり)、豊橋(吉田)〜宮(名鉄本線)のように、鉄道線が街道に沿っていればあまり気にかけることもありません。
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(静鉄バス)
 
しかし、箱根西坂(箱根宿〜三島宿)の間は元箱根と三島駅を結ぶ沼津登山東海バスの本数が極端に少ないですし、府中(静岡)〜丸子〜岡部〜藤枝間=(宇津ノ谷峠)のように、静鉄バスの本数が多くても、駅までバス利用することで所要時間が読みにくくなります。
また、名鉄本線であっても、豊橋から岡崎までの区間で、鈍行のみが停車する駅で中断してしまうと、そのような駅は30分に1本しか電車がとまらず、次回にそこから再開する場合も、そこまで行くのに時間がかかります。
なお、金谷から日坂の間(小夜の中山)については、皆無です。
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(名鉄名古屋駅)
 
このように考えると、尺取り虫方式の旅は、歩きにしろ、ブロンプトンにしろ、公共交通機関に支えられているといっても過言ではありません。
では、佐屋街道についてはどうでしょう。
名古屋の宿まで帰るのなら、それほど時間を気にする必要はありませんが、名古屋から東京方面への新幹線の指定席特急券を持っている場合、切り上げる時間と場所を誤ると、下手をすると乗り遅れて後続の自由席で帰らざるを得ないことにもなりかねません。
また、中途半端で辺鄙な場所で切り上げてしまうと、次回その場所まで戻るのが大変という状況になります。
ですから、尺取虫方式の場合、自宅から遠方になればなるほど、今日はどこまで行けるかという目途について、状況に応じて柔軟かつ緻密に計算しなければならなくなるのです。
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(尾頭橋付近)
 
佐屋街道は旧東海道に比べて圧倒的に情報量が少ないのです。
各区間について名古屋駅までの戻り方、名古屋駅から再開地点まで行く際の公共交通機関について、以下にまとめてみました。
 
.宮宿〜金山新橋南
・名鉄本線神宮前駅・金山駅から名鉄本線で名古屋駅へ(神宮前より所要810分程度列車本数多数)
・JR熱田駅から東海道本線で名古屋駅へ(各停所要8/毎時4本以上)
(バス路線なし、地下鉄も名古屋駅には直通しません)
2.金山新橋南〜烏森駅
・名古屋市営バス中川巡回で尾頭橋へ行き、JR線で名古屋駅へ
・名古屋市営バス金山21系統、金山23系統で金山駅へ行き、JR線で名古屋駅へ
・「五女子」及び「二女子」バス停のみ、名古屋市営バス名駅20系統で名古屋駅へ
3.烏森駅
・近鉄烏森駅から近鉄名古屋線で近鉄名古屋駅へ(所要5/各駅停車毎時34本)
4.岩塚宿
・名古屋市営地下鉄東山線岩塚駅から名古屋駅へ(所要10/毎時12本以上)
・名古屋市営バス名駅23系統で名古屋駅へ
・名古屋市営バス中村11系統で中村公園駅へゆき、地下鉄東山線で名古屋駅へ
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5.万場宿
・名古屋市営バス、幹中村1系統または中村11系統で中村公園駅へゆき、地下鉄東山線で名古屋駅へ
(ここまで名古屋市内)
6.大治町西条
・大治西条バス停より名古屋市営バス名駅24系統で名古屋駅へ
・〃中村14系統で中村公園駅へゆき、地下鉄東山線で名古屋駅へ
7.西条〜津島
・名鉄バス(津島駅発)名鉄バスセンター行きで名古屋駅へ
・名鉄バス(〃)栄行き「中村区役所」下車市営地下鉄桜通線乗り換えで名古屋駅へ
8.津島
・津島駅から名鉄津島線で名古屋駅へ(所要34分毎時4本以上)
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9.津島〜佐屋
・名鉄尾西線で津島線経由名古屋駅へ(直通で40分前後毎時4本以上)
10.佐屋〜尾張大橋
・JR関西本線弥冨駅から名古屋駅へ(所要20分前後/各駅毎時23本程度)
・近鉄弥富駅から近鉄名古屋線で近鉄名古屋へ(所要急行15/毎時3本・準急20/毎時2本・各停40/1本〜4本)
11.長島町
・JR関西本線長島駅から名古屋駅へ(所要26分前後/各駅毎時23本程度)
・近鉄長島駅から近鉄名古屋線で近鉄名古屋へ(所要準急25/毎時2本・各停44/1本〜3本)
12.伊勢大橋
・三重交通バス長島温泉線桑名駅行き
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(街中のコミュニティバスは観光客は利用できません)
 
