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(その2)からの続き
霊園の中では最下部に位置する大刀洗門から、鎌倉霊園の中へ入ってゆきます。
鎌倉霊園というのは、某デベロッパーが開発し、その創業者のお墓があることで有名です。
しかし、実際は宗旨宗派ごとに区画が分けられていると聞きました。
なお、目指す杉原千畝氏のお墓は、かなり上の方の29区5側にあります。
当然霊園のなかを登ってゆくわけですが、ここまで来てから改めて気がつきました。
霊園内には日陰がほとんどありません。
加えて、墓石群がまさに焼け石になって蓄熱している状態で、中へ入れば入るほど、サウナの中みたいに暑くて我慢できなくなります。
園内は熱中症予防のアナウンスが断続的に流れています。
来るなら断然冬ですね。
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西向きの斜面の道路からすぐ上の区画に、ほかのお墓と全く同じ大きさで、杉原家の墓はありました。
杉原千畝氏はロシア正教徒だったから、お墓もキリスト教式を想像していたのですが、ごくごく普通のお墓です。
この霊園のてっぺんにある、創業者のお墓がそうなのですが、ひとりだけ大きくするというのはどうなのかなと思います。
北鎌倉の東慶寺にある哲学者や事業家のお墓がそうですが、墓石など何も書いていない小さな石が苔むしていて、故人が「人間の一生なんて、しょせん川面に浮かぶ泡のようなものです」といっているような気がして、趣があるのですが、こうして一般のお墓然としている方が、カラッとしたものを感じます。
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お墓に手を合わせて背を向けると、氏の語録にある”Vaya con Dios!”というスペイン語を思い出しました。
これは氏とリトアニアのカウナスで杉原領事と交流があったユダヤ人少年が、別れ際にかけられた言葉だそうです。

スペイン語で「道中ご無事を」という意味の改まった表現なのですが、これから長旅に出る人にかける言葉ということです。
(有名な“Adiós muchachos”『友よ、さらば』よりもやや格式ばっているそうです)

