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 江戸風雅』第十四号編集後記

 徳田武「江戸小説と中国小説」は、研究史的な展望と個人的な回想を織り込みながら日本近世小説と中国小説の関りを一般人士向けに紹介し、通史としてみたい、という狙いのもとに書き始めてみたもので、まず「長恨歌伝」を取り上げたものである。かような回顧的なものを書くのは老化現象の一つだと承知はしているが、また読書習慣を失って行く当今の人々を振り向かせ、忘れ去られてゆく事実を伝えておくための便法として採用したスタイルである。

 徳田武・長田和也の「『解人頤広集雋』訳解」は、清の乾隆二十六年、胡澹庵が撰し、銭慎斎が増訂した滑稽詩文の集の一部に就いて、和刻本を参照しつつ訓読・現代語訳・解説を施したものである。その理由は、該書が漢文笑話集として余り取り上げておられないからである。また、俗語を交えたその文章は、一般の日本人には解しにくいかと思うからである。その面白みが那辺に在るのか把握するのも一苦労を要するが、畢竟するに対句の付け合いの妙味である。
 
 史瑞雪「明治期の馬琴文学と世態風俗/実社会論についての一考察」の要旨
は、次のようなものである。

 坪内逍遥は『小説神髄』において、「小説の主脳は人情なり、世態風俗これに次ぐ」と主張した上、「人情」の面から曲亭馬琴が描いた八犬士ないし勧懲的馬琴文学を批判したが、馬琴文学の「世態風俗」にはあまり触れなかった。しかし、写実が新文学の課題になっていくと共に、馬琴文学と世態風俗或は実社会との関係も新作家たちに注目された。例えば、民友社に関係づけられた内田魯庵、山路愛山、嵯峨の屋おむろ、及び国民文学論を提唱した高山樗牛、馬琴に親しんだ幸田露伴といった明治新文学者は、馬琴の非写実が批判され、写実が盛んになった時期に、間接的であれ直接的であれ、馬琴作中の実社会要素を見出した。逍遥を含めて、魯庵と愛山は馬琴作品の非写実を否定的に捉え、作中人物の時代差を其時代小説の欠点として指摘したかったのだが、却って、馬琴の時代小説が当時の世態風俗になっていたことを証明した。一方、嵯峨の屋を経て、樗牛と露伴は馬琴作品と実社会との関係について、写実の他、或いは「国民性」、或いは「交叉線」を以て、社会と文学との関りの新方向を模索した。新文学発展に対する模索の姿勢を示した、とも言える。

 同じく史瑞雪「明治期「文学史」中の曲亭馬琴像」の要旨は、次のようなもの。
 近代文学の幕開けとされた坪内逍遥の『小説神髄』は曲亭馬琴の「勧善懲悪」的功利主義を否定するところから写実主義を提唱したのだと定説化されていたが、馬琴研究の展開につれて、明治時代における馬琴受容についても別に論じられるようになった。それによると、明治期における馬琴受容は複雑で、特に逍遥の馬琴把握に「揺らぎ」があることが明らかにされてきたが、しかしそれまでの文学史ではどのようなプロセスで逍遥の「かたよった評価」を拡大して「定着」して来たのかはまだ不明である。三上参次・高津鍬三郎著『日本文学史』や、芳賀矢一、藤岡作太郎、岩城準太郎等が著わした、明治時代に出版された「日本」の「文学史」の分析を通して、明治 三十年代中期を境にして、「文学史」中の馬琴像が変わってくることがわかる。このような変化はまず「文学史」における『小説神髄』に対する解釈と関係があると思われる。また、同時代の文学思潮と関係があると推測できる。つまり、自然主義の胎動と発生につれて、「文学史」中の馬琴像も否定的になってきたのである。

 柯明「原采蘋の『采蘋詩集』における植物描写から見る遊歴の感覚」の要旨は、次の通り。
日本では平安時代に女流文学の最盛期を迎えたが、漢学から深い影響を受けて漢詩捜索が最高峰に達した江戸時代においては、漢詩集を残した優れた女性漢詩人が輩出し、各地を遊歴しながら創作していた姿も見られた。「男装の詩人」として知られる原采蘋も、その典型である。彼女の感情はいかに変動しつつ風景・風物を通じて表現されているのだろうか。彼女はいかに自分の生活と思いを漢詩の世界に描いているのだろうか。本稿では従来の研究を踏まえながら、『采蘋詩集』における植物の詩語に焦点を当てて分析することで、彼女が風物描写を通じて自身の遊歴生活をどのように詠じたのか、その詩作にはどのような特徴があるのかについて分析を試みた。

