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心の中に希望を持ち続ける限り!〜、 人は前進するものである!・・・ 日本を愛する人々に希望が芽生えれば!〜、
日本国の再生には手が届く・・・
今日は、天が与えた人々に与えた最大の贈り物!〜、
希望の諺を取り上げました!・・・ ジェームズ・アレン!(James Allen)〜、 1864年11月28日 - 1912年、イギリスの作家である。自己啓発書と詩によって知られる。
✦ 気高い夢を見ることだ。あなたは、 あなたが夢見た者になるだろう!・・・ あなたの理想は、あなたがやがて何になるかの予言である。 アルベール・カミュ -(Albert Camus)!〜、 1913年11月7日 - 1960年1月4日)は、フランスの小説家、劇作家、哲学者。フランス領アルジェリア出身
✦ 希望とは一般に信じられている事とは反対で、あきらめにも等しいものである、… そして、生きることは、あきらめないことである。 1884年10月11日 - 1962年11月7日)、アメリカ合衆国第32代大統領フランクリン・ルーズベルトの妻(ファーストレディ)、アメリカ国連代表、婦人運動家、文筆家。リベラル派として高名であった。あくまでもリベラル派(自由主義者)なのであって、左翼運動や共産主義運動に対しては批判的であり、明確に一線を画していた。 ✦ 未来は美しい夢を信じる人のためにある!・・・ 1547年9月29日 - 1616年4月23日、マドリード) 近世スペインの作家で、『ドン・キホーテ・デ・ラ・マンチャ』(Don Quijote de la Mancha)の著者として著名
✦ つまらぬ財産を持つより、立派な希望を持つほうがマシだ
✦ 生命のあるかぎり、希望はあるものだ!・・・ ミシェル・ルイ・リケ(仏・神学者)!〜、 ✦ 我々は望むことが全てできるわけではない。 しかし、可能なことは全て望まねばならない!・・・ H.J.ブラウンJr!〜、
ニューヨークタイムズのベストセラーであったライフ・リトル・インストラクション・ブック(Life's Little Instruction Book)のインスピレーションを受けた著書によく知られているアメリカの作家。
✦ 自分で夢のある生き方が出来ない人が、
他人の夢を笑う!・・・
エミリー・ディキンソン(Emily Dickinson)!〜、 1830年12月10日 - 1886年5月15日。 アメリカの詩人。生前は無名であったが、1700篇以上残した作品は世界中で高い評価を受けており、19世紀世界文学史上の天才詩人という名声は今や不動のものとなっている。 ✦ 希望は鳥のようなもの。心の止まり木で羽を休め、詩のない歌を奏でる。そして、決してとどまることはな!・・・ ヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテ(Johann Wolfgang von Goethe!〜、 1749年8月28日 - 1832年3月22日)、ドイツの詩人、劇作家、小説家、自然科学者(色彩論、形態学、生物学、地質学、自然哲学、汎神論)、政治家、法律家。ドイツを代表する文豪であり、小説『若きウェルテルの悩み』『ヴィルヘルム・マイスターの修業時代』、叙事詩『ヘルマンとドロテーア』、詩劇『ファウスト』など広い分野で重要な作品を残した。 ✦ あなたができること、あるいは夢見られることはなんでも始めよ。 毎日を生きよ。あなたの人生が始まった時のように!・・・ ✦ 何事につけても希望するのは絶望するよりも良い。 可能なものの限界をはかることは誰にもできないのだから!・・・ 1688年5月21日 - 1744年5月3l0日)はイギリスの詩人。父はカトリック教徒のリンネル商。 生来虚弱で学校教育を受けず、独学で古典に親しみ、幼少の頃から詩作を試みた。 ✦ 希望は永久に人間の胸に湧く。 人間はいつでも、現在幸福であることはなく、いつもこれから幸福になるのだ!・・・ ✦ 希望は頼りにならないものであるが、心地よい道を経て、 我々を人生の終わりまで運ぶことだけのこと
