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旧東海道と伊勢街道の分岐点、日永の追分(34.935581, 136.598171)から石薬師宿方面へと向かいます。
210mさきで、四日市あすなろう鉄道内部線を踏切で渡ります。
軌間(レールの間の)幅に注目です。
すぐ左脇に追分駅(34.933935, 136.596100)を認めます。
一つ目の路地を左折し、ここからは内部線を左に見ながら南下します。
住宅街のなかを進むこと600m、右手に浄土真宗高田派の大蓮寺(34.930166, 136.590658)、黄檗宗の観音寺(34.929871,136.590585)と続いた後に、路地の奥に見えるのが小古曽神社(34.929889, 136.589088)です。
創建年代は不明ながら、延喜式に名前があるため、平安時代からあるそうです。
ここでは粥試しの神事が行われています。
粥試しとは、お粥を盛った器を放置し、残った米粒の具合で、翌年の稲作を占うというもの。
 
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(追分駅脇で踏切を渡る)
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(大蓮寺)

その先で旧東海道はクランクします。
正面に見えるのは、やはり真宗高田派の願誓寺(34.929352, 136.588970)。
あれ、また高田派のお寺だと思ったら、大蓮寺も願誓寺も室町時代後期に、真慧(しんね)上人により真言宗から改宗しています。
真慧(1434-1512)は、下野国高田(いまの栃木県真岡市)にある高田専修寺の出身です。
高田専修寺は、鎌倉時代の中期にあたる1225年、親鸞聖人が夢のお告げを得て、専修念仏の根本道場を開いたのがはじまりです。
高田派の第10世である真慧は、のちにここより南の伊勢国一身田に無量寿院を建立ました。
その後の戦国時代に下野の専修寺が兵火によって焼かれたことから、僧侶や寺宝を移し、時の後土御門天皇による綸旨を得て、無量寿院を本山専修寺と改め、以降高田派の本山になっているそうです。
真宗高田派の総本山は伊勢にあるとはなんとなく知っていましたが、その名前は真岡市の地名だったとは全く知りませんでした。
高田は真岡市の中心部より南へ、電車の駅でいうと、真岡駅とJR水戸線新治駅の中間くらいに位置します。
なお、その場所にもとの専修寺が本寺専修寺として江戸時代に再興されています。
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(小古曽三丁目交差点で県道と交差する)

願誓寺から400m南へ行くと、小古曽三丁目交差点(34.926181, 136.586636)で県道に出ます。
左手の大きな病院の建物の陰で見えませんが、この交差点のすぐ東に内部駅があります。
構内には車両基地というにはあまりにもかわいらしい車庫があり、かつてはパステルカラーに塗られた小さな電車が並んでいました。
ナローゲージの電車って、模型と本物のあいの子みたいです。
四日市からここまでは鉄道が並走していたので、いつ雨が降ってきても四日市方面へ引き返すことができました。
しかし、ここから先は鉄道は並行しておりません。
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いや、正確にいえば1.5㎞左手の鈴鹿川沿いにJR関西本線が走っていますが、ブロンプトンならともかく、駅まで歩きではかなり遠いと思われます。
また、四日市より南の関西本線は、平日の昼間なら毎時3本、朝夕なら毎時4〜5本程度の列車運行です。
つまり、駅までがんばってたどりついても、最悪20分間電車が来ないということになります。
もうひとつは、国道1号線上を走る三重交通の路線バスです。
四日市平田町線という路線なのですが、こちらはさらに運行間隔が開いて、1時間に1本、昼間は2時間に1本という間隔です。
金谷宿から日坂宿にかけての、並走公共交通機関がほぼ皆無という状況よりは、あるだけましですが、旧東海道に隣接している鉄道駅は、2つ先の庄野宿の手前、加佐登(かさど)駅までありませんので、注意しましょう。
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(内部橋は左側歩道を渡る)
 
