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写真は、足利学校蔵の孔子像
九月十九日、早く起き、龍太郎を連れて、西南に進み、髪結い床に行ってから帰る。街中は人家が千余りで、戸田長門守(忠禄ただとみ)の領地である。賑やかさは館林に優る。
孫吉・一敬が来る。 辰の刻(午前八時頃)、門人たちと学校に行く。山井璞助および学校の事務の茂木善次に会う。二人は聖廟に案内する。廟は校舎の西北百四、五十歩外に在り、高い牆が取り巻いている。その外は、西南には長い竹が林立し、東には杉の林が陰を作っている。真南に門が二つあり、一つの門は牆に接続しており、「杏壇」の二字が額に書いてある。紀州の老公(徳川頼宣)が書いたものである。牆の東南隅に小門があり、そこから入る。牆の内の石路は二本あり、長さは六間あまり、磚(セン。かわら)で縁(ふち)を作り、円い石でその内を埋めている。その外には数種の珍しい草が植わっている。廟は南に面し、間口は六間、奥行きは四間、高さは四間ほどで、瓦で屋根を葺き、葵の章がある。
善次が言う、
「寛文七年(一六六七)、厳有院(徳川家綱)の命令で、この廟を建てました。明代の作り方に倣っています。天保二年(一八三一)の火災では、ただ此れだけが免れました。「大成殿」という扁額は、知恩院法親王が書いたものです」
階段が二つあり、東側の階段から上る。聖像は中央に在り、像の前には簾があり、常にその下部を捲いてある。高い几(つくえ)に?呎?吭(ホキ。祭器)と豆(トウ。たかつき)が並べてある。すべて木製である。
善次が言う、
「昔は?咾(ヘン)がありましたが、竹の器なので、早くから毀れました」
簾の内には葵の紋の幕があり、幕の内には厨子(原注、漢名は聞いていない)があり、これを開けると聖像が現れる。木製である。高さは二尺五寸ばかりで、足を組んで座り、向かって左手は拳を挙げ、何か握っているようである。
善次が言う、
「昔は羽扇を握っていましたが、近頃、俗っぽいので取り去ったのです」
向かって右手は掌を開き、何かを捧げているようだ。両目には玉を嵌めて、実に千年以前の物で、古色蒼然としている。襟ぎわには所々に金が残っている。旭荘は、こっそりと璞助に言う、
「聖像は足を組み、一方の手は開き、もう一方は閉じていて、しかも金が塗られている。かなり仏像に似てないか」
「私も、そう思います」
簾の前には四つの神牌がある。いずれも高さは二尺ばかりで、朱塗り、墨で「復聖顔子神位」「宗聖曽子神位」「述聖子思神位」「亜聖孟子神位」と書いてある。簾の右には顔子の画像が、左には閔子のそれが掛けてあり、四方の壁には七十二弟子の画が掛かり、すべて十二幅ある。
東の廂(脇部屋)には小野篁の木像があり、聖像よりも大きい。西の廂には、もとは「めどぎ(草冠+耆)」室があったが、今は東照神祖(徳川家康)の神位を置き(神祖廟が罹災したので)、「入徳」の二字を扁額に掲げている。今の紀州侯(徳川斉順なりゆき)が書いたものだ。
廟を出て書庫に入る。書庫は廟の東南三十歩外に在り、中央に一つの櫃(ひつ。大箱)があり、「御上覧」という三字が書いてある。櫃の内の本は将軍が代替わりするごとに、お見せするという。璞助が櫃を開けて本を見せる。およそ数十百種、ことごとく記している余裕は無いので、取りあえず要点のみを次に挙げよう。
周易注䟽 十三本 毎巻首に「上杉右京亮藤原憲忠寄進(以上、十一字)と書し、花押がある。宋板で
