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堺の歴史と文化に触れる!古墳と和菓子を巡るご当地名物旅

6/1(土) 11:00配信

ウォーカープラス

堺は南蛮貿易により貴重な砂糖が伝来した土地。千利休誕生の地で、茶の湯の文化と共に歩んできた和菓子を味わいつつ、仁徳天皇陵古墳に行くご当地名物旅を紹介。<※情報は関西ウォーカー(2019年4月23日発売号)より>

【写真を見る】堺は江戸幕府の直轄領(天領)だったことから名付けた「天領もなか」(120円・左)、「ちんちん電車もなか(餅入り)」(140円・右)/和菓子もなか 南曜堂

かん袋

大坂城築城の際、秀吉に腕の強さを称えられ、「かん袋」という屋号が与えられた鎌倉時代末期創業の老舗。うぐいす色のあんで餅をくるんだくるみ餅と氷くるみ餅の2種があり、くるみ餅は持ち帰りもできる。

くるみ餅にかき氷をかぶせた、これからの季節にピッタリの甘味。ダブル(720円)。

■かん袋<住所:大阪府堺市堺区新在家町東1-2-1 電話:072-233-1218 時間:10:00〜17:00 ※なくなり次第終了 休み:火水(祝日の場合営業) 席数:約40席 タバコ:禁煙 駐車場:タイムズ堺かん袋を利用(26台、かん袋利用で90分無料) アクセス:阪堺電車寺地町駅より徒歩2分>

■ 和菓子もなか 南曜堂

1921年ごろの創業で、戦後にもなか専門店に。しっとりとした生地と上品な甘さのあんが絶妙で、ちんちん電車や天領など堺にちなんだネーミングの逸品は堺みやげにぴったり。

■和菓子もなか 南曜堂<住所:大阪府堺市堺区南旅篭町東1-2-7 電話:072-233-1513 時間:9:00〜18:30 休み:木曜、祝日 駐車場:3台(無料) アクセス:阪堺電車御陵前駅より徒歩4分>

■ 仁徳天皇陵古墳

クフ王、始皇帝と並ぶ世界三大墳墓。日本最大級の前方後円墳で、百舌鳥三陵(もずのさんりょう)の一つ。全貌を見るなら堺市役所高層館21階展望ロビーへ行こう。

■仁徳天皇陵古墳<住所:大阪府堺市堺区大仙町 電話:ワンストップ窓口0120-099-771(10:00〜16:00、土日祝9:00〜17:30) 時間:見学自由(内部非公開) 休み:なし 駐車場:105台(200円/120分、以降100円/60分) アクセス:JR百舌鳥駅より徒歩8分>

(関西ウォーカー・関西ウォーカー編集部)

最終更新:6/2(日) 9:14
ウォーカープラス

転載元転載元: nk8**6eのブログ

『吾妻鏡』を愛読していた家康は歴史認識をプロパガンダした

5/31(金) 12:00配信

BEST TIMES

情報あふれる現代こそ、「プロパガンダ」の技術が必要だ。戦国時代の日本人に「騙されないコツ」「生き残るコツ」を学べ。『プロパガンダで読み解く日本の真実』を上梓した倉山満氏が解説する。家康のやり方とは。

この記事の写真はこちら

■関ヶ原遅刻演出の真意

 本能寺の変を境に、織田家の跡目争いが始まります。2男の信雄と3男の信孝というバカ息子同士が争い、まずは信孝が消され、信雄は家康を頼って秀吉に対抗しようとしたけれども、あっさり、秀吉の軍門に下ります。

 天正12(1584)年の小牧・長久手の戦いは秀吉VS.信雄・家康の戦いでした。家康は直接決戦で秀吉に勝ったと宣伝しまくりました。

 でも、家康が勝ったのは、たった1日だけの話です。緒戦では犬山城を秀吉に落とされ、小牧・長久手で睨み合って、1回だけ野戦で勝ったのを、さもすべてであるかの如く言いふらしただけです。翌日にはまた睨み合いに戻り、最後には家康が降伏しているのが小牧・長久手の戦いです。