直訳すると”Vaya”が「行く」という動詞で、“con Dios”は英語でいう“with God”つまり「行け。神とともに」となります。
これは、ミサの最後に司祭が会衆に向かってかける言葉のニュアンスとそっくりです。
現代日本のカトリック教会では、「行きましょう。主の平和のうちに」というのですが、元のラテン語“Ite missa est”はもっと強い調子で、「行け。汝を(神と共に)去らしめん」くらいの意味だと教わりました。
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杉原氏が堪能だったロシア語でもドイツ語でもなく、スペイン語のこの表現を選ぶとは、彼は本当に外国語に造詣が深かったのだと思うとともに、信仰の厚い人だったと感じます。
当時はビザが発給されたからといって、それは日本の通過ビザであり、仮に無事目的地に着いたところでそこに何が待っているかは分かりませんでした。
また、ビザを持っていても、経済的に余裕がないとシベリア鉄道の切符も買えず、当然袖の下も使えませんから、手前のソ連で難民として検挙されてしまうこともしばしばあったといいます。
さらに独ソ戦がはじまってドイツ軍がソビエト領内深く侵攻すると、文字通りナチスのユダヤ人狩りに遭って、問答無用でその場にて射殺または強制収容所へ送られてしまった人たちも多数いたといいます。
だから、「この先何があっても、神がついていますから」という意味の、この言葉を餞にしたのでしょう。
前述のユダヤ人少年は逃げ遅れてしまい、強制収容所生活を生き延び、偶然米軍の日系二世部隊に救出された体験と併せて、のちに“Light One Candle(邦題『日本人に救われたユダヤ人の手記』)を著しています。
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私はこの美談でもってやっぱり日本人の心根は美しいなんて、ステレオタイプな感想はもっていません。
どこの国の人間であれ、自分がかわいいから保身に走って他人の不幸にはめをつぶり、逆に自分の事績は過大に誇りたがるものです。
戦後、杉原氏は外務省を辞めさせられて不遇の時代にあって、ご本人自身は一切抗弁をしていません。
彼のように自分の運命にきちんと向き合い、それを粛々と受け容れる人というのは稀有な存在です。
死後に名誉回復がなされる時ですら、外務省はそれを渋り、「杉原はユダヤ人からカネをもらってビザを発給したのだから、生活に困ってなかったろう」と事実に反するデマを流すひとや、いくら人命を尊んだとはいえ、当時の状況で国を窮地に追いやるのは「国賊だ」と罵倒した人がいたとうのは前述したとおりです。
国に関係なく、偏狭な考えにとらわれ、または自分の側が間違っていたと認めたくないばかりに、正しい考えや行いを批判する人というのは存在するものです。
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人間である限りは、つまり自分は神さまではないということを知っているのなら、どんな立場の人であれ、命の危機が迫っている人に対し救いの手を差し伸べるのは、当然のことだと思うのですが、そういう話は青臭い理想主義だと切り捨てる人もいます。
(その1)で書いた広田弘毅元首相は、極東軍事裁判において、周囲に累が及ぶのを防ぐために、一切の弁明を行わなかったといいます。
その点、自己弁護をして罪を逃れた木戸侯爵は、広田のその態度を「立派だけれども、つまらない事だと思うのだ」と話していたとききます。
確かに、生き延びて戦後の日本で活躍する事の方が大事という考え方もあるでしょうが、ひとがひとのために命をなげ出すという行為について、「つまらない」のひとことで済ませてしまう人の方が、人の生きる意味を考えてないように感じてしまうのは、私が歴史オタクだからでしょうか。
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杉原氏が敬虔な正教徒で、困窮しているユダヤ人たちを見たときに聖書の句を思いだしたことも含め、そのとき、その場所で領事をやっていたのが彼だったのは、天の配材だったのでしょう。
そんなことを考えながら、鎌倉霊園もかなり上の方までのぼってきてしまったので、峠のてっぺんにあたる朝比奈西門から出ます。
金沢文庫駅行き路線バスの経路通りに下ってゆきます。
横浜横須賀道路朝比奈インターの前を通り抜けるのですが、インターチェンジ付近の歩道は進入路・退出路の関係から、歩道は地下道で迂回を強いられ、割を喰います。
しかし、朝比奈インターチェンジというのは利用したことのある人ならお分かりの通り、山の中にあって他に迂回路もなく、交通が集中して渋滞しやすい場所です。
週末の午後など、横浜・東京方面へ戻る車の大半はこの道を利用するため、鎌倉・鶴岡八幡宮前の交差点からここまでたった5㎞の区間なのに、車が数珠つなぎで路線バスを利用して2時間もかかって通り抜けたなどという話をよく聞きます。
鎌倉霊園にお墓のある人は、お彼岸やお盆などの週末は、早朝でもなければ近寄れないとききました。
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金沢八景の駅までブロンプトンで走り、そこから京急線を利用しました。
お隣の金沢文庫駅でわざと各駅停車に乗り換えます。
京急線の各駅停車は、優等列車に抜かれることが多いので、座れる確率が高くなります。
今回、暑いさなか(8月)にまわりましたが、季節は冬がお勧めです。
また、杉原千畝氏の業績について知りたい方は、下記の場所を訪ねてみてください。
・杉原千畝記念館(岐阜県加茂郡八百津町)
本は有名どころを一冊ご紹介しておきます。
「新版 六千人の命のビザ」杉原幸子著 大正出版
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昔の面影を残す掛川駅。

新幹線の駅が開業したのは、昭和の最後の方です。

だから伝説のポピュラーソングコンテスト(通称ポプコン:1974年の第7回から、掛川のヤマハリゾート・つま恋で開催)にゆくには、鉄道利用なら最低限静岡か浜松から在来線利用でした。
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掛川の旧東海道沿い、信用金庫の壁にある山之内一豊と、妻千代のレリーフ。

掛川城は功名が辻の舞台です。

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アーケードの天井に祭りの半被が貼ってあるのを発見。

けれども、なぜあんなところに?


