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 お待たせしました。『江戸風雅』第八号編集後記です。宜しく御愛顧のほど願い奉る。

    ○『江戸風雅』第八号編集後記

 今号は、畏友魯大鳴氏の京劇に関するエッセイを六本載せることができた。
言うまでもなく、氏は著名な京劇役者であり、NHKテレビの中国語講座などで広くお馴染みになっている人である。

 私と氏との出会いは、昭和六十年、私が四十一歳で北京に留学した際、確か王府井あたりに在った実験劇場に足繁く通っていて、氏の所属する風雷京劇団の劇を聴いて(観て)いた事に始まる。その当時は、単なる異邦の観客と本国の俳優という関係に過ぎないから、別に言葉など交わしたことはない。ただ、頻繁に観ていたので、いつの間にか顔を見おぼえたようだ。

 帰国して何年たったか、勤務先の学部の兼任講師とのパーテイで偶然に出会った。何と氏は私の学部の中国語の講師として呼ばれていたのだった。私の方も何となく思い出したが、驚いたことには氏の方も私の顔を覚えていた。向こうは向こうで舞台の上から、あの日本人、今日も来ている、と思って、見ていたらしい。それからは年に一度の講師パーテイで親しく話しあうようになり、やがて私が本誌を刊行するようになり、終には氏に原稿を依頼する、という次第になったのである。

 氏が寄せてくれた六本の原稿は、いずれも京劇とその劇団生活とをありありと語った興味深いものであるが、とりわけ「風雷京劇団と私」は、わざわざ氏が本誌のために書き下ろしてくれた、本邦初公開の文章である。私が、何か役者生活における失敗談のようなものが無いか、と注文したところ、氏は私の意図を汲み取って、包み隠しの無い有りの侭の劇団生活を回顧してくれたのであった。読者が大いに楽しんで下さるものと期待している。そして氏が更に本誌のために魅力ある役者体験記を執筆して下さることを希うものである。

 埋め草として入れた『長崎名勝図会』の唐土の芝居の記事と図は、江戸時代における希少な中国演劇興行の記録という意義を備えている。

 徳田武「林鵝峰「西風涙露」翻訳」(上)は、鵝峰が夭折した愛息梅洞の思い出を漢文で記した追悼記を現代語訳したもの。徳田はかつて鵝峰の『国史館日録』を披閲して、「朱舜水の「勉亭林春信碑銘」一件」。拙著『近世日中文人交流史の研究』所収)という論考を物したが、その際、強く感銘を受けたものは、梅洞が逝去する前後の記事であった。毎日、梅洞の病を見舞っていた鵝峰は、寛文六年九月一日、病状の急変を聞いて駆け付ける。そして、その後の記述は二カ月近く途絶え、日録は空白のままである。私には、その空白がまことに衝撃的に感じられた。鵝峰の無言の悲しみが込められているからである。爾来、鵝峰や梅洞には関心を抱いて来たが、此の度ようやくその一端を具体化したのである。

 徳田武・宍戸道子「『七修類稿』「気候集解」訳注(三)」は、明、郎瑛の随筆『七修類稿』中の「気候集解」の訳注を行ったものである。前回(第四号)に引き続き、七月から九月までの部分を掲載した。上田秋成は『七十二候』の中で、「此頃人の視せし七修類藁と云書に…」と本書名を挙げている。『七修類稿』の訳注は、『七十二候』の読解に資するのみならず、『七十二候』と重複した内容を持つ『遠駝延五登』との関係を把握するためにも有用であろう。本稿は その足掛かりとなるものである。

 徳田武・長田和也「頼春水新出文章」(三)は、『春水遺稿』に収録されていない「記猿橋」「記諏訪湖水」「衡泌斎記」「記事」「董思白墨本跋」「書萱草書巻首」「遠翠軒記」「黒瀬子孝に与ふるの書」「池内敬次を送るの序」「学統説」「擐甲頌」の十一編の文章を紹介・訓読し、現代語訳を添えたもの。この内、「学統説」だけは、『遺稿』に収められている有名な文章であるが、その現代語訳は管見に入らないので、あえて収めた。また、「与黒瀬子孝書」は、難解で、訳文になお問題があるかも知れない。

 徳田武・黒川桃子「再録 頼杏坪年譜」は、現在では入手しにくくなっている木崎好尚編の年譜(昭和八年刊)を、いささか形式を変えて再録したもの。それは、重田定一の『頼杏坪先生伝』(明治四十一年刊)所収の年譜よりも詳細で、頼山陽研究家として定評のある人の仕事であるからである。今後、これを基として増補されることを待望する。木崎が編輯刊行した『山陽と竹田』という小冊子の雑誌も、何号まで続いたのか、現在では揃えて入手することは難しいが、いずれこれなども再録できたら、と思っている。

 小財陽平・長田和也「菊池五山『水東竹枝詞』評釈(下)」は、前号に引き続き五山『水東竹枝詞』全三十首の後半十五首に評釈を施したもの。前号では深川の名所を詠む作が多かったが、後半である今号には、より女郎屋の内部事情に通じた作が並んでおり、「割床」や「はさみことば」といった深川の風習を穿った作品が面白い。

 徳田武「山崎嶺照女史編『仙桂一枝』に就いて―『下谷叢話』補遺―」は、永井荷風の『下谷叢話』に洩れている『仙桂一枝』の大沼枕山序を紹介し、該書が山崎美成の娘である照香女史の売名の為に刊行された詞花集であること、それには同じ女流の高橋玉樵の『百樵百絶』の刊行という刺激があったこと、また枕山編の詞花集『同人集』のメンバーの助力を得て詩を集めていることなどを考察したものである。

徳田武・神田正行「曲亭馬琴『傾城水滸伝』第七編 翻刻と影印」は、原作『水滸伝』の第三十二回から三十五回に至るまでの翻案。竹世(原作の武松)と大箱(宋江)が再会した後、黒部篤政(劉高)主従が、大箱や花的(花栄)を苦しめる。富山から仏が岳に攻め来たった秦名(秦明)が、大箱らの計略により、勇婦たちの仲間に引き入れられ、一党は、三世姫を戴く江鎮泊(梁山泊)に合流した。江鎮泊の勇婦たちも次第に数を増し、物語は佳境に入る。執筆に際する馬琴の苦心は、本稿初めに引用した彼の書翰にも吐露されている。

 徳田武「浅野梅堂の遺文―『花洛名勝図会』における―」は、せっかく漢学の実力がありながら幕末維新の変動のために詩文集を刊行できなかった梅堂の詩を『花洛名勝図会』の序に求め、それが『図会』に収録された理由を編者平塚飄斎との交流に求めた。更に、『図会』に梅窩山樵作として収められている詩も、梅堂の作品であろうと考察し、彼が正体を韜晦している理由を、京都町奉行という身分や飄斎の処罰(安政の大獄)という事情に求めたもの。埋め草として入れた、小財陽平による梅堂の墓碑の紹介は、新資料である。

徳田武・小財陽平「訳注『明治詩話』(六)」は、前号に引き続き、西島城山、西島梅所、永井禾原、林櫟窓、福井学圃、末松青萍、成島柳北の七人の詩と逸話・批評に就いての現代語訳を収める。正格の漢詩だけでなく狂詩にも通じた成島柳北の遺稿未収録の作品を紹介するほか、永井禾原(荷風の父)など有名どころの詩人が登場する。

   平成二十五年五月十四日
                                   徳田 武

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