 小牧・長久手の戦いは、秀吉対家康の「天下人同士の唯一の直接対決」として江戸期には特筆大書されますが、それには理由があります。関ケ原の合戦を威張り散らせないからです。

 秀吉が生きていた時、家康は臣従を徹底します。秀吉が死んだ瞬間、もはや日本に怖いものは無しと、牙をむき出しにします。家康は婚姻や手紙攻勢で、大名を味方につけます。要するに買収していっているわけです。

 これに異を唱えたのが豊臣の忠臣である石田三成でした。2人の対立は、1600年の関ケ原の戦いへと至ります。

 決戦は一日で終わりました。実は小早川秀秋は最初から裏切っていた。日和見の秀秋に業を煮やした家康が鉄砲を撃ちかけて脅した、いわゆる問鉄砲はなかった。朝から始まって12時には終わっていた(通説より2時間早い)。等々、関ケ原の戦いに関しては興味深い新説が次々と出ています。ご興味がある方は、白峰旬『新解釈 関ケ原合戦の真実』(宮帯出版社、2014年)をどうぞ。

 それはともかく、関ケ原の戦いは予想外に早く終わり、徳川の主力は決戦に間に合いませんでした。家康の息子の秀忠が遅刻したために、家康は三河武士団ではなく外様の連中を率いて戦ったのです。これが大問題で、恩賞について外様の連中に気を使わなければならなくなり、後の徳川幕府の形態を決めたのです。

 関ヶ原の合戦は、日本中の誰一人として1日で終わると思っていませんでした。秀忠の遅刻の原因は、真田氏が籠る上田城を攻めあぐねたからです。徳川は過去にも上田城で大敗を喫しており、景気づけに落として恥も雪いでしまおうと考えていたら返り討ちにあった、と信じられてきました。

 ところが、実際は家康が「信濃の真田を落とせるなら落としてこい」と言ったのが発端なのです。つまり、秀忠は命令を忠実に守りましたが、敵の抵抗が手ごわいので無理攻めをせずに関ケ原へ急いだら、戦いが終わっていたということです。むしろ、どうして家康の方が待っていないのか。家康の方にこそ伝達ミスの責任があります。

 しかし、三河武士団としては「神君家康」に傷がつくとまずいので、秀忠が責任をかぶらされました。「無能な秀忠ですら将軍職に就けるシステムをつくった神君は偉い」ということにもなりました。これもまたプロパガンダです。秀忠もそれは当然承知だったでしょう。

 逆に、無能として存在している方が、秀忠自身にとっても都合がいいのです。徳川家全体にとって、家康と秀忠、どっちが無能なのかといえば、秀忠を無能にしておく方がよく、そこがまさにポイントなわけです。

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最終更新:5/31(金) 12:00
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『吾妻鏡』を愛読していた家康は歴史認識をプロパガンダした

5/31(金) 12:00配信

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情報あふれる現代こそ、「プロパガンダ」の技術が必要だ。戦国時代の日本人に「騙されないコツ」「生き残るコツ」を学べ。『プロパガンダで読み解く日本の真実』を上梓した倉山満氏が解説する。家康のやり方とは。

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■関ヶ原遅刻演出の真意

 本能寺の変を境に、織田家の跡目争いが始まります。2男の信雄と3男の信孝というバカ息子同士が争い、まずは信孝が消され、信雄は家康を頼って秀吉に対抗しようとしたけれども、あっさり、秀吉の軍門に下ります。

 天正12(1584)年の小牧・長久手の戦いは秀吉VS.信雄・家康の戦いでした。家康は直接決戦で秀吉に勝ったと宣伝しまくりました。

 でも、家康が勝ったのは、たった1日だけの話です。緒戦では犬山城を秀吉に落とされ、小牧・長久手で睨み合って、1回だけ野戦で勝ったのを、さもすべてであるかの如く言いふらしただけです。翌日にはまた睨み合いに戻り、最後には家康が降伏しているのが小牧・長久手の戦いです。