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鰹節が結婚式の引き出物として重宝されるのは、鰹の背中側の雄節と、腹側の雌節がおいったりと合わさってつくられているから。
子どもの頃、一尾丸々あの形になるまで燻製にしているのかと、勘違いしておりました。
そのうちに削り節が主流となり、あの鉋をひっくり返したような蓋のついている箱も、めっきりと見なくなりました。

 
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キネマ食堂。
中山道の深谷あたりにも、似たようなコンセプトの食堂があった気がします。

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なぜこの家屋を写真に収めたのかといえば、引き戸と戸袋の色が、べんがらではないかと思ったからです。

東海道も真ん中より東でべんがらは珍しいと思います。

もちろん、ただのペンキかもしれませんが。


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テント地だけで商売するなんてすごいと思います。

近くに寄ってみると、謎のシートドッグなるサービスをやっているのでした。

 
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まるでプラレールの橋梁のような、天竜浜名湖鉄道の橋。

もとは国鉄二俣線ですが、たしか戦前に東海道線の浜名湖にかかる橋が艦砲射撃で落とされると、東西の物流が止まってしまうから、バイパス用として建設されたと聞いています。
それにしては、線路の規格が重量貨物の通貨に耐えられないような構造じゃないかと橋を見上げて感じてしまうのでした。
 
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あれは、たしか遊園地の乗り物です。

けっこう運転が難しかったんじゃなかったかな。

 
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人を恨んだり、ディスっている人は、自分の不幸を披露しているようなものです。

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カラスを漂白剤に浸けても、白くはなりませぬが、それくらい抜けますよという暗喩ですね。
 
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バイブル(=聖書)は福音主義、バプテスト(=全浸礼=洗礼の際、全身をざぶんと水に沈めること)教会は、プロテスタントの一派です。
アメリカからと英国からの二流派があったと記憶しています。

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川に直接乗り入れての浚渫工事は、珍しいと思いました。

 
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袋井宿のど真ん中茶屋の前にある、食堂。
時間がうまく合わなくて開いているのを見たことがないのですが、暖簾は現役のようですから、開いていたらぜひ入ってみたいお店です。

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さて、お次は晩年に杉原千畝氏が住んだ場所へ行ってみましょう。
鵠沼駅から江ノ電に沿って江の島方面へと向かいます。
途中、日本基督教団の片瀬教会と、先日ミサに出たカトリック片瀬教会の前を通ります。
龍口寺の前から谷間へ入り、腰越へ流れ出る神戸川にそって山の方へ向かいます。
途中聖母訪問会・モンタナ修道院(カトリックの女子修道会)の前を通ります。
これでキリスト教会三軒目。
今日はキリスト教会のあたり日みたいです。
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聖母訪問会は1915年、パリ外国宣教会に所属していたアルベルト・ブルトン神父の指導によって創設された、女子修道会です。
神父は23歳で来日し、日本、北米日系移住民、また日本と伝道に生涯を捧げました。
モンタナとは、アメリカの州の名前ではなく、ラテン語で「高地」の意味です。
ルカによる福音書1章に、マリアのエリザベト訪問(聖母訪問)の場面があり、このときに高地を訪ねた(39節)とあることころからきています。
この修道院の教会は、早稲田大学構内にある坪内博士記念演劇博物館や、長野県の安曇野にある碌山美術館を設計した今井兼次氏です。
垣根越しに見ても、白基調のお御堂ですが、形がちょっと変わっていると思います。
なお、修道会ですから関係者以外は入れません。
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川沿いの道が尽きたら、バス通りに出て湘南モノレール西鎌倉駅を左に見ながら、さらに緩やかな坂をのぼってゆきます。
赤羽交差点でモノレールの軌条をくぐったら、次の路地を右折し、モノレールと家を一軒隔てて並行する形で坂をのぼります。
もう別の方が住んでいるので、特定はできませんが、この坂の右側、モノレールとの間に晩年の杉原千畝氏は住んでおりました。
1985年、氏はヤド・バシェム賞を受賞して翌年の夏に亡くなるわけですが、それに先立つ1983年、テレビのインタビューを受けたときには、「ビザ発給を拒めば、目の前の人たちがガス室送りになるのを知っていながら、本省の命令に従うわけにはゆかなかった」と、淡々と語っていました。
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しかし、彼の晩年はおろか、死後の名誉回復に至ってもまだ、杉原氏はユダヤ人から袖の下をもらってビザを発給したとか、本省の訓令に反した国賊者という批判が、外務省の内部やその支持者たちから浴びせられたといいます。
その当時も今も、人間は生まれてくる場所を選べないのに、もし、自分が彼の立場だったらどうするのか、或いはユダヤ人の立場だったなら、どう考えるのか、なんと想像力に乏しい人たちがこの日本には存在するのかと、腹立たしく感じたことを覚えています。
難民など助けたところで、人口が増えて却って困るばかりだから、援助の手を差し伸べるのは考えものだという人がいますが、自分が創造主にでもなったつもりなのでしょうかね。
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(杉原千畝氏旧宅付近)
 
