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以下は、『江戸風雅』第12号の埋め草の一つです。興味ある向きは、雑誌で御覧のほど。
大田南畝年譜補遺(一)
徳田 武
頼春水の『癸丑掌録』(『随筆百花苑』第四巻所収)は、
寛政五年(一七九三)、春水が江戸に在った時の日記であ
るが、その正月の部分に言う。
旧臘十七日米倉丹後守殿ニテ、大田直次郎ごとき人七
十人計り、手跡御改メト申ニて会し、皆々誰某門人ト
云コト、文昭院様御令ヲ即席ニ書クコトナリ。此事終
ハリテ、詩ノ出来ルモノハ居残トノコトニテ、十二三
人残ル。大田ニ題ヲト所望ナルニ、丹竃編ト云コトニ
テアリ。丹後守殿台所ト云コトヤト、ツブヤクモノモ
アリ。是時御目付石川氏列座アリタルユエニ、サテハ
蝦夷地ヘ筆談ニユクコトヤトモ思ハレ、恐レタルモア
リ。又一説ニ御制度書キト云モノヲ御書立ノコトアラ
ントハカリタルハ、故ラニユガマセテ書タルモアリト
ナリ。冷然話。
「旧臘十七日」とは、寛政四年の十二月十七日であるが、
米倉晶(まさ)賢(かた)(武蔵金沢藩第四代藩主。大番頭)の邸に大田南畝
ら七十人ほどが集められた。筆跡を視るという事で、能書の
者ばかりである。
そして、六代将軍徳川家宣の名で出された御触れを書かされた。
それが終わると、漢詩を作れる者だけが十二、三人残され、詩を
作れということで、南畝に詩題を提示するよう求められた。南畝
は「丹竃編」という題を提示したが、それは仙人が丹薬を練る竈
を題材とし、長寿を言祝ぐ、めでたいものだ。
ところが、中には無学な者もいて、字面に引かれて、丹後守の台
所の竈に就いて詠じるのかと本気で言い出す者もいる、という始末。
ちょうど御目付の石川忠房もおり、彼は漂流民大黒屋幸太夫を送っ
て根室に来たロシア使節ラクスマンとの交渉を担当する者なので、
その秘書役として蝦夷(北海道)に派遣される者を選んでいるのかと
戦々兢々な者もいた。御沙汰書を書かされるのかと推測した者は、そ
れを逃れるためにわざと下手な字を書く。
冷然は、詩僧で、春水日記によく名の見える人だが、以上
のような話を春水に伝えたのである。
右に述べられた南畝の消息は、『大田南畝全集』の年譜に
載せられていない。寛政四年十二月十七日の条に補われるべ
きであろう。
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