はしてくれる!・・・ モーセが伝えたもう一つの律法とされる「口伝律法」を収めた文書群である。6部構成、63編から成り、ラビの教えを中心とした現代のユダヤ教の主要教派の多くが聖典として認めており、ユダヤ教徒の生活・信仰の基となっている。 ✦ 奇跡を期待しなさい。しかしそれだけに頼らないこと!・・・ リチャード・ヘンリー・デイナ(Richard Henry Dana)!〜、 1815年8月1日 - 1882年1月6日、アメリカ合衆国の法律家、政治家。『帆船航海記(Two Years Before the Mast)』の著者 ✦ いつも世界のどこかで朝が訪れている!・・・ ベンジャミン・ディズレーリ(Benjamin Disraeli)!〜、 1804年12月21日 - 1881年4月19日、イギリスの政治家、小説家、貴族。 ユダヤ人でありながら保守党内で上り詰めることに成功し、ダービー伯爵退任後に代わって保守党首となり、2期にわたって首相(在任:1868年、1874年 - 1880年)を務めた ✦ 絶望は愚者の結論である!・・・ ✦ 多くの影を取り除くのには一筋の陽光で十分である!・・・
ヘレン・アダムス・ケラー(Helen Adams Keller)!〜、 1880年6月27日 - 1968年6月1日、アメリカ合衆国の教育家、社会福祉活動家、著作家 視覚と聴覚の重複障害者(盲ろう者)でありながらも世界各地を歴訪し、障害者の教育・福祉の発展に尽くした。 ✦ 希望は人を成功に導く信仰である。希望がなければ、何事も成就するものではない!・・・ 1866年1月29日 - 1944年12月30日)、フランスの作家。理想主義的ヒューマニズム、平和主義、反ファシズムを掲げて戦争反対を世界に叫び続け、国際的に多くの知友を持った。 ✦ 人は望む通りのことが出来るものではない。望む、生きる、それは別々だ。くよくよするもんじゃない。肝心な事は、望んだり生きたりすることに飽きない事だ!・・・ ラルフ・ウォルドー・エマーソン(Ralph Waldo Emerson)!〜、 1803年5月25日 - 1882年4月27日、アメリカ合衆国の思想家、哲学者、作家、詩人、エッセイスト。無教会主義の先導者。 ✦ どんな人でも生きているかぎり存在の必要がある!・・・
✦ 希望は底の深い海のうえでなければ決して
その翼を広げない!・ オリバー・ウェンデル・ホームズ(Oliver Wendell Holmes !〜, 1809年8月29日 - 1894年10月8日、アメリカ合衆国の作家、医学者。彼の代表作は『朝食テーブルの独裁者』(1858)を始めとする「朝食テーブル」シリーズであり、しばしば19世紀の最も優れた作家の一人として称される。また、著名な医学の改革者とも言われる ✦ 青春は色あせ、恋はしぼみ、友情の木の葉は落ちる。 だが、母親の密かな希望はこれらにもたえて生きつづける!・・・ 1848年12月8日 - 1908年7月3日、アメリカ合衆国のジャーナリスト、民話研究者。「リーマスじいや」 (Uncle Remus) の物語で知られる。 ✦ 欲するものが全て手に入りつつあるときは警戒せよ。肥えてゆく豚は幸福なのではない!・・・ 西洋の諺!〜、 ✦ 最善のものを希望せよ。しかし最悪のものに備えよ!・・・ 本名フランソワ=マリー・アルエ(François-Marie Arouet、 1694年11月21日 - 1778年5月30日、フランスの哲学者、文学者、歴史家である。歴史的には、イギリスの哲学者であるジョン・ロックなどとともに啓蒙主義を代表する。 ✦ 神はこの世におけるさまざまな心配事のつぐないとして、我々に希望と睡眠を与え給うた!・・・ 1579年12月 - 1625年8月、ジャコビアン時代のイングランドの劇作家。ウィリアム・シェイクスピアの後を受けて、国王一座の座付作家となった。当時としては多作かつ影響力の大きい劇作家だった。存命中ならびに王政復古初期にはシェイクスピアと並び称された。 ✦ 希望は、それをもとめる気の毒な人を
決して見捨てはしない!・・・
ジャン・ド・ラ・ブリュイエール
(仏: Jean de La Bruyère)!〜,
1645年8月16日/17日 - 1696年5月10日/11日)は、フランスのモラリストであり作家である。
17世紀のフランスの宮廷人たちを描き、人生を深く洞察した著書『カラクテール』(フランス語: Les Caractères ou les Mœurs de ce siècle)(和訳: 『人さまざま』)(1688年)によって知られる。
