最近、宗教と教育についてテーマを絞って読書しているため、あまりほかのジャンルの本を読めないのですが、毎年この時期になると、何か戦争に因んだものを意識的に読むようにしています。
今年は春先に見たJ.オダネルの写真「焼き場に立つ少年」のニュースに触れた(https://blogs.yahoo.co.jp/brobura/40950336.html)こともあって、今夏は表題の本を選びました。
本文だけで560ページにならんとする分厚い本なので、まだ半分しか読んでいないのですが、最後まで読み切ってから感想を書くと、前半部分を忘れてしまいそうなので、書いておこうと思います。
 
イメージ 1

著者は1987年から1995年の間、ワシントンDCにあってスミソニアン協会の運営する、国立航空宇宙博物館(一般には「スミソニアン博物館」と呼ばれます)の館長だったマーチン・ハーウィット(Martin Harwit)博士で、原題は“An Exhibit Denied:Lobbying the History of Enola Gay”(直訳すると「拒絶された展示−エノラ・ゲイの歴史をめぐるロビー活動」になります)といいます。
博士の専門は天体物理学で、原爆のメカニズムや歴史は専門外、さらに第二次世界大戦後にチェコから移民として合衆国にやってきたと紹介されています。
表題からも分かる通り、この本は1995年におこったB29爆撃機、エノラ・ゲイ号(19458月に広島に原爆を投下し、長崎投下時も天候観測機として作戦に参加した機体)の博物館展示騒動をめぐるお話です。
エノラ・ゲイとは、機長であり、この騒動にもかかわるポール・ティベッツ大佐(当時=のち准将)のお母さんの結婚前の名前です。
彼は幼い時に力になってくれた母親の名前を愛機につけたのだとか。
 
本を読むまで知らなかったのですが、スミソニアン学術協会とは、イギリス人、ジェームス・スミソン(1765-1829)が19世紀の中ごろに遺産を委託基金としてつくった、傘下に19もの博物館群を運営する教育研究機関で、国立航空宇宙博物館はその前身の国立航空博物館発足時から、協会によって設立・運営されていたひとつなのでした。
従って、スミソン本人の遺志である、博物館の任務(下記)に忠実であろうとしてきたそうです。
『わが国の航空の発展を永く記憶にとどめ、歴史的に興味深くまた意味のある航空機器を収集・保存・展示し、航空の発展に関係のある科学的機器ならびにデータの保存に努め、航空の歴史を研究するための教育的資料を提供する』
館長をはじめ、集まった学芸員たちは、この宗旨に沿って常設展ならびに企画展を行ってきたのでした。
イメージ 2

エノラ・ゲイ号の展示にあたっては、修復に苦労はあったものの、さすがスミソニアン博物館、膨大な資料にあたり細かいことまで調べ上げています。
たとえば、マンハッタン(原子爆弾の製造・量産)計画の端緒となったアインシュタイン博士署名のローズヴェルト大統領あての手紙は、ハンガリーからの亡命ユダヤ系物理学者、レオ・シラードが起草していたこと(https://blogs.yahoo.co.jp/brobura/39389135.html)や、前大統領の病死により突然計画を引き継ぐことになったトルーマンは、就任直後まで原爆計画のことを何も知らされておらず、日本への無警告攻撃に同意はしたものの、2発目が投下された直後に作戦の中止を命じていたこと。
そして、トルーマン大統領は公式にはともかく、個人的には原爆投下を承認したことをかなり後悔していたこと、さらに当時のスチムソン陸軍長官は、その慧眼で戦後に核兵器が世界をどう変えてゆくかを見通していたこと等々、文献だけではなく私信や覚書、記録原簿まで目を通さないことわからないようなことまでをきちんと伝えるべく準備しています。
また、広島や長崎にも足を運んで、市長や被爆者たちの想いも聞き取りをおこなっています。
その結果、「いまや私たちの状況は、不注意にせよ、故意にせよ、地球の全住民を絶滅させることはないにしても、少なくともきわめて原始的な状態に逆戻りさせてしまう危険性をはらんでいる。
戦争を、兵士の男らしさを証明し、帰郷して美しい乙女に求婚する英雄物語にしてはならないと思う。
いま戦士としてそのような戦争を生き延びたとしても、帰郷したときには美しい乙女は灰燼に帰しているだろう」という「人は戦争で死ぬ」事実を、常設展示とは対照的に、子どもたちにはっきりと認識させねばならないと、館長である著者は考えるようになるのです。
 