さて、晩年の杉原氏宅を後にして、鎌倉山方面へ坂を登ります。
バス通りに出て、鎌倉山バス停前までのぼったら、右折してさらに住宅街を上の方へ。
檑亭(らいてい)というお蕎麦屋さんの前を通り、その先で峠を越えると、道は延々と下り坂となり、大仏切通から藤沢駅方面へとバス通りと八雲神社前信号で交差します。
そのまま市役所通りに入り、鎌倉駅に向かいます。
仲の坂とよばれる緩い坂道をのぼってゆくと、谷戸の奥にトンネルが見えます。
その手前、一向堂というバス停の左側に広がる支谷戸のあたりが、鎌倉幕府の執権であった北条氏の常盤邸跡になります。
 
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(鎌倉山)

今回はキリスト教の話が多いので、ここで親鸞聖人のエピソードを入れておきましょう。
1233年、61歳になっていた聖人は、この地で仏教全経典が正確に写経されているか、照らし合わせ要員として、大勢の僧侶とともにアルバイトのような身分でこの屋敷に来ていました。(一切経校合)
仕事の合間に食事が供され、慣例に従って僧侶たちは袈裟を脱いで魚鳥を食します。
それは、僧侶が殺生戒を破ることへのポーズでした。
食事の最中は一般人の身分で、食事が終わって仕事を再開するときには、また袈裟を着て僧侶に戻るというわけです。
ところが、この席において親鸞聖人一人だけは黒衣を着たまま食事をしていたといいます。
そこを、当時まだ9歳だった北条時頼が通りかかり、聖人に「なぜ、あなただけが法衣を着たまま食事をするのかと問いかけます。
最初は曖昧な態度で返事をしなかった親鸞ですが、時頼が子どもらしい好奇心で重ねて問いかけてくるので、「せめて、袈裟を着たまま食べることによって、魚鳥に功徳を与えたいのです」と答えたといいます。
親鸞聖人は、こうした僧侶たちの間にはびこる偽善に満ちた便法を、もっとも嫌っていたという逸話です。
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このエピソードに触れるとき、忘れられない思い出があります。
「私は浄土真宗の門徒です」などと公言する人間が、子どもの教育者に名乗りをあげ、平然と二枚舌を使って嘘をつくのを間近で見たことがあります。
この人は信仰を自慢する割には、歎異抄や教行信証など読んでみようと考えたこともなく、親鸞聖人がどんな人生を生きて念仏門を開いたのか、微塵も興味がないのだろうなと感じながら、こうして方便でもって偽善を行い平然として恥ともしない人が子どもたちの指導者をしていることに、心寒いものを感じました。
さらに驚いたことには、後ろで教唆している人間が教育の長であり、その下で教師をしている人たちが、この行為を見て見ぬふりを決め込んでいたことです。
他人を唆して悪事へ仕向ける人間や、これ幸いと悪乗りする人間は論外ですが、己の欲望や醜い嫉妬心を糊塗して、大人ぶった偽善者面をしながら方便を駆使する人間に対し、頬かむりを決め込んで本気で怒らない人間が、どうして年少の人たちにやさしく対することができるだろうと思ったものです。
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私はキリストの弟子だから、自己の原罪に向き合うのが本旨ですが、自利に執着したまま自己に向き合わず、弱者へお為ごかしとばかり偽善をはたらきながら平然と生きている人間には、心の底から腹が立ちます。
もっとも、そういう人間は、早逸に破たんすることを自分自身で経験して知っているので、腹を立てるそぶりはおくびにも出しませんけれどね。
昔「信仰のある人は他人に対して腹を立てないよね」とある人に尋ねたら、「腹が立たないわけではなく、怒りを向けないというのが正直なところ」と答えられたことがあります。
その時は何のことかさっぱり分からなかったのですが、今では理解できます。
他人に対して怒ると同時に、そういう自分をきちんと見つめているのだと。
今は我を忘れて怒りの感情の赴くままに行動する人が目立つ時代ですから、余計にそのことを思いだします。
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長谷隧道、新佐助隧道、御成隧道と3つのトンネルを抜けて鎌倉駅へ。
左折して扇ガ谷方面に向かい、鎌倉駅ホーム脇の踏切で横須賀線の踏切を越えたら、八幡宮の前へ出ます。
そこから金沢街道を朝比奈峠方面へと走ります。
滑川にそって東へ向かうわけですが、明石橋あたりまでは、バス通りを走らなくても裏道をゆけます。
そこからは、バス通りを車に抜かれながらのぼってゆきます。
そして目指す鎌倉霊園大刀洗門に到着です。
鎌倉山からここまで45分。
ちょうどお彼岸の時期で道路の混雑具合を考えると、歩いたり、バスに乗ったりしたら何分かかったかわかったものではありません。
親鸞聖人の話を入れて長くなってしまったため、お墓の探訪記は次回にまわしたいと思います。
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四日市宿の続きに入る前に、前回忘れてしまった恒例の広重版画についてご紹介したいと思います。
左上に「四日市 三重川」の字か見えますが、三重川とは三滝川のこと。
つまり現在の三滝橋のことです。
この構図では橋をどちらの岸からながめたものかは定かではありません。
しかし、奥の方に船の帆と家屋根が見えるのを四日市の宿場と考えれば、江戸側から京側へ向かっている旅人二人が描かれ、うち一人は向かい風に笠を飛ばしてしまい、慌てて拾いに駆け戻っているところと読めます。
季節は服装から夏の前後、天候は雨混じりの強い南風が吹いている状況というところでしょうか。
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今は埋め立てられて三滝橋から伊勢湾ははるか向こうになってしまいましたが、江戸の昔はこのように海が近くて強風が吹いていたのかもしれません。
さながら江戸時代の湾岸大橋だったのでしょうか。
大橋というにはほど遠いですが、江戸時代の河口に近い橋は、橋脚だけを残してあとはわざと簡素につくり、大雨が降るたびに上部構造は流すにまかせ、また架けなおすこともやっていたみたいです。
笠を飛ばされた旅人の慌てようや、柳の枝が風になびく様子、前をゆく旅人の雨合羽のはためきなど、広重の版画には動きがあるところが面白いです。

