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帰蔵抄写本 六冊 国語で王註の意を訳す。末に、「文明丁酉、十月二十一日始之、十一月二十七日終
之、滴翠亭子」(以上二十五字))と書し、下に「莽万」という二字の篆印がある。講義
の内には、時に時事や鎌倉の(足利)持氏の乱の事に言及する。丁酉は、九年(一四七七)
で、今を去る三百六十六年前である。
周易古写本 末に、「易学之徒置之」(以上六字)と書す。年月は記していない。その表紙は糊が剥が
れ、見ると永享九年(一四三七)丁巳の暦で造られている。今から四〇七年前である。
周易写本 三冊 その古さは同じぐらいだが、題字が無い。
王弼註写本 末に、「慶長壬子(17、一六一二)、睦子叟在庠之日書」と書す。
論語何晏集解 二冊
古文尚書孔伝 全部(其の巻数を忘る)
古文尚書白文 二冊
又一本 一冊 以上の四部は、いずれも足利の時の写本である。
書経蔡伝写本 六冊 末に、「近江宗理置之肥後之天矣」(以上十一字、天矣は後住の持譜に詳し
い)。
孔子家語写本 二冊 末に、「永正乙亥(12、一五一五)仲春日寄進、藤原憲房」(以上十三字)と書
し、花押がある。
毛詩正義写 (其の巻数を忘る)末に、「以日東学校正義雖令写筆者依所見之手跡被疑矣、如此亦可稀
乎」(以上二十七字。日東の学校の正義を以て写筆せしむと雖も、見る所の手跡に依り
て疑われん矣。此の如きは亦た稀なるべきか)と書す。何人が記したものか分からない
が、大層古い。
論語集解写本 五冊 表紙の題は「円珠経」と言う。また、「車辺+官 轄」といい、「尺度権衡」と
もいう。いずれも僧徒が『論語』を呼んで言うものだ。
論語白文写本 一冊 以上の三部は、ともに甚だ古く、たぶん四、五百年以前のものであろう。
趙註孟子写本 七冊 末に、「長亨二年(一四八八)、臘月日書之、奥州天輔置焉」(以上十五字)と
書す。
野相(小野篁)真蹟経文横巻 筆勢は優柔で、空海の古さには譲るようだ。
『周易註疏』から『野相真蹟』に至るまで、すべて御覧のものである。櫃の内には、なお書籍数十種、
横巻・書画・系譜など数種があるが、悉く開く暇は無い。そこで、棚の書を探る。
朝鮮活字板十八史略 十本 立ては一尺六、七寸ばかり、字の大きさは一寸余り、紙は厚く字は鮮やか
で、生まれて以来見たことがない善本である。巻首には「宣賜之詔」の四字と朱印があ
り、その臣跋を見ると、永楽甲子に朝鮮王が銅板活字を作って印刷した事が知れる。本
文は、先に見た元板と同じで、もしこの本を模して刊行すれば、服部南郭が刻した物に
優ること数等である。
朝鮮板十九史略 八本
朝鮮板帝鑑図説 六本 いずれも善本で、『図説』の末には「甲州産田辺庄右衛門光予寄進、慶長十八
年癸丑、六月三日、庠生寒松老人誌」(三十二字)と書す。朝鮮板だが、少し小さい。
通鑑 十六本 藤原憲房寄進、東井跋之で、元板十八史略の跋と同文である。
文明板漢書 四十八本
後漢書 二十本 いずれも巻首に「上杉五郎憲房寄進」と書し、花押がある。毎頁の板心に「正
統十年劉庸写」と題す。
史記写本 十六冊 末に、「文明丁酉夏五月是赤村僧書翠微深処之軒」(以上十八字)と書す。
続本朝通鑑草本 横巻数十幅、字の大きさは七、八分、林春斎門人人見友元手書 一百十巻。末に、春
斎の跋があり、「右自保元元年至弘知十年、総五十五巻、令野友元草之、而後遂周
覧、或以改正之、或以加補之、漸得成編、然猶不免闕疑焉、寛文戊申之夏、弘文院学
士林恕」(以上六十一字。右は保元元年より弘知十年に至るまで、総て五十五巻、野
友元をして之を草せしむ。而る後遂に周覧し、或いは以て之を改正し、或いは以て之
を加補し、漸く編を成すを得たり。然れども猶ほ疑いを闕くことを免ず。・・・」)
と言う。春斎が加え刪ったものは、原文よりも多い。世上に行われている本に比べて
大層詳細である。私は以前、この書を二部閲したが、その冗漫で大いに誤謬があるこ
とを疑わしく思った。しかも、二部ともに同様である。で、春斎先生の才識はこの程
度に止まるのかと思った。この本を見てやっと冗漫や誤謬は友元の原稿なのであっ
て、春斎は悉くそれを改正しているが、世上はなおも旧本に拠っている事が分かっ
た。横巻は開き閲するのに不便で、久しいこと開く者がいなく、虫の糞が堆積し、そ
の糊付けしている部分は糊が無くなっていて、ぼろぼろと零れ落ち、開くにつれて散
乱する。私がこれを開くと、璞助・竜太郎・一敬・弘原がこれを捲くのだが、前後が
乱れやすく、追い付かない。二十四、五幅も開くと、四人は力尽きて、文句を言いだ
したので、止めた。
