前に長野県内のワイナリーを組み入れたブロンプトンの旅をご紹介しました。
佐久平駅前からバスに乗って車坂峠までゆき、そこから高峰・湯ノ丸林道をブロンプトンで縦走して、東御市祢津地区にあるワイナリーへ下ってくるというものです。
あのとき、ワインを飲んで自転車に乗ってしまうと酒気帯び運転で道交法違反になるから、買って帰って飲むしかないという趣旨でワイナリーをご紹介しました。
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けれど、地産地消ではないですが、せっかくなら現地で飲みたいではありませんか。
ということで、軽井沢に宿泊した際にあのハウスワイナリーの赤ワインを、軽井沢のソーセージやチーズと一緒にホテルの部屋でいただこうと考えたのです。
温泉に入って汗をかいた後に、美味しいワインをいただきながら、これまたうまいつまみに舌鼓をうつなんて、考えただけで極楽です。
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今回は、はすみふぁーむさんの千曲川ワインバレーシリーズ(プレミアムライン)メルロがどこかにないかと探しました。
自社畑の葡萄しか使用しないこだわりのワインのため、生産量も葡萄の出来に左右されてしまうという、「出会ったらラッキー」なお酒です。
前にスキーの行き帰りに何気なく買って口にしたら、赤ワインが苦手な私でも「なんじゃ。このウマいワインは・・・」てな具合でたちまちファンになったものの、翌シーズンにいったら「今年は葡萄の出来が悪くて、去年のがはけたからもう一年待ってください」と言われ、改めてその偉大さに気付いてしまった次第です。
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はすみふぁーむさんは上田市の柳町(北国街道沿いの美観地区)にもショップを構えています。
しかし、農場のお店で品切れのものが、街中のアンテナショップにあるわけはありません。
仮にあったとしても、軽井沢に宿泊してわざわざワインだけのために東御や上田まで行くのは大変です。
夏以外の季節は山の上へバスも登らないので、電車の駅か高速道路のバス停から自転車で登坂せねばなりません。
しかも、ワイナリーは週末のみの営業です。
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ふーむ、こうなったら近隣の扱っていそうな(品揃えが豊富で伝統のある)酒屋さんにあたりをつけて聞いてみるしかありません。
軽井沢、佐久、小諸、東御、上田と、めぼしい酒屋さんに電話を掛けましたが、生産量の多くないはすみふぁーむさんの製品は、なかなか置いていないし、置いていたとしても希少種のプレミアムラインはありません。
農場にほど近い酒屋さんで、やっと去年の量販タイプが2本あるとわかったものの、そこへ行くのならアンテナショップへ行くのと変わりません。
もちろん、軽井沢にある巨大なアウトレットの中も探しましたが、ハウスワイナリーのような小ロットのお酒は置いていません。
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「あーやっぱり無理か。しかしそうなるとますます飲みたい」と思い、フレスガッセという歴史のあるソーセージ屋さんのご主人にダメもとで「この辺で東御あたりのハウスワイナリーの酒を扱っている店はありませんかね?」と訊いてみました。
すると、「はすみふぁーむの商品があるかどうかはわかりませんが、最近駅の横にできたワインバーは品揃えが豊富ときいていますから、行ってみてはどうですか。ボトルの販売もしてくれますよ」とのお答えでした。
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あれ、北口にそんなワインバーがあったっけな?
と思ったら、2016年7月にオープンしていました。
クラウドファンディングでできたんだぁ、すごい。
で、恐る恐る入ったら、ふたシーズン前の該当商品が3本だけありました。
おおっ、2年ぶりだね。
それにしても、南は伊那谷から西は安曇野、北は飯山まで、信州中のワインが集結している感じです。
このお店、時にはワインの勉強会もやっているみたいで、かなり熱心です。
それに、駅前だからここで飲んでも大概の宿泊施設ならタクシーに乗っても帰れます。
帰りにつまみの焼き鳥を買って、くだんのワインをホテルで飲んだら、あっという間になくなりました。
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せっかく水戸屋ドライブインをご紹介したので、かつてのスキーバスの続きを綴ってみます。
国道17号線を北上し、神流川を渡ったところで群馬県に入ります。
今の関越道でいうと、上里サービスエリアを過ぎて、上信越道との分岐である藤岡ジャンクションに向って右カーブを切る手前あたりが埼玉・群馬県境です。
高崎線に乗っていても思うのですが、埼玉県って北西に広いのだなあと感じるところです。
当時の夜行バスは高崎市内に入ると烏川の左岸を走りました。
対岸の河岸段丘上には高崎白衣大観音がそびえていて、昼間なら目立つのですが、夜はライトアップされていなかったため、巨人が丘の上に立っているように見えて不気味でした。
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(国道17号線の神流川橋 左手に見えているのは榛名山)

