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田中従吾軒伝

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 田中従吾軒は、白話を用いて小説『警醒鉄鞭』(明治十九年十月、九春堂刊)を著わした人であり、近時、それが台湾の『日本漢文小説叢刊』(二〇〇三年、台湾学生書局)第四冊にも収録されて、むしろ彼の土の研究者から注目されている、という人物です。この叢刊の解説は簡単なもので、従吾軒に就いては殆ど書いてありません。かつて北京の学会で会った李進益氏の博士論文『明清小説対日本漢文小説影響之研究』も参照したが、従吾軒に就いての章は無いようです。とにかく日本においても台湾においてもまだ研究が着手されていない、と思うので、手持ちの資料により、彼の伝記を述べておきましょう。
 
 まず本城問亭の『問亭遺文』(大正五年一月、本城氏蔵版)巻四に、「従吾軒田中先生墓表」があります。その訓読は、次の通り。

  先生は、諱は参、字は子忠、通称は弥五郎、従吾軒と号す。田中氏なり。先世に故有りて平野と改む。
  世よ佐倉の堀田侯に仕へ、重臣たり。
  考、諱は重美、妣は佐治氏、四子を生む。伯を重久と曰ふ。字は伯敬、継ぎて国老と為る。仲を久徴と
  曰ふ。字は亦耻、窪田氏を冒す。叔は即ち先生なり。本姓に復す。季を岳と曰ふ。字は君山、小永井氏を
  冒す。皆 文学に事功あるを以て、一世に有名なり。
  先生、初め贄を野田笛浦に執る。又た茗黌に入り、業を古賀?迂庵・安積艮斎に受く。既にして西遊し、
  山陽を経て鎮西に入る。会ま侍講職闕き、之を召還す。
  先生、学は洛?罨を宗とし、博く経史に渉り、諸子百家・稗官小説の流に至るまで、究めざる所靡(な)
  し。又た喜びて詩文を作る。滔滔千百言、筆を執れば立ちどころに成る。而して字句精錬、才識
  超逸、往々人をして瞠然駭異せしむ。然れども此れを以て称して詩文の専家と為すは、則ち先生
  を知る者に非ざるなり。先生、志は経済に在り。
  初め儲君に侍講たり。尋で督学に遷り、藩政に参与す。特に禄若干を賜はり、別に家を成す。後、増
  して四百石に至る。当時、升平日久しく、士風偸惰なり。先生、之を矯めんと欲し、興学振武を以て
  自任す。理財・救民・墾田・製茶の諸策を建白す。藩主見山公(正睦)、嘉納す。勤倹興産、国用以て裕かな
  り。
  嘉永中、外使来航し、互市を通交せんことを求む。持論紛々として、未だ決する所有らず。時に公は
  幕府の閣老たり。外務を管す。先生謂ふ、「今日の計、外請を許すに若くは無し」と。因りて建議す。亦
  た公の見る所と合ふ。爾後、海内益々多事、先生、伯氏を輔けて内外に周旋し、慮を致し力を竭す。
  殫(ことごと)くは記すべからず。
  既にして明治、中興す。佐倉藩の少参事と為る。後、或ひと薦めて出でて陸軍省に仕ふ。又た高等師
  範学校に教授す。皆其の志に非ず。何(いくば)くも無く之を辞し、帷を下して教授す。遂に去りて
  南総の海上に隠れ、諷詠自適し、世を遺るる者の如し。然れども懐ひに感ずること有れば、輒ち詞章
  に発洩す。或いは出すに諧謔を以てし、寓言譏切なり。
  晩年に復た東京に来たり、継絶学舎を開きて徒に授く。三十一年三月十二日、病歿す。生まるる文政
  五年七月七日を距(さ)り、年を享くること七十七。佐倉山崎の隆祥寺の先塋に葬る。配の某氏、先
  だって歿す。継ぐに某氏・某氏を以てす。子は一太郎嗣ぐ。某氏の出なり。
  先生、器度磊磊、而して操志勁直、俗と俯仰すること能はず。藩に在る時は主の知を獲て、志猶ほ伸
  ぶ。中興以後、復たは遇ふ所無し。牢騒不平、轗軻 世を終ふ。惜しむべきかな。著はす所は詩文集
  若干巻、其の他警世鉄鞭・香臭記等、皆寓言なり。
  先生、已に世に阿らざれば、則ち文を名流に請ひて、以て身後を飾るは、亦た必ず其の志に非ず。故
  に門人胥(あい)議して、略ぼ行履を叙べ、以て墓に表すること此くの如し。

