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 『江戸風雅』第17号編集後記

 今回は、比較的多彩な内容となった。

 徳田武の「杜甫の謎句」は、杜甫の五律「奉陪鄭駙馬韋曲二首」の第一首の頸聯「石角鈎衣破、藤梢刺眼新」が単なる叙景ではなくて、当時の権力者李林甫を当てこする隠喩として作られたであろうと解釈し、その傍証として同じく杜甫が長安に在った時期に作られた長詩「麗人行」や「哀江頭」等に、やはり権力者楊国忠や叛乱者安禄山を暗に風刺している隠喩が見られることを、いろいろな先行注を参照しつつ論述したものである。
徳田がさような考えを抱いた切っ掛けは、早く二十代後半に非常勤先の早稲田大学高等学院で「哀江頭」を高校生に教えた事に在る。当時、その内の「輦前才人」は安禄山を指しているのではあるまいか、という考えを目加田誠先生に話した時には、先生は「うーむ」と呻ったまま、後は何もおっしゃらなかった。松浦友久先輩にもこの隠喩論を語ると、先輩は当初、深読みであると反論したが、その後暫くたって、「あの考えは論文にしないの」と尋ねて来た。だが、徳田はそれを書くことなく、その後、早大の文学部で漢文の講師をしていた際、数年に亘って津坂東陽の『杜律詳解』を講じたが、その折にも書かず、荏苒時を過ごした。長年温めて来て、この年になってようやく書いた事になる。

 于芝涵女史の「戴震の『孟子字義疏証』の考証の特徴」は、清朝の著名な考証
学者である戴震(一七二四ー七七。字は東原)の『孟子字義疏証』が『孟子』の
一字の訓詁から出発して、「道」「理」「性」などの重要な詞の内容の把握に迫
り、やがてその哲学概念を明らかにし、自らの思想をも反映させてゆく、という
考証方式を確立させたことを踏まえて、その考証方式の具体的な型を分類し、そ
の諸特徴を整理した試みである。
 そうした戴震の考証方式が、戴震よりもかなり前の時期の我が伊藤仁斎(一六
二七―一七〇五)の『語孟字義』における考証方法や思想に酷似していることは、
早く狩野直喜の『中国哲学史』(一九五三年刊)が指摘したことであり、それは
日本人の優秀性を語っている事でもあるが、狩野はこの現象を偶然の暗合とし
ていたようである。しかし、荻生徂徠(一六六六―一七二八)の『論語徴』が劉
宝楠(一七九一―一八五五)の『論語正義』に参照されているように、この頃
より文化の逆輸入現象が起きているので、戴震が仁斎の仕事を見ていた可能性
も否定しきれない。両者の酷似の間に明の呉蘇原の『吉斎漫録』が介在している
のかという問題をも含めて、うら若き于さんに今後検討して戴けると幸甚であ
る。

 山形彩美の「与謝蕪村・清田儋叟の風雅人芭蕉に対する称賛と追慕」は、京都の金(こん)福寺(ぷくじ)に所蔵される芭蕉翁像(与謝蕪村画)の賛を儒者である清田儋叟(せいだたんそう)が著わしたことに就いて、賛を解読し、さらに儋叟が撰した「東山新建芭蕉翁墓碣銘並序」(『孔雀楼文集』補遺)をも読んだ上で、この中国白話小説や詩文を愛好した儒者が芭蕉という俳諧者をどのように観ていたのか、当時の俳壇に遺した芭蕉の影響をどのように捉えていたのか、といった問題を探ったものである。一言でいえば、儒学と俳諧の接点に参入したものである。従来、俳諧の研究者の側からは賛も序も正面からは取り上げられていないので、その欠如を補おうとしたものである。

 徳田武の「石川雅望・曲亭馬琴の『三国演義』「空城計」本事と『天禄閣外史』は、『八犬伝』第十九回で、『三国演義』第九十五回に記される諸葛亮の空城計の話が黄叔度の話として記されていることを取り上げ、それが石川雅望の『ねさめのすさび』から得られた知識であること、雅望と馬琴は明の王逢年の偽書たる『天禄閣外史』巻一「「兵法」の黄叔度の空城計の話を『三国演義』のそれの本事と考えていたこと、しかし『演義』の極初の版本である嘉靖本は同元年(一五二二)の刊行であり、『外史』の成立は嘉靖末年(一五六六)であるから、『外史』の方が『演義』から空城計説話を取ったと考えられること、雅望や馬琴の認識は現在の『演義』の版本研究から見れば誤った認識という事になるが、『外史』製作上の一端(「空城計」受容の一端でもある)が知られ、日本の『演義』研究が進展していた事を語っている、と結論したものである。