こうしてみると鉄道利用しやすい場所と、どうしてもバス利用でしか名古屋駅に戻れない区間があります。
私も歩き旅の際に名古屋市営バスを利用したのですが、時刻表通りに来るか分からないのと、乗っても渋滞で遅延する、地下鉄乗り換えで面倒くさく、現金では乗り継ぎ割引も適用されないということで名古屋駅に戻る時間が読めず、あまり心地よいものではありませんでした。
なお、名古屋駅や名鉄バスセンターへ直通するバスは、系統・本数が限られるため、それならもう少し歩いて鉄道駅から名古屋駅へ戻ろうということになる場合が多いと考えられます。
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(西条交差点。50m手前に名古屋駅行きバス停が始発であります)
 
鉄道に関しても宮宿から金山新橋までは名鉄線やJR東海道本線が熱田神宮の向こう側に沿っているからよいとして、そこから先は要所要所でそこまで行けるかを慎重にはかることになります。
その際、JR関西本線と近鉄名古屋線、急行停車駅と鈍行のみ停車の駅では待ち時間や所要時間が変わってきますので、それを加味した時間計算を要します。
また、名鉄尾西線の佐屋〜弥富間、JR関西本線の桑名〜名古屋間には単線区間が存在することも知っておくべきでしょう。
単線区間ということは、対抗列車待ちで所要時間を浪費する可能性があるということです。
さらに、名古屋駅におけるJR東海道新幹線との乗り継ぎ時間にも配慮する必要があります。
ぎりぎりに到着しても、新幹線は待ってくれませんから。
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(名鉄バス)
 
以下にまとめました。
JR関西本線:6
JR東海道本線:7
名古屋市営地下鉄東山線10
名鉄線15
近鉄線15
名古屋市営地下鉄東山線15
市営バスターミナル、名鉄バスセンターとも15分以上
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(バス停に駐輪してあるところがすごいとおもいます)
 
もうひとつ、少しでも街道を先へ行きたいという人にはお勧めしませんが、宮の渡しから庄内川を渡る手前の岩塚宿あたりまでの区間であれば、時間に余裕をもって名古屋駅へ直接ブロンプトンで乗り入れてしまうという手があります。
その場合、新幹線にいちばん乗りやすいのは太閤通口です。
巨大ターミナルのご多分に漏れず、周囲の道が幅広で信号も多く、新幹線側は雑然としているためあまり気持ちの良いものではありません。
また、駅に早く到着しても東京方面上り新幹線は、それこそ山手線並みに列車が来るため、早く着いてしまうと「もっと早い時間の列車に乗れたのに」と後悔してしまうかもしれません。
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(尾張大橋の隣を渡る近鉄名古屋線)
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あなたが旅慣れた人なら、すいているみどりの窓口をみつけて、きっぷの変更(業界用語で「乗変」=「じょうへん」といいます。1回目は無料)をしてしまうという手もありますが、ブロンプトンをつれている身です。
新大阪発の短距離列車を選択することと、E席またはD席を確保することをお忘れなく。
経験からいうと、最初に埋まってゆくE席が確保できるくらいに空いている列車でないと、窮屈なおもいをすることになると思われます。
夕方の上りなんて、どれも満席だから乗車変更なんてできない場合が殆どです。
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青木湖は、長野県大町市の北部にあり、仁科三湖のうちいちばん北の一番高いところに位置しています。