✦ 人間の希望は絶望よりも激しく、人間の喜びは悲しみより激しく、
かつ永続するものである!・・・ ヨーハン・クリストフ・フリードリヒ・フォン・シラー!〜、
ドイツの詩人、歴史学者、劇作家、思想家。ゲーテと並ぶドイツ古典主義(Weimarer Klassik)の代表者である。
✦ 太陽が輝くかぎり、希望もまた輝く!・・・ トマス・ア・ケンピス(Thomas à Kempis)!〜、
1379年(1380年) - 1471年7月25日)、中世の神秘思想家。彼の著した信心書『キリストに倣いて』(イミタツィオ・クリスティ)は聖書に次いで最も読まれた本であるとさえ言われる。
✦ より多く持つことよりも、
より少なく望むことを常に選べ!・・・ 希望を胸一杯に膨らませて!〜、 日本再生の為に頑張りましょう!!!・・・ |
人生・生き方・思想信条
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婦人科でPET検査の結果を聞きに行って
来ました。
病院に着くとお友達がすでに
婦人科で待っていてくれました
暫くお話して待っていると呼ばれました。
先生曰く、前回再発時にあった
横隔膜下の腹膜に出来た腫瘍は
再発治療後に消えたままで再熱している
様子はなく、今回は新たなところに出てきて
いるようです。
左脇腹辺りの腸管膜に0.8×1.6cmの
新たな腫瘍がPET検査で見つかりました
画像を見せてもらいましたがその部分は
赤ではなくオレンジ色に光っていました
真っ赤じゃないからまだいいのかな…。
ただ、一ヵ所見つかったと言うことは
他にもある可能性はあるらしいので
やはり抗がん剤治療を進められました
それともう1つショックな出来事が…
再発治療は3月から5月に3クールをして
その後オラパリブに移行しましたが、
一ヶ月後副作用が強く出て休止。
8月に撮ったCTでは横隔膜下の
腫瘍はほぼ見えなくなり他に
怪しいものはありませんと言われていたのに
昨日は8月のCTと今回のPETを両方
を見比べてみると8月のCTにも
どうやら映っていた様子…
1月には無かったのに抗がん剤3クール後の
8月のCTに映っていたと言うことは、
プラチナ系の抗がん剤に耐性が出来た
可能性があります…とのことでした
プラチナ系の抗がん剤がよく効く
私にとって耐性が出来るなんて
考えもしてなかった
今までのTCやDCが効かなくなる…
何だか崖っぷちに立たされたような
気持ちになりました。
どんどん抗がん剤が変わっていった先を
考えてしまう…
でも今回はDC
初のアバスチンで取り敢えず治療してみて効かないようなら
抗がん剤を変えるそうです。
再発した時より今回の方が
気持ち的にショックかも…
今回はアバスチンが初めてなので
入院でも外来でもどっちでもいいです…
とのことだったので外来にしました。
仕事あんまり休めないし
久しぶりの6時間コースの外来治療
でもね、ショックだし辛いですけど
やらなきゃね…。
まだまだ諦めるわけにはいかないし
子どもたちを育てなくちゃ
ちなみに今までの腫瘍マーカーです。
治療は10月26日になりました。
それまでは自由〜
いっぱい遊んでいっぱい食べて
会いたい人に会う
10月は忙しくなりそうです
そして、付き合ってくれたお友達と
ランチしてきました〜
レディースランチ〜
もちろんスイーツも
そしてお友達からお土産まで戴いちゃいました
メチャクチャ有名なパン屋さんの食パン
初めて食べたけど美味しかった〜
どうもありがとう
二人とも楽しい時間をありがとう
いっぱい話せて嬉しかったです
いちごフレンズ仙台会
婦人科系がん患者 ランチ会vol.2
2018年10月8日(月祝) AM11:30〜PM15:00
参加費:2500円
場所:宮城県仙台市内
人数次第によっては早めに申し込み終了と
させて頂きますのでお早めにお申し込み
して頂けます様お願い致します。
締め切り:9月30日(日)PM17時
婦人科系がん患者のたのしいオフ会です
同病のお友達が欲しい方・不安や悩みを
聞いて欲しい方等、是非参加お待ちしています。
ETSUKO
