大弛峠は山梨・長野県境に位置する標高2,360mの峠です。
先年(2003年)、乗鞍スカイライン、乗鞍エコーラインがマイカー乗り入れ禁止になったため、自家用車で越えることのできる峠として、日本最高所になりました。
「峠」でなければ、富士山の富士宮口五合目(富士山スカイライン:標高2,400m)があるので、自家用車で行ける高所としては日本で2番目ということになります。
山梨県山梨市牧丘町杣口から、長野県南佐久郡川上村川端下へと大弛峠を越えて抜ける、林道川上牧丘線はかなり歴史があって(完成したのは昭和44年)、私が中学生のころはもう、埼玉県の秩父地方から川上村へ抜ける中津川林道とあわせて、オフロードバイクを駆るライダーさんたちのメッカになっていました。
当時は早朝に飯能や青梅から正丸峠、山伏峠を越えて秩父盆地へ入り、荒川を遡って中津峡を抜け、三国峠を越えて川上村へ下り、そこからこの林道を抜けて塩山へ出て、国道20号線を八王子へ帰るか、その逆コースをたどるのが定番でした。
高尾山の裏手、相模湖へ抜ける国道20号線に同じ名前の峠がありますが、あちらは字が違って「大垂水峠」と書き、こちらの大弛峠とは対照的に、ローリング族の聖地になってしまい、のちに二輪車通行止めになってしまった経緯は、前に書きました。
その頃のイメージは、大垂水=走り屋・大弛=オフロード野郎でしたかね。
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(甲州高雄山麓から大弛峠方面を望む)
 
地理オタクの私は、まだ免許の取れない年齢のころから、山奥深くはどうなっているのか想像し、バイクに乗れるようになったら必ず行こう!と思っていたのでした。
そして16歳になると原付のオフロードバイクに跨り、大弛峠を目指したのですが、幾度挑戦しても失敗続きで、峠を越えられたのは4年目の大学生になって、250㏄のバイクに乗りかえてからでした。
まず、原付で行くこと自体に無理があるのです。
高速道路にはのれませんから、当然下道で行くわけですが、原付ですからスピードも出ません。
目いっぱい早起きして朝の5時くらいに家を出て、顔が煤だらけになりながら笹子トンネルを越えて塩山につくと、もう10時くらいになっているのです。
それで林道に入ってゆくと、甲府方面から焼山峠を越えて来る林道と合流する、柳平という集落のちょっと先で、「災害復旧工事中:通行止め」という看板が出て、それ以上進めないというのが、1年目でした。
2年目、今度はちゃんと通り抜けられるかどうか前もって営林局に電話して(当時はネットがありませんでしたから)確認し、朝靄でずぶ濡れになりながら高曇りの甲府盆地から杣口集落に入ってゆくと、いきなりの大雨。
身も心も泣きながらぬれ鼠になって国道20号を相模湖方面に戻りました。
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当時の林道は全線にわたって未舗装で、路肩もガードレールなんかなく補強されていないから、道の真ん中にひびが入ったと思ったら、道半分があっというまに崖下へ崩落なんてことは珍しくありませんでした。
そのうえ、林道川上牧丘線は、開通時期が短いのです。
当時は山梨県側の山麓にスキー場があったくらいで、開通期間は5月末から10月末くらいまででした。
開通してもすぐに梅雨の時期ですから、当然にゆけません。
学校が夏休みになってやっと行こうと思ったら、今度は台風による土砂崩れで通行止め。
梅雨の時期にがけ崩れがあるとその年はもう通行止めで、来年の夏を待ってくださいなんてざらでした。
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(大菩薩峠から大弛峠方面を望む 中央に映っているダムが琴川ダム)