 小牧・長久手の戦いは、秀吉対家康の「天下人同士の唯一の直接対決」として江戸期には特筆大書されますが、それには理由があります。関ケ原の合戦を威張り散らせないからです。

 秀吉が生きていた時、家康は臣従を徹底します。秀吉が死んだ瞬間、もはや日本に怖いものは無しと、牙をむき出しにします。家康は婚姻や手紙攻勢で、大名を味方につけます。要するに買収していっているわけです。

 これに異を唱えたのが豊臣の忠臣である石田三成でした。2人の対立は、1600年の関ケ原の戦いへと至ります。

 決戦は一日で終わりました。実は小早川秀秋は最初から裏切っていた。日和見の秀秋に業を煮やした家康が鉄砲を撃ちかけて脅した、いわゆる問鉄砲はなかった。朝から始まって12時には終わっていた(通説より2時間早い)。等々、関ケ原の戦いに関しては興味深い新説が次々と出ています。ご興味がある方は、白峰旬『新解釈 関ケ原合戦の真実』(宮帯出版社、2014年)をどうぞ。

 それはともかく、関ケ原の戦いは予想外に早く終わり、徳川の主力は決戦に間に合いませんでした。家康の息子の秀忠が遅刻したために、家康は三河武士団ではなく外様の連中を率いて戦ったのです。これが大問題で、恩賞について外様の連中に気を使わなければならなくなり、後の徳川幕府の形態を決めたのです。

 関ヶ原の合戦は、日本中の誰一人として1日で終わると思っていませんでした。秀忠の遅刻の原因は、真田氏が籠る上田城を攻めあぐねたからです。徳川は過去にも上田城で大敗を喫しており、景気づけに落として恥も雪いでしまおうと考えていたら返り討ちにあった、と信じられてきました。

 ところが、実際は家康が「信濃の真田を落とせるなら落としてこい」と言ったのが発端なのです。つまり、秀忠は命令を忠実に守りましたが、敵の抵抗が手ごわいので無理攻めをせずに関ケ原へ急いだら、戦いが終わっていたということです。むしろ、どうして家康の方が待っていないのか。家康の方にこそ伝達ミスの責任があります。

 しかし、三河武士団としては「神君家康」に傷がつくとまずいので、秀忠が責任をかぶらされました。「無能な秀忠ですら将軍職に就けるシステムをつくった神君は偉い」ということにもなりました。これもまたプロパガンダです。秀忠もそれは当然承知だったでしょう。

 逆に、無能として存在している方が、秀忠自身にとっても都合がいいのです。徳川家全体にとって、家康と秀忠、どっちが無能なのかといえば、秀忠を無能にしておく方がよく、そこがまさにポイントなわけです。

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最終更新:5/31(金) 12:00
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併合に向かう流れ 明治初期から中期にかけてのまとめ
《征韓思想とは、「朝鮮が天皇に服属すべきものであり、その天皇を中心とした体制が日本の本来の姿、国体であるとする理念であって、王政復古して国体を顕現するからには、朝鮮は服属の礼を示さねばならなず、朝鮮側が拒否する場合には武力をもってそれを実現すべし」という思想 (〇吉野誠『明治維新と征韓論』p227)》
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佐田 白茅(さだ はくぼう)は1868年(明治初年)には「朝鮮は応神天皇以来、(朝貢の)義務の存する国柄であるから、維新の勢力に乗じ、速やかに手を入れるがよろしい」という建白書を政府に提出。
1870年(明治3年)3月、その佐田 と森山茂は釜山に派遣され、書契問題で紛糾していた朝鮮との予備交渉。この過程で朝鮮側の態度に憤激した佐田は、同年4月に帰国したのち政府に征韓を主張する報告書を提出した。