ちなみに、観音様のある慈眼寺は高野山真言宗のお寺で、関東八十八か所巡りの一番札所なのです。
お遍路の本場である四国の方は一番札所で納経帳からお遍路の衣装や金剛杖にいたるまですべて販売しているそうなのですが、こちらはどうなのでしょう。
今度行く機会があったらチェックしてみようと思います。
まぁ、ブロンプトンで八十八か所巡りを行うのであれば、RAWカラーのブロンプトンを用意して「南無大師遍照金剛」というシールを張り付けて杖代りにし、ヘルメットには有名な「同行二人」のほか、「迷故三界城」「悟故十万空」「本来東西無」「何処有南北」という合計五つの偈(げ)をマジックで書かれてはいかがでしょうか。
あっ、恰好は白装束が嫌だったら袖なしのものをサイクルウェアの上から羽織れば大丈夫ですよ。
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(高崎の君が代橋東詰交差点。国道18号線の起点ですが、立体交差になっていて自転車は走りにくいのです)

えっ?偈の意味ですか?
読みは「迷うがゆえに三界の城あり。悟がゆえに十万の空あり。本来東西なし。いずこにか南北あらん」です。
般若心経でいったら、「一切は空だ!」と悟れば般若の智慧を体得できる、と張り切ってその智慧にとらわれてしまう。
それどころか、体得したらご利益があるとか、仏さまがよしよしと褒めてくださるとか期待してしまうのが人情だけれど、そんなものは最初からありませんよ、そもそも一切が空なのだからという「むーちーやくむーとくいーむーしょとくこ(無智亦無得以無所得故)」というあの部分ですかね。
「迷うからこそ周囲は壁だらけ。
悟ればすべては空になる。
もともと東西も無いから南北もないのだ」
智慧のある人ほどその智慧が邪魔をして身はがんじがらめです。
一切は空だと心の底から笑えたなら、さぞかし自由なんだろうな。
あれ、何で高崎観音から般若心経に飛んだのでしょう。
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(少林山入口の鼻高橋にはだるまさんが)

国道17号線で烏川の土手を走り、君が代橋東詰めという交差点が18号線との分岐になります。
橋を渡らずに直進して北へ進めば、草津や万座、尾瀬方面の群馬県北部のスキー場あるいは、三国峠を越えて苗場をはじめ上越方面のスキー場へ。
左折をして烏川を渡って西へ向かえば、国道18号線で横川から碓氷峠を越え、軽井沢・小諸・上田を経て志賀高原や妙高、斑尾、野沢温泉などのスキー場へと行くことになります。
君が代橋のたもとの交差点ですが、週末は夜中でも渋滞していたことが多かったように思います。
国道18号線に入ると、今度は碓氷川の左岸沿いに上流方向へと進みます。
対岸にあるのは、黄檗宗の少林山達磨寺。
このお寺に因んだだるま弁当という高崎の名物駅弁は有名です。
また、戦前にドイツから日本に亡命した建築家のブルーノ・ダウト氏が2年間を過ごした場所なのですが、小学生の私には全然わかりません。
しかし、夜中なので全く見えません。
むしろ達磨寺の背後の山の上に輝いている、尖がり屋根のお城の形をしたホテルの方が当時は目を惹きました。
(小学生だから無邪気なものです)
このホテル、たしか「アテネ」という名前でしたが、付近の主要な道路の電柱すべてに看板を掲げていたため、バスの窓から余計に目立ったのです。
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(でも目立つのは山の上のあれでした)