3年目は、甲府側からアプローチしたのが悪かったのだと、秩父側から三国峠を越えて川上村から登ました。
ところが、こちらは中津川林道を通り抜けるのに時間がかかってしまい、川上牧丘林道の長野県側入口に着いたのは午後1時をまわっていました。
それでも頑張って登り、峠まであと300m地点に迫ったのですが、なんとそこでパンクしてしまいまったのです。
修理していたら雷が鳴って雨まで降り出し、ナビなんてもちろん無い時代ですから、あと300mで山梨県なんて知る由もなく、またもや泣く泣く長野県側へ下っていったのでした。
その時、原付のエンジンは酸素が薄くなるとかぶって(普段はアクセルを開けるとビービーうるさいのですが、混合気が濃くなってアクセルを開けてもモモモモとこもったような音が出て、出力が上がらない状態)しまい、それで標高が高いことには気づいてはいましたが、山梨県側も悪路が続くうえに、麓の集落までの距離はそちらの方が長いので、諦めざるを得ませんでした。
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大学生になってやっと大弛峠に立てた時、そこにハイカーがたくさんいるのに茫然としてしまいました。
その頃は、山梨県側の塩山駅から乗り合いタクシーで大弛峠を目指す登山客が多くて、地元のタクシー会社も悪路用のタイヤを普通のタクシーに履かせていました。
じゃないとすぐスタックしてほかの車を通せんぼ状態になりますから。
しかしがんばって登った割には景色はそれほどでもなかったのです。
ここから山に登らないとだめなのだと痛感しましたが、家からここまでバイクで走るのに体力を費やしてしまい、これで登山して帰りもバイクでなど、想像しただけで昏倒しそうになるのでした。
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その頃、山梨県側は麓の方から少しずつ舗装化工事がはじまっていましたが、大弛峠まで完全舗装化されたのは2000年代に入ってからとききます。
柳平のすぐ下には、あの頃は存在しなかった琴川ダムによる乙女湖(人造湖)なんてできています。
そして、現在は金峰山、国師ヶ岳、北奥千丈岳などに登る人たちのために、栄和交通という地元のタクシー会社が路線バスを運行しています。
一番早い便は塩山駅7時半発で、柳平で乗り合いタクシーに乗り換え、850分には大弛峠に到着できます。
これなら金峰山を往復しても余裕で日帰りできますが、そこまで無理せず、峠から正味2時間で往復できる、国師ヶ岳(2,592m)と北奥千丈岳(2,601m)を往復し、下りはブロンプトンで山梨側の舗装路をびゅーっと走って、帰りの電車で安眠を貪るなんて旅ができるんじゃないかと考えました。
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帰路は順当に下れば笛吹川を渡って塩山駅に滑り込むか、笛吹川沿いにくだって東山梨駅、または山梨市駅から中央線で高尾方面上り電車に乗るわけですが、高尾までは時間がかかるうえに、もし座れなかったら睡眠はおろか、けっこうな忍耐が必要になります。
そこで、柳平から焼山峠、乙女高原を抜けて、水ヶ森林道をくだって甲府駅の裏手、要害山温泉に出て、ひと風呂浴びてから甲府駅まで走り、始発電車に乗って高尾方面へ帰るという大まかな計画を立てました。
これなら、林道が閉鎖されていない限り、全線が舗装されているので、ブロンプトンを押し歩くような場所はなさそうです。
自分の記憶では、水ヶ森林道は尾根上の道で、ところどころで南アルプス方面が望めたと記憶しています。
唯一心配なのは、柳平集落から焼山峠、乙女高原までの登りです。
ルートラボで試算すると、距離4.2km、平均斜度4.6%、標高差221mと出ました。
これは以前経験した長野県須坂市の仙仁温泉から菅平高原の大笹街道の登り(距離8.8km、平均斜度7.1%、標高差634m:https://blogs.yahoo.co.jp/brobura/40890239.html)や、箱根東坂の三枚橋〜お玉ヶ池間(距離10km、平均斜度6.7%、標高差688m)と比べればましです。
大笹街道は1時間10分で登りましたから、その半分で、40分もみておけばよいだろうと考えました。
 
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そして持ち物です。
登山をするわけですから、相応の靴を履かねばなりません。
大菩薩峠に登ったときもそうでしたが、2時間以上の場合は登山靴が必要かもしれません。
今回はそれほどでもないと判断し、ランニングシューズにしました。
バイクで大弛峠を越えたときの経験から、夏でも寒いくらいの気温で、午後は天候が悪化しやすいと考えました。
だから、登山は午前中に切り上げ、午後も3時前には山を下る腹積もりでした。
それでも長袖、雨具を持ってゆくようにしました。
林道に関しては、走りまわっていたので迷うこともないと思いつつ、新しい道が出来ていたりすると困るので、一応自転車用のナビも装備します。
また山深い場所で、帰りの水ヶ森林道は地元の人くらいしか入らない場所ですから、熊鈴も装備しました。
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一応予約の際に栄和交通さんに電話を入れて、膝の上に載せられるので、折りたたみ自転車を持って乗車してもよいか尋ねたところ、登山の人たちは大きな荷物も持っているので、膝の上に収まればOKとのことでした。
また天候が悪い場合はキャンセルも可能とのことです。
ということで、前日に天候の心配はないことを確認したうえで、中央線方面の山へ行くときは必ずといってよいほど利用する、南武線、武蔵中原駅始発の443分立川行きに乗車するのでした。