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ふわっとして、優しくて、色彩豊かに、これ以上ないほどにかわいく、子どもたちを描く作家。
おそらく誰でもが1度は、この作家の絵を目にしたことがあるのではないだろうか。
絵本作家のいわさきちひろ(1918〜74年)である。
そのいわさきちひろの『生誕100年 いわさきちひろ、絵描きです。』展が、JR東京駅構内の「東京ステーションギャラリー」で、7月14日から9月9日まで開催され、私も最終日の前日の土曜日に観に行ってきた。
会場は、自動券売機から長蛇の列ができて、会場の階に上るエレベーターもかなりの時間待つほどの混雑ぶりだった。お客さんはほとんど女性で、若い人から年配の方まで、幅広い年代に親しまれていたことが伺える。
今回の展覧会では、没後40年を超えてもなお人々に親しまれ続けている画家、絵本作家・いわさきちひろの生涯に焦点を当てて、新出の資料も交えた約200点の展示品を通して彼女の技術や作品の背景を振り返るというものだ。
構成は4部に分けられて、タイトルはちひろの言葉からとったものである。
「第1章 私の娘時代はずっと戦争のなかでした」 「第2章 働いている人たちに共感してもらえる絵を描きたい」
第2章では、ちひろが誇りとしていた家庭生活と作家活動の両立の様子を追いながら、同時代における文化史における彼女の位置づけを探る。プロレタリア美術に連なる紙芝居や幻灯、まとまって見られる機会の少なかった油絵やポスターなど、これまであまり掘り下げられていなかったちひろ像に迫る。
「第3章 私は、豹変しながらいろいろとあくせくします」
2章を踏まえた第3章では、作品の魅力を分析的に考察。いわさきちひろといえば子どもや花の絵、といった多くの人が抱く定型の印象をより細密にし、座って描いたか、立って描いたか、どんな道具や素材を、いかなるスピードで操作していたかなどとともに、彼女の絵における「線」の現れ方など、画面に凝らされた技術に焦点を当てる。
「第4章 童画は、けしてただの文の説明であってはならない」
最終章では、明るく輝く水彩画の数々によって、ちひろの開放的な色彩の魅力を示す。また、2017年に開催された「高畑勲がつくるちひろ展」の成果を踏まえ、原画の拡大によってちひろの作品の中に没入する空間を作り出しす。絵本を読むときの距離感覚と展示空間の融合と、みずみずしい彩りがフィナーレを飾る。映像番組「黒柳徹子さんと『いわさきちひろ』」のダイジェストも上映されていた。
今回の展覧会の展示物の解説パネルや、「黒柳徹子さんと『いわさきちひろ』」の映像、さらに、ミュージアムショップで購入した書籍などを見て、読んでみて、ちひろの、あのふわっと優しい絵からは想像もできないような、“壮絶”ともいえる波乱の人生があったことがわかった。
長年のファンであり、現在、2つのちひろ美術館(東京・安曇野)の館長も務めている黒柳徹子さんは、『いわさきちひろ』のビデオの中で、ちひろの魅力をこう語る。
「ちひろさんのようにうまく子どもを描く人はそうはいない。誰が見ても、かわいい、と思う。うちの子と同じって、子どもそのもの。神様からすごい力を与えられて、子どもの絵を描きなさいと言われて、必死で55年の間に描いたんだって思います」
ちひろの足跡をたどると、まさに、逆境を乗り越えて必死で描き続けた55年間だった。
いわさきちひろは、1918年(大正7年)12月15日、陸軍築城部の建築技師の父親と女学校教師の母親の下に、3人姉妹の長女として福井県武生町(現・越前市)で誕生し、幼少期を東京で過ごした。
「ちひろが見当たらないときは、地面に描かれた絵をたどっていくと必ず見つかった」というエピソードが残っているほど、幼き日のちひろは絵を描くことに夢中だった。
ちひろの青春時代は戦争ととともにあった。女学校に入った1931年(昭和6年)、12歳のときの9月に満州事変が起こり、女学校を卒業した1936年(昭和11年)、17歳のときには、日中戦争が本格化していく。
14歳でちひろは、洋画家・岡田三郎助に師事し、絵を学び始め、すぐに頭角を現し始め、17歳になると朱葉会女子洋画展に入選。女学校を卒業したちひろは本格的に絵の道へ進むことを望んでいた。しかし、両親からの激しい反対によって、断念せざるを得なかった
さらに、ちひろに縁談が舞い込み、望まぬ相手との結婚を承諾しなければならなくなった。