当初は専任の学芸員も含め、楽観的に考えていたようです。
前半には盛んに「バランス」という言葉が登場しますが、戦略爆撃の戦術的な意義、当時の米国がおかれた状況、そして原爆の投下によって戦争が終わったという事実と、その原爆によって人々がいかなる被害を被ったのか、戦後に核はどう拡散していったのか、冷静な数字で事実を示せば、第二次世界大戦終結50周年にあたる1995年にエノラ・ゲイを特別に展示することは、ひとつの区切りとして意義深いイベントになる、そんな風に考えていたようです。
ただ、上述の通り、彼らは原子爆弾が落とされた結果もたらされた被害と、それによって創出された核に怯える戦後世界のことは、必ず展示しなければならないと考えていました。
それを見て、現在の世界を来館者に自分自身で考えてもらいたいと。
ところが、最初の企画書が書きあがったころから、どんどん雲ゆきが怪しくなります。
米国の退役軍人たちからは、自分たちの努力と支払った犠牲が無視されていると批判され、日本側からは資料(被爆者の遺品等)は、戦争の結果を誇るような展示なら貸し出せないといわれ、アメリカ国内にもあの飛行機は反核のシンボルにしようという市民団体がいて、館長をはじめ企画書を書いた担当の学芸員たちは、企画展の名前をつけるところから板ばさみに苦しみます。
 
イメージ 3

当初はどちらも、「対立する相手方の話を鵜呑みにするな」と博物館側に意見していたようです。
それがだんだんと展示反対派(空軍協会を主体とした退役軍人の集まり)の側の声が大きくなってゆきます。
よくいわれる、「原爆投下によって本土決戦を回避したのだから、100万人の命が救われた」という退役軍人たちの言い分も、最初は5万〜3万(日本上陸作戦=オリンピック(九州侵攻)・コロネット(関東上陸)の2段階作戦で、現場指揮官が見積もった数字)が、参謀本部では50万になり、いつのまにか「日本人をも含む幾百万」に膨らんでゆく様子を具体的に記しています。
いくら博物館側が事実の死者数と推定の死者数を並べたところで、歴史学の観点からは比較にならないといっても聞き分けてもらえません。
日本軍の中国大陸及びアジアにおける侵略行為、そして我々がそれをやめさせるために支払った犠牲に関しては企画書の僅かなページしか割いていないのに、原爆による犠牲者にはこんなに膨大な写真や記述を載せていると責められ、そもそも戦闘員の死者数と民間人の死者数を例示しても「バランス」をとったことにならないと言っても、企画の結論が誘導的だと反論されます。
最後は、原爆による犠牲者のセクションをすべて削除しろと迫り、「そんなことをしたら日本との国際問題になる」と反論する博物館側に、「構うものか」というところまで対立してしまいます。
 
退役軍人たちは、最初は自分たちの意に沿うよう、展示を改訂させることに取り組むものの、それが叶わぬと知るや、あらゆる手段を講じて博物館側の企画展を潰しにかかります。
米国のロビー活動ってもっと正々堂々としたものかと思っていたのですが、その内容たるやデマも百回流せば真実になるというやり方で、裏工作をする、博物館ボランティアを手先に使う、協力をするふりをしながらサボタージュする、通常業務に支障をきたすほどの抗議の手紙を博物館へ送り付けるなど、著者が博物館サイドの人間だということを差し引いても、卑劣な手を使ったみたいです。
でも、自分たちが利益を得るためなら、平気で嘘をついて人を騙し、偽の情報を流して周囲をミスリードする人たちなら、現代の日本にも身近にたくさんいます。
そういう人たちが気の毒だと感じるのは、自分たちは正義の執行者を気取っているつもりなのかもしれないけれど、実際にやっていることは不義も甚だしいということを自身で気が付いていない点です。
気づいていたとしても、欲に目がくらんでがんじがらめになっている人もいます。
その欲とは、金銭や財産のような欲求だけではなく、自分のしてきたことは正しかったと認めてほしい、名誉欲も含まれます。
だから結局何の得るところもなく、周囲を疑惑や分裂に巻き込む荒らし行為をしておきながら、何の反省もないゆえにまた別のところで同じことを繰り返すわけです。
だんだんと周囲から距離を置かれるようになっていっても、いまさら自分が間違っていたとは言えず、自分は正しいという固陋な考えからいつまでたっても抜けません。
死ぬまでやるのは本人の勝手ですが、心ある人間は離れますよね。
この本に登場する退役軍人たちやその団体の姿は、決してひと事には思えませんでした。
 
