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《幾つもあるソナカの別名と、ミマナの語源》
※出典:加治木義博
大学院講義録22:09
① このソナカヒコは、
『崇神天皇紀』の
最後の部分=崇神65年に、
任那(みまな)国からやってきた王子・
<ソナカシチ>=<蘇那曷叱智>
として出てくる。
<ソナカ>と<足仲>は同じだから、
<シチ>と<ヒコ>の関係を考えると、
<ヒ>は大隅語で<シ>、
<コ>は<木>の字を当て字すると
<キ>と読まれ、
大隅語と沖縄語で<キ>は<チ>に変わる。
<彦>=<ヒコ>と<叱智>=<シチ>は、
もともと同じもので、
当て字と発音差が生み出した
変化にすぎないから、
蘇那曷叱智とは、
仲哀天皇と全く
同じ名をもった人なのである。
② この<ソナカ>は
次の垂仁天皇2年に、
「任那へ帰りたい」
と請願したという記事がある。
そして
その次の項の「一書」には、
「崇神天皇の御代に、
額(ひたい)に角の生えた人が、
越の国経由でやってきて、
「私は意富加羅国の王子・
都怒我阿羅斯等(ツヌガアラシト)、
別名を
<于斯岐阿利叱智干岐>
(ウシキアリシチカンキ)
といいます」と
名乗って3年いたが、
国に帰るというので、
垂仁天皇は
御間城天皇を慕ってきたのだから、
帰国したら御間城の名を国名にせよ。
といって赤い絹を与えた。
弥摩那(みまな)というのはそのためだ」
と書いてある。
このことで<都怒我阿羅斯等>も、
<于斯岐阿利叱智干岐>も
<ソナカ>の別名であり、
<任那>は<意富加羅国>と
同じ国だとわかる。
M.K記(責)
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伝説・神話など
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《『記・紀』評価を不動にする「要素」5つ》
※出典:加治木義博
大学院講義録22:07
「『記・紀』とは、どんな史書か?」
という疑問に答えて、
その答が今後、
永遠に変わることのない
「定義」をうちたてることができる
記事としては、
その実在と、その時代とが、
『魏書倭人章』その他の
「中国正史の記事によって
鮮明に立証されている卑弥呼」を
めぐるものが最適である。
それは
『日本書紀』の記事が正しいか、
誤りかを決定的に証明する
第1の要素が、
「時」だからである。
第2の要素は、
記事に登場する人物が
実在者だったことを確認できなければ、
史書としての資格を論議できないが、
卑弥呼関係には対照できる
人物記録が揃っているからである。
第3の要素は、
「その人物の記事の正否」を
判定できる程度の関連記事が、
主体の『日本書紀』と
証拠文献の『魏書倭人章』の双方にある。
ということである。
第4の要素は、
対照文献が記録している内容によって、
さらに関連のある別の記事が
見つかることである。
これは実例で、
どんなに有効かを、ご痛感いただける。
第5の要素は、
対照文献の信頼度の高さである。
それが疑わしいものでは、
この立証行為は最初から無に等しい。
この点、
『魏書倭人章』は
最も信頼できる文献である。
M.K記(責)
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《神武紀元は讖緯説(しんいせつ)だと否定した宣長や信友・那珂ら》
※出典:加治木義博
大学院講義録21:21
好都合なので作家の林房堆氏著
『神武天皇実在論』から引用させて戴くと
「平田俊春教授は
『神武天皇紀の紀年の意義』と
『古代、中世における神武紀元の使用』
その二論文を書いておられる。
その趣旨を要約抜粋すれば、
「神武天皇の時代から少なくとも十数代は、
全く暦の行なわれなかった時代であるから、
紀年のない古事記的形態が
書紀より古いものであり、
書紀の紀年は故事伝承をもとにして
作為したものであることは
いうまでもない」。
「神武天皇元年が讖緯説(しんいせつ)に
基づいて、
西暦前660年に置かれている事は
学会の定説になっている」
「この讖緯説は中国の道家の学説で、
1260年ごとに大変革が起こり、
その年を
辛酉(しんゆう)と甲子(こうし)と