湖の北側の丘が分水嶺になっていて、青木湖の水は中網湖、木崎湖を経て農具川として大町市を南下し、梓川、千曲川へと注ぎます。

一方、湖の北には国道148号線の佐野坂峠があり、そこから姫川が北の糸魚川に向って流れています。

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湖の東側には国道148号線と大糸線が走り、湖越しに後立山連峰の前座の山が連なっています。

西側にも舗装した道路が周回していますが、こちらは廃止されたスキー場と湖の間の林間の道で、あまり眺望がききません。

スキー場は青木湖スキー場という名前で、京急が運営していました。

鹿島槍、青木湖、佐野坂と3つのスキー場が連絡コース(実はかなり急で初級者は行き来できませんでした)で結ばれて、サンアルピナという名前を上に冠して売り出していたのですが、残念ながら2009年のシーズン以降、この真ん中にある青木湖スキー場だけが休止してしまいました。

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青木湖はまた、1975年の元旦に超満員のスキーバスが湖に転落して24名もの死者を出したことでも有名です。

水面の標高は822mあり、冬は非常に寒い場所なのですが、湧水が多いせいか氷結しません。

そのため、事故時にバスは沈んでしまったそうです。

その代わりに透明度も高く、全国では9位、本州でも群馬県の菅沼、富士五湖のうちの本栖湖に次いで、第3位です。

菅沼、本栖湖ともブロンプトンでのアクセスにかなり難がありますし、菅沼に至っては湖畔に出られる場所がキャンプ場以外にほとんどありません。

それにくらべて、この青木湖は国道148号線の旧道が湖畔に沿っていて、バイパスが一段高い場所に開通した後は、旧道の方へ入ってくる車もぐっと少なくなり、のんびりとサイクリングを楽しめます。

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ただ、写真で見てもお分かりの通り、前座の山が近いために後立山連峰(北アルプス)を隠してしまい、湖の北の彼方に白馬三山につらなる小蓮華山(2766m新潟県最高峰)が見えている限りです。

このときは湖に山が映るかなと思って行ったのですが、あいにく風があってかないませんでした。

食事場所は旧国道沿いに1軒のみで、対岸の道は日本海から信州へ塩を運んだ、いわゆる塩の道ですが、キャンプ場が複数あります。

また、夏はゲンジボタルをカヌーで見に行くツアーも行われています。

また貧栄養湖なので魚は少ないみたいですが、ヒメマスが釣れるそうです。

ただし、年によってはクマも出るので自治体情報に注意してください。

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サイクリングなら5月から10月くらいの間がお勧めですが、景色が良いのは山が雪を被っている時期になります。

前座の山が新緑や紅葉で、後立山連峰が雪をいただく4月から5月、10月から11月が、サイクリングができて景色のよい時期ということになると思います。

なお、鉄道で行くのなら、湖畔にあるヤナバスキー場前駅は冬季のみの臨時営業駅のため、湖南端よりおよそ1㎞南(下流)にある簗場駅から旧道の緩い坂をのぼるか、北隣白馬村の南神城駅で下車して国道の佐野坂峠までのぼり、旧道(トンネルあり)を抜けてくるかのどちらかになります。