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四日市宿諏訪神社(34.967995, 136.622475)前からスワマエ商店街のアーケードに入ってゆきます。
東京の日本橋を出てからここまでの間、旧東海道が商店街になっている場所は多々ありました。
品川宿の先、青物横丁とか、神奈川宿と保土ヶ谷宿の間、洪福寺・松原商店街などは、昭和の街にタイムスリップしたようでした。
道路の両側にアーケード状の商店街が連なっていた宿場は、平塚や三島、吉原、江尻(清水)、府中(静岡)、掛川などたくさんありましたが、道全体を屋根で覆うようなアーケードは、この四日市スワマエ商店街がはじめてです。
というか旧東海道で、(時間を区切っているにしろ)車の進入を禁止しているような、アーケード商店街は、ここだけです。
ただ、あちこち街道めぐりしていると、旧道がそのまま屋根ですっぽり覆われたアーケードというのは、所々にあります。
たとえば京から下関へ向かう脇往還の西国街道なら、神戸の元町商店街や、尾道の駅前から東に続くアーケード、広島の本通り商店街など、みな旧街道がそのまま現在の目抜き通りになっているということになります。
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 DANさんとの旅の最中、スワマエ商店街の中で、機械仕掛けで首の伸びる大入道の山車を発見しました。
四日市には大入道の妖怪伝説があります。
ひとつは、大男が店で仕事させてくれと居候を願い出て、雇ってみると商売は繁盛するが、ある晩主人がその大男の正体を見てしまい、翌朝失踪してしまうというもの。
いまひとつは、狸がろくろ首に化けて悪さをするため、住民がもっと長く伸びる人形を用意して、これを撃退するもの。
ろくろ首は、首がのびるだけのタイプと、首が離れて飛行するタイプがあったと思いますが、四日市の妖怪は前者のようです。
妖怪伝説は自然現象や動物、昆虫がモティーフになっている場合が多いのですが、ことろくろ首にはそれがなく、夢遊病などの病気や、心霊現象がもとになっているのではないかなどといわれています。
首がのびたり飛んだりするだけで、行燈の油をなめる以外は、たとえば長い首でしめあげるなんて危害を加えるわけでもありません(小泉八雲の「怪談」に登場するろくろ首は、そうでもありませんが)から、どことなくユーモラスなのですが、「のっぺらぼう」と同様に、子どもには怖い妖怪でしょう。
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 商店街はアーケードもそのままに、スワマエからスワ栄商店街に変わり、諏訪神社から250mで広い通りに出ます。
これは中央通りと呼ばれる目抜き通りで、右(西)へ250mゆくと近鉄四日市駅で、左(東)へ750mゆくとJR四日市駅に突き当ります。
現在栄えているのは近鉄線の駅の方ですが、本陣等宿場の中心に近いのはJRの方です。
これは、鉄道で名古屋をはじめどこかへ移動する場合、大半の人が近鉄線を利用するからでしょう。
JR線は、関西本線の四日市〜名古屋間ですら単線区間が複数残っています。
快速など優等列車を走らせていて、運賃も特定区間として近鉄線より安いのですが、走っている列車の本数が違います。
ただ、関東へ帰る場合は、きっぷや乗り換えの都合から、旧東海道の旅をつづける際には、JR利用を予定しておく方が便利だと思います。
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JR四日市の駅に向き合うように、中央通りの真ん中に稲葉三右衛門の銅像がたっています(34.963229, 136.628127)。
この方は、幕末安政の大地震で壊滅した四日市港の機能を、明治になって回復し、四日市の近代化の基を築いたひとです。
四日市では知らない人はいないとか。
もっとも、築港の際に、明治維新で賊軍となった桑名藩の桑名城を破壊するのに便乗して、その石垣を四日市の堤防に転用し、新政府の露骨な贔屓政策もあって、江戸時代と明治では桑名と四日市の繁栄は逆転したことから、お隣の桑名ではよく思われていないのだとか。