さらにバスは国道を西へ向かいます。
その先で車窓から際立っていたのは、安中にある東邦亜鉛の精錬工場です。
この工場は碓氷川の支流である柳瀬川の向こう側の山の斜面一面に、夜でもたくさんの灯りをともし、かつ煙を出して操業しているようでしたから、周囲の山々が黒くうずくまっているのに対して、ここだけが近未来の巨大工場が闇の中に浮かんでいるようでした。
夜汽車が国鉄安中駅に差し掛かった際に車窓から見上げると、国道よりも近い分、さらに迫力がありました。
ただ、この工場は当時廃液や煤煙に含まれるカドミウムについて公害訴訟が提起されていて、手放しで夜景がきれいだとはいえませんでした。
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(国道18号線の鷹之巣橋から碓氷川越にみる東邦亜鉛の精錬所)

安中を通過したバスは碓氷川左岸段丘上のバイパスで松井田を抜けます。
この辺りから、進行方向左手車窓にはまるで天狗の住処のような奇怪な姿をした妙義山が黒々と聳えているのが確認できるようになります。
群馬県における小学校の運動会って、紅組・白組ではなく、「赤城団」「榛名団」「妙義団」の上州三山に分かれて三つ巴で競うといいます。
赤城とか榛名は有名な軍艦の名前だから格好いいけれど、妙義団なんて、あの岩山に潜む山賊の名前みたいだなと小学生の自分は思ったものです。
でも、もしも「〜団」ではなく「〜組」だったら、もっと危ないような気もするのでした。
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(松井田バイパスから見る妙義山)

やがてその岩山の懐に潜り込むようにバスは走り、川向こうに見上げるような岩壁が立ちはだかる駐車場に入ると、そこがおぎのやなのでした。
当然、時刻表大好き小学生だったので、この駅から信越本線の下り列車は「峠のシェルパ」と呼ばれる電気機関車を粘着運転させて峠を越えることや、駅前の側溝の蓋は、かつて鉄路の中央に設置され使用されていたアプト式軌道のラックレール(歯形軌条)であることを知っており、機関車着脱の間に販売される「峠の釜めし」とその製造をしているおぎのやさんは、特別に旅情を誘う存在でした。
そしてこうして真冬の夜中にスキー客でにぎわった横川で、夜食として売られている釜めしは、ひときわ美味しそうに見えました。
いま、峠の釜めしが横川サービスエリアや北陸新幹線(高崎・軽井沢両駅停車の「はくたか」のみ)のワゴンで販売されていても、当時の面影は全くありません。
なお、あの容器が益子焼でできていることは有名ですが、別売りのキットを購入すると漬物容器になることはあまり知られておりません。
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(横川近くの裏妙義。谷間には小さなダム湖がありますが、ヤマビルがたくさん出るらしいので夏は近づきたくありません)

横川でトイレ休憩を済ませたバスは、夜の碓氷バイパスをのぼってゆきます。
このバイパスは70年代のはじめに開通したばかりで、当時は有料でした。
碓氷峠の手前、群馬県側の中間地点にカエルとダルマをかたどった一対のコンクリート製の像がありまして、カエルの方は無事カエルの意味でしたが、ダルマの方は塗ってあったペンキがはがれるたびに塗り直ししているうち、目が大きく黒くなって「呪いの髑髏」なんて呼ばれるようになってしまいました。
言うまでもなく、名産上州ダルマの姿をしていますし、縁起物ですから「交通安全祈願」を願ったものです。
その時代のトラックやバスは、長い下り坂でブレーキ故障を起こすことも多く、当時のバイパスには何ヵ所か緊急避難用の待避所(砂を凸凹に何層も連ねた上り坂)が設けられていました。
いつの間には放置されて草ぼうぼうになってしまいましたが、あの忘れ去られたようなダルマやカエルも含めて、難所に対する畏れが薄らいでいると感じるのは自分だけでしょうか。
碓氷峠を高速道路でパスし、或いは新幹線のトンネルで峠すら意識せず通過できることは、安全で便利なことには違いないのでしょうけれど、昔を知っている自分からすると、一昨シーズンに起きたスキーバスの転落事故は、どこかに忘れてきた旅の危険に対する意識の欠如を暗示しているような気がします。
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(旧中山道沿い 横川駅前にあるおぎのやさんの本店 ドライブインはもっと大きくて派手です)