 従吾軒の生没年に就いては、『国書人名辞典』では何に基づいたのか(『近世漢学者伝記著作大事典』の記述と一致する)、文政十年生まれ、明治二十七年六月没、六十八歳、としていて、上の記述と大きく違います。この場合、問亭の方が実際に従吾軒を知っているのですから、その記述を信ずべきでしょう。すなわち、生没の時期を正す事ができる事になり、これだけでも問亭の「墓表」には大きな意義があります。また、攘夷論者ではなくて開国論者である、という点も注目すべきものでしょう。

 この後に三島中洲の評があり、次のように言う。

  中洲先生曰く、従吾軒の山陽に来るや、余は猶ほ年少にして、山田方谷師の門に在り。川田甕江等と
  同に、一再之を訪ひ、其の文を観、其の談を聴く。談は諧謔を交へ、往往人をして絶倒せしむ。竊か
  に其の才を欽び、謂(おも)へらく必ず大名を成さん。後、余、江戸に遊ぶ。其の帰国して藩政に参
  加するに会ひ、寂として消息無し。明治の後、余、朝廷に出仕す。一再来訪せらる。時に轗軻にして
  貧甚だし。世道に不平あり。然れども諧謔は則ち旧の如し。嗚呼、此の才有りて、世に用ひられず、
  名を成さずして空しく終る。豈惜しからざらんや。其の名を成さずして空しく終ると雖然(いえど)
  も、自から貴ぶべき者の其の間に在る有り矣。此の表を読む者必ず之を知らん。

 中洲は、従吾軒の諧謔と不遇を指摘し、不遇の原因を示唆します。それは、「操志勁直」という性格に
在るのでしょう。正義感が強い余りに妥協しない所があるので、敬遠されるのでしょう。「轗軻貧甚」という有り様については、三浦叶の『明治の碩学』193頁以下にも述べられています。しかし、諧謔の才
があった点は、『警世鉄鞭』のような戯作的著作がある所に現れていいます。
  

   

閉じる コメント(5)

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台湾人ですが、今博士課程を修学している。日本漢文小説に興味を持っている。君が書いた田中従吾軒伝を見つけて貴重な資料だと思う。台湾で日本の漢学者たちの文献はなかなか手に入れられない。もしできれば、「従吾軒田中先生墓表」の漢文の原文を提供していただけないでしょうか。

MAIL:koichi4091@yahoo.com.tw

2010/4/3(土) 午後 5:29 [ 柯混瀚 ]

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来週に写真を掲げます。

2010/4/3(土) 午後 5:37 [ bukou2007 ]

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もう拝見しました。どうも有難う。写真はちょっと見にくいですけど、君が書いた文章に合わせて、ちゃんと理解するようになりました。ちょっと失礼ですか、専門の文章を沢山書いて、お仕事は学者でしょうか。
MAIL:koichi4091@yahoo.com.tw

2010/4/7(水) 午前 2:10 [ 柯混瀚 ]

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ネットで「江戸風雅」を見て下さい。

2010/4/7(水) 午前 8:58 [ buk*u*007 ]

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ちょっとぴっくりしました。先生は明治大学法学部の徳田教授ですか。実は、かねがねお名前は伺っておりました。先生が書いた『日本近世小説と中国小説』という名作も持っています。自分の日本語能力が下手なので、コメントに何か失礼な発言がありましたら、ご容赦ください。
MAIL:koichi4091@yahoo.com.tw

2010/4/7(水) 午後 9:18 [ 柯混瀚 ]


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