バスは大町駅前から市民バスが青木湖までありますが、マイクロですし、本数はわずかです。

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夕方仕事帰りにブロンプトンをつれて新幹線に乗車して、夕食を食べた後京都の北山、鷹峯に一泊しました。
早目に寝た分、早起きして朝食も兼ねて周囲を散歩することにしました。
6時半に起きて7時には宿を出ます。
ここは京都市内でもかなり標高の高い場所ですが、さらに坂道(千本通)を登ってゆきます。
正面やや右に五山送り火のひとつ、船形万灯籠らしきものが山肌に見えています。
山に囲まれた盆地状の街はどこもそうですが、縁の山に近ければ近いほど坂道もきつくなります。
寝起きに食事もせずコップ一杯の水を飲んだだけでこの運動はきついなと思いながら、これ以上の先は山で住宅はないという場所まで来ました。
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実は、小学生の時に同級生と子どもだけで旅に出て、はじめてユースホステルに宿泊した場所を再訪しようと思っていたのでした。
今から40年以上前の昔話です。
当時は小学生だけで旅をするなんて、おかしな家庭のすることでした。
一応1時間刻みの行程を紙に書いて、親に渡しての旅でしたが、警察に補導されたときのために「この子は両親の許可を得て旅してます」という手紙を懐にしたためていました。
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旅行鞄なんてないから、数年前に買ってもらった背負う形式のスキーバックを背負っていました。
その時代のカーキ色をした登山用リュックサックみたいに、横幅のあるタイプで、左右両脇にスキー靴が収納できるような大きなポケットがついているものです。
もちろん、スキー用ですから歩くのには適していません。
当時は横浜から大垣行夜行鈍行に乗り、午後早くに京都駅についてホームで立ち食い蕎麦を食べながら時間調整し、山陰線で二条駅まで行ってから当時は存在した市電とバスを乗り継いできて、下車したバス停からこの坂を、寝不足で顎を出しながら登った記憶があります。
あの頃も乗車券を有効利用して市内の交通費を少しでも安く上げるため、京都駅ではなく二条駅まで乗っていたわけで、大人になってブロンプトンを持ってきても似たようなことをしている自分は、進歩があるんだかないんだか…。
 
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北山ユースといいましたっけね。
やっとの思いでたどり着いたものの、ペアレント(オーナー)にも、泊っている大学生や20代のお兄さん、お姉さん(笑)からも、「どうして小学生だけで旅をしているんだ?」という不審の目で見られながら泊った記憶があります。
そんななかで、言葉は通じないのにヒッピーみたいな格好の外国人からやたらと親切にされたことを覚えています。
彼らだけが、自分たちをいっぱしの旅人と認めてくれたみたいでした。
そんな経験をしているから、のちに自分が大学生になって、海外のユースやドミトリーに一人で泊っても、適当にコミュニケーションをはかってやってゆけるようになったのだと思います。
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(左の住宅街が、ユースのあった場所とのことですが)

その北山ユースホステルもとうになくなっていて、自分の記憶では山に向って右側、テニスコートの下にある古いアパートがそれだった記憶があるのですが、ゴミ出しにきた近所のおじさんに訊いたら、「北山ユースはいま住宅が建っているお向かいの左側にあったんですわ」とのことで、どうしてもその建物の様子が思いだせないのでした。
しかし、じぶんがここだったんじゃないかなと勘違いしている方の建物は、あの頃から存在しているような古さだし、軒先に物置になっているバスも、錆だらけだけれど昭和40年代くらいの代物に見えて、当時からこのテニスコートはあったのじゃないかなと思いました。
(バスを帰ってからネットで調べたら、三菱ふそうのローサという名のマイクロバスで、型式は19631968年ごろのものと思われます。)
そうすると不思議なもので、野球帽を被った小学生の自分が重たいリュックを背負いながら、えっちらおっちら下から登ってくる姿が見えるような気分になりました。
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(右側のこの建物や)
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(その奥のこの建物のみたいに、寮のような建物だった記憶があります)
 
あの頃の小学生の男の子って、野球に興味があろうとなかろうと例外なく野球帽を被っていたんですよ。
校庭ではドッジボールやサッカーばかりやっていたのに。
(ゴムボールでハンドベースもやったかな)
ありがちなのは、黄色いジャイアンツのキャップでした。
一応横浜市民だったので、ジャイアンツの帽子を被っている子(当時の大洋ホエールズは川崎でした)が圧倒的だったと思います。
黄色のあれはいかにも交通安全のためみたいだったし、旅行に出て目立つとお巡りさんに補導されてしまうおそれがあったため、私は何の興味もゆかりもない中日ドラゴンズの帽子を被っていたような気がします。
スポコンアニメの嚆矢、巨人の星の敵役となった、例の卓袱台をひっくり返す「とうちゃん」が被っていたからかもしれませんね(笑)
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(やや)
 