1939年(昭和14年)、20歳のちひろは、4月に結婚。夫の転勤に従って旧満州・大連に渡った。しかし、この2年後、その結婚は衝撃的な結末を迎える。
1941年(昭和16年)、ちひろ22歳の3月に、夫が自殺をし、遺骨を抱えて帰国することになる。帰国後の世間の風はさぞ冷たかったことだろうと想像できる。
12月に日本は米英に宣戦布告し泥沼の太平洋戦争が始まり、ちひろの周りの日常の世界は、急速に色合いを変えていった。
1944年(昭和19年)、25歳のちひろは、女子義勇隊に同行し、書道の教師として中国東北部に渡るも、現地は書道などできる状況になかった。偶然、勃利方面の部隊長が、ちひろの書道の教え子の伯父にあたる森岡大佐で、ちひろを宿舎に引き取り、戦火の悪化を見越して、3か月後に日本に送り返された。
そして、長野県松本市に疎開し、26歳で終戦を迎えた。
望まぬ結婚で夫と死別、戦争で家も焼かれて、日本の敗戦と、人生のどん底にあったちひろだったが、太平洋戦争が日本の侵略戦争であったことを知り、自身の戦争体験から、「二度と戦争を起こしてはならない」と決意し、平和な日本と世界を強く願った。
ちひろは、後年こう語っている。
「戦争が終わって、はじめてなぜ戦争がおきるのかということが学べました。そして、その戦争に反対して牢に入れられた人たちのいたことを知りました。殺された人のいることも知りました。大きい感動を受けました。そして、その方々の人間にたいする深い愛と、真理を求める心が、命をかけてまでこの戦争に反対させたのだと思いました」
そして、1946年(昭和21年)1月、疎開先の長野県・松本市で、日本共産党の演説会を聞いた。宮沢賢治のヒューマニズム思想に強い共感を抱いていたちひろは、戦前、戦中期から一貫して戦争反対を貫いてきた日本共産党の訴えに感銘し、勉強会に参加するなどしたうえで、3月に、自らすすんで日本共産党の一員となった。そのとき27歳だった。
自分が、好きな絵の勉強を続けさせてもらえず、結婚を強いられた時代背景、そして第2次世界大戦の意味。さまざまなことを熟考した末に、「新しい世の中を作っていきたい」と決心した。
その年、好きだった絵で生きていく決意をし、本格的に絵を学ぶために、疎開先の長野から東京へと単身で宿泊先も決めぬまま上京した。
日本共産党宣伝部・芸術学校に入校したちひろは、文も絵も描けることから才能を見いだされ、記者として人民新聞社に採用され、神田のブリキ屋へ嫁いだ叔母を頼りに、下宿をさせてもらいながら、取材に挿絵にと奮闘する。
1947年には、翻訳本『わるいキツネその名はライネッケ』で初めて、1冊丸ごとの挿絵を担当。さらに、アンデルセン『お母さんの話』の紙芝居の絵を任され、この作品が文部大臣賞を受賞したことからちひろの仕事は軌道に乗り、画家としての独り立ちを果たす。
1949年、ちひろは、共産党の活動で知り合った後に衆院議員となる7歳半年下の松本善明(ぜんめい)と出会った。
「僕は世の中でいちばん苦しい人たちといっしょに歩いていこうと決めたんです」という善明の純粋さに打たれたちひろは、自分が年上であること、過去に不幸な結婚を経験していることを悩みながらも、残りの人生を善明と共に歩むことを決意、1950年(昭和25年)に結婚する。ちひろ31歳、善明23歳。
善明は司法試験の勉強に取り掛かり、ちひろは筆一本で新婚生活を支えた。
あまり知られていないが、1952年ごろからヒゲタ醤油の広告の仕事を手掛けるようになり、1954年には朝日広告準グランプリを受賞した。ヒゲタの挿絵は約20年間つづいた。
1951年(昭和26年)4月に、長男・猛を出産。しかし、夫は司法試験めざして勉強中で、ちひろは必死に絵を描き生活をささえなければならなかったため、生後1か月半の息子を、長野県の母に一時的に預けることになる。
3人で暮らせるようになるまでの辛抱だと、ちひろは東京で仕事にまい進しながらも、時々長野へ猛に会いに行った。
この時期、限られた時間にいとしいわが子の姿を脳裏に焼き付けたからだろうか、ちひろは後々「10カ月と1歳の赤ん坊をモデルなしでも描き分けることができる」と言われるほど、赤ん坊の絵で定評を得ることになった。
1951年、善明は初めて受験した司法試験で見事に合格を果たしたことで、猛を引き取り3人で暮らすこととなり、ちひろと善明は初めての家を建てることにした。