イメージ 4

退役軍人たちの攻撃対象となった、博物館の館長をはじめ学芸員の人たちは日本の肩を持ったのかと思われそうですが、そんなことはありません。
それは館長が企画展示を潰しにかかる団体誌に反論した手紙の表現でもよくわかります。
 
「爆投下の結果、破壊がもたらされたことは事実である。
だからといって、合衆国は第2次世界大戦を終結させるために原子爆弾を使用したことを謝罪すべきであろうか?
もちろん、否である!
われわれは地上で死んだ人々に同情を寄せるべきであろうか?
人間として、そうすべきであると私は思う。
原爆の投下に誇りを抱くべきであろうか?
これは難しい問題だ。
恐るべき犠牲をともなう戦争に終止符を打つ方策を見出したことに、誇りを抱くべきであろうか?
然りである。
破壊の程度に誇りを抱くべきであろうか?
私にはできない。
 
日本人、特に被爆者には受けいれられない心情かもしれませんが、学者としての矜持をもった「バランス」が良くわかります。
原爆の投下に誇りを抱きながら、その犠牲者を悼むなんて、並大抵の神経ではできません。
不思議だったのは、企画展を7年も前に、エノラ・ゲイの修復に協力を依頼したときに著者が面会した、ティベッツ准将をはじめ、広島、長崎に原爆を投下し、その光景を上空から眺めた元軍人たちは、冷静に「誇るつもりはない。ただ事実を提示してくれればそれでよい」と話していたところです。
「あの偉業を現代の価値で裁き、汚すのは絶対に許されないことだ」と言っているのは、実際に都市爆撃に参加して煮えたタールのようになった街並みを上空から眺め、或いは人の焼ける臭いが機内にまで入ってきた事実を経験したことのない元軍人たちばかり。
彼らにしてみれば、事実を提示しただけで、自分たちの行った行為の結果を突き付けられ、責めを負わされるような気持ちになるから、過剰に反対したのだと思います。
イメージ 5

 
いまダーク・ツーリズムなるものが流行っているそうですが、私たち日本人がハワイに旅行に行く際、どれだけの人がアリゾナ記念館に足を運ぶでしょうか。
日本が行った都市爆撃について調べる為に、重慶抗戦遺址博物館へ行く人がどれくらいいるでしょうか。
半分まで読んで、博物館に抗議する退役軍人も、被爆者や反核の人たちも、足りないのは相手方の立場にたってものを考えてみるということではないかと思いました。
学生時代に訪れたアウシュビッツでは、見学ツアーに参加した人は最後に、あなたはこれらの展示を加害者、被害者、どちらの立場に立ってご覧になりましたか?と質問されるそうです。
どちらに立つかは大した問題ではなく、人間、加害する側にも、被害される側にもなり得るということに想像を働かせることの方が大事ではないかなと私は思いました。

半分まで読んで、まだ博物館と退役軍人団体の争いは先鋭化してゆくようなので、最後まで読んだらまた感想を書こうと思います。
ちょっと空想したのですが、たとえば国立の歴史民俗博物館あたりが、朝鮮の植民地化や、満州国の建国からアジアへの資源獲得進出、昭和天皇の戦争責任について企画展を開いたらどうなるのでしょうね。
純粋に学術的な展示を行おうとしても、やはり何らかの制限が入るのでしょうか。
今度博物館に行ったら、内容が何であれ、展示者側の意図やメッセージをよく考えてみたいなと思った次第です。
イメージ 6

この記事に

開く コメント(0)

開く トラックバック(0)

年末年始に23日で浜松から三重県桑名市の南隣にある朝日町すすんだ旧東海道の旅も、残すところ120㎞強となりました。
毎月12日のペースで来たものの、12月は3日間を旅程にあてたこともあり、1月はお休みしました。
2011212日、ブロンプトンによる旧東海道尺取虫方式の旅人となるべく、私とDANさんは東海道新幹線下り新横浜始発6時ちょうどの、ひかり493号に乗車しました。
さんざんプランニングをたて、名古屋での乗り換えのシミュレーションもやってきて、確保した座席に陣取ります。
外はあいにくの曇天で、三島駅を通過して田子の浦あたりに差し掛かっても、富士山は全く見えません。
2月の朝だと、赤富士が見られることが多いのに残念です。
イメージ 1