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今回も昔のスキーネタです。
ブーム前の段階で東京近郊からスキーに行っていた方でないと通じない話題ですよ。
私がスキーをはじめた70年代後半は、関越自動車道が練馬から東松山までしか開通しておりませんでした。
(中央道も勝沼まで)
ということは、信越方面にスキーをしにバスで行く場合、残りの区間は下道(国道17号・18号)を延々と走らねばなりませんでした。
新宿とか池袋を出た夜行バスは、目白通りを抜けて練馬から高速にのるのですが、所沢、川越、鶴ヶ島、東松山でもう高速道路はおしまい。
あとは真夜中の森林公園を横にみながら、旧・熊谷東松山有料道路を走り、熊谷市内から中山道を北上するのでした。
いまでも、夜の関越道を走っていてオレンジ色をしたナトリウム灯の列が東松山ICで途切れると、昔を思いだします。
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(熊谷市内の17号)

さて、当時はまだマイカーが広くゆきわたっておりません。
よって国鉄の夜行列車も混んでいましたが、スキーバスもまた相当に盛況でした。
一台に補助席まで使って50人前後が乗っているので、トイレ休憩も(所要時間がいまよりずっとかかることもあって)必ず行かされるのでした。
そして、都内を出た上信越方面へのスキーバスが最初の休憩で立ち寄るのが、熊谷にある水戸屋ドライブインでした。
手前に高坂サービスエリアがあったのですが、こちらに寄るということは何らかのインセンティブがあったのでしょうね(笑)。
だいたいみな同じ時間に東京を出るものだから、20時から23時の間になると、バスの群れがさして広くもない水戸屋さんに大挙して押し寄せるのです。
このお店には五家宝という名の「飴にきな粉をまぶした」埼玉銘菓も製造販売していたのですが、これからスキーに行くのにお土産どころではありません。
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(温度計で有名な八木橋デパート前)

次の休憩は峠のかまめしで有名な横川のおぎのやさんか、そのお隣の碓氷ドライブイン、または信濃追分にあったドライブイン軽井沢と相場が決まっていて、そこまでがんばっても3時間以上かかったので、ここではトイレが大混雑になっていました。
(うち、いま残っているのは横川のおぎのやさんのみです)
ピックレディのような髪型に、リバティ・ベルやルコックのもこもこダウンを羽織り、下にVANだのボートハウスだののトレーナを着たお姉さんたちが、お行儀よくトイレに並んでいるのを、小学生の浪馬はラグビーのスクラムハーフみたいにステップを踏んでかわしながらジュースを買いに売店へと走っていました。
子どもだったから、普段眠っている時間に活動すると、妙にテンションが高くなっていたのです。
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(おー懐かしい。この1階と2階部分が開放されていたと思います)

