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その頃、信長の長男である信忠は一人、馬を本能寺へと走らせていた。
「待て!信忠!」「兄上!」後ろからは叔父である織田長益(有楽斎)、弟である勝長が馬で追いかけながら説得を試みていた。
「信忠!よく考えい!父上の遺志を汲むのだ!安土へ逃げ、お主が号令をかけて蒲生と協力すれば、柴田が帰ってくるまでは時間も稼げようぞ!そうすれば我らの圧勝なのだぞ!」長益は必死に言った。
「兄上!その通りです!大坂には丹羽殿と神戸殿(信長の三男。伊勢の名族の神戸氏に用紙に政略により養子に出されていた。名を信孝)もいらっしゃる。それらと連携して挟撃すればよいのです!」勝長も言った。
信忠は何も言わなかった_______
織田信忠。
戦国武将の中では知名度はあまり高くない。
1557年(弘治3)年生まれ。信長の長男であり、1575年には織田家の家督を継いでいる。通称秋田介。
1582年の武田攻めでは中山道の方面を任され、五万の兵を率いた。仁科盛信(武田勝頼の弟)の守る高遠城を攻めたときは、自ら城壁に登り、陣頭指揮を執った。
この働きによって、兵はかなり鼓舞されたらしいが、何せ五万の大軍である。むしろ信忠が討たれて五万の軍が総崩れするリスクの方が高かったと言える。
その後は滝川一益の支えもあり、一ヶ月で武田氏を滅ぼし、勝頼の首を見事に信長に献上している。
後世の武将で信忠をたとえるならば、まさに黒田長政並みの猪突猛進ぶりである。しかし、長政よりは謀の才は月とすっぽんほども差があり、言っては悪いが知能は可児才蔵並みでは?と思ってしまう。
その器はまさにこの本能寺の変の時にかいま見えた。
しばらくゆくと、信忠の前に、何と蘭丸の弟である坊丸が、着物を真っ赤にしながら、よたよたと歩いてきた。
「坊丸か!」信忠は坊丸を抱きかかえ、「父上は!」と叫んだ。
すると坊丸は、「う・・・たれ・・・て・・・しまわ・・・・た・・・・・」と言って絶命した。
「信忠、もう救うべきお仁は居ないのじゃ、安土へ急ぎ戻るぞ!」長益は言った。
「そうです!兄上!早くせねば坂本(城)の明智軍に道をふさがれてしまいますぞ!」勝長も言った。
信忠はさすがに堪忍したのか、その場に少しうなだれた。
しかし、次の瞬間に信忠が発した言葉は衝撃以外の何ものでもなかった。
「二条の・・・御所じゃ。参るぞ!」と言うなり馬を繰り出したのである。
続く
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織田信忠の評価は分かれる所ですが、次男・
三男よりは上だったように思います。ポチ☆
2012/4/1(日) 午前 0:33
・・・ですね。怒るばかりの次男とふてくされた次男よりは・・・
2012/4/3(火) 午前 11:18 [ 島津は鈍足 ]