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去年の夏のある日のこと。
教会帰りに小田急線に乗って町田へ向かいました。
もちろん、ブロンプトンですから渋谷から尾根伝いに一番近い小田急線の駅、東北沢からの乗車です。
町田はン十年前に市内にある学校に通っていましたから、よく知っています。
小田急線東口から出ると、むかしとあまり変わらない風景が広がっていました。
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正面に本屋さんの久美堂さん。
校則で、寄り道禁止だったもので、「セサミ堂」とか「すさみ堂」などと隠語で呼んでいましたっけ。
道草はだめでも、当時は小田急線の新原町田駅と横浜線の原町田駅と分かれていて、今のようにデッキでつながっていなかったから、必然的にマラソン通りと呼ばれる商店街を抜けてゆく必要があったのです。
沿道には有隣堂という横浜の老舗本屋さんが出張っていて、その後横浜線の駅が移転して連絡通路ができても、本屋さんに立ち寄る習慣はついていました。
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町田周囲には学校も多くて、それぞれ制服を着ている集団が、妙にけん制しあっていましたが、公立の学校は全国区で有名になるくらい校内暴力の嵐が吹き荒れていたのでした。
大学生になると、この近くに下宿している友だちがいて、家が遠かったものだから、部活の練習帰りによく飲みつぶれて泊めてもらいました。
二日酔いの頭痛を抱えたまま、一限に間に合うよう学校へ向かったのも、一度や二度ではありません。
お酒を断ってしまった今からでは想像もつきません。
また小田急線の東口に近い、その名もホテル新宿屋さんは、社会人になって、こちらに近い学校の添乗で朝が早い場合は、前泊のため何度か泊りました。
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町田ってちょっと変わった街なのです。
駅の周囲に市役所などの公共施設のまとまった地区、百貨店、古い商店街、飲み屋さん街、風俗街がそれぞれに存在して、その境が当時は畑や駐車場だったものだから、夜なんか闇の空間を隔てて各々がネオンサインで自己主張しているようで、まるで新宿の郊外版みたいでした。
これが東横線や新玉川・田園都市線沿線にミニ渋谷とか、郊外型渋谷みたいな街があるかといったら、絶対にありません。
武蔵小杉も、二子玉川も、溝の口も該当しませんでした。
最近になって二子玉はミニ渋谷っぽくなりましたが、あれは鉄道会社の戦略でしょう。
町田と比較されるのは立川かもしれませんが、町田の方が猥雑で埃っぽいところまでより新宿そっくりな感じだったのです。
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そんな町田にあって、小田急線の町田駅北西にある古本の高原書店さんが、きょうのお目当て。
自分が酒に呑まれて友だちの下宿で寝惚けていた時代の創業ですが、当時学校の近所に住んでいた狐狸庵先生とも交流があって、その名前だけは知っていました。
でも当時は絶版本とか古典とかに興味がなかったし、西洋哲学や芸術系の本を読んでもちんぷんかんぷんでさっぱり手応えがなかったので、行ったことはありませんでした。
その後、自分より若い直木賞作家がアルバイトしていたとかで、彼女の作品に登場するようになってから、町田駅北口からまほろ通り(読んでいないですけれど、作品の中で町田市はまほろ市になっているらしいのです)をまっすぐ行った先にある古本屋さんという認識に変わっていました。
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なぜ来たかというと、絶版になっているアウグスティヌスの『神の国』(服部英次郎・藤本雄三訳:岩波文庫)が全巻揃っていると日本の古本屋というサイトで検索したら出てきたからです。
アウグスティヌスの主著は『告白』とこの『神の国』ですが、後者は教文館の大型本か、服部先生の岩波文庫版か、入手できるのはほぼ二択です。
ただ前者は持ち歩きに適していないだけではなく、文庫本もですが全5巻でお高いのです。
本当は岩下壮一神父の『アウグスチヌス 神の国』(大思想文庫)も読んでみたいのですが、古本屋でも置いていないほど昔の本なので入手困難なのです。
『告白』を読み終えた後、どうしても『神の国』も読みたくなって、現実的には岩波文庫版の古本を買うしかないという結論になり、少し前からネットで検索していました。
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本当は北口から出れば一番近かったのでしょうけれど、小田急線の町田駅というのは、都県境になっている境川の左岸崖線と交差するように存在して、川に近いバスターミナル側の出口から出ると、坂を上り返さねばならないのです。
それに、グーグルマップは等高線が入っていないから、高原書店の位置は確認できても、崖線の上にあるのか下にあるのかさっぱりわかりません。
ということでJR横浜線の出口も含め、一番高所にある東口からおりて、小田急線の踏切を越えてから西へ向かいました。
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駅のすぐ北を線路と交差しているこの道は、通称「まちかい」と呼ばれる町田街道の旧道で、古い商店が軒を連ねる昔ながらの道だったのですが、最近はビルやマンションが立ち並んで、むかしの面影はありません。
道行く生徒さんも、ブレザーに軽そうな鞄、髪の毛も明るい色に染めていて、これまた昔と全然違います。
あの頃、男子は長ランにあたまは庇のような突起が出ていて、女子はセーラー服に聖子ちゃんカット、不良は髪の毛が明るいというよりは、ケバケバしい色をしていました。
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そんな想像をしながら駅を背に旧町田街道より一本南に並行しているまほろ通りをゆくと、あと1本で市役所から続く栄通りに出るという手前右側、少しだけ坂を降りかけた場所に、高原書店はありました。
ちょっと見えづらい位置にあるので、ウロウロしてしまいましたが、北口からなら300mでブロンプトンだと2分もかかりません。
鉄筋四階建ての、昭和の図書館みたいなつくりの建物です。
この位置なら、今みたいに建てこんでいない時代は、境川や市役所、その向こうに相模原台地が良く見えたかもしれません。
夕方などは丹沢の向こうに富士山がシルエットで頭を出していたかも。
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入口奥の僅かなスペースにブロンプトンを停めて、店内へGO!
と、入口の脇に岩波文庫の旧装丁版がごっそりあるではありませんか。
パラフィン紙にくるまれていて、学生鞄に詰め込むとこの包装が良く破れたものです。
ボンタン飴なんて呼んでいましたけど、とくに青帯を読みこなすのが文学少年の憧れでした。
こんな場所にあるから、絶版本はないだろうと思いきや、柳亭種彦の『紫田舎源氏』(「にせむらさきいなかげんじ」と呼びます。江戸時代に書きなおした、室町時代版源氏物語ですね)とか、ビョルンソンの『アルネ』(読書好き地理オタク青年の成長物語です−笑)があるね…ダジャレ。
何よりも、8月末までは全品2割引きって、なんてお財布に優しいのでしょう。
割引のことはホームページにも書いてありませんでした。
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さて、取りおきを頼んでおいた哲学・宗教コーナーのある2階へあがります。
階段まで平積みの本で溢れていて、年季の入った古本屋さんです。
うわ、第1巻を読みかけのままほったらかしている『正法眼蔵』が揃っているし、山川出版の世界宗教史叢書も揃っている…。
で、レジに行って名前をいうと、なんと箱に入ってビニールに包まれた『神の国』が出て参りました。
中を改めてから購入するか決めたいのですがというと、どうぞどうぞと気持ちよく包みをとってくださいました。
中は書き込みや線引きもなく、ほぼ読まれていません。
これも2割引きということで、購入を決めました。
 