ある。毎巻に「陸務観第六子子?瘋(いつ)」の手書有り。跋に、「端平二年、正月十日、鏡
陽嗣陰子?瘋遵先君手標以朱点伝之、時大雪始晴謹記」(原注、以上三十二字。鏡陽の嗣隠陸
子?瘋が先君の手標に遵って朱点を以って之を伝ふ。時に大雪始めて晴る。謹んで記す)とあ
る。(筆者注。務観は、宋の大詩人陸游の字。実に陸游の手沢本である)また、「端平改
元、冬十二月二三日、陸子?瘋三山写易車窓標閲」(原注、以上二十二字)と書してある。書
体は楷書・行書を交え、雄勁で非凡である。句読・段落・批点には朱を用い、塗抹には雌黄
を用いて、意を用いること甚だ密である。
五臣注文選 二十一本 毎巻首に「金沢文庫」の墨印あり(原注。『本朝編年少史』を按ずるに、北条
義時の子を実㤗と曰ひ、金沢に居る。称名寺と号し、文庫を寺内に建て、和漢の群書及び
仏経を納む。其の子を顕時と曰ひ、孫を貞顕と曰ひ、貞顕は高時に相たり)、宋の真宗の
時の彫工施章の刻する所にして、南宋に補刻したもので、巻末には「学庠寄進、永禄第
三、竜集庚申、六月七日、平氏政朝臣」(以上二十一字)と書かれている。また、「司業
大隅産九華叟」(以上八字)と書かれる。巻三十には、また九華の跋があり、「隅州之産
九華、行年六十一之時、欲赴于郷里、過相州、大守氏康氏政父子聴三略、講後話柄之次賜
之」(以上四十字。隅州の産九華、行年六十一の時、郷里に赴かんと欲して、相州を過
り、大守氏康・氏政父子 三略を聴き、講後話柄の次に之を賜ふ)と書す。三十九巻に、
また書して、「大隅産九華、、六十一歳、周易講一百日十有六度、伝授之徒以上百
人也。欲赴郷梓之時、抑留次有寄進也。又請再住于講堂矣」(以上四十九字)と言う。ま
た、「九華請去学校時、北条氏臣宗甫(其の姓を失ふ)者、以君命留之」とあり、俗牘に
ほぼ次のように言う、「学校の主は、未だ替わる人がいない。我が君はこれを憂いて、留
まらん事を願っている」(旭荘が意訳した漢文の拙訳)。近時、近藤重蔵なる者が考証し
て言う、「按小田原所領役帳(原注。諸臣の采邑簿)曰、二十四貫五百文、宗甫蓋其人
也」(以上二十二字は、重蔵の文)と。旭荘が按ずるに、永禄三年は、上杉輝虎が上杉憲
政を奉じて、小田原を攻め、この年には氏康・氏政がまた岩槻の太田三楽を攻めている。
そもそも氏政は亡国の主である。その戦乱の時において、自身で三略の講義を聴き、また
学校に教授する人がいないのを憂いて、ねんごろに九華を引き留めるという美点が有るな
どと誰が知ろうや。故に記録し、また当今は明君が林立しているのに、このように意を用
いる方がいないのを嘆息するのである。(思うに、当時、氏康がなお生きていた時には、
氏政も学を好んでいた。氏康が亡くなると、楽しみに耽り敗れを取った。『文選』は氏政
が寄進したものなので、ただ氏政だけを挙げたのである。
(筆者注。上の九華に就いては、川瀬一馬『足利学校の研究』第三章「室町時代に於ける
足利学校の研究」七「第七世庠主九華」が詳しい
孝経大全 十本。明、仁和、江元祚輯。銭塘聞啓祥訂。和刻である。思うに板が災に罹り、ために世人
は多くは見ていないのであろう。
元板十八史略 二本。字の細かい事は虱のようだ。その文は大いに坊間に行われるものに異なってい
る。本書は、元のことを大朝(悉く擡頭す。字を上欄に出すこと)と称し、宋末・元初の
事を記して、大層詳らかである。文文山(天祥)の死に就く条を載せる。巻首には、「八