 馮新華氏の「衛三畏の『詩経』論」は、一八七七年にエール大学に中国語言と文学の講座を設立し、アメリカ東方学会会長をも務めた衛三畏(Samuel wells Williams)が、宣教師として中国に在任していた時、その著『中国総論』に発表した『詩経』の英訳六篇について、その成立の動機や背景、その達成の程度などの諸問題を調査し、論じたものである。彼の翻訳には先達たる英国の理雅客(james legge)の影響が大きかったこと、しかし理雅客の今一つ浅い『詩経』理解と比べると衛三畏の方が理解が深かったことなどの論評は、この方面の研究には疎い編集子には興深いものであった。また、宣教師であるが故に衛三畏たちが『詩経』に宗教的なものを感得し、それが英訳の動機の一つになっているなどの指摘も、新たに得た知識であった。日本と中国に亘る文学の研究誌である本誌に英文が長々と掲載されたのは、これが初めてで、日中双方の学界における一つの新しい傾向を示すものであろう。

 池澤一郎の「依田学海添刪森田思軒撰『江木君招魂之碑』草稿について」は、薄様二枚の和紙に認められた碑文の草稿が、体裁は矢野龍渓が撰したようになっているが、実はその高弟森田思軒が作成し、依田学海の添削を仰いだものであることを『学海日録』の記事に照らして考証する。次に学海の朱筆による指示を辿って、思軒はその従うべき所は従い、退けるべき所は退けて、碑に刻まれる完成稿に近いものを作成したとする。池澤が本誌第二号の「矢野龍渓撰の墓碑銘について」に紹介したものが、完成稿であるとすると、常套を破って江木高遠の演説家としての側面を精細に描くその完成稿の構成が、草稿段階での学海の指導を受けてのものであった、と考証する。

 長田和也「蒲生重章「四時詞倣蘇東坡」考」は、蒲生重章『近世佳人伝』二編上(明治十四年刊)の題詞「四時詞倣蘇東坡」を、蘇軾の作品と比較しながら論じたもの。『近世偉人伝』、『近世佳人伝』の作者として知られる重章であるが、詩人としては、蘇軾の詞「漁父四首」に倣うなど、蘇軾受容の跡が指摘出来る。「四時詞」も同様の事例ではあるが、その前書から判断される成立時期は万延元年である。成立から二十年を経た明治十四年にようやく公表されたのは、明治期における艶体詩流行の影響も考慮すべきと論ずる。また、作中に遊里の風俗風習を読み込んでいる点等、日本において近世後期から発展してきた竹枝詞を思わせる作風を、その特徴として指摘する。

 徳田武・神田正行「曲亭馬琴『風俗金魚伝』 翻刻と影印(三・完)」では、天保三年の新刊として売り出された、同作の最終編を紹介する。日本には「科挙」の制度がないため、馬琴は原作を改変して、魚子の恋人金重郎や、弟の鰭次郎に、足利家の若君を氏武の残党から救う一段を設けた。原作の翠翹と金重は、最終的に名ばかりの夫婦となるのであるが、馬琴はこれを潔しとせず、魚子に仏道修行を貫かせている。

 徳田武・神田正行「曲亭馬琴『代夜待白女辻占』 翻刻と影印(一)」では、馬琴最後の短編合巻の第一冊を紹介する。同作は、唐代伝奇『枕中記』(邯鄲の枕)を踏まえつつ、二人の若者の盛衰を、喜劇的な調子で描いたものである。第二・三冊は、次号および次々号で紹介する。
                              田 武
平成三十年五月十日

 筆者紹介
 田 武(明 治 大 学 名 誉 教 授)
 于 芝涵(北京師範大学文学院中文系博士研究生)
 山形彩美(山口大学大学院医学系研究科ゲノム・機能分子解析学講座 事務補佐  
     員)
 馮 新華(首都師範大学文学院講師、行政副院長)
 池澤一郎(早稲田大学文学学術院教授)
 長田和也(大東急記念文庫)
 神田正行(明 治 大 学 准 教 授)

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