 
さて、東海道新幹線のN700系ですが、全編成が16両編成です。
先頭1号車新大阪方、最後尾16号車東京方、そのうち、グリーン車(8,9,10)と端の車両にあたる16号車以外を除く、偶数各号車(2,4,6,12,14)には、車両の端にトイレや乗務員などのスペースがついておらず、座席数は5席×20列で統一されています。
他の車両、つまり奇数号車のうちグリーン車を除く車両(3,5,7,11,13,15)と、先頭/最後尾車両にあたる1号車、16号車は、トイレや喫煙スペース、電話、乗務員室等のスペースが車両の端にあるため、当然客室長が前にあげた偶数車両より短く、席の列は少なくなります。
トイレが東京方の片端についている5, 13号車で18列、喫煙室が大阪方端、トイレが東京方端についている3号車がそれより1列少ない17列、3号車と同じ形式ながら東京方の端にトイレに加えて公衆電話のある15号車が、さらに1列少ない16列、下り列車最後尾車両にあたる16号車及び、東京方の片端にトイレ、乗務員室、喫煙室のついている7号車が15列になっています。
そして一番客室長が短いのが下り先頭車1号車と11号車でして、なんとグリーン車(4×1617列)より少ない13列しかありません。
11号車は大阪方端に乗務員室、東京方端に多目的室と障がい者用トイレがあるからです。
イメージ 4

 
え、お前はJR東海の車掌でもやっていたのかって?
あぁ、あの会社、大学出の新卒は三島の研修センターに送られて一度は車掌を経験するみたいです。
「三島の研修センターってもしかして線路の下?」って社員に聞いたら、「いえいえ、今は三島駅の北口近くにあって、ホームに防音壁着けちゃったから、車窓からは見えないのですよ」とのお答えでした。
まぁ旅行会社の社員でも、自分の時代は専用臨(一編成まるまる貸し切り=修学旅行生が使う)なんか乗っていましたし、別に新幹線オタクではなくても、何度も乗っていると覚えてしまうのです。
そんな知識、無駄だろうって?
いえいえ、そんなことありませんよ。
単純計算したって一番席の多い車両と少ない車両の差は35席、学校のひとクラス分くらいあるのです。
それにここだけの話、N700系の先頭/最後尾車両(1,16号車)は他の普通席車両より座席の前後ピッチが17㎜狭いのですよ。
イメージ 2

 
たとえば、今なんかお盆の帰省およびUターンラッシュの時期ですよね。
東京駅で自由席(1〜3号車)の乗り場に、同じくらいの列ができていたとしたら、迷わず2号車東京方ドア、同大阪方ドア、3号車大阪方ドアの優先順で列に並ぶべきです。
だって座れる可能性が格段に増しますから。
1号車は座席数と座席ピッチから、絶対に並びません。
逆に少しでも落ち着きたいのなら11号車か7号車の指定席を買うべきです。
博多からきた上り東京行きのぞみなんて、20列もある車両は明らかに空気が悪いし、トイレの利用競争率だって高いのです。
頻尿の人は、グリーン車との間にトイレがある7号車東京寄りの座席がお勧めです。
それに先般名古屋で近鉄特急乗り換えの例を出したように、乗り継ぎ列車との接続に時間がタイトな場合は、階段が近いだけでなく、乗車人数のできるだけ少ない号車を選んだ方が安全です。
混雑期に20列ある車両の真ん中からブロンプトンを曳いて出ようとして、降りそこなって次の駅まで連れて行かれたなんていったら、目も当てられません。
まぁ、東海道新幹線にはヘビーユーザーが多くて、この程度なら彼らの間では常識でしょう。
イメージ 3