四日市だって、江戸時代は幕府直轄の天領だったのですが、桑名藩の藩主(松平定敬)は明治維新の際最後の函館戦争まで転戦していますからね。
桑名と会津に関して、明治政府は心底憎んでいたようです。
それにしても、地域感情というものは複雑です。
なお、桑名城から持ち去った石でつくった堤防は、潮吹き堤防(34.960506, 136.640747)として、JR四日市駅のさらに東の海辺にある、稲葉翁記念公園(34.960875, 136.637968)から望むことができるそうです。
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旧東海道に話を戻します。
中央通りには横断歩道が設置されていません。
(その代わり地下道はあるものの、自転車の押し歩き用スロープはありません)
そこで50m東にある国道1号線の諏訪栄交差点(34.965240,136.622222)を横断します。
交差点を渡ったら西へ50m戻って左折して南下し、旧東海道の旅を続けます。
進学塾の入ったビルが両側に門のようにたっている間の旧東海道をゆくと、中央通りから150m先の右側が、浄土真宗高田派の祟顕寺(そうけんじ 34.963561,136.621100)です。
ここは作家の丹羽文雄先生の実家です。
旧東海道沿いの石柱側面に、生誕の地と彫られています。
親鸞・蓮如両上人の伝記を書いていましたっけ。
瀬戸内寂聴さんとか、新田次郎さんのお師匠さんですね。
小説を書こうという人は、先生の「小説作法」は必読でしょう。
私は例によって読んでいません。
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いっぽう、祟顕寺から80mさきの四つ角を右折し、300m西へ行った行き止まりにあるのが、鵜森神社(34.964805,136.616826)です。
周囲は公園になっていますが、ここが戦国時代に浜田城というお城があった場所です。
14世紀の半ばに築城され、百年後の1675年、織田信長の伊勢侵攻によって落城しました。
旧東海道はその先で徐々に進路を西へ向けながら近鉄線の下をくぐり、中央通りを渡ったところから980mで再び左に折れ(34.960585, 136.613776)て南西に進路を変えます。
この辺りまでが、江戸時代の四日市宿でした。
道が折れ曲がったところからさらに280mさきの四つ角手前にあるのが、鈴木薬局です。
創業寛延三年(1750年)って260年前じゃないですか。
無二膏、赤万膏本舗(有)製薬所って、ここで作っていたみたいです。
無二膏とは、京都で売っている古い軟膏です。
たしか切り傷や膿に効果があるとか。
ということは、ここで旅人相手に外用薬を製造・販売していたのでしょう。
説明書きを読むと、長崎で蘭方修行をし、漢方を伝授されて開業とあります。
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鈴木薬局のすぐ先の交差点を右折すると、30mで四日市あすなろう鉄道の赤堀駅(34.959213, 136.610429)です。
次回はこの赤堀駅に隣接した交差点から44番目の宿場、石薬師宿へ向かいたいと思います。
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たしか90年代に入ってからだったと思うのですが、「六千人の命のビザ」という本が出て、ドラマ化もされ、杉原千畝氏が急に脚光を浴びたときがありました。
自分はその7、8年前に東欧諸国を巡って、アウシュビッツなどにも行ってユダヤ人迫害の歴史を調べていましたから、氏のことは知っていました。
語学、特にロシア語に堪能で、満鉄から外務省に移った後、その才能ゆえにソビエトから睨まれ、リトアニアのカウナスで総領事をしているときに、本省の訓令を無視してユダヤ人難民に対し大量のビザを発給し、数千人をシベリア・日本経由で逃がした方です。
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第二次世界大戦の勃発時、ソビエトとナチス・ドイツ双方から侵攻されて、ポーランドが消滅したのは有名なお話ですが、そのすぐ後にソビエトはバルト三国にも侵攻し、これを併呑してしまいます。
