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  重野安繹(やすつぐ)・三島中洲と並んで明治の三大文宗と謳われる川田甕(おう)江は、明治九年には内閣大書記官心得・一等編修官に任じられていたが、その年の七月三十日から十月十一日まで、明治天皇が東北・北海道を視察するのに随行した。その間の漢文による紀行が『随鑾(らん)紀程』(五巻五冊。明治十七年四月八日、吉川半七発売)である。

 彼は、九月二十六日には清川(山形県東田川郡庄内町)に宿泊したが、そこで十三年前(文久三年四月十三日)に亡くなった清川八郎の事を思い出して、次のように書いている。

  往時、本駅の人に清川八郎なる者有り。西遊して江戸に在り。人を殺して亡命し、潜かに鎮西に游
  ぶ。時に海内多故、死士を募りて事を挙ぐるを謀る。幕府、逮捕して、赦して新徴隊に入る。八郎、
  粗ぼ書史に渉り、剣を千葉周作に学ぶ。嘗て其の友渥美五郎と余に過りて事を論ず。余、誡むるに浮
  躁を以てす。果して皆終りを令(よ)くせず。今にして之を思へば、彼も亦た奇男子なり矣。

 甕江がここで書いている事は、おおむね正しい。八郎は文久元年(一八六〇)五月二十日、日本橋甚右衛門町で自分に突き当たって来た無礼者を斬殺、そのまま逃亡して、各地を流浪、十一月二十九日には九州に渡り、尊攘の同志を募った。同三年二月には赦免されて新徴隊を率いて京都へ入る。彼が東条一堂や安積(あさか)艮歳に漢学を学んで、過激な志士の中では漢学に通じていた事、安政期に千葉周作道場へ熱心に通った事なども、拙稿「安積五郎と清河八郎」(『明治大学教養論集』四一八・四二五・四三〇・四四一号に詳述した通りである。ただし、甕江は「渥美」と記しているが、「安積(あづみ)」が正しいのである。

 しかし、八郎と五郎が甕江のもとに立ち寄り、甕江から自重するよう戒められた事は、未だ世に知られていない事なのではなかろうか。そうとすれば、右の証言は、甕江研究、八郎・五郎研究にとって重要なもの、と思われる。ただし、それが何時、何処においてであるかは、まだ明らかになっていない。今後は、その課題に取り組む必要があるのである。


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