 
なお、東京新大阪間ののぞみグリーン車には、芸能人をはじめ有名人が乗車していることが多いというのも、いわゆる「追っかけ」をやっている人の間では半ば常識ですが、特に早朝、最終便はその確率が増します。
もちろん、顔が見たければグリーン車に乗らないとダメです。
普通車の人は通り抜けも禁止されていますから。
彼等も疲れていて、できるだけ顔バレせずに寝ていたいわけですから、トイレに近くて普通車両の一般人と顔を合わせる心配のない9号車の東京寄りに座っていることが多いと思います。
ダメですよ、寝顔なんか隠し撮りしたら。
あ、11号車の多目的ルームですが、おもに体の不自由な方が使います。
その他、気分が悪くなった時や、授乳時など、人目を避けたい場合にも使えますが、あくまでも体の不自由な人が使っていないという前提です。
変わったところでは、容疑者の護送時などにも使われるそうです。
 
イメージ 5

さて、かなり前提がながくなりましたが、名古屋での乗り継ぎ時間が6分しかない私たちは、当然のように前もって近鉄の特急券を購入し、乗り換え口にいちばん近いドアが背後にある、ひかり49311号車の東京寄り最後列ED席に着きます。
通路を挟んでお向かいの11号車12列と13列の進行方向左(海)側席は、2列しかありません。
要するに、ABCのうちのC席がなく、普通車なのに2席×2席の部分が2列だけあります。
ここは障がい者用のトイレが近いことからも分かるように、車いす用に設けられた特別なシートです。
ですから車椅子の方が利用していない場合、通路が広々としているのです。
C席がないぶん、畳んだブロンプトンを置く(2台は余裕です)のに最適な席でもありますが、健常者が座ることもできます。
通常、JRの座席指定は乗車日の1か月前の午前10時からと決まっています。
しかし、この車いす用のAB席については、2日前まで対象者の人のために保持してあります。
2日前になっても該当者の予約が入らない場合、前日に一般に開放さるのです。
だから前日の朝10時にこの席が空いていれば、車椅子利用でなくても予約できます。
これは裏技なので、混雑する時期には使わない方がよいと思います。
もし体の不自由な人が自由席からまわってきたら、権利があったとしても譲るべきだと思いますし。
ついでに書いておきますが、N700系の普通車両の場合、シートの横幅がB席だけ他席よりも30㎜広いのです。
つまり、11号車の1213B席が、他の普通車席に比べていちばん余裕があるということになります。
イメージ 6

 
こういう裏技を知っていて実際に使う人が、旅行会社の中の旅オタクにはけっこういました。
昔、581系という電車型の寝台列車が走っていたころは、パンタグラフの下の部分のみ、3段のB寝台が2段になっていて、上下に余裕があったため、そこをお得意さんに確保してあげる営業マンがいました。
また、某航空会社の端末を個人宅に引いて(有料ですよ)、デッドヘッド(=航空会社社員による業務としての移動搭乗)のCAの隣に席を確保していた人もいましたね。
そういう人は、航空会社とお付き合いがあって、座席の仕入れに知悉している人でした。
どんだけ雲の上の人が好きなんだと思いましたけれども。
私はやりませんでしたよ。
 
イメージ 7

さて、富士山は全く見えなかったものの、名古屋に着くころには青空がのぞいて朝陽が差してきました。
予定通りアーバンライナーに乗車して桑名で各駅停車にのり、2つ先の伊勢朝日駅で下車します。
新横浜を6時ちょうどに出て、820分。
空は晴れあがっています。
今日こそは、鈴鹿峠まで詰めたいものよと思いながら、四日市宿を目指して走りはじめるのでした。
イメージ 8
(別の年の1月早朝の富士山です)

この記事に

開く コメント(0)

開く トラックバック(0)

グーワタナベさんで3種類のフロントバッグを作っていただいた話を以前しました。
これまでは、なるべく小さなSmallサイズ(H23×L18×D11)を愛用してきたのですが、最近はMiddleサイズ(H25×L20×D14)を、主に通勤で頻繁に使うようになりました。
理由はいくつかあります。
 
イメージ 1

ひとつは、極小サイズの輪行カバーが使えなくなってしまったこと。
とりあえず、被せておけばいいやという、携行機能優先の極薄輪行カバーは、電車に乗るのにまずいことになり使えなくなって参りました。
とくに通勤電車では、ピークを外しても人目がたくさんあります。
当然、使用していないときのサイズも大きくなるため、フロントバッグはミニマムでは困るのです。
イメージ 2

二つ目の理由は、この暑さで水分補給をまめにせねばならず、フロントバッグにペットボトルを入れる機会が増えたことです。
人によっては自転車用のドリンクホルダーを付けている人もいますが、あれは折りたたんで電車に乗る際には干渉するか、カバーにひっかかるのです。
改札前で取り外しても、乗車の際に余計な荷物になってしまいます。
 