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と、フロントバッグに入れたらパンパンに膨れてしまい、仕方なく輪行カバーやらその他のものをサドルバックに移して、さて町田駅からどう帰りましょう。
学校のときと同じく横浜線で菊名に出るか、小田急で登戸まで行って南武線に乗り換えて武蔵小杉に出るか…
どちらも座れないし、乗換駅にエスカレーターやエレベーターがついておらず、この荷物で重くなったブロンプトンをえっちらおっちらと抱えて階段を上り下りしなければなりません。
夏だからまだ日も高いし、家まで走って帰るかと思い、何十年振りかで学校の中を抜けました。
自分が通っていたころの校舎はすべて取り壊されていましたが、マラソン途中にクラスメイトのカップルが蒸発した(?)という都市伝説のあった、その名も「なかよし公園」は健在でした。
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町田市から川崎市の飛び地を抜け、鶴見川沿いに出て、そこからさらに山を越え、横浜川崎市境の尾根を走ること26kmを1時間50分弱で町田から自宅へ帰ったのでした。
町田から東横線沿線に出るには、恩田川〜鶴見川と川沿いをゆけば峠はありませんが、こちらは川が蛇行している分、距離はかなり伸びます。
それよりも、尾根筋のアップダウンを利用した方が早く走れるのは、小学生のころから自転車で走り回っていたので経験的に知っているのでした。
電車とバスを乗り継いでも、1時間半は確実にかかるので、運動もできたし、運賃も節約したし、まずまずのペースではないでしょうか。
それから一年経って、一昨日新宿の紀伊国屋書店をのぞいたところ、岩波文庫のコーナーに『神の国』が復刊しているのを発見してしまいました。
でも、かなり安く全5巻を入手できたし、一年間、神の国と地上の国についてあれこれ考えることが出来たし、これも縁だったと思うのでした。
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(十四橋)

旧東海道桑名宿から四日市宿へと向かう途中、富田の立場、現富田小学校前((5.004774, 136.650574))から旅を続けます。
これまで江戸から京へ向かう旅は、当初江戸から藤沢宿へ南下したほかは、南西へ北西へと振れはするものの、基本的に東から西へ向かう旅でした。
佐屋街道の津島付近から、再び南へ向かうことになり、絶えず太陽は進行方向に。

冨田小学校正門前から150m南で十四川(じゅうしがわ)と呼ばれる小さな川を、十四橋(35.003475,136.649877)で渡ります。

旧東海道から下流に向って550m、上流に向かって1,250m、合計1.8㎞に渡って川沿いにソメイヨシノがおよそ800本植えられています。
この桜は大正12年に地元で製網業を営む有力者たちによって植樹されたのがはじまりで、現在は桜の名所として有名になっています。
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(薬師寺)

 

十四橋からさらに150m南の左(西)側に、門前に忠魂碑の並ぶ薬師寺(35.002590,136.649110)を認めます。

由緒書きには、9世紀の初頭、この地に何をしても治癒しない難病が流行って人々が苦しんでいた最中、弘法大師が東国巡錫(史実では認められず)のおりに足を止め、当地で薬師如来を彫って開眼したところ、たちまち夕立の雲が晴れるが如く、皆の病が平癒したとあります。
するとこのお寺は真言宗なのかと思いきや、門には「南無阿弥陀仏」の文字があるので、浄土系ではないかと思われます。
これは、お寺の歴史が長いとよくあることで、途中様々な事情で宗派が変わっているケースでしょう。
事実、このお寺は1567年に織田方の武将滝川一益の伊勢攻略によって、焼失しています。
その際にご本尊は自ら寺の前の松の木の下に避難したとかで、人々の信仰をいっそう集めたと書かれています。
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(力石)
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(クランク部分)

