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甲斐段平のネット検索ブログ

ネットウォッチャー甲斐段平、kaiselection@yahoo.co.jp

意見

● :北朝鮮危機−●

● :北朝鮮は、原爆、水爆、毒ガス、細菌兵器、麻薬、偽札、誘拐、テロ工作員多数、南韓国も日本攻撃を宣言している。  

● :米、北は会談する。核の完全破棄が出来るか?日本は核武装宣言を!!  

● :敵基地攻撃兵器の装備を急げ。  

● :反撃の核ミサイルを量産急げ!  

● :韓国の在住日本人は退避命令を出せ!  

● :在日、在日活動家、朝鮮総連関係者のリストアップは出来ているか?  

● :北朝鮮は水爆を持った。広島の10倍の能力を持っている。  

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日本誕生
卑弥呼を攻めた神武天皇
加治木義博

《少しずつ書き足していった『日本書紀』》

 また序文はないが、
 それと同じ役割のものを、
 『書紀』は、
 その天武十年(682)三月の部分に、

 「天武天皇が川島皇子、
  忍壁皇子ら12名に命令して、
  『帝紀』および『上古諸事』を書かせた」

 という記事がいれてある。

 次に持統五年(691)八月。

 持統天皇が

 「大三輪(おおみわ)ら18氏族に、
  各氏族が伝承してきている
  [その祖等の纂記(さんき)(祖先の記録)]
  を提出させた」

 とあり、

 『続日本紀』には、
 和鋼七年(714)二月、

 元明天皇が

 「紀の清人と三宅藤麻呂に
  国史をまとめるように命令した」

 などと書いてあるのが、

 多分『書紀』の編集過程なのだろう、
 と想像されている。

 だからそれが、
 日記のように時を追って古代から書き継いだ、
 本当の意味の
 [歴史記録]でないことは明らかだ。

 それも第1代神武天皇からではない。

 最初は
 [欽明(きんめい)天皇紀]から
 書きはじめているのである。

 そして[天武天皇紀]まで書いたあと、
 少しずつ前へ前へと、
 書き足していっている。

 それがどうして分かるかというと、
 文字の使い方で発音の変化が分かるので、
 それがいつごろ書かれたか分かるし、
 本来いちばん最初に書くべき注意書きが
 あとのほうにあったり、
 日付の暦(こよみ)が
 食い違いをみせているので、
 書かれた順番が逆になっていることが分かるし、

 『三国史記』と比較してみると、
 共通の登場人物で正確な年代が分かるので、
 間違いを知ることができるのである。

 「『日本書紀』のスタート部分」

 この[欽明紀]の[割り注]は、
 一番最初に書く「注意書」であって、
 『書紀』が
 ここから書き始められたことを証明している。

 帝王本紀、多有古字、撰集之人、屢經遷易。
 後人習讀、以意刊改、傳寫既多、遂致舛雜、
 前後失次、兄弟參差。
 今則孝覈古今、歸其眞正、一往難識者、
 且依一撰而註詳其異。
 他皆效此。

 帝王本紀に多くの古き字が有って、
 撰集する人、屡(しばしば)、
 遷り易(か)わって経過している。

 後人は習い読むとき、
 意を以って刋(けず)り改めてください。

 伝え写すこと既に多くあって、
 遂に違い迷っている。

 前後を失って、兄弟が違っている。

 今即ち、古今を考えて、正してください。

 一応識っていることを一つ選んで、
 其の他のことは書いていません。

 M.K記(責)
 連絡先:090-2485-7908

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日本誕生
卑弥呼を攻めた神武天皇
加治木義博

《『日本書紀』と『古事記』の仮面》

 これまでみてきた[神武紀]は
  一部分でしかないが、
 それだけでも
 神武天皇が平定して治めた[ヤマト]は
 後世の奈良朝のような
 統一国家としての日本ではなく、
 神武天皇の本来の姿である
 [国造・椎根津彦]が治めた、
 今の鹿児島県の一部にすぎなかったのである。

 だから過去の間違った想像は、
 [後世の大和の地名]を
 『書紀』が使ってしまったためなのだ。

 なぜなら
 『書紀』は年月日入りで、
 一見[歴史記録風]に、
 いかにも古代から時を追って、
 書き継がれたもののようにみえるが、
 事実は8世紀に史料を寄せ集めて、
 つなぎ合わせたものだと
 はっきり分かっているからだ。

 だが念のため、
 そのあたりの事情を正確にみておこう。

 『古事記』には有名な[序文]があって
 「天武天皇の命令で編集が始まった」
 と書いてあるが
 『書紀』には序文がなく本文だけで、
 作った理由も、
 いつ作ったかも説明抜きである。

 その一見[歴史記録風]な体裁からみて、
 編集者の心理に

 [後世の作品と分かっては
  作りものめいて権威がない、
  古くから書き継がれたと思わせたい。

  だから序文をはぶき、
  ほかの一切の説明もはぶいた]