イメージ 3

三つめは入れるものが増えたこと。
鍵、カバーをはじめ、電子辞書、書籍、筆記用具、スマホ、コンパクトカメラ、場合によってはパンクしたとき用の替えチューブや手押しポンプ、タイヤレバーなど。
書籍も、複数を並行して読んだり、参照しながら読んだりするため、1冊では収まらず、文庫本や新書が3冊とか、どうしても出先で読みたい本であればハードカバーの単行本を入れることもあります。
イメージ 4

 
3つの理由について、いずれもディパックを背負えばパッキングとしては解決するのですが、暑い時期に自転車に乗る場合、できるだけ身軽にしておきたいのです。
また、フロントバックと違って背負う荷物は出し入れが面倒で、カメラなんか背中の鞄に入れておいたら、結局使わなかったなんてことになりかねません。
なお、家の鍵と財布だけは、身に着けるようにしています。
イメージ 5

 
個人的な事情ですが、3つの理由のうちいちばん切実なのが書籍です。
最近はその分野でメジャーな本だけでなく、マイナーな本も読むようにしています。
すると、たいがいは文庫化や新書化されておらず、単行本しか読めないケースが多いのです。
また、単行本のまま絶版になってしまっているので、古本屋で見つけたりしたら、(値段にもよりますが)一期一会のような気がして購入することもあります。
実際に、値段で躊躇したために翌週行ったら売り切れていた、という経験を何度かしました。
それが、多少余裕のあるMiddleサイズのフロントバッグを愛用している、一番の理由かもしれません。
読むばかりでなく、感想を書かないといけませんね(笑)

この記事に

開く コメント(0)

開く トラックバック(0)


イメージ 1

新宿って駅の近くに飲み屋さんや高級レストランは多けれど、庶民的な食堂ってなかなかありません。
でも、ブロンプトンで走っているとお腹がすくものだから、リーズナブルでがっつりと食べることのできるお店は貴重なのです。
馬場までゆけば、そういうお店が大学の近くにたくさんあるのを知っていますが、新宿は大人の街ですから。
イメージ 2

ただ、ブロンプトンであれば駅から多少離れていても、10分もかからないでお隣の駅の向こうまでゆけます。
今日は新宿三丁目のさらに東にあるレストランをご紹介しましょう。
新宿駅からだと大ガード下から靖国通りを東へ。
500m先の五丁目交差点で明治通りを渡り、その次の右手西南角にワイズロードという自転車乗りなら知らない人はいない新宿五丁目東交差点も過ぎ、2本目(大ガード下から730m)を左に曲がると、三番街という商店街に入ります。
イメージ 3

 
このあたりは、昔「番衆町」いいました。
江戸城の警護をする宿直勤番方が集まって住んでいたからということで、現代でいえば「ザ・ガードマン街」とでもいいましょうか。
戦後は闇市の立った西隣の三光町に対して、かなり寂しい場所だったそうです。
商店街が発足したのは昭和34年。
ゆえに、いまも昭和の雰囲気を残したお店が散見されます。
イメージ 4

 
レストランの名前は「いずみ」ではなく「いづみ」です。
まずは店構えですが、通りに面したサンプル棚といい、壁についている縦長の蛍光灯といい、昭和なムード満点です。
ちょび髭をはやしたコックさんが両手を広げて歓迎している看板も、絵が赤塚先生チックです。
ランチは11時から15時までで、この時間帯の幅広さが、外して食事狙い派にはありがたいところです。
ランチなら800円〜850円。
地方に比べれば高いのでしょうけれど、新宿では安い方です。
後ろの窓辺にキタナシュランのおじさんが黒ぶちメガネをかけて手を振っています。
「サイナラ、サイナラ…」がトレードマークだった淀川長治さんを髣髴とさせるあたり、やはり昭和なのです。
イメージ 5

ブロンプトンならお店の前に2台くらいであれば、後輪を折った形で停めることができますし、完全にたためば、カウンターの足元でもOKです。
お店に入ると、右側がカウンター席で左側がテーブル席。
テーブル席の脇の壁には、メニューに混じって寄せ書きや色紙、風景や猫の写真など、この統一感のなさがよい味出しています。
お酒を飲む場所じゃないから、ビールジョッキを持ったビキニのお姉さんもおりません。
イメージ 6