中村蘭林が寄付した『東国史略』『史略論抄』など三十二種(原注。事は『先哲叢談』に見える。世人の知っている事なので略す)は、まだ在る。
また、人見氏が寄付した『君臣言行録』『巻懐随筆』など十二種も、まだ在る。
その他、慶長・元和以後の諸侯および諸儒が寄付した数十百種で、庫の中に所蔵されるものは、およそ
数千巻あり、その最も珍とすべきものは、三百年前の古写本である。数日間滞在して渉猟できないのが残念である。璞助が見せた数書の中に、「新楽定(新楽閑叟にいらかんそう)なる者の記」(原注。寛政中に学校に寄寓した者)というものがある。それに言う。
淳和帝の天長九年壬子(八三二)、八月五日、大内記参議小野篁 勅を奉じて焉を建つ。中古には荒
廃し、僧状元 之を再興す。古くは国府野に在ったが、後に今の地に移ったという。或いは言う。承
和六年(八三九)、野州太守小野篁が任地を巡って足利に至り、地形が唐土の曲阜に似ているので、
廟を建てて孔子像を置き、学校を建てようとしたが、完成しないうちに、任期が満ちて去ることにな
り、後任の者に託して建てさせた、今の学校の東南四百歩以遠の磐井村に在ったと(篁が学校を建
て、小野氏の子孫が代々住んだと)。後、五百年、僧理真なる者は、大層外典(漢籍)に通じてお
り、源義(ママ。足利義満か)はかねて学校を設けようと思っていたが、時に士大夫には書を読める
者がいなかったので、理真をして都講となさしめた。後百余年、管領上杉憲実がその主君持氏を弑
め(永享十一年、一四三九)、国人が服さないのを恐れて、政務に励み、重ねて学校を興し、僧を選
んで住まわせ(原注。永享中の事)、更に宋板の『五経正義』、皇侃(おうがん)の『論語義疏』
『文選』等の書を購入して所蔵させた。後三十年、応仁元年(一四六七)、上杉氏の家老長尾景人が
これを今の地に移し、その住居に近くした。小野篁より後は、三たび廃れ三たび興り、都講の快元な
る者が出てから(原注。快元は、たぶん憲実の時に及ぼう)、学校の制度が始めて整備された。後百
五、六十年、僧宗銀なる者がおり、その弟子に三要がいて、師に代わって校主となった(原注。たぶ
ん天正・文禄の間であろう)。関白豊臣秀次が三要をして学校の書籍を京都の相国寺内の円光寺に移
させた。時に神祖(家康)は、関東を治めていたが、この事を聞いて喜ばなかった。しかし、止める
事はできなかった。関ヶ原の戦いの前後に、三要に命じて学校に現存している書籍を整えさせたが
(原注。たぶん秀次が横奪したものの残りであろう)、僅かに二百五十種余りであった。そこで、活
字板数十万を賜い、ようやく『孔子家語』『貞観政要』『武経七書』『五臣註文選』など数書を刊行
させた。幾ばくもたたないうちに三要が亡くなった(原注。慶長十七年の事)ので、官は南禅寺の僧
一人(たぶん寒松であろう)を遣わして、これに代えて校主とし、また采地百石を賜い、先師の祀り
を行わせる事とした。有徳公(徳川吉宗)が将軍になってからは、甚だ儒学を崇め、西条藩の書記山
井鼎に命じて、古書を校訂させ、元明以来、殘闕して読むことができないと言われるものが始めて全
きを得た。七経・孟子の古文を校訂して完成するや(原注。この記に拠れば、山井鼎の校訂したもの
は、ただ七経・孟子だけではない)、また百両を賜って、聖廟を修復した。都講が江戸城に見える
や、御衣を賜い、待遇が甚だ厚かったという(この記に拠れば、御衣を賜うのは、有徳院に始まった
のであり、金を賜い廟を修復した者は、単に桂昌大夫人ばかりではない。それなのに、住持譜には記
載していない)。井某(筆者注。新楽某の誤りであろう)の記は、文章が乱れていて、ほとんど読む
ことができない。旭荘がその意味を取って、右のように訳したのである。
また、書庫に蔵される小野氏の系図を按ずるに、「篁は晩年に家塾を下野に立てた」と言う。以上の三
説は相違するが、けれども小野篁に始まり、上杉憲実が再興し、快元・三要に大功績があった事は、明らかだ。
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すばらしいブログに出会い、感激しています。
足利学校のある街に住むものとして感謝にたえません。
一点だけ、気になったことを書きます。
「五百年、僧理真なる者は、大層外典(漢籍)に通じてお
り、源義(ママ。足利義満か)はかねて学校を設けようと思っていた」の部分の「源義」は、源義兼(足利氏二代・鑁阿寺開基)のことだと思います。
やや主旨は違いますが、現在「論語と足利学校」展開催中です。ぜひご高覧ください。
2013/4/15(月) 午後 11:38 [ 足利市立美術館・大澤 ]