こうして1952年の春に完成したアトリエ兼住居が、ちひろが亡くなるまでの22年間を過ごしたついのすみかとなった。
後に、ちひろは次のような言葉を残している。 自身の戦争体験から、「二度と戦争を起こしてはならない」と強く決意し、平和な世界の実現を願ったちひろ。その思いは、その後のすべての作品の根底に流れているものだった。
戦後も、ちひろは“戦争”と向き合った。
1955年11月1日〜1975年4月30日と約20年間に及んだベトナム戦争では、100万人以上のベトナムの人々が犠牲となり、そのおよそ半数が子どもだったといわれる。平和を愛し、子どもたちを愛するちひろには居ても立っても居られないほどだった。
1967年に、反戦運動が広がるなか、ちひろは被爆した子どもたちの詩と作文に絵をつけた、絵本『わたしがちいさかったときに』を描いた。ちひろにとって、初めて戦争をテーマにしたこの絵本だった。
そして、ちひろはベトナム戦争をテーマに描いた絵本を2冊書いている。
1冊は絵本『母さんはおるす』(1972年)、同じ年、もう1冊は、『戦火のなかの子どもたち』(1973年)だった。
絵本『戦火のなかの子どもたち』は、日本にある米軍基地から、ベトナムの子どもの頭上に日々爆撃機が飛び立ってゆく現実に心を痛めたちひろは、ベトナムの子どもたちに思いをはせて、この絵本を描いた。
このころ、ちひろはすでに体調を崩し、入退院を繰り返す中で、焦りながら、必死になって執筆していたという。
『戦火のなかの子どもたち』を書き上げて1年後の1974年、ちひろは他界する。
ちひろの死の8ヵ月後、1975年4月にベトナム戦争が終結した。
絵本の最後にちひろはこう書いている。
「戦場にいかなくても戦火のなかでこどもたちがどうしているのか、どうなってしまうのかよくわかるのです。こどもは、そのあどけないやくちびるやその心までが、世界じゅうみんなおんなじだからなんです。」
高畑勲監督は、『火垂るの墓』を制作するときに、この絵本『戦火のなかの子どもたち』を若いスタッフに見せて想像力を高めたという。
黒柳徹子さんはビデオの中で次のように語っている。
「ちひろさんが、本当に書きたかったのは、あの『戦火の中の子どもたち』みたいな、ああいうものなのかもしれないと思いますよね。子どもをかわいく、かわいく書いて、こんなかわいい子どもたちを泣かさないでって、それがちひろさんにとって一番大きなものになったのかなと思います。こんな幼い、こんな無垢な、こんなかわいい子どもたちを、どうかお願いですから誰も傷つけたりしないように、どうか平和でお願いしますと。」
ちひろの壮絶な人生と苦悩、それと、ちひろの描く優しく、どこまでもかわいい子どもたちの絵──この両者が最後は重なっていく。そして、ちひろが絵に込めて最も言いたかったことが何かがわかったような気がする、そんな展覧会だった。
東京では終了したが、同展覧会は、11月16日(金)から12月25日(火)の期間で京都、2019年4月から5月の期間で福岡を巡回する予定だという。
ぜひ、多くの人たちに見てもらいたい展覧会だ。
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後悔は、抱えたまま生きればいい
亡くなった人への後悔が残るのは、当たり前のこと。
無理に打ち消そうとせず、
その後悔を抱いて生きると腹をくくれば、
いつか、そこに「意味」を発見するときが来ます。
大切な人を亡くした後、「ああすればよかった」「これもしてあげたかった」という後悔は必ず残ります。
「年老いた親に、なぜもっと優しく接しなかったのだろう」
「あの病院に入院させたのは、間違いだったのではないだろうか」
そんな後悔や迷いを抱えた人が私のところにも、時折いらっしゃいます。
あるとき、知人から、ガンでご主人を亡くした女性に会って欲しいと頼まれました。
彼女は、ご主人に最後までガンを告知することができなかったことを、今でも悔やみ、うつ状態に陥っていました。
「もし夫が自分の病気を知っていたら、残された時間でやりたいことができたのかもしれません。でも、どうしても言えなかった。知らせることができないまま、逝かせてしまったんです」
女性は、そう言って自分を責め続けていました。
私から言わせれば、ご主人はもうこの世にいないわけですから、今さらどうしようもないことです。
