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久しく御無沙汰致しました。
『江戸風雅』第四号に載せる拙稿の一部です。興味ある向きは、六月発行の第四号を御覧下さい。
そこで、ここに前述したような血の異常現象を表わし、それに到る事情をも詳しく説明
しているもの、しかも秋成にやや先んじていて、刊行の時期も地域も近いものが存在して
いる、とすれば、どうであろうか。秋成がそれを参照している可能性がもっと有るかも知
れないのである。そうしたものに何があるか、と言うと、『忠孝夜話』(上下二巻。宝暦十
二年冬、浪華、含英散人序。同年十一月、浪花書林、村上伊兵衛刊)の「血飛びて幡に上
る 東海孝婦」がある。この書は、文字通り、中国の忠孝説話を翻訳して評論を加えたも
のであるが、その一話である。如何に紹介する。
血飛て上レ幡ニ 東海孝婦
東海(とうかい)に孝婦(かうふ)あり。姑につかへて、はなはだ孝なり。既(すで)に嫁(か)してより、幾年(いくとし)も経(へ)ざるに、
夫(おつと)死(し)せり。然共、ふたゝび他人(たにん)に嫁(か)する事もなく、朝夕(あさゆう)姑にしたがひつかへり。姑のいはく、御身(をんみ)は年(とし)はわかし、我は兎(と)も角(かく)もならんのあいだ、いづくにも嫁(か)し給へといふ。孝婦がいはく、御身(み)をすてゝ、さらに嫁する事あらんやといふて、いよ〳〵念(ねん)ごろにつかへり。姑(しうとめ)細々(さい〳〵)に及べども、ふたゝび嫁するの心(こゝろ)なし。姑をもへらく、我(われ)九十にあまりて、わかき婦(ふ)をわづらしむる事あらじといふて、みづから頸(くび)をくゝりて死(し)せり。時に姑の女(むすめ)、その時の太守(たいしゆ)にうつたへていはく、我に嫂(あによめ)あり、我母(わがはゝ)を毒薬(どくやく)を以ころせりと。官人(くわんにん)是を聞(きい)て、からめとり、すでにころさんとす。其(その)時(とき)獄官(ごくくわん)に于(う)定国(ていこく)といふものあり。彼(かれ)がいはく、この婦(ふ)は孝(かう)順(じゆん)にして、姑(しうとめ)につかへ養(やしな)ふ事、十餘(よ)年(ねん)なり。其(その)孝(かう)世間(せけん)に聞(きこ)えてかくれなし。何(なん)ぞ殺(ころ)す事あらんやと、達(たつ)てあらがへども、太守(たいしゆ)その心(こゝろ)を得(ゑ)ず、終(つゐ)に刑罰(けいばつ)にをこなひぬ。其(その)砌(みぎり)にいたりて、孝婦(ふ)が云く、乞(こい)ねがはくは、長竿(ちやうかん)を立(たて)て、其上(そのうゑ)に五尺(しやく)の幡(はた)をかけてたまはれ。我(わが)心(こゝろ)をあらはすべし。若(もし)まことに姑を殺(ころ)さば、血(ち)ながれて地(ち)に入(いる)べし。若しからずは、血(ち)飛(とび)あがりて、幡(はた)の上(うゑ)にながるべし、と。いひをはりて、刑戮(けいりく)にかゝりぬ。時に血(ち)青(あおく)、黄(き)になりて、幡(はた)の上(うゑ)にさかのぼりぬ。皆人(みなひと)是を見(み)て、奇異(きい)の思(をも)ひをなさずといふ事なし。是より東海(とうかい)三年(ねん)が間(あいだ)、大いに旱(ひでり)せり。于(う)定国(ていこく)が云く、是は別(べつ)の事にはあらず、先(さき)の太守(たいしゆ)、枉(まげ)て孝婦を殺(ころ)せるがいたすところなりと。後(のち)の太守、是を聞(きい)て、孝婦の墳(つか)の本(もと)にいたりて祭(まつり)たまへば、太守のいまだかへりたまはざるに、空(そら)かきくもりて、四方(よも)に雲(くも)たなびきて、大に雨(あめ)ふりぬるなり。万民(まんみん)大によろこび、野に出(いで)て、腹(はら)をたゝいて、うたふなりと云云。前漢書于定国が傳に見えたり
○詩に曰く 夫死して貞節を持す 姑に事へて日々に心を尽す
命なるかな嗚(ああ)孝婦 是を思へば涙襟を沾す
詩のこゝろは、東海(とうかい)の婦の貞女(ていじよ)にして、姑(しうとめ)に孝(かう)順(じゆん)なる事をのべたり。一の句は、貞女たる事をいふ。貞節(ていせつ)は、たゞしくみさほなるをいふ。二の句は、姑に孝なるをいふ。三の句は孝婦(かうふ)をほめたる事をいふ。命(めい)とはほめたる事。四の句は、孝婦の罪(つみ)なきに殺(ころ)されし事を、なげきしをいふなり。
冤罪のために刑死した東海孝婦の血が遥か上方に飛び上がって幡に濺いだ、という話である。やはり、その怨念の強さを表わした話、と言える。そして、最後に典拠として『漢書』于定国伝を挙げている。そこで、『漢書』卷七十一「 于薛平彭传」第四十一の原文を
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