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仕事において苦しいこと、辛いことに耐える。 基本的に仕事は苦しいことやつらいことの連続である。 しかし、そんな苦しいことに耐えているのはまぎれもない自分だ。 自分が耐える。 家族も父親のいない生活というものに耐えている。 耐えられないと家族は言うのであるが、自分が耐えているのだから当然ではないかと思ってしまったりする。 これが会社の人とかであれば、何とかしなくてはと考えたりする。 会社の人は他人だからだ。 自分が何とか我慢することで、他人の苦しみを除けるのであればそうしたいと考える。 自分が我慢しないために、他人が苦しむっていうことには罪悪感が伴う。結果自分が我慢するのが一番楽なので我慢するということになる。 ところが、家族に対してはそうならない。 家族は自分の延長だという錯覚があり、他人のために我慢すべきだというように思ってしまう。 錯覚に過ぎないという自覚はあるのだが、そもそも、自分が我慢すればいいっていう命題そのものが錯覚そのものである。 錯覚の上に積み上げられた生活そのものを自覚していながらどうにもできないのであるから、家族が自分であるという錯覚を自覚していながら何も手を講じないのである。 自分自身も周りの社会に対して怨嗟の気持ちを抱き、負のスパイラルに落ち込んで現実は展開していく。 錯覚は錯覚であることを自覚するだけでは足りず、錯覚で見ている世界は現実ではないということを行動原理に反映するのでなければ意味がないのである。
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休みがない。 先週は新店の開設で出張で、来週は店長会議である。 会議とか、移転・開設とかは会社の稼働日を減らさないために、休みの日に行うのである。 休みがとれない。 3週間連続勤務である。 もっと息子と遊んでやったりとかしたいし、スキーに連れて行ったりしたいのだが、無理である。 まず休みが欲しい。 でも、休みがあるだけでは駄目である。 日曜日は毎週会議だ。絶対休めないのである。 会社が休みなのは月曜だが、この日は色々と準備があって休めないことが多い。 それ以外の稼働日は、誰かが休むと、プロジェクトメンバー全体の稼動に著しい支障があるので休むのが著く難しい。
結局いつも休めない。 休みたーーーーい!とういうのが心の叫びである。 |
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「ホワイトカラーエクセプション」ともいうらしく、こっちの表現のほうがポピュラーだったりする。 さて、私はというと、ずばり賛成だ。 週休2日に相当する年104日は確実に休みを取らせるということを義務化するそうなのだ。 今でも、毎日15時間ぐらい働いているし、年休だって50日ぐらいしか取れないから、今よりましだと思う次第である。どの道これ以上の職務を課せられてもできないので同じである。 とりあえず、私は年収400万円以上はあるので、多分対象になる。 皆さんはどう思いますか?
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世界一高い鋳造の大仏が茨城県牛久市に存在する。 それを初詣で見に行ってきたのである。 まず、とにかくでかい。 何と奈良の大仏が手のひらに乗るほどだそうだ。 最初の写真を見てもらえば何となく大きさは分かるだろうか。 正月は大仏の中を開放しているので、見てきたのだ。 中では1枚3百円で金箔が売られている。 それを大仏の蓮にスプレーのりを使って、みんな好き勝手に貼っていくのである。 ところが、不心得者はいるもので、金箔ではなく金銭を勝手に張る輩が多数存在する。 それが今回の写真。 「ようすけ」・「ひろみ」と1円玉で書いてあるようだ。 暇人である。 そうそう、ここのコンクリートのへこんだ部分ではテントウムシが固まって越冬をしているという風景もあった。思わぬことに大仏も役に立っているものである。 大仏の中は空調が効いていて非常に快適であるが、エアコンの室外機がたくさんあったのでそれを撮ってきた。他の人が写真に撮らないような部分をとるのが好きである。 あと、ランプ(なんというのか分からん)。 夜間、航空機が衝突しないように赤く光るのである。 こんなものも撮ってみた。私の使っているデジカメであるが、12倍光学ズームがついていて、こんなに近くから撮ったように撮れる。すごいなあっていう次第。 さて、今回の記事であるが、ただそれだけである。
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皆様私のブログにお越しいただき誠にありがとうございます。 まだ日の浅いブログで、記事も少ないですがせっかくいらっしゃった方、コメントを残していただければ幸いです。 私のブログは単身赴任者のお父さんが考える日常のことをつづった平凡極まりないもので、別に取り立てて目新しいこととか書いてあるものではありません(多分)。
そんな私が普段思っていることをこのブログの冒頭の記事としてつづって皆様へのご挨拶とさせていただきます。 子供とその親を見るとほっとする。 私は、家庭をほとんど省みることなく生きているのだが、他の人であってもただ子供と親がそこにいるというだけで何か現世(うつつよ)から解放されるように思う。 親が子供を慈しみ、育てるのは損得抜きの行いだ。 日々仕事に追われていると、人間的な感情が摩滅する。 ところが、子供と親があるということを再確認した瞬間に、人間は人間を慈しむ生き物だったのだということを今更のように思い出すのだ。 そうして、そのとき視線をふと遠くにやる。 老いた者、若き者、幼き者、陽光を受けてきらきら光る若者、自転車のかごに幼子を乗せて走る母親、などさまざまな者が見える。 たくさんの人々がこの一瞬、この場にあり、あるものは成長を期待され、あるものは子供の成長を見届け人生の落日の時を迎えている。 過去と、未来と、そうして今の自分を思う。 永遠の中において、人間は短い生涯の時間を与えられ、次代に生命をつむいで跡形もなく消え去る。 自分はほぼ人生の折り返し地点までやってきた。思えば、非常に短い時であったようにも感じる。 きっと、この世から去る瞬間にも人生は一炊の夢であったかのように思うだろう。 人生という長くて短い時、そうして、世代でつむがれる生命の永遠という長い時を思うとき、都会の片隅の私という人生の時は、モノクロ写真に写し撮られたようにほんの一瞬とまるのであった。 |