旧東海道は県道には入らず、そのまま直進し内部川にぶつかります。
昔はここに、内部橋が架かっていました。
現代はここで左折して60m下流の国道1号線内部橋(34.922750, 136.583230)を渡ります。
現行の内部橋の南詰は、川沿いの道がアンダーパスになって交差しており、京に向かって右側の歩道を渡ってしまうと、その先で旧東海道にアクセスしづらいので、横断歩道が無くて面倒くさいのですが、北詰めの信号で国道を渡ってから右折して橋を渡りましょう。
歩いているときは橋の左側の歩道が工事中で潰されていて、右の歩道で橋を渡ってしまい、南詰でぐるぐる回ったあげく、次の信号まで行ってから国道を渡って、戻ってくる羽目になりました。
歩いていても、自転車でも同じことなのですが、国道のような大幹線道路と橋には要注意です。
内部川は鈴鹿山脈の鎌ヶ岳(標高1,161m)を水源とする1級河川で、源流部の宮妻峡は、江戸時代に伊勢菰野藩の歴代藩主がモミジ以外の樹木を除去していたとかで、秋の今頃は真っ赤になるそうです。
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(下から見た感じでは、丘が低いので難所とは思えません)
 
橋を渡ってから90mさきの路地を斜め左に入れば、旧東海道に復帰です(34.921646, 136.582103)。
国道から路地へ入ったところから300mで、旧東海道は右折、左折とまたもやクランクを繰り返します。
クランクの後、小高い丘が目の前に立ちはだかり、急に登坂に差し掛かります。
これが杖衝坂(34.917722, 136.579914)です。
古事記の記述によれば、111年、伊吹山の神との戦いに敗れた日本武尊(やまとたけるのみこと)が、病に冒されながら剣を杖代わりにしてこの坂を登り、その際に、「吾が足三重の勾りなして甚く疲れたり」(私の足は三重に曲がってしまったようになり、とても疲れた)と嘆いたとあるそうです。
これが、現在の三重県の名前の由来です。
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脚が三重に曲がるって、普通にしゃがめばそうなりますがな。
日本武尊というと、これまでの東海道上では勇ましい話が多かったのですが、この坂ではかなり弱っている姿が浮かびます。
なお、この坂の上にある血塚社(34.917009, 136.579302)という何やらおどろおどろしい名前のお社は、日本武尊の血で染まった石を集めて祀っているということです。
あれ、転んで怪我でもしたのでしょうか。
怪我と云えば、のちの世のこの坂で松尾芭蕉があまりの急こう配のために、馬の鞍ともども落馬するという事故に遭いまして、「歩行(かち)ならば杖つき坂を落馬かな」という句を詠んでいます。
江戸方向から大阪方面へ向かっているところだったということですから、登り坂を尻もちをつくように後ろへひっくり帰ったのでしょう。
「歩行ならば・・・」というあたり、クリント・イーストウッドばりに、「こんちくしょうめぇ」と、お尻を押さえながら鞍を蹴っている姿を想像してしまいます。
 
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(斜度はあるものの、長さは200mちょっとの坂です)

なお坂の途中に大日堂があり、その上には弘法の井戸があります。
例によって、杖でつついたらというやつです。
坂自体は200mちょっとですし、「箱根峠、鈴鹿峠に次ぐ難所」などといわれても、それこそ金谷坂や日坂のように、もっと手ごわい坂はたくさんありました。
思うに、山がちの場所でアップダウンが連続するような場所よりも、この杖衝坂のように、平坦な道が延々と続いた後に現れる坂の方が、昔の旅人にとってはきつかったのではないでしょうか。
思い返してみると、池鯉鮒宿から鳴海宿にかけての丘陵地帯を抜けて以来、濃尾平野を突っ切ってここまでくる間に、坂らしい坂はありませんでした。
江戸をたって、品川、保土ヶ谷と平坦な場所を通り、最初の難所である権太坂を登り切った先の、品濃一里塚付近に投げ込み塚跡があったのを思い出しました。
日本武尊も長旅の疲れがたまっていて、ここで力尽きたのかもしれません。
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次回はこの杖衝坂上の血塚社(34.917009, 136.579302)前から続けたいと思います。
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旧東海道ルート図(近鉄四日市駅入口〜井田川駅前)


