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前回訓読した子規の書簡を、今度は現代語訳する。
錬卿殿
近頃、お手紙を戴きました。「天から受けた才は、正しく他の者及ぶ所ではない」だとか、「上京し
てからは学業が大いに進んで、もう以前の君ではないだろう」とかのお言葉は、誉めすぎです。愚昧
な僕がどうしてそれに該当しましょうか。とは言うものの、もし「才」の字を「愚」の字に代えるな
らば、少しは承認致しましょう。僕の学問は、まだ元のままであるのに、愚はますます加わって、も
う以前の僕のようではありません。
僕が郷里にいた時分、石鉄山(いしづちやま)をも高いとし、燧灘(ひうちなだ)の波をも大きいと
し、松山の人家をも繁華としておりました。一旦、東海を渡り、富士山を望んで、八百八街(東京)
を歩き廻ると、見る物すべてが新しく、聞く事すべてが変わっていて、一として僕の意表を突かな
い物はありません。以前に高い、大きい、繁華だとしたものは、いずれも井戸の中の蛙(かわず)の
ような、狭い見かた、と譏られるでしょう。どうしてひそかに忸怩たる思いを抱かないでしょうか。
そこで、僕のような田舎者は、まず目が眩み耳が聞こえなくなり、精神も惑乱して、浮ついた派手さ
を追求し、実際的で有益なものを捨ててしまいます。以前は詩文を楽しいとしておりましたが、今は
一方で和歌・俳句をも学び、以前は孔子・孟子を主として学びましたが、今は一方では老子・荘子を
も学び、その言う事を見ると才子のようですが、その行う事を見ると、狂か愚かでたらめか、世の人
の物笑いの種とならない事は、ほとんど稀です。自分でも、いわゆる都会の軽薄者に類した者と思い
ます。ますます愚かになるのは、怪しむまでもありません。
とは言うものの、およそ世間の事は、他の人ができない事をやり、他の人が言えない事を言えば、
並みの者ではない、という事になります。並みでない者は、後世に伝えられます。後世に伝えられ
たい者は、自身勉めるべきであります。どうして賢者だけを択んで愚者を棄てるという事がありま
しょうか。いわんやまして、賢者は必ずしも賢くはなく、愚者は必ずしも愚かではありませんか
ら。昔、晋の明帝は幼時、太陽の方が長安より近いと言って、父の元帝から賢いと思われた(『日
記故事大全』二)。その話は史書に記されて伝えられている。また、晋の恵帝は蝦蟆の声を聞いて
官の為に鳴くのか私の為に鳴くのかと問い、人から愚かと思われた(『錦字箋』四、昆虫)。その
話も史書に記されて伝えられている。その賢いか愚かか、また是か非かという事は、暫く措いて、
その人に知られる事は、同一であります。その上、その賢いというのは果たして賢いのでしょう
か、愚かだというのは果たして愚かなのでしょうか。ここに長安を遠いという人がおれば、小児(
明帝)は知恵が無い者で、愚の極み、という事になります。蛙の鳴き声が官か私かと問う恵帝は、
深い思慮のある君子であり、その蘊蓄は測り知れず、簡単には論駮できない者かも知れない。古人
は言った、「その賢には及ぶ事ができるが、その愚には及ぶ事ができない」と。僕の学問は愚です
が、しかし他人が及ぶことのできない境地に至るのを期して、ますます進んで止まない積りです。
そこで、もう前日の僕ではない、と言うのです。
そうとは言うものの、僕が進んで愚を求めるのは、故意にこれを為すのではありません。人は自ら
その才の適するものを選んで、これを実行するので、これを見識ある者と言うのです。豊臣秀吉は
自身、僧侶で一生を終える者ではないと思い、終に立ちあがって一世の英雄となったのです。石川
五衛門は自身、善行でもって身を起こす者ではないと思い、そこで万世に亘る盗賊の魁となった
のです。いずれも見識のある者です。僕が自身で見計らうに、自分は無節操で度胸の無い者であ