カウンターの方に目を移すと、なぜか七味唐辛子が常備されています。
味噌汁に入れるのでしょうか?
楊枝入れがジョッキを持っているのですが、これ、アンクルトリスだったんじゃないかな?
常備メニューに印刷された店名が「いずみ」の「ず」の字の上にマーカーペンで「づ」と上書きされているところも、手作り感があって好感が持てます。
 
イメージ 7

頼んだのはAランチ。
100円追加すると、ライスの上にカレーをかけてくれました。
野菜とフルーツ、ナポリタンの上に、揚げ物、ハンバーグがごそりと載って、ライスカレーも大盛とかなり食べ出があります。
これで800円は安いのではないでしょうか。
「ふーぅ」とお腹をさすりながら、ブロンプトンでお店をあとにしたところまで、まるで昭和のドラマ風でした。

この記事に

開く コメント(0)

開く トラックバック(0)

毎日暑いですね。
この酷暑はいつまで続くのでしょうか。
希望では、お盆が終わった頃に落ち着いてくれるとありがたいのですが、今年は夏が早く来たから秋も早く来るなんて都合の良いようにはならないだろうと内心思っています。
さて、こうも暑いと自転車なんか乗っていられるかって感じる人も多いかと思うのです。
とくに都心の暑さといったら、殺人的と表現しても良いくらいです。
アスファルトをはがしてやりたいほどです。
 
イメージ 1

こんな夏に、ブロンプトンに乗るか乗らないか。
私は購入したのが6月でしたが、最初の夏は乗りませんでした。
身体も太っていたし、いつどこでどのように乗ったらよいかわかりませんでしたし。
いま冷静になって振り返ると、いくつか選択肢がある気がします。
1.乗らない
乗らないで他のことをするというのも、ひとつの選択肢だと思います。
オートバイもそうですが、風を感じるのによい季節だけ乗るというのは、よい心がけだと思います。
私は商売にならないので困りものですが。
2.敢えて乗る
対策が必要です。
日焼け止めをするとか、サングラスを用意するとかだけでなく、まめに休みをとって水分を補給するとか。
でも、我慢する場面は多いでしょうね。
3.乗れる時間帯に乗る
海水浴も同じですが、ドピーカンの日中は避けて、早朝とか日没後に乗るというのもひとつの方法です。
都心のナイトサファリとか、谷中の肝試しとか、早朝のSF小説の描写のような都心とか。
今の季節しかできない気がします。
時間だけではなく、早朝に営業しているカフェや銭湯に行ってみるというのも面白いかもしれません。
4.乗れる場所へ持ってゆく
これがブロンプトンの特性をいちばん引き出せるのではないでしょうか。
涼しい場所に持っていって乗るなんて、オートバイではできませんから。
既にご紹介した中では高峰高原(https://blogs.yahoo.co.jp/brobura/37997613.html)や志賀草津道路(https://blogs.yahoo.co.jp/brobura/40080285.html)がこの方法に入ります。
但し、後者は冬期に噴火した草津白根山の影響で今夏は絶望的です。
しかし、行き先はまだ複数あるので、追々ご紹介しましょう。
 
イメージ 2

今日は、3の「乗れる時間帯に乗る」について、都心に関してまとめてみました。
このところ、早朝から午前中にかけてブロンプトンで都心を走ることが多かったので、あくまで私見ですが、丸子橋から新宿へ様々な朝に走った感想をまとめてみました。
平日と土曜・日曜ではかなり様相が違いますし、山手線の内と外、多摩川や荒川の内と外でもだいぶ違うと想像しますが、あくまで平日の朝が基準ということで。
実際早朝に起床し、エクストリーム自転車通勤が可能か否かは置いておいて、路地裏を自分で走ってみた印象としては、5段階評価でいうと午前3時台が4、4時〜6時台がベストで5、7時台が3.5で、8時台から9時台前半が210時台は最低評価の1という感じです。
イメージ 3

 
もちろん、暑さに強い弱いは個人差がありますから、一概に評価はできませんけれど、熱中症になりかけてまで自転車に乗るものではありません。
10時から15時くらいの都区内は、ずっと路上に留まるのはやめておいた方がよい気がします。
イメージ 4

この記事に

開く コメント(0)

開く トラックバック(0)

[ すべて表示 ]


.


みんなの更新記事