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山派と海派

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海辺に住むのと山の辺に暮らすのと、どちらが好きかという話を知り合いとしていました。
よく海は母親や女性に喩えられ、対する山は男性的で父親に喩えられます。
だからかどうか分かりませんが、海の民というとのんびりしていて広やかな心を持つ人を想像し、山の民というと、頑固で辛抱強く信仰に厚いというイメージがあります。
あくまでもイメージで実際には人それぞれだとは思いますが。
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小さい頃、鎌倉の家はすぐ裏が山で、子どもの足で海岸まで歩いて20分位でした。
だから、子どもの頃の原風景としては海も山も両方あります。
海は夏の間しか入れませんでしたけれど、山は年がら年中入っていましたから、親しみの深さはどちらかといえば、山の方に傾きます。
暑いのが苦手な自分の場合、夏の過ごしやすさという点からいうと、暑い夏は涼を求めて標高の高い山の避暑地へゆくのがステイタスでした。
鎌倉の山だって麓の朝晩は涼しく、それは海辺も同様だということを、肌で知っていました。
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景色は、地平(水平)の広がりという点でいえば、山は海にはかないません。
一日中見ていても飽きないのはどちらかと問われれば…難しいですね。
海も季節によって、天候によって、時間帯によって表情を著しく変えますが、変化の多彩さでいえば山の方が豊かだと思います。
食べ物は、それはもう、大人になったら海の幸の方に食指が動きます。
こうして考えると、甲乙つけがたいですね。
旅行会社のお客さんでも、ハワイとかタヒチに行く人と、アルプスに行く人は一緒ではなかったと思います。
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子どもの頃に、夏の海で泳いでいるとき、波間に見える沖合をゆく船など眺めては童謡の「海」とか「我は海の子」の「行ってみたいなよその国」、「いで大船を乗り出して、我は拾わん海の富」なんて歌詞を口ずさんでいましたから、外国への憧れを育んだのは海だと思います。
のちに大きくなって、まだ学生の海外旅行が一般的でなかったのに、独りで平気な顔をして海外へ旅に出たのも、小さいときに海の近い場所で過ごしたことがあったからというのが大きいと思います。
海岸へ出れば、いつも水平線の向こうを想像していましたから。
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これに対して山はどうかといいますと、山もまた「あの山の向こうには何があるのだろう」という想像力ははたらきます。
けれども山の場合、向こうよりも上の方に関心が行くことのほうが、多かったように思います。
つまり、水平方向の海に対して垂直方向へ視点が向かうというか。
たとえば「あの高い山に登ったらどんな風に空や景色が開けるのだろう」というような塩梅です。
のちに哲学や神学に興味をもったのは、子どもの頃から山登りやスキーをしていて、山に親しんでいたことが影響しているように今をもって感じます。
子ども心に、「天のいと高きところ」に少しでも近づいたような感覚がありましたから。
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視線や思いが遠く彼方へ広がりをもって向かうのか、果てしなく上方へと向かうのか。
結局は心が人間を超えたものを求めているような気がしてなりません。

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北陸新幹線がまだ長野行新幹線だったころ、ブロンプトンをつれてあさま号に何度か乗車しました。
2017年に北陸新幹線を走るE2系電車は全廃されましたが、まだ東北・上越新幹線での運用は続いていますので、レポートしたいと思います。
 
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「あさま」という特急の名前は、信越線時代から大好きでした。
といっても、貧乏だったのでスキーに行く際には急行の「信州」とか併結されて湯田中や妙高高原までゆく「志賀」「妙高」などしか利用できませんでした。
また、今の北陸新幹線もそうですが、長野止まりの特急「あさま」や急行「信州」は、わりと指定席が楽に取れるのに、それよりも北へゆく特急「白山」急行「よねやま」などは一日一便しかなくて、週末やお盆、年末年始などは発売開始時間に予約を入れてもまず座席が取れない列車の筆頭でした。
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そして信越線といえば横川・軽井沢間の粘着運転が特徴でした。
横川で電気機関車をつないだり切り離したりする間に、峠のかまめし窓から購入するのも風情がありました。
この区間は登りも下りもゆっくりと走り、すぎるとまた軽快に飛ばすという特徴が、旅にリズムを与えていたような気がします。
東海道本線が小田原〜熱海を境に東と西では雰囲気が違うように、信越線の列車は碓氷峠を境に車内の空気が変化しました。
夏などは窓を開けていましたから、碓氷峠を越えたら寒くて窓を閉めたほどです。
今では軽井沢だろうが長野だろうが、新幹線でスーツと到着してしまい、信州に来た!という実感が湧きません。
 
