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その頃、二条御所前に秀満を先鋒として集結した明智軍は、一万を超えていた。
「親王様を引き渡せ!親王様には決して我が殿は危害を加えるつもりはない!」秀満は二条御所の塀の内側に向かって叫んだ。
すると中から、
「その必要は無い!もはや親王様は内裏だ!」どうやら信忠自身の声らしかった。
「承知!」秀満は答えた。そしてすぐに、
「総攻撃を仕掛けよ!」と号令をかけた。
二条御所を包囲していた明智軍一万三千人以上の兵は、一斉に塀を登り始め、堀を渡り、守備兵千人ほどに襲いかかった____
「今ごろ無事に三法師は逃げおおせているだろうか・・・」信忠は明智軍の鬨の声に耳を傾けながら呟いた。
これより半刻前、本能寺が襲撃されているとの報を受けた信忠は直ちに、そして密かに長男の三法師(当時3才、のちの秀信)を前田玄以(のちに豊臣政権下の五奉行のうちの一人となった、僧形の武将。)に命じ、三法師を脱出させていたのだった。
信忠が無謀とも言えるこの二条御所での籠城を決行したのは、実は三法師を逃がすための時間稼ぎという意味合いが大きかった。
が、誰も分かってはくれていなかった。ただ村井貞勝だけは察してくれているようだった。
四半時もした頃には信忠軍のほとんどが討ち死にしていた。
「信忠様、旗色が完全に悪うございます、そろそろ火を点けましょう。」貞勝が進言をした。
「そう・・・するか。」二条御所に火が点いた。
「介錯を頼む。」信忠は小姓に命じた。「ワシも頼む。」勝長も言った。
「そちはどうする?」信忠は貞勝に聞いた。「なぜかはわかりませんが、武人としての血が今さらながらたぎってきたようでして・・・」槍を持ちながら貞勝は答えた。
「そうか・・・お前は行くか・・・」「ではこれで、逝って参ります。御免。」村井貞勝、享年62
「では我らも・・・」「・・・だな」織田信忠、享年26。織田勝長、享年不明
続く
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信忠にとって唯一の救いは、三法師を逃す事を
成功させ、生き永らえさせた事でしょうね。ポチ☆
2012/4/8(日) 午後 2:25
ポチ感謝です^^
ですね。。。三法師まで死んでいたら完全なる敗北ですよね。
2012/4/8(日) 午後 4:16 [ 島津は鈍足 ]
こんにちは。本日からブログを再開しました。また宜しくお願い致しますm(_)m
2012/5/13(日) 午後 0:54
了解しました!伺います!
2012/5/17(木) 午後 0:59 [ 島津は鈍足 ]
GHQが確認したザビエルの手紙
明治20年頃に愛宕守様(太子)など桃園親王家(源・本家)が
荘園時代から代々所有し守る氏神様で家訓(律令)に下ずき
維新後.初て明治15年に新調した産土宮(御殿)と若宮(御殿)を遷宮し
長皇子(嘉仁親王)と各・宮家を歴代の上屋敷に
在日大使館代表などと陸軍・海軍の武官を
明治5年に建設した招待所や他の施設に招き
宮内府や
源氏の本地や摂津・若狭・信濃ナド飛地で維新後.直に結成され
昭和20年頃まで存在した庄屋講と5人組講と共に行れた
伝統祭事の御子様(分家長女).ご誕生の礼式は厳かに執り行れ
内裏様(本家后)を中心に御子様が分家妃や御子様(女性)と整列され
各・宮家妃と皇子様(女性)や大使夫人と武官婦人が
拝謁されたのを御存知ですか。
2012/6/17(日) 午後 1:53 [ 環境大学新聞 ]