今なら阪神タイガースや近鉄バファローズ、阪急ブレーブス等在阪球団の帽子を被って地元の子どもに紛れるという偽装工作を思いつくのですが、当時は小学生でしたから頭もそこまで回りません。
それに旅行に行くたびに現地野球チームの帽子を購入していたのでは、勘定があいません。
こんな話、当時を知る人にしかわからないでしょうけれど、誤解であっても駅の交番等で声をかけられてしまうと、事情の確認だけで1時間くらい平気でかかってしまいます。
そうしたら、旅程通りに電車に乗れなくなってしまうので、当時からタイトな行程を組んでいる身としては死活問題だったのです。
のちに中高生になっても、決して「不良」の姿をしなかったのは、そうした事情によります。
大学時代、バックパッカーになって中国に行き、最初にやったのは、靴や洋服を一通り現地のもので揃えることでした。
(散髪までできたら完璧でした)
今もブロンプトンに乗って地元民を装うところは、全く進歩していません。
内心ではスパイ大作戦みたいな気分で楽しんでいるわけですが。
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(これは古いでしょう)
 
あのときは、ここ北山ユースに2泊した後、近鉄線に乗って伊勢へ行き、伊勢神宮の下宮だけ参拝し、穴川にある伊勢志摩ユースホステルに宿泊しました。
なぜ小学生でお伊勢参り?なのか疑問なのですが、無意識に日本の近代における旅の原点は伊勢参りで、子ども参りがあってもいいじゃないかと考えていたのかもしれません。
実は小学生なら国鉄の運賃が半額だから、安く旅行できるうちに行っておこうと思っただけかもしれませんけれど。
でも、伊勢参りを先導する御師(おし)という職業は、現代の旅行会社の営業やツアーコンダクターのルーツとされています。
こんな時分から、将来は旅行会社で仕事しようと思っていたわけではないと思いますが。
なお、伊勢志摩ユースホステルの方は残っているので、今度泊ってみようかな?
あそこでは、ミーティング(という名の懇親会)デビューをしたんだっけ。
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(ユース最寄りのバス停。本当に不便でした)
 
ブロンプトンに乗って、坂を下ってゆきます。
北山ユースホステル最寄りだった釈迦谷口鷹峯源光庵前(小学生には「なんちゅう難しくて長い、あの世の一歩手前みたいな名前のバス停ねん」と思ったものです)まで走ったのですが、片道400mはあります。
小学生の足ではユースからはやはり遠いのでした。
行き先は北大路バスターミナルと二条駅・四条大宮行きの2系統でどちらも1時間に2〜3本。
やはり京都駅直通のバスなんてありません。
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(神光院山門)
 
そこから住宅街を下ってやってきたのは、京都三弘法のひとつ、神光院です。
いや、真言宗のお寺を手伝うことになった以上、少しでも真言宗系のことは知っておこうと思いまして、京都における三弘法詣でというのは、四国八十八か所の巡りに行く人が、事前の祈願と事後の結願御礼にお参りする、京都にある3つの真言宗寺院を指します。
東寺と、仁和寺、それにここ神光院がそれなのですが、三弘法のうちでもっともマイナーかつ小規模で、場所も観光客がゆくような場所にないので、朝のお散歩で行ってみようと考えついたのです。
拝観料をとらない、朝の6時半から山門を開いているお寺というところも、いまお手伝いしているお寺と条件は同じなので、覗いてみたかったのです。
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(由緒書きが読めなくなっているところは同じです)
 
住宅街の坂道をくだり、鴨川の上流にあたる谷間に出たら、通勤や通学の人たちが出始めた住宅街を少しのぼってゆきます。
有名な寺社で説明すると、大徳寺のはるか裏手、上賀茂神社のやや西にあたります。
上賀茂神社ってユネスコの世界遺産にも登録されている国宝の本殿があるお社ですが、
観光客はアクセスのよい下賀茂神社はよくゆくけれど、上賀茂神社まではあまり来ません。
ブロンプトンがあれば、京都市営地下鉄の北大路駅から鴨川沿いに半木の道(桜の名所です)上流の左岸を走ってわりとすぐなのですがね。
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(蓮月庵)
 