しかし目の前の女性は、未だそのことで自分を強く責めている。
今できることは、彼女の“せつなさ”をどうにかするしかありません。
イチかバチかで、こう聞きました。
「ご主人は、頭のいい人ではありませんでしたか?」
彼女は「はい」と答えました。
「たぶんご主人は、病名を知っていたに違いありません。だって、聡明なご主人だったのでしょう?手術しても治らず、日に日に具合が悪くなっているのだから、ただ事ではないと思うのが普通です。あなたが何も言わなくても、自分の病気について気づいていたはずですよ」
さらに、「ご主人は、病名を教えろとあなたに詰め寄りましたか?」と尋ねると、女性は「いいえ」と答えました。
「全部、わかっていたんですよ。ご主人は、あなたが病名を伝えられない気持ちもすべてわかって、亡くなったに違いないと思います」
そう言うと、女性は堰を切ったように泣き始めました。
女性はきっと、誰かから「ご主人は知っていたんですよ」と言って欲しかったのでしょう。
このような場合、第三者から「あなたは間違っていなかった」と言ってもらうだけで救われることもあるのです。
亡くなった人に対して後悔が残るのは、当たり前のことです。
もしそれが、突然の別れだったとしたらなおさらです。
また、「後悔しないように」と懸命に介護や看病をしたとしても、必ずなんらかの悔いは残ります。
それを打ち消そうとする必要はありません。
その後悔を抱えたまま生きればいいと思うのです。
するとそのうち、その後悔の中に、意味を発見するときが来ます。
たとえば、身近な人が家族の看取りを迎えたときに、自分の体験をアドバイスして役に立てれば、それもひとつの「意味」です。
そのとき、「ありがとう」と感謝されれば、「よかった」と素直に思えるでしょう。
近親者を亡くして後悔している人に、「私も同じだったよ」と声をかけて慰めることができれば、それもまた同じです。
ただし、「そんな日が来るかもしれない」程度の話です。
後悔は必ず残る。
それを否定しようと思っても無理である。
そう腹を据える。
そして、その後悔をどう取り扱って行くかを考える。
この世にいない人に対する後悔やせつなさを抱いたまま生きる。
これがもっとも妥当な後悔の「取り扱い方」だと思っています。
「禅僧が教える心がラクになる生き方 より」
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新しい生活パターンへの対応、とくに人間関係の変化は想像以上に心身への影響が大きい。
気分が落ち込んだり一時的にうつ状態になってしまうこともあります。
とはいえ、そのうちに治ってしまうことが多いので、うつ状態でも必ずしも病気とは言えません。
しかし、落ち込みの程度が重い時や、落ち込みが長引いてしまうと、人の意欲は奪われて行動にも影響を及ぼします。
私たちの脳の中で司令塔のような役割をしているセロトニン神経という神経細胞が弱ってきており、軽い不調からうつ病、パニック症候群、さまざまな依存症などを引き起こす原因になっています。
この現象は大人から子どもまで老若男女に広がっています。
脳には無数の神経細胞があり、その神経細胞の末端からセロトニンやアセチルコリン、ドーパミンなどの神経伝達物質を放出しています。
それらによって次の細胞に情報を伝えていき、それが網の目のようにいっせいに行われることで、情報が瞬時に伝わり、手や足などの末端まで伝達されていきます。
しかし、その伝達情報がうまくいかないと、脳が興奮して抑制が効かなくなり、イライラしたり、落ち着かなくなったりします。
イライラしやすいときは、脳の神経伝達物質であるセロトニン、アセチルコリン、ドーパミンなどが不足していることが考えられます。
そのため、これらの材料となるアミノ酸と、アミノ酸を取り込むために必要な糖分やビタミンB12の不足を疑ってみましょう。
脳を酷使するときには、たくさんのビタミンB群が消費されています。
B群は脳の働きに重要な役割を担っているのです。
神経の働きを整えたり、傷んだ神経を補修したり、タンパク質をドーパミンやセロトニンといった神経伝達物質に作り替えるなど、「脳力向上」のためにもB群は欠かすことができないのです。
ビタミンB12について?
※ちょっと使える身近な情報をお届けしています!