州副元帥藤原憲房寄進」(以上十一字)と書す。巻尾には、「大永丙戌小春日、藤原憲房
寄付、藤公前年乙酉三月薨逝、依遺命今歳秋寄置(原注。国語では寄進・寄付・寄置は、
いずれも同意である)東井誌」(以上三十四字)と書す。
貞観政要 邦板(和刻本)八本。神祖(徳川家康)が三要に賜ったものである。僧承兌(じょうたい)
の跋があり、言う、「唐の太宗文皇帝は、創業に守成に、一代の英武の賢君なり。千載の
下、其の徳を仰ぎ其の風を慕ふ者は、今の内大臣家康公(闕字無し)是れ也。故に前学校
の三要老禅をして貞観政要を校訂せしめ、去歳 家語を板に開かしめ、今歳 政要を梓に
刻せしめ、聖賢の前軌に遵ひ、国家の治要と作(な)す。宜(むべ)なり、豊国大明神
(擡頭。豊臣秀吉のこと)、下土を辞するの日に際し、令嗣秀頼幼君(また擡頭し、豊国
より下すこと一字)の、賢佐の遺命を受くること。爾来、寛厚にして人を愛し、明に聴き
て衆を治むること、周勃・霍光・安劉氏(国家の重臣)の昭帝を輔くるに異ならず。矧
(いわん)や又た海内に此の書を弘め、而して士民の心を協和するをや。則ち明神(擡
頭)の為に旧盟を忘れず、幼君(明神より下すこと一字)の為に至忠を尽くす者(こ
と)、其の用 大なる哉。慶長五年、星は庚子に輯まる、花朝節の前、竜山見(ママ)鹿
苑の承兌叟謹んで誌す」と。
承兌の文は論ずるに足るもの無し。余独り其の向(さき)に(小西)行長・(石田)三成
の嘱を受けずして、明の豊公を封ずる冊文読むに、少しの隠諱無きを嘉するのみ。而るに
今 立言 是くの如く体を得たり。
標題句解孔子家語 四本
六?舂三略 また神祖(家康)が活字板を三要に賜り、作ったものである。三要の跋に言う、「造活字
数十万、賜予、初開板家語」(以上十三字)(活字数十万を造りて、予に賜ひ、初めて家
語を開板す)。
明板唐詩正声 四本 弘治板。
続綱目 十三本 朝鮮板。
韓文正宗 二本 成化板。
柳文 五本。以上四部は、また神祖の賜ったものである。
写本孝経古文 即ち、太宰春台が校訂した原本である。字形は極めて蕪雑であるが、甚だ古い。
論語義疏古写本 数冊 巻首に「轟文庫」の墨印がある。また「睦子」の印がある。(原注。睦子は後
住の持譜に詳らかなり)。轟文庫は、いづこに在るのか知らない。たぶん三、四百年以前
のもので、近時、知不足斎文庫叢書に輯められた原本である。
毛詩注䟽 三十本。「劉叔剛父?籠梓」の印がある。即ち南宋板である。やはり憲実の寄進で、毎巻の題
字は、昨日見た『左伝正義』と同じである。「詩譜序」の末に、「大荒落歳、晩夏小尽
日、燈火一看絶句訖、藤(日冠り+山)」(以上十八字)と書す。藤(日冠り+山)は、
何者なるか分からない。たぶん憲政の頃の人であろう。
㤗軒周易伝写本 三冊 清源李中正伯謙の撰したもの。巻末に、「応安五年、極月八日寅時書写
了」(以上十三字)と書す。「(山冠り+上+日。とき)文明九、丁酉仲春日、紫陽大寄
置之」(以上十五字)と書す。
山井璞助が言う。
「李伯謙の姓名は、四庫全書、『経義考』などの諸書に見えず、この書はたぶん
唐土には亡びたものでしょう。我が師慊堂先生は、『伯謙の説は大層良い』と語って
おられました」
末に、「嘉定上章執徐十一月重光大淵、広川の董洪に献ず」という跋が有るから、
伯謙は宋人であろう。
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