するものであるが、
これを日本にあてはめて
神武元年を推定したのは、
聖徳太子の時代であったと考えられる」
「神武紀元が讖緯説によって
作為されたことは、
すでに本居宣長や伴信友によって
論じられたことであるが、
那珂通世博士はそれを受けて、
朝鮮史その他の紀年と参照して、
神武紀元は約六百年、
不当に引きのばされていると判定し、
百歳以上の天皇や武内宿祢のような
三百歳以上の重臣が現われているのは、
紀元延長の故だと論じた。
博士の説は
進歩的陣営の学者たちによって
大いに宣伝され、
影響をうけた中学教師などは、
生徒に神武紀元のデタラメと
紀元節復活のナンセンスを
理解させられる!』と喜んだ」
M.K記(責)
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《不当に劣等視してきた自虐説『邪馬台国大和説』》
※出典:加治木義博
大学院講義録21:05
だが、まだ、
このフェニキヤ建国の可能性を
疑う人々があるとすれば、
今から3000年前に
我が国の稲敷と中国の殷墟の双方に、
全く同じ信仰による20を超す
同じモチーフをもつ遺物
『人面注口器』を遺し、
正確な北緯36度線上に、
この2地点を結ぶ
キッカリ2200kmの距離を測定し配置した
凄い文明の持ち主・
太古日本列島人の実在は動かないことを
お教えしよう。
紀元前660年より4世紀前といえば、
今から戦国時代に遡る。
その古い時代に稲敷の人は、
すでにフェニキヤよりもさらに
古いカルデア文明を、
見事に使いこなしていたのである。
在来の「常識」神武建国地・
奈良の石余(いわれ)や橿原は、
この海上の2200血の距離に比べれば
近所といっていいほど稲敷に近い。
殷の建国に遅れること
4世紀以上経った紀元前660年に
そこにある小村落を奪った、
それが
我が国の建国だといって誇るというのは、
どう考えても余りにも野蛮で、
落差がひどすぎる、
侮蔑にも程があると憤りを覚える程だ。
『邪馬台国大和説』は、
その奈良に邪馬台国があったと
主張しているが、
その倭人が着ている衣服は、
男女ともギリシャ衣装なのである。
そんな文化がどうして奈良にあるのか?、
その説では全然、説明できない。
ところがギリシャやフェニキヤなどとの
明白な交流を理解できている
私たちは1つの疑惑も残さずに、
すべて完全に納得でき、
説明できるのである。
※人面注口器
M.K記(責)
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《虚構ではなかった紀元前660年の我が国建国》
※出典:加治木義博
大学院講義録21:03
大学院講義録20号の年表には、
もう一つ重大な我が国の
建国問題が残っている。
「『日本書紀』が建国を
紀元前660年だとしているのは大ウソだ」
というのが、
明治以来の定説だからである。
『日本書紀』はそんなにも
デタラメな『正史』で、
無茶苦茶な史書だったのであろうか?。
ところがこの年表は、
この大問題に、
非常に適確な答を出してくれるのである。
紀元前660年の17年前、
紀元前677年にフェニキヤが滅びている。
本来海洋民だったフェニキヤ人は、
そのため大移動して
古代ギリシャ人に混入したのだから、
我が国まできた集団があった可能性もある。
カドモスが都市国家テーバイを建国し、
それを記念して
新年に門松をたてる行事が今も続いているし、
他にも幾重にも証拠が見つかっているので、
否定はできない。
またフェニキヤを滅ぼしたアッシリヤも
紀元前612年に
新バビロン帝国に敗れて併合されている。
この新バビロンは
紀元前625年に帝国になったが、
そのとき突然、国が生れたわけではない。
それ以前に小国時代がある。
その建国が紀元前660年で、
それを建国時としたとしても無理ではない。
この場合もフェニキヤは
バビロンの一部なのだから、
我が国にきたフェニキヤ人は
その建国を自分たちの国の
建国としていてもおかしくはない。
それが神武紀元とされた可能性がある。
いまでは、
どこからみても
「紀元前660年建国はウソだ」
とはいえなくなっているのである。
M.K記(責)
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