 

薬師寺から280mさき、正面に力石が設置されている場所(35.000503, 136.647415)で、旧東海道はクランクしています。
特に表示はありませんが、これは四日市宿の鉤形と思われます。

そこから190m先の右側に茂福(もちぶく)神社の石柱が建っています(34.998743,136.646537)。

これは、14世紀末から15世紀にかけてこの地を治めていた朝倉盈豊(みつとよ)の居城(茂福城)があった場所です。
朝倉氏は越前の朝倉家の縁戚で、北勢四十八家という、この地を治める豪族のひとつでした。
薬師寺のところで前述した滝川一益の伊勢攻略により、謀殺されたと伝えられています。
茂福神社は盈豊の産土神(うぶしながみ)です。
産土神とは、個人の生前から死後までを守護する神のことで、氏神が血縁をもとにしているのに対し、こちらは地縁による信仰となります。
豪族がパッチワークのようにひしめいていたこの地域では、地域共同体の結束が固かったのでしょう。
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(茂福神社入口)
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(常夜灯のさきで米洗川を渡る)

 

その先で高架の県道下をくぐると、旧東海道の道幅はやや広くなります。
といっても中央線は無く、一車線の路地には変わりありません。
住宅街だった両側も、工場や倉庫が立ち並ぶようになります。

クランクから780mで米洗(よない)川という水路のような川を渡ります(34.994067,136.643532)。

60mほど下流側のお隣の橋は、こちらとうって変わって車が頻繁に往来していますが、これが国道1号線で、すぐ東側を並行して南下していることが確認できます。

自転車で走ったり、歩いたりしている際、このように川の上下流をそれぞれ観察できることが、車の旅ではできない魅力です。
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(かわらづの松)

 

米洗川を越した辺りから、旧東海道沿いに陶窯が目立つようになります。
これとて登り窯があるわけではなく、小さめの煙突と看板で確認できるきりなので、車を運転していたら見落としてしまうと思われます。
すぐお隣の国道1号線沿いには、陶器を売る店が並んでいるようですが、工場の方は、今となっては裏手になった旧東海道側に面しています。
これは、四日市名産萬古(ばんこ)焼の窯でしょう。
萬古焼はペタライトを原料とし、耐熱性に優れた特徴をもつので、急須、土鍋など、調理器具に重宝されています。
右手に比較的大きな撚糸工場が認められるすぐ手前の左側に、松が一本残っています(34.990525, 136.639246)。
樹齢200年とのことで、「かわらずの松」と名付けられ、大切にされているとのことですが、変わらずの松かと思いきや、この地が「川原須」との地名からこの名がついたとのオチなのでした。
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(国道1号線との合流点)
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(金場町交差点)

 

桑名宿の南で員弁川を渡って以来、ずっと国道1号線に並行してきた旧東海道ですが、かわらずの松から740m先で、S字カーブを描くようにして国道1号線に合流します(34.986035, 136.634392)。
ここでお腹が空いたので、珈琲かあさんという名の喫茶店に入って食事をしたことがあるのですが、こんにちはと声を掛けて入った途端、それまでの客とママさんの会話がぴたりとやんでしまいました。
ブロンプトンをつれている場合、畳んだ自転車を脇に置かせてもらっていいですか、と声を掛けることもあるので、よくあることなのですが、言葉の調子でよそ者どころか宇宙人が来たみたいに受け取られてしまうこともあります。
畳まれたブロンプトンに興味を持ってくれれば、まだ会話のしようがあるのですが、そうでない場合、車社会の田舎だと、真昼間でも折りたたみ自転車に乗って颯爽とあらわれる、言葉違いの客は、不審者そのものなのでしょうね。
でも、旧東海道沿いの場合は、歩いている人もふらりと入ってくるはずで、免疫があると思ったのですが、シーンとした店内で気まずいのでした。
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(海蔵川を前に左へ入ります)

 

合流点の280m先には、小さな石碑が建っています。
国道1号線に出てみて実感するのですが、かの「イチコク」もここまでくると上下2車線、ローカル国道の様相を呈しています。
これはもっと伊勢湾に近い東側に、名四国道と呼ばれる国道23号線が並行しており、こちらが物流のメインストリームになっているからです。
そちらは上下2車線で歩道もついておりますが、両側の大半は防音壁に囲まれており、自転車で走っても面白くないばかりか、マスクでもしない限り健康に良くない印象さえ受ける道なのでした。
しかし、国道1号線沿線も、東京近郊で見かけるような店ばかりで、ここが四日市であるという実感が湧きません。
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(多度神社)

 

広い道を走る場合は、やむを得ない場合を除いて左側を走るルールなので、国道1号線に300mさきの金場町交差点(34.983978,136.631997)で国道を渡り、左側歩道をゆきます。

金場町交差点から370m先、左手、多度神社(34.981191, 136.629626)の前で旧道は左手へと分かれます。

100m先で海蔵川の土手に突き当たります。

土手上には今は河川改修で消えてしまった三ツ谷の一里塚跡の碑(34.980321, 136.629116)があります。

2001年に設置された説明版は、2007年になるとかなり薄れており、2013年になると殆ど読めなくなっております。

すぐ上流に架かっている国道1号線の海蔵橋(34.980040, 136.628445)で海蔵川を渡ります。
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(一里塚跡碑)