で、今回の神光院は弘法大師空海のファンでもないと、まず行かないお寺です。
1215年に上賀茂神社の神職が御宣託を受けて創建とありますが、それ以前は御所の瓦屋根を修理する職人の宿舎があって、空海がここで九十日間修業したことから、三弘法のひとつになっているようです。
また、幕末の女流歌人、太田垣蓮月が隠棲していたお寺で、境内の中に茶室の蓮月庵が残されています。
朝の7時過ぎに着いたのですが、誰もいません。
天気も冬の京都らしくどんよりしたままで、電灯のついた山門には厄除けの赤札と初弘法の案内が貼られています。
厄除け大師として有名だそうですし、初大師というのは成田山や川崎大師でも行われる、正月21日の真言宗の行事だからわかります。
山門に続く築地塀の筋が四本(三本からあって、五本が最高の格式)ということは、御所との関係があったからなのか、格式の高いお寺です。
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こじんまりしているわりには、木々に囲まれた境内を進んでゆくと、本堂が現れました。
幕が張られているのは初大師が近いからでしょう。
香炉があってお線香が手向けられています。
私もお金を支払って一本つけたのですが、半端に火の消えたお線香が何本も刺さったままだったので、全部火をつけておきました。
本堂は火気厳禁だから、少し離れている香炉でもお寺はナーバスになります。
その証拠にちゃんと香炉の下には消火用の水も用意されています。
どうしても、お寺側の目線で見るようになってしまいましたが、一応線香が燃え尽きるまでの間、お賽銭をいれて、般若心経と、南無大師遍照金剛をとなえていました。
脇には厄年の早見表も貼ってあります。
これ、自分も見やすいように毎年工夫して作っているのですが、数え年で計算するところが不評なのです。
来年は満年齢も併記してみようかな。
そして境内は、昔の時代劇の撮影にもよく使われたそうですが、あまり既視感はないなぁと思いながら、神光院をあとにしたのでした。(つづく)
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(京町見附)

桑名宿の京町見附跡(35.063846, 136.693465)で左折した旧東海道は、南へ向かいます。
道の右側が吉備津屋町、左側が紺屋町です。
古い商家が両側に並んでいますが、漆器、仏壇・仏具店が目立ちます。
これは桑名盆という漆塗りの一種が江戸時代の桑名名産だった名残と思われます。
桑名盆の特徴は、顔料を混入した色漆で蕪を描くのが特徴だったそうですが、腕の良い塗師が集まっていたのでしょう。
270m先で県道(504号線)に出ますが(35.061806, 136.691642)、向かい側に桑名市ふれあいプラザがあるせいか、ここは信号機付きの横断歩道があるので渡ってそのままお向かいの路地へ進みます。
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信号から70m先、一本目の路地を右折して西へ、20m先の次の角を左折して南に向き直り、30m先の次の角を左折して今度は東へ向かいます。
ちょうど四角形の三辺をなぞるようにして進路を変えるのですが、その先に狭い道が無駄に広がっていて、さらに120m先で右折して再び南へ進路を戻します。
これが吉備津屋見附跡(35.061081, 136.690883)です。
ここには門が設けられていました。
のちにこの字が吉備津屋町から鍛冶屋町として独立したため、鍛冶屋門と呼ばれるようになったこの道路の屈折は、升形の典型です。
前にもふれたように、江戸期の最初に桑名の城下町を整備したのは徳川四天王の本多忠勝でしたから、武辺者らしく宿場町の防衛に手抜かりはなかったのだと思います。
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(吉備津屋見附)