るのに、むやみに古の賢者を選んで、これに擬えようとしているのであり、自身を顧みない者の
甚だしい者であります。虎を描いて却って犬にも似ない者と言えましょうか。一度描き損なって、
また描けるものは、まだましであります。一度描き損ねて、もう描けない者は、反省しないでおれ
ましょうか。僕が愚者を選ぶのは、愚者中のやや見識ある者です。故らに愚を為すのもではありま
せん。とは言うものの、僕の愚には、全くは愚になりきっていないものがあります。とすれば、そ
の愚を啓発してくれる人は、あなたを除いては他に人がおりません。願わくはお教えを戴きたいも
のです。願って止みません。
前日、お贈りした僕の写真は、容貌が愚者か狂者かのようであります。たぶん、あなたも既に御存
知でしょう。でも、写真は愚者の外形を写したものですが、この書簡は愚者の心情を書いたもので
あります。この両者を併せて見ると、私の愚が全面的にお分かりになるでしょう。どうか、良く御
覧になって下さい。 常規再拝
この頃は梅雨に当たり、雲が晴れず、蛙の声がやかましいばかりで、友人は訪れて来ず、門を叩く
音がしません。立って窓を開けて仰いでも、山は見えず、詰らない事夥しいものがあります。詩一
首をお目にかけます。
蓮の葉が浮草を掻き分けて現れ、波間に揺れ、
竹の子が苔を裂いて突き出し、竹林に斜めに立つ。
十日余り梅雨が続き、庭中が雨。
三つ四つ石榴(ざくろ)の花を敲き落としてやる。
併せて書付け、訂正を乞う次第です。
この書簡は、厄介な漢文(所々、和臭が存する)で書いてあり、それも長文なので、あまり人の注目する所となっていないようであるが、上京して後の子規の精神の成長、文学の新たな展開を示したものとして重要な意義を含むもの、と言える。
子規は、東京の新風俗や新思潮に刺激されて、「浮華」を務めるようになった、と聊か自嘲気味に述べているが、それは実は、文学界の状況が急激に推移している様を認識し、その新しい潮流に乗るべく苦闘している様を語っているものだ、と考える。文学界の状況の推移とは、漢詩文から「国詩」への推移、という事である。子規がそれまで郷里松山で熱心に携わって来た漢詩文の製作は、勿論東京でも当時、まだ盛んに行われていたのであるが、時代の流れとしては詩文壇の耆宿が凋落してゆき、やがては衰退してゆく運命に在った。その予兆が、敏感な子規の目には捉えられていたのではなかろうか。そして、一方では盛んになってゆく「国詩」の動きが気になるものとして子規の視野に入って行く。子規がここで言う「国詩」とは、新体詩を言うのか、和歌や俳句を指すのか、判然としないが、或いはそれら全体を言っているのかも知れないが、とにかく「国詩」の製作の方に子規は関心を向け出している。
そうした方向転換は、漢詩文の製作仲間であった竹村鍛の目からは、愚者の行いである、と見られるかも知れない。と、子規は一応の遠慮や卑下を見せる。しかし、彼は居直るのだ。何でも他人の行わない事を行えば非常人として後世に残るのであるから、その事に努めるべきである。況やそれが自分の資質に向いた者である場合には、なおさらである、と。かくて、子規は、国詩を学ぶ方向に邁進する事を宣言する如くである。とは言っても、実際には尚、漢詩文の製作は続けて行くのであるが。しかし、それにしても、創作や批評の対象は、次第に短歌や俳諧の方が中心となって行く。そうした方向転換への予告とも言うべき文章であるので、子規の文学の展開、ひいては精神流動の軌跡を示す者として大きな意味を持った文章である、と私は考えるのである。
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この書簡が書かれたころは、子規の興味が漢詩から俳諧(和歌もでしょうか)へと広がっていく転換期にあったのですね。彼が若いころから漢詩漢文に嗜んでいたことに加え、個性の大事さを思いました。
2009/12/2(水) 午後 1:31 [ mai*e*883 ]