 森隆夫「『星巌甲集』における旭荘題辭」の要旨は、次の通り。
 『星巌甲集』における旭荘の「題辞」は七言古詩の形式による論詩詩であるが、他三者の序文と並置されたためか、論詩詩としての検討がなされてこなかった。本稿では、あらためて論詩詩として見直し、注解を附すとともに、制作の背景を考察し、内容の検討を行った。検討の論旨として、㊀旭荘の論詩詩は百二十韻に及ぶ「論詩」をはじめとして、管見で二十三首にのぼり、旭荘の生涯にわたる関心事であったこと。㊁論詩詩の制作は、兄淡窓の論詩詩の影響に端を発し、これを敷衍・展開する形で始まったこと。㊂日本詩史における中国詩史の影響を考慮しつつ、「題辞」においては日本詩史の将来について展望を持とうとしている、ということ。㊃その展望の橋頭保として星巌詩を高く評価したこと。㊄星巌の先輩たる頼山陽に対する批判と思われる句が見られること。という諸点が挙げられる。

 徳田武「塩谷宕陰年譜稿」は、塩谷時敏の『宕陰先生年譜』が漢文で記されているので、先ずそれを訳し、次に手元に在る資料によってそれを増補し、さらに『宕陰存稿』に収録されている漢文を通覧して、成立年次が知られるものは、それを確定し、その要旨をまとめたものである。その結果、アヘン戦争に関する文章が多いことは本文にも述べた通りだが、史書編纂、なかんづく徳川史の作製に就いての執念があったこと、仕官した後も昌平黌再入学を再三希望していることを知った。史書編纂への執念には若い時に師事した頼山陽の影響があるであろう。また、昌平黌再入学の要望は、彼自身はいろいろ大義名分を付しているが、要するに昌平黌の教官になりたかったからではないか、と思われる。そうした見通しを確実にするためにも、更なる補訂を目指して行きたい。

 田部知季「正岡子規の漢詩文的連想――「句合の月」を読みながら――」は、子規の俳句における漢詩文の面影を読み解くもの。特に、空想に基づく句作の過程を綴った随筆「句合の月」(明三一・一一・一〇『ほとゝぎす』)を取り上げている。「句合の月」では『水滸伝』の趣向も登場するが、従来同作に通底する漢詩文的な発想については注目されてこなかった。本論では、子規自筆漢詩抜書帳『随録詩集』などにも触れながら、「句合の月」末部の句「見送るや酔のさめたる舟の月」の背後にある発想の契機を明らかにした。

 徳田武・神田正行「曲亭馬琴『傾城水滸伝』第十三編 翻刻と影印」は、百二十回本『水滸伝』のうち、第五十五回の末尾から、第五十七回の半ば過ぎに至る部分の翻刻と影印である。双鞭芍薬(原作の呼延灼)の攻撃を受けた江鎮泊の烈婦たちは、除夜(徐寧)を仲間に引き入れ、鎌鎗を用いた戦術によって、連環馬を撃破した。芍薬は信濃に逃走し、賊の立て籠るあけろ山を攻撃する。賊寨の頭領友代(李忠)は、金剛山の妙達(魯智深)・竹世(武松)らに援軍を求めた。馬琴の執筆部分はここで中断しており、本稿では続帝国文庫本に添えられた猪波暁花の「傾城水滸伝拾遺物語」を読みやすい形に改め、付録として掲載する。

 今号では四人の新人が、掲載紙の継続年数や性格などの瑣末的な事に拘らずに、積極的に論考を寄せてくれたのは喜ばしい事である。論考の生産能力が乏しい者ほど掲載紙に拘るものだが、若くて気力旺盛、どんどん書ける者は、あちこちに書きなぐるぐらいの勢いが欲しい。取り分け、留学生たる二人が日本人もなかなか取り組まないようなテーマを扱っていることは、我々にも刺激を与えてくれる。今後の研鑽を期待したい。
                               徳田 武
 平成二十六年十月二十日       


筆者紹介
徳田 武 (明治大学名誉教授)
長田和也(早稲田大学文学研究科日本文学博士二年)
史瑞雪 (北京師範大学研究院外国語文学部博士課程)
柯明  (早稲田大学文学研究科中国文学修士二年)
森隆夫 (早稲田大学文学研究科日本文学修士二年)
田部知季(早稲田大学文学研究科日本文学博士二年)
神田正行(明治大学准教授)

   

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北蒲原にて15号拝受致しました。
傾城水滸伝の次は金魚伝だと嬉しいな、
と願っていました。
帝国文庫は何かと物足りなさが募ります。
馬琴の作品は挿絵付きで読んでこそ。
機会に恵まれるなら、大師河原撫子も江戸風雅で読んでみたいと願っております。

2017/6/4(日) 午後 6:42 [ mamanoramama ] 返信する

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> mamanoramamaさん
有難うございます。銘記しておきます。

2017/7/17(月) 午前 10:13 [ buk*u*007 ] 返信する

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