再び南へ向かうと今度は右側にお寺が並びます。
手前から順に、教宗寺(浄土真宗本願寺派)、光明寺(西山浄土宗)、光徳寺(浄土宗)、十念寺(浄土宗)、寿量寺(日蓮宗)。
県道(401号線)に突き当たり今度は横断歩道がないので40m左手にある萱町交差点(35.056676, 136.690745)で横断して再び戻って旧東海道の路地へ入ると、やはり右手に長円寺(浄土真宗本願寺派)、報恩寺(〃)。
また、旧道からは見えませんが、東側の一本通り向こうの県道沿いには、浄土真宗本願寺派の法盛寺があります。
こちらのご本尊(阿弥陀如来像)は運慶の長男、湛慶の作と伝えられています。
すごい、一軒を除いて残り全部浄土系です。
どうりで、さっきの仏壇屋さん、金箔をふんだんに使った派手な仏壇が多かった気がするのです。
浄土宗や浄土真宗はお寺の内陣も仏壇も、極楽浄土をイメージするのでキラキラの飾りが多いのです。
もちろん、帰依するのは阿弥陀さまですから、称名は「南無阿弥陀仏」ですよ。
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(有名なお店がありますが、また今度)

浄土宗と浄土真宗の違いに、般若心経を唱えるか否かという点があります。
正確には真宗では唱える必要がないということらしいですが。
これは、般若心経が知恵の教えとして空を説く、いわゆる自力実践行なのに対し、浄土真宗は他力を本願とするからです。
もっとも、唱えてはならないということではないそうです。
私の実家の檀那寺は真宗ですが、人から「東西どっち?」と訊かれても答えられませんでした。
もちろん、正信偈なんて家で聞いたことなかったです。
(ひょっとしたらお葬式で唱えていたかもしれません)
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(光徳寺)

大人になってから興味が出て、親鸞聖人の生涯や歎異抄、浄土三部経の要旨を本で読みました。
おかげでのちに西田幾多郎先生や鈴木大拙先生の本を読む一助になりました。
自分は浄土真宗の門徒ですなんて言いながら、親鸞聖人が「私は父母のために念仏を唱えたことなど唯の一度もない」と追善供養を否定している意味も知らずに、南無阿弥陀仏の一言も唱えず、「先祖を敬うために墓参りを欠かさずしなさい」とか、「家族の外にある他宗門は信用するな(いや、家族ですら信用していない)」などと不信心丸出しのまま、仏前でやたら「私は徳を積んでますでしょうか」なんて話す人がいて、いやいや、そんな事の前に、聖人がなぜ阿弥陀の本願に依ったのかを知る方が先じゃない?と、当時は無宗教の私でも思ってしまったことがあります。
異教徒(笑)になった今だから、もっと彼の説く教えが感じられるような気がして、いま一度歎異抄を読み直してみようかなと思っています。
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(十念寺)

あれ、浄土系のお寺が並んでいるものだから、自分の仏縁を感じて親鸞や法然への思いが出てしまいました。
寺町にさしかかって三番目に登場する光徳寺(35.058368, 136.690395)には四日市の萬古(ばんこ)焼を創始した、沼波弄山(ぬなみろうざん 1718-1777)のお墓があります。
萬古焼とは、ペタライトを使用する陶器と磁器の中間の性質をもつ焼きもの(Т錙砲任后
萬古とは「永久」のこと。
耐熱性、耐水性に優れて堅牢なことから、この名前をつけたのでしょう。
現在、土鍋のシェアは全国一だそうです。
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(萱町交差点)

また四番目に登場する十念寺(35.058076, 136.689995)には幕末の桑名藩士、森常吉のお墓があります。
彼は藩主松平定敬が最後の京都所司代に就いたとき、彼の留守居役となり、護衛して箱館戦争まで転戦しますが、終結後に捕えられ、半年後に桑名藩に引き渡され、藩主の身代わりとして敗戦の責任を負って切腹しました。
戊辰戦争から士族の反乱にかけて、土方歳三や西郷隆盛みたいに最後まで戦って新体制に抵抗した人が話題になりますが、このように身代わりとして詰め腹切らされた人も、官軍、幕軍問わずにたくさんいたといいます。
どちらかといえば、組織に殉じるという意味で、これらの人の方が侍らしいと感じます。
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旧東海道は寺町を抜けてすぐに萱町で横断した県道(613号線)と合流しますが、それもつかの間で次の日進小学校前信号(35.055242, 136.690113)で右折します。
角にたばこ屋さんがあるところが、昔道です。
ここから伊勢湾を背に西へと向かいます。
140m先右側に「天武天皇御舊蹟」(舊蹟=旧跡)と象形文字のようにあらわされている石柱がたっていて、奥のお社が天武天皇社(35.056198, 136.688890)とあります。
天皇の名前が神社名なんて珍しいと思っていたら、彼をお祀りしている神社は全国で唯一ここだけだそうです。
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(日進小学校入口)
 