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さて、長野行新幹線に使用されていたJR東日本のE2系はN編成と呼ばれる8両編成で、ほぼ各車両のどちらかのデッキには、荷物置き場を備えていました。
ブロンプトンだとたたんで立ててもまだ上と横に空間があります。
一段で2台、上下段併せて4台といったところでしょうか。
高さ方向の余裕があるので、和田サイクルさんの取っ手を着けたままでも収納可能です。
以前グーワタナベさんにお願いして作った、布製の小型縦長バッグを着けたままでも収納できます。
奥まで入れましたら、シートポストをめいっぱい下げて、新幹線走行中にブロンプトンが転がらないようにブレーキをかけておきましょう。
このあたり、ブロンプトンを持っていない人にはわかりにくいことかと思われます。
なお、通常は前を奥にして収納すると思いますが、その場合にはテールライト、或いは後ろの反射板が、下の段なら滑り止め、上の段なら鍵をからませた金属製のバーの部分と干渉しますから注意してください。
私は収納する際にぶつけて割ってしまいました。
 
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ただ、この荷物置き場にブロンプトンを置くには注意が必要です。
まず、そんなことはないでしょうけれど、鍵をかけておかないと途中で他人が持って下車しても、座席で居眠りしていたら気がつきません。
これは、常に持ち歩いているワイヤーロック錠を手前のバーの部分にまわして鍵をかけておけばOKです。
そんなことする人は、この自転車が中古市場で高く売れることを知っている人だと思いますが、そこまで知っているのならブロンプトンにはシリアルナンバーがあって、フレームに打刻されていることも知っているでしょうから、盗品かどうかはチェックされればすぐに分かってしまうことも理解しているでしょう。
 
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もうひとつは、途中駅から乗車する場合、このスペースが既に荷物で埋まってしまっている可能性があるということです。
長野までの北陸新幹線の場合、下り列車なら上野や大宮から乗車するよりも始発の東京駅から、それもお盆など繁忙期であれば、列車が入線する10分位前にホームに行って荷物置き場のあるドアの列に並んでいれば、確実にこの場所に収納できます。
また、上り列車の場合、長野駅始発の列車に長野から乗るように旅程を立てておけば良いわけです。
いま北陸新幹線からはE2系は引退して、すべてE7系になっています。
このブログを読まれている方には教えておきますが、E7系の場合は「偶数車両の東京よりドア口を入ったところに荷物置き場はある」と覚えておきましょう。
この荷物置き場に鍵をかけてブロンプトンを置く事ができるのなら、座席はどこでもよいわけです。
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さて、上記のような旅程が組めず、荷物置き場への収納が期待できない場合です。
これまで通り、壁を背にした車両の最後列、指定席であれば3列のABCではなく2列のDE側、しかもE席を確保するのがベストです。
実際にこの場所にブロンプトンを置いてみたところ、E2系は東海道新幹線のN700系のようにテーブル部分が跳ね上がらないものの、取っ手を外してたたんだ状態であれば、2台は確実に置く事ができます。
また3列側でも後ろが壁であれば、横2台縦1台と合計3台置く事も可能です。
(但し、リクライニングをしにくくなるかもしれません)
ここで注意しなければならないのは、東海道新幹線以外の新幹線は、列車の運転頻度もぐっと少なく、また車両も16両編成ではなく1012両が基本(この時代のE2系あさまは8両)ですから、その席を確保できる確率はぐっと下がります。
駅ネットなどで発売直後に確保してしまえばよいのですが、ブロンプトンをつれての場合天候のこともあって早々に指定席を押さえることができない場合も多いと思います。
 
