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「神子元島灯台」
神子元島は、下田港の南沖11kmにある周囲4kmの無人島である。島の標高は約30m。島全体が茶色がかった岩でできていて、一本の木も生えていない。わずかに草が生えているのみである。
ペリーの日本遠征記にも、神子元島は「ロック・アイランド」の名で以下のように記されている。「ロックアイランドから伊豆半島へと暗礁が続いており潮流の流れも迅く而も複雑であり、風向も変化多く航海の難所である。」
幕末の慶応2年(1866)、英仏米蘭と日本との間で改税約書(江戸条約)が締結された。その条約には、輸入税が大幅に引き下げられるとともに、第11条には、航行の安全をはかるため要所要所に灯台や浮標を設置することが我が国に義務づけられた。
英国公使パークスは海軍局、航海家と協議し神子元島外10ケ所に灯台や浮漂を設置することを政府に建言した。神子元島灯台は、観音崎 、剣崎 、潮岬 、佐多岬などと共に、日本各地で建設されたその条約灯台8基のうちのひとつである。当時の一大国家プロジェクトであった。
設計は、イギリスの灯台建築家スティーブンソン兄弟。灯台建設の監督は、スコットランド人のリチャード・ヘンリー・ブラントン(Richard Henry Brunton 1841.12.26-1901.4.24)。
着工は明治2年(1870)2月。それから1年10ケ月間の工事期間。一つの木も茂っていない潮流の速い絶海の小さな無人島で、人力のみによって石造灯台を築く工事は、大変な難工事だった。
下田のエビス崎付近から切りだされた伊豆石を精緻に積み重ね、メジには、稲取(東伊豆町)の火山灰と、梨本(河津町)の石灰石を神子元島に運び込み、石炭で焼いて使用したという日本初の速成セメントが使われた。
当時建設された灯台のなかでも最多の費用を投じ、関わった人夫は数千人、犠牲者も出たといいます。
竣工は明治3年旧暦11月11日(西暦1871年1月1日)で、点灯式には当時の政府首脳、三条実生、大久保利通、大隈重信、英国公使ハリー・パークスらが島を訪れ立ち会った。
灯台の高さは23m、灯台の光は約36km先まで届き、船舶の航海の安全を提供している。
明治9年までは灯台の保守に外国人が雇われていて、灯源も石油ランプから今では太陽光発電に変わった。
太平洋戦争では艦砲射撃を受けレンズが破損したが、130年以上も灯台の灯をともし続けている。
官設洋式石造灯台では、我が国最古の現役灯台であり、国の文化財(史跡)として昭和43年11月指定を受け、平成10年には国際航路標識協会(IALA)が選定した「世界歴史的灯台百選」のひとつでもある。
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