在東欧ユダヤ人たちは、ヒトラーとスターリン双方から迫害を受ける形になり、戦火を避けて脱出する方法は、シベリア鉄道経由で日本から太平洋を渡るしか道がありませんでした。
日本の外務省は、杉原氏のユダヤ人への無制限なビザ発給は認めず、カウナスを早々に退去するように訓令を発します。
彼は大使館を引き払った後、ホテルから列車で出発する刹那までビザを発給し続け、難民が領事館に押し寄せてから、出発までのおよそひと月強の期間に、記録されているだけでも二千数百枚のビザを発給しました。
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終戦後に帰国すると、省庁の人員整理とともに抗命ということもあって外務省を解雇に近い形で退職させられ、以降は東京PX(進駐軍内の売店)の支配人を皮切りに、職を転々とし、家族を病気で失うなど不遇の時代を過ごしました。
自分がちょうどポーランドのアウシュビッツやチェコのテレジンなど、ホロコーストに関する資料展示で彼に関する記述をみた直後の1985年ごろ、氏がイスラエルからヤド・バシェム賞を受けたニュースに接し、あ、まだご存命だったのだと気がつきました。
その際にびっくりしたのは、戦後数十年経っているにもかかわらず、いまだ外務省が杉原氏を事実上罷免したことについて、何の名誉回復も為されていないという事実でした。
その頃は、イスラエルの氏によって命を救われた人々から、日本の外務省に圧力がかかっていたと記憶しています。
(ご本人の死後に名誉は回復されます)
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ヤド・バシェムとは表彰される場所にある施設の名前で、正確には「諸国民の中の正義の人賞」と呼ぶのですが、ヘブライ語で「カッシードウンモーターラム」(חסיד אומות העולם ←ヘブライ語って右から左へと読みます)といいます。
先日、イスラエル人が杉原千畝の故郷、岐阜県美濃市を訪れていると知って、そんな遠くへ行かなくても、鎌倉近辺に足跡はたくさんあるのにと思いました。
そこで、今回は鎌倉近辺に残る、杉原千畝氏の外務省を辞めたあとに暮らした場所をブロンプトンで巡ってみましょう。
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その前に、都内にある杉原氏の顕彰碑へ。
彼は早稲田大学のOB(在学中に外務省のロシア語留学生に選抜されたため、中退)なので、学内にレリーフがあります。
建立は没後25年ということで2011年の1024日ですから、かなり新しいものです。
なお、早稲田大学の構内は自転車侵入禁止です。
目指すレリーフがあるのは11号館と14号館の間ということですから、一番近い門は第2西門です。
ということで目白通りの西早稲田交差点から、早大西門体育館通り商店街の路地を入ります。
場所が場所だけに、安くお昼を食べられそうな飲食店や古本屋さんが並んでいます。
通りの奥、大学生協裏の駐輪場に自転車を停め、第2西門から入って正面の階段を下ると、レリーフは左手のすぐわかる場所にありました。
「外交官としてではなく、人間として当然の正しい決断をした」
これは、彼の功績が認められるようになってから、ご本人が淡々と語っていた言葉です。
しかし、職を辞する覚悟で、家族や周囲に迷惑が掛かることを承知のうえで、正しいことをするというのは、誰にでもできる事ではないと思います。
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早稲田大学をあとにして、小田急線の新宿駅へ向かいます。
ブロンプトンなら15分位です。
週末であれば、新宿から片瀬江ノ島ゆきの快速急行が毎時3本出ていますので、これを利用します。
新宿から藤沢はJRでゆくと972円もするのに、小田急は586円で済みます。
しかも始発だから座って行けるし。
西早稲田から副都心線と東急東横線を使って横浜へ出て、そこからJRで藤沢までいっても842円で、オールJRよりも安いのです。
湘南新宿ラインが人気のないのもうなずけます。
 