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では座席の前はどうでしょう。
E2系も足元には余裕がありますが、前の人がリクライニングを目いっぱいしてきたら、座席の上に体育座りになってしまいます。
通路に置いてみますと、人が通るスペースはちゃんと残ります。
北陸新幹線の長野〜東京間は、ワゴンによる車内販売は2018年現在もありませんので、混雑期でなければこの場所でも大丈夫かと思われます。
なお、長野より先へ向かう「はくたか」「かがやき」などの列車はワゴンによる車内販売を行っていますので、通路に置くという手は使えません。
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さて、最後にいちばん気になる網棚にのせるという作戦ですが、E2系に関しては可能です。
JR東海のN700系ほどではありませんが、奥行きはじゅうぶんあります。
写真で見ると、客席側へかなり出ているようにも見えますが、ほかに乗っている方に不安をおぼえさせるようなものでもありません。
なお、網棚に置く場合はタイヤ側を奥に、ハンドル側を上にというのは東海道新幹線の場合と同じです。
このブログの写真では、ハンドル側を下にしてしまったために、少し不安定に見えてしまいますが、実際は屋根の部分が迫っているので、「はまっている」という感じになります。
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信州は東京からほど近く、善光寺平や安曇野など、平らで自転車に乗るのに適した場所もあります。
また山国の割には交通網も発達している方ですので、ブロンプトンをつれていって走るのには適した場所です。
しなの鉄道をはじめ、長野電鉄、上田交通など、沿線散歩もできます。
そして何といっても温泉がたくさん湧いています。
北陸新幹線のうち長野止まりの列車を利用して、季節折々のブロンプトンをつれた旅ができるので、今度はE7系についてのレポートもしてみたいと思っています。
E2系についていえば、上越新幹線、東北新幹線ではまだ現役ですから、こちらの新幹線を利用する時の参考としてみてください。
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お米屋さんの看板。
ごはん離れを危惧してのことでしょうか。
同じ面積の土地から収穫できる穀物で、たくさんの人たちを食べさせようとしたら、麦より米のほうが断然効率がよいとききました。
ただ、おかずや副食もバラエティに富んでいる現在、お米ばかりという家も少なくなったのでしょうね。

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2007年には旅館の看板がありました。
しかし、その時点でも営業はしていなかったようです。

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袋井丸凧を制作している家の前には、ギャラリーがありました。
丸凧って制作も揚げるのも難しそうですね。

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「御料牓示杭」とは、宿場の境界を表しています。
つまり、ここが袋井宿の西端になります。

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旧東海道に面している袋井東小学校も、ど「真ん中東」を名乗っていました。
実はほかに南小学校と北小学校もあるのですが、そちらの校門にはこのような表札はかかっていないようです。

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こんな風に大きな回収ボックスを置いてもらえると、ありがたいです。
ただ、最近は新聞や雑誌を読む人も減ったので、回収率はよくても回収量そのものが落ちているのかもしれません。
新聞や雑誌をひもで縛ってという光景も、あまり見なくなりました。

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たばこやさんですが、「御食事処」の表示もあるのをみると、ここは昔ドライブインだったようです。
手前に古そうなガソリンスタンドもありましたし。

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三ヶ野台へのぼった所にある公会堂(老人憩いの家)には、季節が違っても花が絶えないのでした。
きっと熱心に世話をしている方がいらっしゃるのだと思います。

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この辺りでは歴史のある磐田グランドホテル。
最近「グランドホテル」という名前を見かけなくなりつつあります。
旅行会社の人はなんでも縮めて呼ぶものだから、伊東グランドホテルは「いとぐら」、焼津グランドホテルは「やいぐら」、御前崎グランドホテルは・・・。
でも、磐田グランドホテルは浜松でご紹介した高柳健次郎博士のお弟子さんが起した、浜松ホトニクスという光学系の電子機器メーカーが親会社なのです。

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懐かしい。
つんつんツノダのテーユーゴーですね。
一定の年代以上の方は、Tのことを{ティ」ではなく「テー」と発音します。
あれは、英語の教科書か何かに振り仮名がふってあったのでしょうか。
Dを「ディ」ではなく「デー」と伸ばすのといっしょです。
昭和のころは自動車工場の看板に「○○ボデー」とカタカナ表記されていました。
カタカナを振っておぼえると、FもVも上唇が下唇の前にゆかないし、RとかTHの舌の使い方も表現できません。
自分のころは、発音記号を学びました。

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裸祭の練りできまりを守らない人がいるんだ・・・。
早太郎の狒々退治伝説の神社なのに。

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結構な数の折釘です。

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町屋をデザインした旅館かと思いきや、予備校でした。
最初に見たときは、予備校の建物の軒先を和菓子屋さんが使っているのかとも勘違いしました。
街並みに溶け込むようにという意味があるのかもしれませんが、風景論からいうとどうなのかなと思います。

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少し引っ込んだ場所にある慈恩寺が遠江四十九薬師霊場第49番札所と、遠州三十三観音霊場第19番札所なので御朱印をもらいにきた人たちでしょう。
話には聞いていましたが、バスで巡礼している人たちを旧東海道でみたのははじめてです。







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横浜の元町から南へ、山手隧道をくぐってすぐ左手の旧道を入り、500m先の左側に日蓮宗妙香寺はあります。
入口の右には「君が代発祥の地」の碑があります。
今日はこのお寺について書いてみましょう。
もともとは弘法大師が創建した東海寺という名のお寺でしたが、のちに日蓮宗に改宗しました。
 
