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本田種竹の「正岡子規を哭す」の第四首も、詩および作者自註は、子規を理解するのに重要な事を言っていますが、それが注目されている事は無いようです。よって、それを読んでみましょう。
聴鳥看花年又年 鳥を聴き 花を看て 年又た年
秋池槐落夢如烟 秋池に 槐落ちて 夢は烟の如し
葯爐経巻浄名室 葯爐 経巻 浄名の室
心慕風流王?瑟川 心に慕ふ 風流の 王?瑟川(もうせん)
来る年も来る年も、鳥の声を聴き、花を見る、という生活。
秋には夢から覚めると、池に槐(えんじゅ)の葉が落ちている。
維摩詰(ゆいまきつ)の方丈とも言うべき君の部屋には薬を煮る囲炉裏とお経があり、
心には風雅な王維を慕っていたものだった。
作者自註には、「君は喜びて摩詰集を誦す。又た別に竹里人と号す」と言います。摩詰集とは、唐の有名な詩人王維の詩文集を言います。「竹里」は、王維の?瑟川の別荘の書室を竹里館と言ったのですが、子規の「竹の里人」という別号は、これに由来するのだ、と種竹は言うのです。?瑟川は、王維が別荘を営んだ所で、陝西省藍田県に在りましたが、そこから王維のことを王?瑟川とも言います。第三句の「浄名室」は『維摩経』の主人公維摩詰の室を言い、王維は、この人を慕って字を摩詰としました。
このように、この詩と自註とは、王維づくめなのですが、そこに種竹が子規を王維に重ね合わせようとしている事が見て取れます。なお、第三句の「葯爐経巻」は、清の王士禎(漁洋)の「薬爐経巻生涯を送る」(「悼亡詩二十六首」内、第何首か未調査)を踏まえており、そこに種竹の王漁洋受容が見出されます。
このように、上の詩と自注とは、子規が王維の詩と隠逸的な生活態度とを愛した事を明言していますが、そうした指摘は従来なされていたでしょうか。子規の全漢詩に訓読を施し、その解説「子規の漢詩と新体詩」(『子規全集』第八巻)を物された富士川英郎氏の文章にも、「王維」の字は見えません。そのように、まだ指摘されていないとすれば、子規の俳句や短歌を考えていく上に重要な示唆を与える指摘として、種竹のこの自註は非常に重要なものだ、と考えます。子規が、自然を写生するという方法で俳句や短歌を近代化したとは、よく言われる事ですが、その事には自然を愛好した王維の何らかの影響があったかも知れません。
ところで、上の詩の承句を見ると、子規庵には池があり、エンジュも植わわっていたかのように思われますが、子規が子規庵の庭の様子を図入りで説明した「小園の記」(明治三十一年十月「ほととぎす」第二巻第一号)を見ると、、とてもとても池どころではありません。今でも行って見ると、そうですが、池など作るような余裕はありません。まして、エンジュのエの字も、その文章には出てきません。すると、承句の上四字は虚構だ、という事になります。その四字は、本来は中国の士大夫の邸宅の庭園描写に用いるべきもので、細民子規の小じんまりとした庭に用いるのは、やや不似合いでしょう。と、そう言ったら子規と種竹の両方に失礼ですかな。
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子規の意外な一面を知ることができました。承句が気になるところです。
2009/10/17(土) 午後 1:34 [ mai*e*883 ]