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藤沢の駅で降りたら、江ノ電の線路に沿って南下しましょう。
江ノ電の鵠沼駅西口を目指します。
駅に着いたら出口を背に賀来神社のお社を右手にみながら西へ進みます。
鵠沼駅前郵便局の前を通り、駅から100mほどで左手にカーブミラーのある三叉路に出て、道は西から南へ進路を変えます。
この三叉路のカーブミラーの後ろにある家が、戦後杉原氏の住んだ家です。
ここに家を求めたのは、杉原氏がまだ20代で満州国外交官として駆け出しだったころ、氏の手腕を高く評価した広田弘毅元首相が、戦中に住んでいた場所が鵠沼だったからだそうです。
戦前の1934年、外務大臣だった広田弘毅は、対ソ北満(東清)鉄道譲渡交渉の責任者で、杉原千畝はそのもとで実務官僚としてネゴシエーションにあたっていました。
彼は、老朽化した鉄道インフラの譲渡を高値でふっかけてくるソ連側に、線路の犬釘の腐食具合まで現地調査して反論し、正当な価格にまで引き下げさせたそうです。
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広田弘毅という人は、戦前の政治において軍部の干渉を招いたこと、日中戦争の継続を黙認したかどで、戦後の極東軍事裁判で1946年春に起訴され、1948年秋にはA級戦犯として有罪判決を受け、死刑を宣告されました。
(広田元首相の妻は、夫の起訴に先立って鵠沼の家で自殺)
同年1223日に巣鴨プリズン(現在、池袋のサンシャイン60がある場所)にて、絞首刑に処せられています。
裁判中は弁明を一切せず、判決後に検察側の首席検事ですら疑問を呈した判決で、国中から減刑嘆願の署名が集まったそうです。
死刑になったA級戦犯のなかでは、唯一の文官でした。
杉原千畝が終戦時にブカレストの日本公使館でソ連軍に拘束され、シベリア鉄道と引き揚げ船を乗り継いで帰国したのが19474月で、外務省を依願退職(事実上の解雇)したのが同年6月。
その翌年、元上司で理解者だった広田の処刑を、この鵠沼の家でどんな気持ちで聞いたのでしょう。
当面の職を失った杉原家では、この店舗兼住宅で奥さんが文具店を営みながら、糊口をしのいだという話が残っています。(つづく)
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