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生きるか死ぬか以外は大したことではない
深刻な問題ほど冷静になって、
自分で対処できるのか、誰かの助けが必要なのか、
やり過ごせばいいのかを見極めましょう。
それが、問題を“取り扱い可能”にすることです。
永平寺で3年の修行期間を終えた後、そのまま寺に残り、修行僧の指導や割り振られた職務を行う「役寮」という立場になりました。
その役寮時代の話です。
部屋で本を読んでいると、遠くからただならぬ声が聞こえてきました。
若い修行僧の声です。
声は次第に近づき、「大変です!」と修行僧が息せき切って部屋に駆け込んできました。
本を置き、「生きるか死ぬか以外は、大変なことなどない!」と一喝しました。
「そうだすよね……」と我に返った相手に用件を聞くと、ある老師が私に用があるので、早く来て欲しいと言っているとのことでした。
しかし老師に電話してみると、急を要する用事ではありません。
「できれば早めに連絡して欲しい」といったニュアンスの伝言だったようです。
「ほら、見ろ」と言うと、彼は恐縮していましたが、老師は、私の職務とはふだん関係のない部署で、しかも役職の高い僧でした。
当時何かと厳しかった私に早く伝えなければと、彼が焦ったのも無理はありません。
こういうとき、人の視野は非常に狭くなっています。
たとえば、10センチ四方の紙の上に直径10センチの球を載せたとすると、それはあふれんばかりに大きく見えるでしょう。
焦っているときは、その状態です。
しかし、同じボールを1メートル四方の紙の上に置けば、その存在感はまったく変わります。
「ああ、小さい球だな」と思うはずです。
人生に問題が起きたときも同じです。
問題を球にたとえるなら、仮に視界が10センチ四方しかないときに、10センチの球を目の前に置かれたら、視界全体がふさがれてしまいます。
でも、広々とした視界を持っていれば、そこにどんな大きさの球があろうと驚くに値しません。
生きるか死ぬか以外は大したことではない。
これは、極端な言い方です。
しかし、そこまで枠を広げてしまえば、今まで大きく見えていた問題が一気に小さくなります。
すると、スッと冷静になれるのです。
冷静になってから、その問題が本当はどの程度の大きさなのか。
自分の手に余るのか、それとも対処できるのか。
誰かの助けが必要なのか、やり過ごせばいいのか。
それが見えてきます。
“問題を取り扱い可能にする”とは、そういうことです。
深刻な問題に悩むことは、誰にでもあるでしょう。
仕事で追い詰められてウツになったり人間関係で苦しんだり、相談に来られる方の話を聞いていても、つらい状況であるのはわかります。
でも極論すれば、人生において、生きるか死ぬかという問題以外に大事なことはありません。
それ以外のことで、しかも自分で決められることなど、じつはささいなことです。
その視点を養えるかどうか。
それが、ときにその人を救うこともあるのです。
「禅僧が教える心がラクになる生き方 より」
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新しい生活パターンへの対応、とくに人間関係の変化は想像以上に心身への影響が大きい。
気分が落ち込んだり一時的にうつ状態になってしまうこともあります。
とはいえ、そのうちに治ってしまうことが多いので、うつ状態でも必ずしも病気とは言えません。
しかし、落ち込みの程度が重い時や、落ち込みが長引いてしまうと、人の意欲は奪われて行動にも影響を及ぼします。
私たちの脳の中で司令塔のような役割をしているセロトニン神経という神経細胞が弱ってきており、軽い不調からうつ病、パニック症候群、さまざまな依存症などを引き起こす原因になっています。
この現象は大人から子どもまで老若男女に広がっています。
脳には無数の神経細胞があり、その神経細胞の末端からセロトニンやアセチルコリン、ドーパミンなどの神経伝達物質を放出しています。
それらによって次の細胞に情報を伝えていき、それが網の目のようにいっせいに行われることで、情報が瞬時に伝わり、手や足などの末端まで伝達されていきます。
しかし、その伝達情報がうまくいかないと、脳が興奮して抑制が効かなくなり、イライラしたり、落ち着かなくなったりします。
イライラしやすいときは、脳の神経伝達物質であるセロトニン、アセチルコリン、ドーパミンなどが不足していることが考えられます。
そのため、これらの材料となるアミノ酸と、アミノ酸を取り込むために必要な糖分やビタミンB12の不足を疑ってみましょう。
脳を酷使するときには、たくさんのビタミンB群が消費されています。
B群は脳の働きに重要な役割を担っているのです。
神経の働きを整えたり、傷んだ神経を補修したり、タンパク質をドーパミンやセロトニンといった神経伝達物質に作り替えるなど、「脳力向上」のためにもB群は欠かすことができないのです。
ビタミンB12について?
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初のアバスチンで









