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愛知県に住むシーカヤッカー・カミヤッカーが、勝手気ままに書き散らす日記です。

南伊豆ツーリング

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「最終日のプラン」

 5月5日、朝から南西の風が強く吹いていた。予報では、昼からはさらに強まるとのこと。

 5月3日にから始まったツーリングは、幸運にもスタートと同時に日本列島を完全に覆うほどの巨大な高気圧に覆われてたが、3日目の今日はその高気圧のへりまでさしかかり、とりあえず天気はいいものの風が物凄く強い一日となりそうな日だった。

 初日が6人、2日目が4人とだんだん減ってきたメンバーは、今日、Nさん、Tさん、そして私の合計3人となった。

 今日のツーリングの予定は、NさんとTさんは、まず下田の爪木崎の九十浜を出て、東伊豆を北に向けて行けるところまで行く。できれば赤沢、理想は川奈。

 私は、11時か11時30分くらいまで、NさんTさんと一緒に漕ぎ、そこから折り返し外浦まで戻る。外浦の駐車場には昨夜のうちに私の自動車をセットしておいた。

 NさんとTさんは、16時頃まで漕ぎ上陸し、私が車で回収に向かう。といった計画だ。

「テントで簀巻き」

 疲れていたことと、無風だったので、ペグは打たなかった。疲れた体で、とりあえずテントだけを張り、レインフライも張らずテントに入った。

 前回の日記に「テントに入り爆睡。」と書いたが実際は少し違った。

 一つは、夜の街頭がテントの布越しに眩しくて反対側に寝返りをうってからやっと寝付けたことと、もう一つは、朝日が眩して目覚めるまでの間に、夢を見たことだ。

 その夢の中でも、私はその場所でテントで寝ていて、夜中地元の人達が私の寝ているテントを取り囲み怒鳴っていた。

 「なんだ!このテントは!」

 「キャンプは禁止って書いてあるだろうが!」

 「テントごと海へ捨てちまえ!」

 私はテントに簀巻き状態にされてテントに包まれて、持ち上げられた。

 「すいません。ごめんなさい。」私は大声を張り上げ何度も謝った。と、そこで目が覚めた。

 テントの外では、強風が吹いていて、ペグなしのテントは私をまるで簀巻きのように包んでいた。

「神子元島 − 九十浜」

 神子元島の平らな場所で、昼食を食べた。岩場には多くの釣り人がいた。

 食後、神子元島を登り灯台を見た。灯台の玄関の上に貼り付けられている明治3年のプレートがなんとも渋い。築130年以上も経過した灯台は、台風や地震が何百回も襲ったに違いないのに全く壊れていない。当時の素晴らしい建築技術と名も無き職人達の技術に関心した。

 カヤックに乗り込み、島の南端を回り、下田港への入り口の西にある赤根島を目指して漕いだ。

 途中、可愛らしい海雀や、ドリフトダイビングをしている人達がいた。ドリフトダイビングとは、文字通りドリフト・漂流するダイビングだ。神子元島付近でダイビングボートから降り、海流に流されつつ海中を観察するのだ。しかるべき場所・時間になったら浮き上がり、目印のフロートを膨らます。我々が見たのは、蛍光色の1mくらいの細長いチューブのフロートだった。

 海流に少し流され、下田港の向かって右端にある爪木崎にある恵比須島に上陸し、そこで小休止した。再び外浦方面へ漕ぎ出し今日のねぐらを探した。結局九十浜でキャンプすることにした。海流のアシストもあったが、今日は22Kmくらい漕いだ。2日間の寝不足と今日の炎天下での日焼けで疲労感を感じた。

 九十浜ではウネリがマイルドにシェイブされてセットでヒザくらいの波があった、海人の長桶さんとそのお客さん30人くらいが、カヤックやOC−4などでサーフィンを楽しんでいた。私も少しの間サーフィンを楽しんだ。いまだ未修得のサーフィンのマニューバがあるのだが、ギャラリーが多いとどうしてもカッコイイ所を見せようとしてしまい、出来る完成度の高いマニューバだけを使ってしまい、いい練習にならない。