琴秉洞によれば、明治維新後政権の中枢に入り込んだ吉田松陰の弟子で征韓論を唱えた中心人物は木戸孝允だったが、それを草の根に広げ日本中を熱狂させたのが佐田白茅であり、初年以後3度にわたって建白書を提出している。佐藤信淵にならって朝鮮征服は「30大隊あればことが足りる」と述べており、琴秉洞は「朝鮮従属を早くから提唱した佐田白茅の朝鮮蔑視の根は深い」と評している。(琴秉洞『日本人の朝鮮観』p52-p55、明石書店 2006)
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これが日本側の外交官だったわけだ。侵略主義者が外交官なんだから、まともな外交になるわけがない。
こうして佐田 や森山の征韓論を受け、1870年 外務省が太政官あてに『対朝鮮政策3か条』を提出
第ニ策「天皇の使いとして木戸孝允を派遣し、王政復古政策の国書受理拒否を責め、通商条約締結をもちかけ、これを朝鮮側が拒否するなら武力発動に及ぶ」
第三策「朝鮮懐撫のため、宗主国である清国と「比肩同等」の条約終結を先行させ、ついに朝鮮を「一等を下し候礼典」で扱い、「遠く和して近く攻る」の方策」
おいおい。

1873年 閔妃と高宗が大院君を追い落とし高宗の親政を始めると日本に対する姿勢を軟化した。日本政府は、天皇が外交を司る以上朝鮮は日本に服従しなければならないという「朝廷直交」論に替えて、妥協案としてあった「対等」論によって条約を締結しようとした。この時点で日本側は本音を隠して、近づいていくがやがて1900年代に「朝鮮征伐」の夢想をかなえるのだが、それはともかく1873年の話だ。
「対等」論によって条約を締結しようとした日本だが、しかし書契には、「皇上」の文言が使われ、森山茂は儀礼の場で洋服の着用を主張し軋轢を招き不調。いつもそうだが「対等」とか「平等」とかいう言葉は、日本では言葉の中にだけ存在している。
1875年4月、森山理事官は「軍艦を発遣し、対州(対馬)近海を測量せしめ、以て朝鮮国の内訌に乗じ、以て我応接の声援を為さんことを請うの議」という強硬な征韓意見を寺島外務卿に提出した (『韓国併合』海野福寿p15)。
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大日本帝国政府は軍艦を送り、1876年 江華島で条約交渉 <日朝修好条規>による不平等条約締結した。
中塚明の『現代日本の歴史認識』p146〜によると、長く定説とされていた「飲料水を求めている時に銃撃された」も歴史の偽造だという。井上海軍少佐の報告書には「水」の文字がならんでいるが、この報告書は10日も経て書かれており、事件翌日の報告書<9・29報告書>には、「飲料水を求めて」などとは書いておらず、「分捕り品一覧」まで添えてあるという。また戦闘は3日に渡ったのである(p168〜)。これについて後に元帥にまで登りつめた井上は、「3日もいたとなれば国際法上の問題になるから、国際法上許されている「飲料水をもとめて」と主張したのだ」と述べている(p173、大正13年5月22日の海軍大学校の講話)。
つまり「3日間戦闘した」となると国際法上問題なので、「飲料水を求めたら砲撃された」という被害者なりすまし話に差し替えたのである。
ネトウヨはしばしば、<ホントは加害者なのに被害者に成りすます論理>を振り回すが、国家ぐるみの「被害者偽装」に、日本の歴史は彩られているのである。

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ここ数年、安倍政権下による自衛隊日報や森友問題での公文書の隠蔽、偽装が取沙汰されているが、その安倍たちが理想とする大日本帝国は歴史偽造大国であった。歴史修正主義という言葉があるが、わが国における歴史修正主義の歴史(都合の悪い歴史の削除)は近現代だけを取り出してみても、長きにわたる伝統なのである。

転載元転載元: 河野談話を守る会のブログ

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