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ときは1869年(明治2年)
鹿児島湾に停泊中の英国軍艦から聞こえてくる軍楽隊の演奏に感銘を受けた薩摩藩主島津久光が、薩摩にも軍楽隊を設けようと決意したことがお話の始まりです。
島津久光といえば、その7年前(1862年)に横浜の生麦で、自らの行列に馬で乗り入れてしまったイギリス人を無礼討ちにして、翌年の薩英戦争を引き起こした張本人です。
このころは維新も成就し、薩摩藩内では凱旋した下級士族との緊張も高まっていた頃ですから、ひとつ自分で楽団をつくって西洋音楽でも演奏させ、憂さを晴らしたかったのかもしれません。
ちなみに廃藩置県が断行されて、藩主の地位を失うのは、この翌年の1870年です。
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若年の藩士の中から32名の伝習生を選抜したうえで、英軍に指導を依頼しました。
当時のイギリス軍は横浜の居留地のなかで、いまの岩崎博物館がある辺りに駐屯していましたので、そこからほど近いこのお寺が伝習生たちの宿舎兼練習所になりました。
ですから、境内の中には「日本吹奏楽発祥の地」碑もあります。
ちなみに、なぜオーケストラ(管弦楽団)ではなくブラスバンド(吹奏楽団)かというと、軍楽隊の性質自体が野外での演奏を前提としており、その点弦楽器は向いていないので、金管楽器や打楽器が中心になっていたそうです。
指導はイギリス軍楽隊長のジョン・ウィリアム・フェントンが担当しました。
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フェントンは、まずは国歌の練習から始めようとしたものの、その当時の日本には国歌が存在しませんでした。
しかし開国後は外国から来賓を迎えることも頻繁になると予想されたため、薩摩藩の大山巌が中心となって、当時、奉祝歌として小唄や長唄でも広く親しまれていた「君が代」を歌詞に決めたといいます。
この経緯は、今でいえば唱歌の「ふるさと」を一部の権力者が国歌に決めてしまうようなもので、その歌詞の意味はともかく、天皇(大君)を称えるという意図はあまりなかったように感じられます。
そんな重要な歌だったら、一般歌謡として流布していたというのも少し変ですし。
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さて、歌詞はきまったものの、メロディはありません。
というか、維新前は西洋音階自体が存在していませんから。
討幕軍が奏でていたという「トコトンヤレ節」(作ったのは大村益次郎といわれています)だって、とても西洋音楽には聞こえませんから。
仕方なく、フェントンが作曲しました。
YouTubeで「初代君が代」と検索すれば、今でもこのお寺で1010日に演奏されるその曲が出てきます。
なんだかイギリス国教会で演奏されるアンセムみたいです。
しかも、フェントンが日本語を理解していなかったのか、節が歌詞と合わないところで切れているし。
きっと  GodSave The Queen”の日本版くらいのイメージだったのでしょうね。
今でもこの曲をお寺の客殿で演奏するなんて、なんてシュールな光景なのでしょう。
 
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それでも急ごしらえにしては上出来というべきでしょうか。
だって一般の人には「国歌?なにそれ?」の時代ですから。
これを聞くと、この歌はあとからどんどん権威付けされていってしまった不幸な歴史があるとわかります。
今「君が代を聴くと卒倒しそうになる」という方には、こちらのちょっと変わった君が代は如何と勧めたくなります。
また、君が代を法的に尊重しろと迫る人たちにも、「弥助(=大山巌の通称)がその場のノリで適当に決めたのだから、そんな四角四面に考えなくても」といいたくなります。
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伝習生たちは「サツマバンド」(なんだか芋蔓で作った帯みたいな名前だ)として翌年に、お寺のすぐ裏にある日本初の西洋式公園、山手公園のあづまや付近にて、演奏会デビューしたそうです。
若くて容姿も整っていた彼らは、今のアイドルグループのように人々から喝采を浴びたと伝えられています。
そりゃそうでしょうよ。
日常はチントンシャンしか聴いていない人たちの前に、いきなりビッグバンドが現れたのですから。
「君が代」については、音楽には罪はないと思います。
むしろ、それを利用しようとする人間の側の内面を見た方が良いのではないでしょうか。
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