 

橋上から下流方向を見ると、火力発電所の煙突が濛々と白煙を立ちのぼらせています。
子どもの頃、四日市市は、熊本、新潟の水俣病、富山のイタイイタイ病と並んで四大公害病のひとつ、四日市ぜんそくで有名でした。
石油化学コンビナートの排出する亜硫酸ガスによって引き起こされる、慢性閉そく性肺疾患で、喘息の発作を引き起こし、やがては肺気腫や心臓発作などを併発して死に至る病です。
被害も甚大で、子どもの死亡や乳幼児の死亡率の高さがクローズアップされていました。
当時は小児喘息というと、親の過保護によるぜいたく病みたいな認識を持っている人もたくさんいたのですが、ここの喘息はそんな生易しいものではありませんでした。
市内のある小学校では、乾布摩擦や重曹水でのうがいなどが義務付けられていたそうです。
いまこうして青い空を見ると、あの頃テレビで盛んに取り上げられていた、灰色に濁った空は幻のように思えます。
旧東海道の宿場で、現代の工業地帯と言えば、川崎宿とここ四日市宿になるのですが、どちらもその奥に古くからの大都市を抱えた、湾の中ほどの西側沿岸に、石油化学コンビナートが立ち並んでいるのは、やはり地政学的な要因が働いているのだろうと思いました。
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(海蔵橋)

 

次回は海蔵橋から四日市宿の中へと入ってゆきます。
旧東海道ルート図(弥富駅入口〜(近鉄)四日市駅入口(佐屋街道3/3
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先日、忘れものに気付かぬまま、ブロンプトンに跨って横浜市内の自宅を出て、都内の原宿駅付近まできてそれに気がつきました。
ブロンプトンってけっこう早いので、距離にもよりますが、バスや電車を乗り継ぐ場合の1.5倍くらいの時間で走ってしまうので、気づくのが遅れると取り返し、じゃなかった退き返し不能な状況になっていることも、ままあるのです。
畢竟、のっぴきならぬってやつです。
この日に忘れたのはブロンプトン専用の輪行カバー。
予定では渋谷で用事を済ませた後に、早稲田まで走って帰りは副都心線−東横線で思いきり寝て帰ってこようと思っていました。
それが、渋谷を出て原宿付近で「どうも鞄の中がすかすかだ」と気がついたところから、「帰りは電車に乗れない、どうしよう」となってしまったわけです。
昨夜寝苦しくて夜中に目が覚めてしまい、そのあと眠れなくなったものですから、家を出る時もボーッとして、つい玄関先に置き忘れてしまったようなのです。
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しかし、こんなときに自分を責めても何の得にもなりません。
「ええい、ままよ」とばかりにそのまま北へ向かう私。
日曜日ということもあり、道は空いているし時間もたっぷりあるからと思ってはみたものの、家からここまで来る間、ずっと背中に感じていた追い風が、ここにきて強くなってきたかと感じるほどに、時折逆風となって前から吹いてきます。
関東地方は晩春から初秋にかけては南風の日が圧倒的に多く、自分のように横浜から都心方面に向かうのには、恵みの追い風になるのですが、「往きはよいよい帰りは…」で、帰路はその分向かい風に晒されます。
しかも、早朝は天候が比較的安定していて、追い風も比較的穏やかなのですが、太陽が昇って9時から10時近くになると、随時というわけではないにしろ、都会の名物ビル風等も含めて瞬間的な強風に行く手を阻まれることも増えてまいります。
秋から春にかけての北風優勢の季節ならば、「早起きして脂肪燃焼だ」とばかりに、北風を切るように都心へ向かい、帰りはその北風を味方につけて帰宅することができるのですが、逆パターンは心理的に負担が大きいのです。
案の定、帰路は時折びゅうびゅうと吹く逆風に閉口しながら、「ま、人生こんなものさ」と思いつつ、風と喧嘩しないように、あるときは立ち止まり、またあるときは細い路地の家や軒塀を風よけにしながら、お昼も食べて帰宅したのは午後1時。
眠かったので、シャワーを浴びた後30分ほど、電車内でとれなかった午睡をしました。
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振り返ると、小学生のころから忘れ物の多い子どもでした。
宿題みたいな確信犯的忘れものではなく、忘れないように前の日に玄関先に置いておいたのに、それをわざわざ避けて家から出てしまうとか(笑)
あれだけ好きなスキー旅行なのに、現地で荷物を開いたらジャケットとグローブを家に置いてきたのに気付き、しかたなく宿屋のオヤジさんの作業用を借りてバッジテストを受けたら、それまで出せなかった最高得点を叩き出したりしたこともありました。
社会人になって4年目くらいに、一度だけですがノーネクタイの上に背広とコートを着て家を出て、電車の中で気がついて慌ててキオスクでお葬式用のネクタイを購入して出社したこともあります。
そういう子どもには「なんて間抜けなの」などとは叱らず、どうしたら忘れ物を防止できるか一緒に考えてあげるのが、教育的セオリーなのですが、そういう大人ってなかなかいません。
 
