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○『江戸風雅』第十六号編集後記
范維偉さんの「六如上人の松茸を詠む詩から日本漢詩の本土化を見る」は、『六如菴詩抄』に松茸に関連する詩作が十数首あまり収録されている事に注目し、その分析や中国詩との比較を通して、それが題材としては六如以外の作者には稀であり、また殆ど中国に見られないものであることを指摘し、その点に本邦に於ける漢詩が日本化されていることを見出した論考で、中国の研究者としての独特な視点が見出される。また、その前提として、江戸時代の日本では松茸が好まれ、商品化されていることを多くの文献を博捜して例示しているが、その努力は日本の研究者にも匹敵するものである。なお、引用漢詩文の訓読は徳田が施したものである。
徳田 武・森 隆夫・柯 明・藤富 史花の「頼山陽の論詩詩「夜読清諸人詩戯賦訳解」は、『山陽遺稿』二に収まる七言古詩「夜 清の諸人の詩を読み戯れに賦す」を読み合わせた際の注釈および解釈を整理し、それに早稲田大学図書館所蔵の村瀬太乙(山陽門人)の該詩の講義録を付載したものである。その読み合わせの動機は、清詩の特徴はどのようなものかを押さえるための手掛かりを得よう、という点に在った。該詩の先行注は、二点を参照したが、最後の二句の解釈に太乙のそれとの相違がある。その点を特に問題として取り上げてみた。
徳田 武の「吉田松陰と森田節斎」は、松陰伝の一部を掲載したものである。その中で松陰と節斎(頼山陽門人)の交渉は、数多くある松蔭の研究書にも余り取り上げられていないようであるので、その交渉の経緯に重点を置いたものである。そして、その前提知識として安藝五蔵(江幡五郎。節斎門人)・宮部鼎蔵との交友の有様も知らなければならない事柄なので、この事にも紙数を費やした。松蔭は節斎の文章論に大きな影響を受けたのであるが、取り分け節斎と谷三山が斎藤拙堂の『海外異伝』の文章を批判した一件には関わっている。また、『異伝』に関わる偽書と言うべき『『海外異伝匡謬』の出版を廻る騒動の渦中にも入り込んでいる。これらの事件をも詳述した。
徳田 武の「謝六逸二題」は、中国に於ける最初の日本文学史の著者として近代の日中文化交渉史に於いて存在意義が大きい謝六逸に就いて触手を伸ばしたものである。第一の「謝六逸の留学生時代」は、一九一九年(民国八年)―二二年、彼が日本の早稲田大学専門部政治経済学科に留学していた当時、滝野川に下宿していた事を取り上げて、エッセイ風に書いたもの。第二の「謝六逸の功績―『遊仙窟』の中国への紹介」は、一九二九年(昭和四年、民国十八年)の一月六日、彼が山田孝雄の「遊仙窟解題」の翻訳を発表した事を取り上げ、それは魯迅がこの佚書を中国に紹介し、それが初めて中国で刊行されたという記念碑的な事業を背景として為された仕事であり、中国の読者に初めて該書が日本の古典文学に大きな影響を与えた作品であることを知らしめたものであるが、残念ながら現在ではそうした意義が忘れられている事を論じたものである。
徳田 武・神田正行「曲亭馬琴『風俗金魚伝』翻刻と影印(二)」では、『風俗金魚伝』の下編四冊を紹介する。その物語は、原作の第十九回までに相当し、正妻の虐待に堪えかねたヒロインの魚子が、錫梨家を逃れ出るものの、再び売られて大磯の遊女となり、そこで賊将の下野氏武と出会い、その正妻となるまでを描いている。『八犬伝』にも登場する扇谷朝興の策謀によって、結局氏武は敗死することになるが、その顛末と魚子の身の落ち着きとは、次回紹介する「下編之下」に持ち越された。
徳田 武
平成二十九年十一月三日
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