80年になって関越道が藤岡まで開通すると、ここに立ち寄ることもなくなりました。
いま、かつてのドライブインは書店からコンビニになり、ここが観光バスで賑わったドライブインだったことを知っている人も少なくなりました。
このビルのトイレでは間に合わなくて、外の駐車場にもトイレがあったっけ。
あのころ、熊谷は夏も暑かったけれども、冬も寒かったのです。
そしてここを出たバスは、高崎までの間、葱畑の中をまっすぐにのびた上下2車線の国道を、トラックの群れに混じりながら、あるいはすれ違いながら走りました。
私はその頃から車窓オタクだったので、国道沿いの畑と、夜中には閉店しているネギ直売所のトタン屋根を、冬の月が煌々と照らしていた情景を思い出すことができます。
そしてあの頃のトラックといえば、ピカピカチカチカ天下御免のトラック野郎そのもの。
時折コンボイのようになってすれ違う彼らの列が夜行道中のうら寂しさを際立たせているのでした。
時間と体力とがあったら、わざと夜半の国道を車で走ってスキーへ行ってみたいものです。
ところで、ブロンプトンではなくBirdyでスミマセン。
このときは中山道をどこまで行けるか実験していたのでした。
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(当時は立体駐車場はなくて、建物の裏手から回り込んだバスが、一方通行で国道へ出てゆく構造だったと記憶しています。)


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内足ターン、クランマーターン、ヘリコプターターン、プロペラターン、キックターン、ゲレシュプ(=Geländesprung−ドイツ語でゲレンデのコブでジャンプすること)、大の字ジャンプ、コサックジャンプ、トレイン滑走、ムカデ滑走、クラウチング・スタイル、あぁ、片足スキーなんていうのもありました。

これ、みんな映画「私をスキーに連れてって」に出てきたスキー技です。
内足ターンは通常のターンとは逆スキーのエッジに乗り、バランスをとるために使っていない方の脚を後方に伸ばすから、おのずとフィギュアスケートのスパイラルみたいな滑りになるのです。
そして内足ターンを短く詰めてゆくと、チャールストンになります。
また、内足ターンができれば、片足スキーは自然にできるようになります。
なんであんな練習をするかと訊けば、「バランス感覚を磨くため」という答えが返ってくるのでした。
ムカデ滑走は密着度が高くて若い男女には興奮ものでしたが、初心者にターンの際の上体の動きを教えるのには、あんな風に後ろについてもらうのが最適でした。
そして子どもが相手だと「股下くぐり滑走」など応用して遊んだものです。

あの映画には人一倍思い入れがあります。
撮影時、ちょうど冬から春まで志賀高原でアルバイトしていましたから、スノーモービルに乗った撮影隊を横目で見ながらお仕事にいそしんでいたのです。
あらためてよく見たら、映画の後半に自分たちが仕事しているシーンがワンカット入っていました。
お天気が良かったから1986年3月の後半だと思います。
あの頃はスキー場も賑わっていて、本当に良い時代でした。
旅とスポーツをシンクロさせて楽しむことを教えてくれたのが、スキーでした。
それを自転車に応用したのが、このブログです。
前にも書きましたが、旅は体を使う方が思い出深くなるものなのです。
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(おこもりしていた硯川は、冬場は本当に寒かったのです)

そんなわけで、自転車でスキー場へ乗り付けられるか、以前から試してみたかったのです。
自分にとって、スキーとはハンドルのない自転車のようなものなので、両手にストックを持たねばこの映像のようにフリーになります。
ならば、カメラを持って滑っていても問題ないじゃないかということで、ついでに撮影をしました。
実質4時間くらいしか滑っていないのに、これだけ沢山のアングルが撮影できたのは、GoProというカメラの偉大さだと思います。
特に6で撮影した映像は、ジンバル(スタビライザー)を使用していないにもかかわらず、かなり揺れが抑えられています。
この動画を撮った時、転ぶとわかっていたら手で拳銃をつくって「バーン」とあの主人公の真似をしたのに。
もしもあの頃に、ウェアブルカメラがあったら、やりたい放題だったと思います。
それにしても、改めて映像を確認すると、自分は寝間着のままゲレンデに出てきた地元の中学生くらいにしか見えないのでした。(泣)
今後、あの頃の話を交えて、スキーの魅力についても書きたいと思います。


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(直弼公のお墓)