 という気持ちがみてとれる。

 その反対に麗々しく[序文]で
 それを書き立てている
 『古事記』はかえっておかしくて、

 序文を書いた日付の
 和鋼の年月日に権威をもたせようとしたほどの、
 後世に書かれた[偽書]、
 作り物、という正体を、自分で暴露している。

 M.K記(責)
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日本誕生
黄金の女王卑弥呼
加治木義博

《3世紀にはまだ大阪湾の海底にあった地名もある》

 「兔餓野」(トガノ)は
 大阪市北区にあった兎我野町だとするのが、
 過去の定説だった。

 この地名は「仁徳天皇紀」
 38年秋7月のところにも、

 夜ごとに
 鹿の声が聞こえる土地として出てくるので、
 だれでも大阪だと決めていたのである。

 しかし
 そこは今の大阪駅のそばであって、

 少なくとも5世紀より以前は
 大阪湾の海底だった場所である。

 それは私の学友・梶山彦太郎氏と
 市原実・大阪市立大学教授の共著
 『大阪平野の発達史』
 「1972年・地質学論集第7号」

 で科学的に立証されている。

 仁徳天皇は「倭の五王」の
 最初の王「讃(さん)」であることは
 確認できている。

 だから4世紀の人である。

 とすれば
 「仁徳天皇紀」にある
 [菟餓野]トガノも、ここではありえない。

 だから、
 3世紀のトガノは、
 はっきり別の土地だったと分かるのである。

 ではそれはどこのことか、
 もう皇子たちの
 「肩書き」で分かっているとおり、
 鹿児島のどこかである。

 鹿児島市には今、
 「田上」というところがある。

 この発音は「タガン」だ。

 この字も古代のものではないから、
 昔は「都我奴」などと
 当て字されていた地名である。

 「都」の字は
 タ・チ・ツ・トと読まれているからだ。

 これを語り部が
 沖縄語で「ツガヌ」と発音すれば、
 速記者は「菟餓野」と書く。

 「住吉」スミヨシ・スミエ。

 これも従来は、同じ大阪の、
 同じ湾の底だった場所にある
 土地のことだとされてきた。

 大阪は5世紀以後に、
 少しずつ埋め立てられて
 できていった土地である。

 それは大阪駅のある
 「梅田」という地名も、

 本来は
 「埋め立てて造成した田」という意味の
 「埋め田」だったことでも分かる。

 ではそれはどこだったか?

 これは
 奄美大島にスミエの沖縄語「スミユ」に合う
 住用村(スミヨウソン)という
 アマミノクロウサギで有名な村がある。

 ここには「神屋」という名が残っていて、
 住吉神の発祥の地と考えている。

 また種子ガ島にも
 西岸に住吉があり住吉神社がある。

 鹿児島市にも
 市の中心部の海岸通りに住吉町がある。

 「難波」(ナニワ)といえば、
 だれもが大阪を連想する。

 だから
 従来の学者は、
 この「大阪説」に少しの疑問も感じなかった。

 しかし
 この地名も必ず
 「ナニワ」と読れてきたわけではない。

 今でもその大阪でさえ
 「ナンバ」と読んでいるのである。

 M.K記(責)
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転載元転載元: 歴史徒然:History Tsuredure

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《天武天皇の焚書を告発し続ける銅鐸文化》

※出典:加治木義博
    大学講義録34:26

 しかし
 これと「ヤマト朝廷」が
 奈良にあったというのとは違う。

 銅鐸文化が始まった弥生中期以前に、
 近畿にヤマト朝廷が実在していたのなら、
 銅鐸は山人族を象徴する聖器だったのだから、
 8世紀以後、
 確かに存在したヤマト朝廷でも宝器とされ、
 その後継者である天皇家と共に
 現代まで銅鐸信仰が続き、
 全国の神社・仏閣でも祭られているはずである。

 ところが現実には
 銅鐸も銅鐸信仰も消滅してしまって、
 ただ弥生遺跡から遺物として
 出土するだけである。

 それは卑弥呼とその後継者壹與と、
 そのまた後継者の倭国天皇家とも
 全く別の政権・ウッタラ仏教政権が、
 畿内を中心に中国地方から
 東海にまて実在していた
 史実を明瞭に立証して、

 天武天皇の「焚書(ふんしよ)」の事実を
 明確に告発しているのである。

 視点を変えて記録の面から見ても、
 あれほど倭人の生活を細部まで
 観察し記録した『魏書倭人章』が、
 銅鐸については1字も書かないのは、
 卑弥呼政権も、
 また壹與政権も、
 ともに銅鐸とは無関係で、
 その国の位置が近畿圏ではなく
 遠く離れていたことの、
 誰にでもわかる動かない証拠である。

 だがこの銅鐸の有無を無視して、
 仮に卑弥呼が奈良で君臨していたとしても、
 3世紀にそこがヤマトと呼ばれたはずがなく、
 ありとあらゆる可能性を捜し求めてみても、
 3世紀には
 ヤマト朝廷など
 列島内にはどこにもなかったという
 答しか見つからない。

 M.K記(責)

転載元転載元: 歴史徒然:History Tsuredure


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