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お待たせしました。『江戸風雅』第七号の編集後記です。ご愛顧のほど願い奉る。
徳田武「頼春水の新出文章」(二)は、刊本『春水遺稿』に未収の文章の内、「洞庭画巻の後に題す」「稽古印史」「河恕斎摸国朝法帖跋」「菜花亭記」「尾藤闇叔墓銘」「竹田省吾墓志」「平内府論」「信古堂記」「品川一灯の後に題す」など九点に訓読・現代語訳を施し、さらに成立の時期や事情に就いて解説したもので、春水の年譜を作成したり、その思想を知ったりするための基礎的な材料を提供している。最後の二編は原文を付す。
小財陽平「菅茶山の次韻の詩」は、上京する頼山陽を送った菅茶山の餞詩について、従来の解釈に疑問を呈し、典拠を明らかにした上で、別の読みを提示したもの。そしてこの餞詩が実は次韻詩であることを指摘し、茶山・山陽両者による詩作の応酬の延長線上に、この餞詩は解釈すべきものであることを説く。
徳田武「広瀬旭荘と江戸」は、天保八年、同十四年の旭荘の江戸滞在の様子を、その漢文日記『日間瑣事備忘』を解釈することに拠って窺おうとしたもので、天保八年においては、大塩平八郎の乱を旭荘がどのようにして知ったか、江戸城内をどのような方法で見物できたか等を述べ、とにかくこの時の江戸滞在の全期に亘る主要記事を解釈している。十四年分に就いては、その初期の天保の改革の模様などに就いて紹介している。
池澤一郎「葛西因是の唐詩論」は、宋詩風が席巻した十九世紀初頭の江戸詩壇にあって、独り執拗に唐詩を重んずべきことを主張した葛西因是の詩論五点を取り上げ、注を施す形で読解し、その独自性を浮き彫りにしようとした試みである。金聖嘆の詩論に拠るところが多いとされる因是の詩学の一面が提示され、柏木如亭や梁川星巌という支持者を得て、唐詩主張論が徂徠学退潮後も維持されて、明治詩壇に接続していた、と論じている。
小財陽平・長田和也「菊池五山『水東竹枝詞』評釈(上)」は、菊池五山の『水東竹枝詞』に初めて詳細な訳注を施したもの。五山が山東京伝などの洒落本を読んでいて、それを詩に詠じた、という指摘もある。第九首における、屋根船の簾を下ろして棹を休める船頭の描写は、船内における客と藝者との情交を示唆する、という解釈も面白い。全詩を通じて、深川遊里の風俗との関係に説明が詳しい。
徳田武・黒川桃子「秋月韋軒書翰紹介」は、早稲田大学図書館所蔵の南大曹旧蔵書翰の内、会津藩の軍事副参謀であり、漢学者でもあった秋月韋軒の重野成斎宛て書簡の書影を掲げ、それを翻字し、現代語訳と注を施したもの。既に『会津藩儒将秋月韋軒伝』を刊行して、韋軒の一応の伝記を知っている徳田は、その年時を明治四年十一月二十日のものと考証している。
徳田武・小財陽平「訳注『明治詩話』(五)」は、前号に引き続き、尾原君山、尾原晴洋、杉山千和、末広双竹、末広鉄腸、釈居龍、松本晩香、関川蒹涯、釈日応、池上清醒、勝部五松、松林古陵、北沢乾堂など十三人の詩と逸話・批評に就いての現代語訳を収める。とりわけ政治小説『雪中梅』で有名な末広鉄腸が朝鮮を視察した時の作は、重厚な長編の古体詩で、読者を圧倒するものであり、近代文学研究者の参考に資するものがあろう。
徳田武・神田正行「曲亭馬琴『傾城水滸伝』第六編翻刻と影印」は、原作『水滸伝』における武松譚の後半部分、すなわち第二十八回から第三十二回の翻案である。竹世(原作の武松)は流刑地の出羽国男鹿嶋で、紫苑(施恩)のために毛門神野衾(蒋門神)を懲らしめる。野衾は秘かに寒風家の後室篗糸御前(張都監)を頼り、竹世を殺害せんとするが、鴛鴦楼において返り討ちにあう。本編の末尾で語られる能莫院婆娑剌陀(王道人)師弟の成敗は、『八犬伝』において、大塚番作と手束との出会いの場面に翻案された。
徳田武・黒川桃子・長田和也・山形彩実「翻刻『原本訳解 金瓶梅』」は、春風居士こと松村操が明治十五年に兔屋誠から刊行した、近代になって最初の『金瓶梅』の翻訳である『原本訳解金瓶梅』を読み易い形に校訂し、原本の挿絵に代えるに張竹坡批評本の繍像を以てし、徳田の解題を添えたものである。解題は、我が近世以来の『金瓶梅』の受容史を述べて、松村訳の史的位置付けを策定したものだが、特に阿部縑洲と曲亭馬琴の読解態度に照明を当てた。
平成二十四年十二月五日
徳田 武
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