|
1904年(明治37年)11月27日から始まった203高地争奪戦が始まった時にはすでにロシア 軍がそれに気づいており、山頂付近を中心に陣を展開していました。 そのロシア軍に対しての支援砲撃に続いて第三軍第一師団は攻撃を開始した。しかし高地の中腹まで占 領したものの、ロシア軍の猛攻撃を受けて退却した。 翌日(28日)8時に西南方面の突撃隊が突撃、山頂の西南部分を占領する。しかしすぐに反撃を受け 山頂を奪回されてしまった。 29日には日本軍は第七師団を投入、さらに戦闘は激化した。その甲斐もあって30日夜には203高 地を制圧した。しかし翌朝(30日朝)にはロシア軍が奪還した。 このままではらちが明かないと判断した満州総司令官大山厳元帥は、児玉源太郎総参謀長を旅順へ南下 させた。 これにより第三軍を直接統括することになった児玉総参謀長は、12月1日〜3日を攻撃部隊の整理 、大砲の陣地変換を行った。 そして4日に第三軍は攻撃を再開、大激戦の末に________________________ _________一二月五日、ついに203高地を占領したのであった。 二〇三高地を占領するために日本軍が払った犠牲は五五〇〇人、ロシア軍もほぼ同じ数の死者を出し、 203高地争奪戦は終了した。
|
日露戦争
[ リスト | 詳細 ]
全1ページ
[1]
|
実は今日は日露戦争で最大の激戦となった二〇三高地争奪戦が集結した日なのです! ではその二〇三高地争奪戦とはどのようなものか、と言う前に背景から解説します↓ 背景 1904年(明治37年)2月8日 日本海軍は朝鮮などの内陸で戦っている陸軍の補給路を絶たせないために、当時世界最強と言われたバ ルチック艦隊と合流して日本連合艦隊を各個撃破し、日本海の制海権を制圧して日本軍の補給路を絶つ恐 れのある旅順に配備されていたロシア軍の旅順艦隊を撲滅した後に、日本軍の補給船を攻撃して補給路を 絶とうとしているウラジオストロク巡洋艦隊から補給船を守り、最後に来たるバルチック艦隊を撃破し、 日本海、渤海、東シナ海、黄海、オホーツク海の制海権を掌握し、戦争を有利に進めようとしていた。 しかし旅順艦隊は、当時世界一の要塞といわれた旅順要塞に守られ、とても手出しできないようになっ ていた。そこで日本海軍は旅順港を老朽艦を沈めて閉鎖し、バルチック艦隊と合流できなくする作戦を立 てた。しかし第一次、第二次旅順港閉鎖作戦も失敗、これによってこの作戦は中止、にらみ合いが続いて いた。 この状況を見かねた総司令部は新たに乃木希典大将を司令官とした第三軍を編成、旅順へ上陸させた。 第三軍は7月にはロシアの前線基地への攻撃を開始、8月には旅順要塞を囲んでいた。 そして8月18日_______第三軍は旅順要塞への攻撃を開始した。 10万発以上の砲撃を要塞に加え(19〜20日)、21日に歩兵部隊による総攻撃が開始された。 しかし____10万発以上も撃ったにもかかわらず、砲台、壁などはほぼ無傷であり、生半には落と せなかった。さらに旅順要塞には機関砲を大量に配備してあり、その防御力は無敵に等しかった。 そして8月24日、日本軍第三軍は15800人もの死傷者を出し、第一次総攻撃を中止した。この攻 撃で占領した部分はごくわずかだった。 10月26日に第二次総攻撃が開始された。この時さらに内陸から新兵器が送られてきていたが、攻撃 は停滞、死者3830人を出し、総攻撃は中止された。 さらに第三次総攻撃にも失敗し、多数の死傷者を出した第三軍は203高地へと攻撃対象を変更した。 _____________________________________________________________________________________________________________________________________________________________ ここに203高地争奪戦が始まったのです。
|
|
今NHKで放送されている『坂の上の雲』にちなんで日露戦争をこのブログで取り上げることにしました。
ぬるい知識ですが役に立てたらいいです^^ |
全1ページ
[1]




