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また、『住持譜』を閲するに、譜もまた文章を成さない。旭荘が大体、その言わんとする所を取って訳すると、
中興の祖の快元和尚は、いず地の生まれであるか分からない。才腕は人に優れ、久しく廃されていた学
校を興した。典籍を多く蓄えて、生徒を教え、まったく儒者のようであった。文明元年(一四六九)四
月二十一日に亡くなった(原注。今を去る三百七十五年)。
二世天矣は、肥後の人、延徳中(原注。その年は不明。筆者注、一四八九−九一)、二月十六日に亡く
なる。
三世南斗・四世九天は、ともに姓氏が不明。九天は永正中(一五〇四−二十)、六月二日に亡くなっ
た。
五世東井は、名は之好、俗姓は吉川、大永中(一五二一−二七)、三月五日没。
六世文伯は、姓氏および死亡の年不詳。ただ七月十六日死亡とのみ記す。
七世九華は、名は瑞(王編+與)、玉崗と号す。大隅の伊集院氏の族で、学校に在ること三十年、業は
最も栄えた。天正六年(一五七八)戊寅、八月十日没(今から二百六十六年前)、年七十九。
八世宗銀は、日向の人、学校に在ること九年、十月二十日没(原注。その死亡した年は不明)。
九世間(ママ。閑が正しい)室は、名は元佶、一の名は三要、肥前小城の人、戒を相国寺に受け、長じ
て、外典を宗銀に受けた。当世無比の度量があり、神祖家康公に仕えて南光坊本光国師(原注。いわゆ
る金地院)と名を等しくしている。関ヶ原の戦いでは蓍(めとぎ)を持って従軍した。後、二百種余り
の書籍と活字板を賜った。学校に在ること十六年、慶長十七年壬子、五月二十日、駿府で亡くなった。
年六十五.
十世竜?日(こ)は、名は禅珠、武蔵の人、寒松と号す。一に鉄子と号す。よく漢文を綴り、寛永十三年
丙子、四月二十日に亡くなる。年九十七.
十一世明徹、名は祖徳、甲斐の人、睦子と号す。学校に在ること七年、寛文十二年壬寅、二月十七日
没。
十二世沢雲、名は祖兌、学校に在ること四年、元禄三年甲午、十月八日没。
十三世伝美、名は元教、外子と号す。寛文七年丁未、幕府に聖廟を重修することを請い、幕府はその
費用を出して、三要の時代の物に復した。その当時の諸大名の大勢が祭器や書籍を献上した。学校に
在ること十一年、貞享四年丁卯、三月二日没。
十四世久室、名は元要、琢子と号す。元禄年間、桂昌大夫人が大層儒学を尊崇し、金を賜って聖廟を
修理した。学校に在ること三十六年、正徳三年癸巳、十二月二十一日没。
十六世月江、名は元澄、武蔵の人、淳子と号す(原注。原文では号は国名の下に在る。故に之に従
う。上も同じ)。初めの快元より以来、学校誌や譜牒は、散逸して記録が無かったが、月江になって
始めて捜索して考証し、それから学校の歴史が見られるようになったという。宝暦五年、乙亥ん没
す。(原注。その月日は分からない)。
十七世千渓・十八世青郊以下は、小さくて、記すまでも無い。
旭荘が書庫の蔵書を考えてみるに、その寄進の前後は違って、文明期が最も古いものだ。その句読・批
点および題跋は、天矣の時から現れる。東井のそれは僅かだ。九華・宗銀・三要・寒松・睦子によって
為されているものは、数えられない。睦子のものが最も新しい。そうして、その没年は今から百七十二
年前である。
昼時、善徳寺に帰った。午後、また行く。旭荘は自身で書籍を開いて閲覧し、文辞を考えて、龍太郎ら四人に筆で記録させると、四方から一済に書き出し、甚だ忙しい。未の下刻(午後三時頃)に終り、璞助の部屋に入り、書簡数枚を作った。やがて、孫吉と街を歩き、西に行くこと三丁ばかり、孫吉が宿泊している角屋に入った。(中略)夜、善徳寺に帰る。璞助が来館する。
二十日、卯の上刻(午前六時頃)、曇り、大きな地震があった。璞助が来る。(以下、略記する)弘原が滞在を勧めるが、人と日光で会う約束があり、雨が降らない内に出発したいので、断る。三人の客僧が送ろうと言うが、旭荘は学校の事を璞助と話したく、人に聞かれたくないので、別に道を取り、璞助に語る。
「足利の学校は天下に名高いのに、こんなに廃れているとは思わなかった。今時の僧侶は、金の事ばかりを考えていて、少しも学校を興そうという考えが無い。今は文運が大いに開けて、慶長・元和の比では無いのに、なお俗僧に学校をつかさどらせていて、一人の学生もいない。我が儒道の耻である。今、天保の改革を起しているのに、尊師慊堂先生は、どうして建議して幕府に願い出、一人の儒員を置いて学政を掌らさせないのか」
「慊堂先生も、そのようにお考えなのです。それがしは、あらためて旭荘先生のお考えという事で申し上げてみましょう」
暫く歩いて、璞助たちと別れた。
かくて旭荘の足利学校訪問は終る。江戸時代において足利学校を訪問した人々には、ほかに渡辺崋山などがいる。
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