天武天皇ってお兄さんの天智天皇の陰に隠れがちです。
天智天皇は中大兄皇子として、大化の改新における乙巳=おっしの変(645年)で藤原鎌足とともに蘇我入鹿を討って改革を成し遂げた人です。
日本の歴史もご多分に漏れず、振り子のような経過をたどっています。
587年の丁未=ていびの乱でライバルの物部氏を滅ぼし、渡来人と彼らのもつ技術を保護し、その信仰する仏教勢力とともに拡大してきた蘇我氏の権力を、再び天皇に戻すクーデターだったのですが、その後中大兄皇子は百済再興をはかって朝鮮半島南部に派兵(白村江の戦い=663年)して敗退したり、都を近江大津(現在の近江神宮)に遷したりしながら、同年天智天皇として即位します。
近江神宮といえば、百人一首の一番の歌として詠まれる「秋の田の〜」という歌の作者が天智天皇ですよね。
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(天武天皇社)

あれこれやと性急にやり過ぎて人心を疲弊させてしまった感のある天智天皇は、当初は弟の大海人皇子に譲る約束をしていたのですが、途中から第一子の大友皇子に譲位すべく心変わりしてゆきます。
ビッグ・ブラザーに物申す気もなかったのか(一説によると兄の天智天皇は死の床へ大海人皇子を呼び寄せて暗殺しようとしたともいわれています)、一旦は大友皇子に皇位継承権を譲って吉野に引っ込んだ大海人皇子でしたが、天智天皇が崩御した翌年、大友皇子を倒すべく兵を挙げます。
これが壬申=じんしんの乱(672年)です。
そのとき吉野を発った大海人皇子は、伊勢から美濃を回り、味方の兵を集めます。
その時に滞在したのが桑名のここだったといいます。
のちに大友皇子を倒して天武天皇として即位した大海人皇子は、都を飛鳥に遷し、人事を皇族でかためて専制君主政治を行いました。
しかし、神道を整備しながら道教にも関心を寄せ、最初の律令といわれる飛鳥浄御原令を定め、吉野に下野していたからなのか、仏教も手厚く保護をしたといいます。
また、美人の妻である額田王を巡って兄の天智天皇と三角関係になった話もありますが、額田王が美しかったかどうかも含め、江戸時代の創作だそうです。
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(矢田立場跡)

和菓子屋さんや糸屋さん、染物屋さんなど古い商家が所々に残る路地を進むと、日進小学校前交差点から850mの矢田町交差点(35.057274, 136.684183)で国道1号線を横断、そこから210m先、右側に半鐘のあるT字で突き当たります。
ここが矢田立場跡(35.057619, 136.681875)です。
桑名宿の京側の入り口にあたるため、ここには宿引小屋があったといいます。
今でいう宿泊案内所(さいきんネットのせいでめっきり見なくなりました)でしょうか。
「お客さん、湊の方へいっても今日はもう満室だから手前で泊まっておいきよ」なんてやっていたのでしょうか。
ちなみに、少し前の参勤交代をテーマにした映画にも描かれていましたが、西方向から大名行列が桑名宿へ差し掛かった場合、この矢田立場まで桑名藩の役人が出迎えをしたそうです。
ああ、これも旅行会社の海外駐在員が、日本からの公的団体や大型団体を現地ゲートウェイ空港までお迎えにあがるのとそっくりです。
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次回はこの矢田立場から四日市宿方面へ向かいます。

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