豪徳寺の続きです。
かなり広い墓地をさらに奥に進んでゆくと、直孝をはじめ有名な直弼など歴代藩主のお墓が。
ちょうど放映されている大河ドラマの主人公直虎のお墓は…ありません。
誰が直虎なのか諸説ありますし、歴史オタクでもよく知らない人を大河の主人公にしたりして、大丈夫なのでしょうか。
墓域には桜田門外の変で斃れた家臣たちの墓や、長州征討や戊辰の役で散った彦根藩兵の墓もありました。
当然のことながらひこにゃんはお墓におりません。
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長州といえば、吉田松陰のお墓がここからわずか800m東の松陰神社内にあります。
あそこは毛利家の別邸だった場所です。
新暦に直して時系列に並べると下のようになります。
 
1858年(安政5年)729日 日米修好通商条約調印(孝明帝の勅許のないままの調印が問題に。いわゆる不平等条約)
1859年(安政6年)1121日 小伝馬町牢屋敷にて吉田松陰斬首(享年29歳)
・同年1123日弟子たちにより小塚原回向院に埋葬(当時刑死者の遺骸はおおっぴらに埋葬できませんでした)
1860年(安政7年)324日 江戸城桜田門外にて大老井伊直弼横死(享年44歳)
1862年(文久2年)5月 一橋慶喜と松平春嶽による安政の大獄遭難者の大赦
1863年(文久3年)15日 高杉晋作、伊藤博文、赤彌武人等によって、松陰の遺骸を若林大夫山に改葬
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これを見ると、松陰の刑死から桜田門外の変まで僅か4カ月しかないのです。
綻びだらけの幕藩体制を支えようと強権発動し、安政の大獄を指揮した直弼の首と、その大獄で処断された過激な革命家ともいえる松陰の首が隣り合わせに眠っているとはなんともです。
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(あれ?寝ている)
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(みかん?)
 
さて、三重塔の裏手にある、有名な招福猫児(まねきねご)が祀られている招猫殿へお参りし、横の奉納猫を眺めてみます。
写真でみていたので結果は分かっていましたが、並んでいるのはこのお寺で授与されている招福猫児ばかりです。
ポピュラーな大判を持っている子とか、金色の子とかはおりません。
ここは願いが成就した際に納める場所ですから。
ただ、眉毛があったりなかったり、白目があったりなかったりと、微妙に違う猫が混じっております。
しかし、よーく見ると端の方に違う猫が…。
それでもひこにゃんはおりません。
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どうやらあの子はイベントの時じゃないと彦根城から出張ってこないみたいですし、ここでひこにゃんグッズを売ってしまったら彦根市に対して面目が立たないのかもしれません。
改めて本堂へお参りします。
天水桶の紋は井伊家の替紋(かえもん=略式の家紋)である井桁です。
ここのご本尊は釈迦如来だから「南無釈迦牟尼如来」かな。
そして、最後に立ち寄ったのが寺務所でした。
入口に招き猫のボードがでんと鎮座しています。
なるほど、このお寺は招き猫ファンの聖地みたいなのでしょうか。
中に入ると、あれ、井伊の赤備えのファンらしき外国人の方がお見えになっている。
なんと、こんなところにまでインバウンドかと思いきや、どうも日本に住んでいる方のようでした。
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どうれ、一番小さな招福猫児はおいくらかなと思って覗いていると、右側のガラス棚の中に、いた、ひこにゃん。
売り物ではないのでしょうが、ちゃんとボードと人形とが飾ってありました。
そして反対側の棚には出世法師直虎ちゃん。
うーん、流石というか、あっぱれというか。
でも、こうしてキャラクターを前面に出して親しみやすいお寺にするのは悪くないかもしれません。
井伊直孝公が猫に招かれて仏法を聴いたのも、仏縁のひとつなのでしょう。
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帰りがけのこと、山門のそばに「探し猫」が張り出されているのに気づきました。
なるほど。
ここに貼れば猫好きの人が見るでしょうから。
私は犬よりは猫が好きなので、今日は猫づくしとばかりに帰りがけに桜新町の猫カフェでも寄って帰ろうかと思っていたのですが、既にお腹いっぱいでまっすぐ用賀、二子玉を経由して1時間くらいブロンプトンを走らせて帰宅したのでした。(おわり)
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