こんな私ですから、ブロンプトンを買った当初は忘れ物が多く、仕方なしに玄関先に次のような張り紙を貼っておりました。
「ブロンプトンで出かける際に必要なもの
・ライト(当初はハンドルへの着脱式を使用していたため)
・鍵
・輪行カバー
・財布
・携帯電話
・腕時計
指さし確認して、はいいってらっしゃい」
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来客には見えないように、内壁に貼っておいたのですが、あるとき家にあがったお客さんの帰り際に読まれてしまい、笑われてしまいました。
まるで駅員さんみたいだって。
でも、自分も高齢化してゆくなかで、仕事以外でも確認って大事だと思うのです。
たとえば、車は運転する前に一定の点検を義務付けています。
しかし、自分も含めてあれを律義に毎回行っている人って、どれくらいいるだろうと思うのです。
勉強なども同じで、自習にしても授業にしても、学習前に教科書の目次にさっと目を通す習慣をつけているひとは、記憶の引き出しが多くなり、思い出しやすくなるのだそうです。
目次をめくるのが面倒くさい人は、インデックスを自分でつけて、パラパラっと見るだけでも全然違いますよ。
 
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どれも、人間は忘れやすい生き物であるということを前提にしているのだと思うのです。
しかし、頭ごなしに「なんで忘れ物ばかりしているの!」と子どもに対して怒鳴る親は、その前提を無視するか、自分のことは棚に上げるかして「忘れ物をする人間は集中力が足りないのだ」と「べき論」を基本にしているのでしょう。
そういう人が年をとって、物忘れがひどくなったときに、年齢のせいにするのを聞くたびに、表面では無関心を装いながら、いやいや、人間は忘れることによって、ひとや自分をゆるすことのできる動物なのだし、だからこそ、自分が忘れっぽいことを真摯に受け止め、できる対策はないか、なにを諦めねばならないかを平静に寄りわけることだと内心で思っている次第です。
ということで、鉄道を併用することが大前提のブロンプトンは、自転車に乗って家をでるときに、交通系ICカード(もしくは同機能のついた携帯電話)、輪行カバー、ワイヤーロック錠は必須です。
そして、出先でのパンクが心配であれば、チューブ、タイヤレバー、ポンプ、使い捨てビニール手袋、レンチ等の工具も持ってゆきましょう。
都会を走る場合なら、自転車屋さんがありますから、最低でもチューブを持っていれば何とかなります。
備えを忘れないようにするには、格好悪くても確認を繰り返すこと。
これしかないと思っています。
ああ、神さま。
こんな間抜けな私でも、あなたの平和の道具としてお使いいただけるのなら本望です(^ ^;)
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新入社員になって、研修所に入り、そこの卒業旅行みたいな日帰りの研修旅行が熱海でした。

バブルまっただ中、熱海の温泉街は小グループの慰安旅行や褒賞旅行で潤ってはいたものの、このあといつかは必ずやってくるであろう不遇の時代を予感して、戦々恐々としているといった体でした。

なぜそんな風になっていたかというと、熱海の街自体が既に潮の引くような観光客からそっぽを向かれた時代を経てきていたからです。

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その昔、新婚旅行といえば箱根か熱海、伊豆という時代がありました。

1950年代といいますから、終戦後10年ほどが経とうとしたころです。

国鉄がいわゆる湘南電車(1950年)を登場させたことにより、旅が特権階級のものではなく、庶民に広がり始め、近場で温暖で温泉もある熱海がハネムーンの定番になったそうです。

もちろん、新幹線も高速道路もない時代のお話です。

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当時の社会状況からいって、仕事を休んで旅行できるのはせいぜい1泊か2泊だったのでしょう。

結婚式をあげるとそのまま電車に乗り、熱海に着いた後バスで観光、宿に入って初夜というのがスケジュールだったみたいです。

その後、経済的にゆたかになってゆくにつれ、新婚旅行は雲仙、霧島などの九州、そしてハワイへと移ってゆき、熱海は小津安二郎の「東京物語」で描写されたような、くわえ煙草で徹マン(徹夜マージャン)を打つような男性客がくる、場末の歓楽街となってゆくのでした。

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この研修の際、かの時代に熱海駅前に停まった観光バスの車内を映したモノクロ写真を見せられましたが、マイクロバスのような背もたれの低い2人掛けのシートが通路を挟んで並んでおり、そこに判で押したようなカップルが、これまた並んで座っているのでした。

男性は濃い色の背広に地味なネクタイ、頭は短髪だけれどポマードべったりで、黒縁の眼鏡をかけている人がたくさんいます。

そして女性はといえば、みんな帽子からワンピース、ハンドバッグまでミッチー(今の皇后さまでいらっしゃいます)みたいなファッションです。

それが左に男性、右に女性と最後列までこのパターン。

さらにみんな無表情で前を見ていて、お互いに会話を交わしているようなカップルは一組もおりません。

80年代のサイケティックなレコードジャケットみたい。

まるでロボットのようで、外国人じゃなくても薄気味悪い印象でした。

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何軒かの旅館を班別に見学した後、数百人が一堂に会して宴会ができるという、超巨大バンケットで研修成果を発表しました。

