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「火事、橋を第一に守れ」 幕末の伏見奉行、秀吉が架けた橋の管理徹底を通達 旧家で文書発見

産経ニュース
2018.2.17 07:34

 豊臣秀吉が伏見城築城の際に宇治川に架けた豊後橋(ぶんごばし)(現・観月橋(かんげつきょう)、京都市伏見区)について、江戸時代後期の伏見奉行が橋の管理を徹底するよう町役人らに通達した文書が見つかった。奈良に通じる近道として人々の往来に重要な役割を果たした豊後橋だが、幕末の鳥羽伏見の戦いで焼失。これまで関連史料はほとんど見つかっておらず、関係者は「当時の歴史を知る上で貴重な文書だ」と話している。

 豊後橋は文禄3(1594)年、現在の京阪観月橋駅近くに架けられた全長約160メートルの木造の橋。焼失後の明治6(1873)年に同じ場所に再建され、秀吉が周辺で月見を催したとの伝承にちなみ、観月橋と名づけられた。

 文書は伏見区内の旧家で発見。縦約35センチ、横約95センチで、伏見奉行だった内藤豊後守が就任翌年の天保10(1839)年に町役人にあてたとみられる覚書だ。「出火の場合、火元が遠くであっても橋へ火の粉が来たら急いで駆けつけ、橋を第一に守りなさい」「番人は毎夜、(くぎなどの)金物類が盗み取られないように守りなさい」「月6回、橋を念入りに掃除しなさい」などと橋の管理について指示しており、内藤の黒印が残されている。

 豊後橋一帯の地主だった大岡家の子孫の自宅で保管されており、昨年12月に存在を知った郷土史研究を行う市民団体「車石・車道研究会」のメンバーが解読した。

 宇治川は流れが速く、橋が架かる前は舟で人や物を運んでいたという。同会の久保孝さん(69)は「人々を直接往来させて伏見を繁栄させるためにも豊後橋は重要な存在だったので、管理を徹底する必要があった。そうした人々の思いを、多くの人に知ってほしい」と話している。

 18日午後1時15分から、伏見区役所で開催されるイベントで、同会メンバーが覚書の内容を説明する。入場無料。

http://www.sankei.com/west/news/180217/wst1802170012-n1.html

転載元転載元: <超音速ミサイル>ASM3


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大東亜戦争時、ペリリュー島の戦は「さくら、さくら」という最後の電文で玉砕したが、その戦いぶりは凄まじかった。

米軍最強であった「第一海兵連隊」と戦い、日本軍は敵に損耗率60%を超えさせ「全滅判定」で撤退させた。
 
終戦後18カ月もペリリュー島に残って戦い続けた上等水兵だった土田喜代一さん(上写真)はこう言った。
 
とにかく自分達が負けたら日本は後がないんだと考えていましたから必死でした」。
 
そして戦いを振り返りながらこう語った。
「いよいよ米軍の戦車が我々がいる壕に近づいてきた時、中隊長が『これから敵戦車を攻撃するが、志願する者は手を挙げろ』と言った。
 
その攻撃とは、棒地雷を抱いて敵戦車に対する肉弾攻撃ですから決死隊です。その攻撃に出れば生きて帰ってくることは出来ません。
 
それでも勇敢な2人が志願し、あと1人になった時、私よりも若い小寺亀三郎という男が手を挙げたんです。これには驚きました。だって、その前の日にやっと私が銃の打ち方を教えたばかりの男が名乗り出たんですから。
 
それまで、少し動きが鈍くて、皆から『お寺さん、お寺さん』とからかわれていたような男ですよ。
 
それで私は小寺に『お前、大丈夫か?』と聞いたんです。そうしたら小寺がこう言ったんです。
 
『両親から、死ぬ時は潔く死ねと言われました!』
 
これを聞いて私は、そりゃ胸が張り裂けそうでした。小寺はそう遺して、他の2人と一緒に壕を出て行きました。そして、しばらくしたら、外でドーンという大きな爆発音がしたんです。
 
翌朝、敵に見つからないように水を汲みに壕の外へ出たら、何と先の方に敵の戦車2両が燃えていたんです。
 
小寺亀三郎は見事に敵戦車をやっつけたんです。あの男は本当に立派でした」。
 
そう言い終えた土田氏の目には涙が溢れていた。・・・
 
 
我々の先人達は、祖国日本を守るため、尊い命を捧げられた。
 
それを我々は現在の目線ではなく、出来るだけ当時の目線で、また当時の日本を取り巻く状況をきちんと理解した上で、大東亜戦争を見なければいけない。
 
特に今を生きる日本人が誇りを持てないのは、シナや朝鮮から「日本は侵略戦争をした」と言われるたびに頭を下げてきた日本の卑屈な姿にある。
 
英国も、米国も、オランダも、フランスも、侵略して植民地にした国に対して謝罪したことはない。
 
日本は侵略も植民地支配もしていないのに「耐え難い苦痛を与えた」とお詫びしている。その言葉は現地の住民に苦痛を与えた白人どもが言う言葉である。
 
いつまでもこういうことをやっていては、日本人が日本に対して誇りを持つことが出来ない。
 
日本人の戦というものがどういうものであったのか、正しく知れば知るほど誇りに思うものである。

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転載元転載元: さくらの花びらの「日本人よ、誇りを持とう」

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『猶本光サポーターズサイト』http://hikaru-naomoto.net/
『NPO法人 森を守る紙の会』https://www.moriwomamorukami.com/
『広島カープ』http://www.carp.co.jp/

(かっこ○´д`○)こんにちわぁ♪

《存在価値が問われる我が国の発掘考古学の現状》

※出典:加治木義博
    大学院講義録25:18

 対象とする古墳が、
 被葬者の墓か祭るだけの神社かという、
 重大な本質についてさえ考えることも、
 区別することもできず、

 そんな分類が必要なことを
 考えることもできずに、

 本当は何時、
 紛れこんだのかもわからない
 出土品だけを論拠に、

 3世紀後半だ、
 いやも少し古いなどと、
 古墳の本質による区別も、
 歴史もまるで知らず、

 考える能力も持ち合わせない
 学歴だけの「学者」が、
 これまで牛耳ってきた観のある
 我が国の古代史学界は、
 これまでにもうすでに充分、
 馬脚を現わしている。

 手作りの旧石器らしきものを
 埋めておいて、
 「大発見だ!」と
 マスコミを踊らせて喜んでいた
 犯罪者と大差のない「発表」が、

 これまで、
 どれくらい我が国の歴史を攪乱し、
 進歩を阻んできたか、
 これも国民に対する
 戦犯同様の犯罪であることを
 見逃してはならない。

 だから、
 そんな連中によって
 無茶苦茶にされることを防いだ、
 天皇陵発掘を許可しなかった
 宮内庁の方針は、
 かけがえのないものを守った英断で。

 それを罵倒した学者たちは、
 今更不明を後悔しても遅い。

 彼等こそ真の神道が
 仏教であることを
 立証すべきだったのである。

 考古学者は
 史実を知らなくては素人にも劣る。

 測定具が発達して
 子供でも時代決定が可能な時代だ。

 史実を知らない発掘屋など、
 存在価値がなくなってしまったのである。

 M.K記(責) 

転載元転載元: 歴史徒然:History Tsuredure

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