 その時刻に、4月28日から、神津島−式根島遠征をしていた東さんがフェリーで下田港に戻ってきたので、東さんの車に中木まで車を取りに行くために乗せていただいた。

 東さん、下田−神津島−式根島のキャンプツーリングや海峡横断をWFのカナック480でやったとのこと。ビックリして声も出ない。

 その後、明日のツーリングのための車の回送用のセットして、下田市内で天然温泉の銭湯に入り、美味しい焼肉屋さんで舌鼓。

 九十浜に戻りビールを1缶飲んだだけで、よほど疲れていたのだろうテントに入りスグに意識がなくなり爆睡。

「条約灯台」

 1866年5月にアメリカ、イギリス、フランス、オランダの四ヶ国と結んだ改税約書(租税条約、江戸条約)の中で8ヶ所の灯台を整備することが定められた。

  観音埼灯台(初点灯1869年)
  野島埼灯台(1870年)
  樫野崎灯台(現存・現役・1870年) - 初めて回転式せん光を採用した
  神子元島灯台(現存・1871年)
  剱埼灯台(1871年)
  伊王島灯台(1871年)
  佐多岬灯台(1871年)
  潮岬灯台(1873年)

 また、1867年4月にイギリスと結んだ大坂約定(大坂条約)では5ヶ所の灯台。

  江埼灯台(現存・現役・1871年)
  六連島灯台(現存・現役・1872年)
  部埼灯台(現存・現役・1872年)
  友ヶ島灯台(現存・現役・1872年)
  和田岬灯台(1872年)

 明治維新による政権交代があったため、着工は1年遅れたが、順次建設されていった。

イメージ 1

イメージ 2

イメージ 3

「神子元島灯台」

 神子元島は、下田港の南沖11kmにある周囲4kmの無人島である。島の標高は約30m。島全体が茶色がかった岩でできていて、一本の木も生えていない。わずかに草が生えているのみである。

 ペリーの日本遠征記にも、神子元島は「ロック・アイランド」の名で以下のように記されている。「ロックアイランドから伊豆半島へと暗礁が続いており潮流の流れも迅く而も複雑であり、風向も変化多く航海の難所である。」

 幕末の慶応2年(1866)、英仏米蘭と日本との間で改税約書(江戸条約)が締結された。その条約には、輸入税が大幅に引き下げられるとともに、第11条には、航行の安全をはかるため要所要所に灯台や浮標を設置することが我が国に義務づけられた。

 英国公使パークスは海軍局、航海家と協議し神子元島外10ケ所に灯台や浮漂を設置することを政府に建言した。神子元島灯台は、観音崎 、剣崎 、潮岬 、佐多岬などと共に、日本各地で建設されたその条約灯台8基のうちのひとつである。当時の一大国家プロジェクトであった。

 設計は、イギリスの灯台建築家スティーブンソン兄弟。灯台建設の監督は、スコットランド人のリチャード・ヘンリー・ブラントン(Richard Henry Brunton 1841.12.26-1901.4.24)。

 着工は明治2年(1870)2月。それから1年10ケ月間の工事期間。一つの木も茂っていない潮流の速い絶海の小さな無人島で、人力のみによって石造灯台を築く工事は、大変な難工事だった。

 下田のエビス崎付近から切りだされた伊豆石を精緻に積み重ね、メジには、稲取(東伊豆町)の火山灰と、梨本(河津町)の石灰石を神子元島に運び込み、石炭で焼いて使用したという日本初の速成セメントが使われた。

 当時建設された灯台のなかでも最多の費用を投じ、関わった人夫は数千人、犠牲者も出たといいます。

 竣工は明治3年旧暦11月11日(西暦1871年1月1日)で、点灯式には当時の政府首脳、三条実生、大久保利通、大隈重信、英国公使ハリー・パークスらが島を訪れ立ち会った。

 灯台の高さは23m、灯台の光は約36km先まで届き、船舶の航海の安全を提供している。

 明治9年までは灯台の保守に外国人が雇われていて、灯源も石油ランプから今では太陽光発電に変わった。

 太平洋戦争では艦砲射撃を受けレンズが破損したが、130年以上も灯台の灯をともし続けている。

 官設洋式石造灯台では、我が国最古の現役灯台であり、国の文化財(史跡)として昭和43年11月指定を受け、平成10年には国際航路標識協会(IALA)が選定した「世界歴史的灯台百選」のひとつでもある。

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