そのとき、そこの支配人が、京浜工業地帯の某大型工場の従業員が揃ってここで社長の盃を受けたことを、誇らしげに語っていたのですが、そのような時代はもはや終わりかけているということを、誰もが悟っている状況でした。

他班が熱海の振興策について発表する中で、口が上手そうだから何か喋れといわれて壇上に押し出されました。

仕方ないので、その頃読んでいた宮本常一先生の受け売りで、「いずれハードの時代は終焉するわけですから、豪華で煌びやかな設備に投資するのではなく、熱海に来なければ体験できない何かを見つけていったらいかがでしょう。」などと出まかせを言ってその場をしのぎました。

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大学出たばかりのペイペイが、大旅館の経営者を前にして熱海再興論をぶちあげるなんて、100年早いと内心では思っていましたが、バブルの時代ですから致し方ありません。

いま、あの頃に巡った大型旅館は廃墟になったあと更地になり、その後温泉付きマンションに変貌したり、格安旅館グループに買収されたりして、ほとんど姿を消してしまいました。

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ただ、あのとき適当にでまかせで言った、ソフトで勝負した方がよいという考えは、今も変わっていません。

たとえば、定年退職して悠々自適なご老人が、熱海の温泉&介護付きマンションには大勢いらっしゃるとききます。

かりに大学を定年退官したような著名な先生が、たとえば先日に例示した山田晶先生の「アウグスティヌス講話」みたいな形で、月1回×半年〜1年で西洋哲学について優しく解説をしてくれる集まりをもったらどうでしょう。

西洋哲学で気に入らなかったら、京都学派でも、源氏物語でも何でも良いです。

そんなアカデミックなものでなくとも、外国語会話の入門編やデッサンの基礎とか、木管楽器の音の出し方とか、草花の見分け方、一人暮らしの料理とか、何でも良いのです。

食事中やお風呂の中でも雑談のなかで質問ができて、宿泊・講座料込みで15,000円×月数なら、主催側がちゃんと1年なり半年のプログラムを組めば、本当に好きな人は集まりそうです。

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難しいのは先生選びかもしれません。

「俺様が教えてやる」という態度の教師は、現役時代もそうでしたでしょうが、生徒からの評判が悪いのです。

わたしもこれこれを教える代わりに、あなたたちからもなにそれを学びましょう(教育とは元来そのようなものです)という先生がいらっしゃると適任なのですが、そういう人は謙虚だから引退してしまうと周りの人が促しても出てこようとはしません。

信仰でもあって、使命感がある場合は別として、大人同士の学び合い、育ち合いというのは学校よりも難しいとききました。

しかし、人が一生かけて学ぶのは、その謙虚さだと私は思います。

周囲の人間が辟易としているのに、滔々と知識の押し売りをするのは、本人の自己満足でしかありませんから。

 
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そんなことをうすぼんやりと考えながら、海の見える伊豆山温泉のリゾートホテルで、読書していました。

あの頃には気づきませんでしたが、熱海の温泉は塩分が多く含まれているみたいで、出た後に背中がヒリヒリと痛むのです。

冬ならば、保温効果があって身もしまるのかもしれません。

夕食は、熱海親水公園の裏手にある、昔からの歓楽街へブロンプトンでゆきました。

熱海駅までは山腹を平行移動、そこからは海岸に向って坂を下ります。

夕食に選んだのは、路地からさらに奥に入った場所にある、雨風食堂さんです。

https://tabelog.com/shizuoka/A2205/A220502/22029001/

これで「あまから」食堂と読ませるのですね。

お腹が空いているのを察して、ご飯を大盛にしてくれたり、安価で焼き魚を追加してくれたりと、とても気持ちの良い食堂なのでした。

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さて、満腹になったところで、ホテルへ引き上げねばなりません。

熱海駅まで戻ればホテルの無料シャトルバスがあるのですが、ここは海岸沿いに近く、駅までの標高差は70mもあります。

そこは地理オタクのわたくしめが、何とかブロンプトンで駅までのぼる方法を考えます。

ひとつは、今いる場所から駅に向かって斜面を斜め右方向へ登るルート。

もうひとつは、歓楽街の中心を流れる糸川に沿って遡上し、来宮駅方面へ向かってから途中で右へ進路を変えて、斜面をトラバースする方法です。

どちらも山登りでは常套の高度稼ぎ手段ですが、ルートラボで確認すると後者の方が平均斜度は3.7%で押し歩きせずにのぼれそうなのでした。

ということで実験してみましたが、1か所、スタンディングしないとのぼれない短い急坂があったものの、何とか熱海駅へ滑り込むことができました。

しかし、汗をかいてしまい、ホテルに戻ったらもういちど大浴場へいって、身体をヒリヒリさせねばならないのでした。

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